信念の剣 〜愁の鏡〜

彗暉

第1話 ネブリーナ吟遊都市


 惑星ネスフィルの中でも広大で肥沃な大地にして人の安住地たるアルヴェ大陸。それを南北に分かつ〈世界の壁〉と呼ばれる山脈の麓に、ネブリーナ吟遊学院都市がある。

 絶えず霧に包まれた不穏で神秘的な山間に奥深く広がる土地であり、外部から入る者は案内なくして都市に近づくことはできない。そんな場所にあるネブリーナ吟遊学院とは、その名の通り吟遊詩人になるための学院である。しかし、侮るなかれ。ここの吟遊詩人達は楽器の旋律と物語によって神秘を織り上げる真実の物語の紡ぎ手であり、酒場で人々の暮らしにちょっとした色を添えるそこらの吟遊詩人とはわけが違う。

 神秘とは、神であるルヴァが持つ神通力であり、人たるアスロスがこれを操ることはできない。魔具を用いて神秘の真似事をする魔法を操れる稀な存在もいるが、基本的に超自然的な力を感じ取ることができないアスロス、すなわち人には不可能である。ときに、触媒を介さずとも並外れた感性で動物と言葉なしに分かり合えたりするアスロスもいるが、人は結局のところ凡人であり、それゆえに超自然を司るルヴァを神と崇め、彼らが操り見せる神秘を神通力というのだ。ネブリーナの吟遊詩人はこの神秘を歌と旋律によって操ることができるため、大陸の中でも特別な存在だった。

 ネブリーナの吟遊詩人しか演奏できないハプートと呼ばれる弦と笛が融合した弦菅楽器と詩で顕現させる神秘は、人に真実なる物語を目で魅せ、耳で聴かせ、心で理解させる。これは歴史を捻じ曲げ奸計によって世に混沌を生み出すアスロスの王達を懲らしめるために神ハウデンファールが織りあげた神秘の一つであり、ひいては真実のみがもたらす真の秩序を敷くための神の願いでもあった。

 ゆえに、宮廷魔法使いだけでなくアル――神の血を引く王族――に畏敬の念を抱かせた。それは逆に、ネブリーナの吟遊詩人と親密な付き合いがある王は誠実である証左となり、ネブリーナの吟遊詩人はいつでも歓迎され、宮廷に招待された。

 そんな栄華を極めた彼らネブリーナの吟遊詩人も、昇った太陽本人が願おうにも叶わないように衰退する。

 始まりは、アルヴェ大陸で神々が姿を隠し始め、人が権力を握り始めた時代の黎明期。最も神の血が濃いアルの中のドゥダス――かつて神にその称号を拝謁した特別なアル達――が己の力を証明すべく行なった神狩りであった。

 神狩りは、神達が姿を消し始めたアルヴェ暦千年頃から起こり始めた混沌期に始まった。アルの中のドゥダス達が、神に代わってアルヴェ大陸の王を名乗り、その権力を強めようとしたことは先に述べたが、これは凡人たる民が知ることはない。アルやドゥダスの中には神が戻ってくること、また、庇護が永遠に続くものと考える者たちがおり、それらの者に神の時代の終焉を突きつけるべく、また、力の誇示として行われた。

 そんな神狩りは、神に関する物や神威によって力を得る者すべてが狩るべき獲物だった。自然と調和をこよなく愛する博愛と智慧の神エスダールの庇護にある霊樹の森アルハルですら焼き払い、そのアルハルを守護する神々までをも狩り尽くした。もちろん、エスダールも姿を消していたため、アルハルの護人の願いは聞き入れられず、狩られるか、広大なアルヴェ大陸にちりじりとなった。

 想像できるように、かような世界では、殺しさえも正義の信念となり赦される行為だと流布され、あたかも推奨されるかのように、下世話な連中はお祭りだとでもいうかのように無関係な者さえも路上に引き摺り出す。たまらぬ美貌の持ち主ですら疑われ、姫を攫うべく城を襲い、かつては敬った者の身包みを剥ぎ、それを蹂躙することさえ正義となった。

