#3
学校に遅い時間まで残っていることで得られる特典というのがいろいろとあって、僕が特に気に入っているのは、昼間は定額の定食しか提供していない食堂のメニューが、午後七時を過ぎると重さ換算課金のビュッフェ形式になることだ。貧乏学生なので、いかに費用を抑えつつ豪華なディナーにするか、いかに無駄を削ぎ落として効率的なメニューを構築していくか、夕食ビュッフェはそんな限界に挑戦する勝負のようなところがあり面白く、以前その面白さをこずえに滔々語ってみたところ、なんとも哀れな生き物を見るような目で見られた。
チキンカツとレタスサラダと麻婆豆腐を再生素材トレーに盛り合わせると、手元に浮かんだダイアログボックスには二百円台前半の数値が表示される。白ご飯の量をうまく調整すれば、十分に今日も二百円台後半に抑えることができそうだ。今日のところはこのぐらいで勘弁してやる、と頭の中で独り言ちつつ清算に向かう。貧乏学生にとって、一食当たり三百円を超えるかどうかは大問題なのである。
*
精算を済ませて、どこに座ろうか勘案しながら食堂を巡っていると、片隅の窓際四人