 ゆえに、幾ら歳月を重ねても二十代半ばの姿で、衰えぬ美貌と並ならぬ神秘を操るネブリーナの吟遊詩人が神であるか人であるかなど問題ではなく、その存在こそが獲物。神の血を継ぐものとして王を名乗るドゥダス達は、神狩りを正当なものとするべく巧妙に話を作り上げてこれを為してきたため、真実を語り世に秩序を敷かんとするネブリーナの吟遊詩人の紡ぐ物語は目障り極まりない。それどころか、その根源たるネブリーナさえ堕としてせしめようとしたドゥダスもいた。しかしこれは天然の要塞である霧によって断念された。

 代わりにすることは決まっている。歌を、物語を紡ぐ存在を消してしまえばよい。こうして、稀なる神秘を操るネブリーナの吟遊詩人は、神狩りの強すぎる飛び火に焼かれる草のように数を減らしていった。

 そんな混沌の時代の最中、ネブリーナ吟遊学院のはるか地下深くに、一本の大霊樹があった。大霊樹は大地の支配者であることを自らが知って、それを余すことなく体現するかの如く、自然の脅威の力を練り上げるかのように、さながら大瀑布の水の勢いを刹那におさめたかのような姿をしていた。しかし、その大樹は黒曜石でできたかのように照り、人の血管のように巡る霊脈は黄金の輝きを明滅させていた。その金色の燐光を帯びた大霊樹の根のあいだに、人ほどもある大きさの銀糸の繭がひとつ、いま、扉ならぬ切れ目をその銀糸の表面に走らせる。そこから白く女人のような華奢な指が出て、繭を内側から破いた。

 出てきたのは二十半ばの亜麻色の髪を持つ、中性的な顔を持つ青年だった。神狩りを悦びとする者らが見たら、喜んで熊手を持って彼を引き裂かんと涎を垂らし目を血走らせ、偽善の鬨の声で標榜し八つ裂きにするだろう。そして、それを己の王に捧げ金貨と変わることを夢見る。

 しかし、それは叶わぬこと。なぜならこのネブリーナ吟遊都市の地下深くにある地下室は、ネブリーナの者達にすら忘れ去られた場所であり、その歳月ゆうに三百年。それどころか、地下室は大霊樹が放つ蛍のように明滅する霊脈の燐光のみが存在する明かりであったため、常人がここにいたとしても、男女問わず目を瞬かせるほどの美貌を持つ青年の姿を認めること叶わん。

 しかしこの青年は、闇に支配されたその地下室にあっても、大霊樹の淡い金色の燐光だけで室内の全てを明瞭に見てとることができた。これこそ常人ではない証。ましてや生まれでたのが繭からとあっては妖魔か物怪かの疑いがある。

 青年は自らの一糸纏わぬ姿を吟味するように見下ろした。かつての己れの体のそれとはまったくと言えずともまったく違う体を眺めた。腕を上げて自らの腹から尻にかけての筋肉が生み出す流線の美しさと、生きる筋肉のしなやかな隆起と脈動を一通り感じると一つ頷いた。

「まぁまぁの出来であろう」

 声を出したのは己れの声を確かめるべくしたこと。喉だけはかつてのものとそっくりであり、これにはこの青年も大いに満足し、芒のように軽く儚い色の髪を掻き上げると体を大きく伸ばして一息ついた。

「ううむ、それにしてもよく寝た。依代たる体を織り上げるには少々時間がかかりすぎたように思うが。それよりも、出迎えが遅いのではないか? 我が愛し子達よ」

 言葉どころか気配一つさえ返ってこないことに青年は訝しんだ。そして、地面を足で払い首をかしげた。なんと埃の多いことこか。あれほど美しく保つことを、歌と神秘を織りあげながらすべてを伝えてきたというのに、青年が望むかつてのありのままの姿を、地下室は残していなかった。

 青年は指を一振りし、さながら黒曜石と黄金の光からなる大霊樹を灰色の銀糸から紡いだ薄絹へと変えて衣として身に纏い、地下室の秘術仕掛けの神秘を操れぬ者にしか看破できず開くこと叶わぬ扉ならぬ壁を、幻影のごとく消し去ると、懐かしき城内へと歩み入った。

 延々と続くかと思われた石の階段を登り、城内の広間へと進み出て、そこに像が建てられているのをみて、またもや青年は美しすぎる顔を傾げた。

「これは我か。かような像を造るとは、いったい愛し子達はどうなった。気でも触れたか」

 乾いた広間に、青年の澄んだ吟遊詩人になるために生まれたような声が揺蕩う。のちに返ってきたのはまたもや静寂。青年は像の碑文を読み、こんどこそ驚いた。

〝主、愛と探求の神ハウデンファールは永遠に……〟

 永遠に存在していると知っていればなぜかような像を建てるのか? すなわち、と青年ことハウデンファールは思い至った。

「なんと、我は死んだと」

 ハウデンファールは城の上へと昇り空を仰ぎ見た。澄んだ翡翠を思わせる目は夜空に輝く星々を捉え、それらを読みとって自分がわずか三百年の眠りに入っていたことを知る。ルヴァにとっての三百年は人の感覚のそれとは異なる。一眠りの時に過ぎないものであったが、人の世が変わることくらいは、神であるハウデンファールも知っていた。しかしながら、己が築き上げたネブリーナが変わるとは思っていなかったために、彼の中に疼くものがあった。好奇心である。

 ルヴァに感情があるならば、それは人から見たら凪に晒された湖面のようなもの。しかしながら、ハウデンファールはその湖面に漣とも言えぬほどの揺らぎを起こした。己が生み出して世に秩序をもたらさんとする愛し子たちはどうしたのであろう? 彼らと共に時間を過ごすためだけに織りあげたこの身体。目覚めてみればそこ子らがいない。

 ゆえに、ハウデンファールは都市を練り歩いた。廃墟と化したかつての都市の中心である吟遊城の門を抜けていざ街へ。そしてまたもや驚いた。街にかつての繁栄は見られない。それどころか、鼠すらおらず、今や霧から滲む太陽の光を啜って生きる蔦と葉だけがかの有名な吟遊都市の住民であったのだ。

 ハウデンファールは霧が薄くなっていることにも気がついた。城の上から見渡した時は雲海の如く広がっていたそれも、下からみれば星明かりをわずかに透かすほど。かつては太陽が己の存在を大地に示すべく誇示するその瞬間ですら影を落としてせしめたと言うのに。

 この霧は、この世を彷徨うオルスだった。オルスとはルスとオスが交わり形作られ、時を経て固有の色をもつもののことで、人は魂と呼ぶ。この彷徨うオルスは本来ならば大地に還り星のものとなるが、それは星から生まれでたルスとオスの結晶、言うなれば星の子供であるオルスのみ。この世の人であるアスロスに神であるルヴァ、二者と関係を絶った山の民ヴェルグは元よりこの星のものではない。余所者はいわば、異物であり、星という生き物が吐くべき忌む存在。ゆえに、魂であるオルスの多くは大地に還ること叶わずこうして漂う。

 ネブリーナは、こうした彷徨う魂が雲渡りを経てたまたま集まった山間部に過ぎず、ハウデンファールはこの魂たちをどうにかしてやりたいと考えてこの地に根を下ろしたのだが、星に還す方法はついぞ見つからず、この魂を利用して昇華してやることにした。その産物がネブリーナの吟遊詩人であった。

 彷徨う魂の善良な部分だけを抽出し、この星ネスフィルの原生生物の生態系の頂点に存在するウラドを培養し、神秘によって織り直し人の身体と瓜二つにして、抽出したオルスをその体に流した。それこそが、ハウデンファールが愛し子と呼ぶネブリーナの吟遊詩人達であったのだ。

 当然、ハウデンファールは外の世にすまう神々が姿を消し始めたことは知っていたが、この三百年で神狩りがどれほどの変化を進めたかは知らなかった。なぜなら、愛し子たちと時間の共有をもって遊ぼうと考え、自らの体を同じように織りあげて眠っていたゆえ。

 探求の神の名は伊達ではない。ハウデンファールはまたもや指を一振りし、いでたちをネブリーナの吟遊詩人らしい、外套と宝石の羽飾りのついた帽子と弦管楽器である神秘の楽器ハプートをもった姿へと変えて、ネブリーナを後にした。我が愛し子の捜索と、世界にどのような愛が広がったかを見定めるため、目覚めてからまだ夜も明けぬというのに、星々に見守られながら。

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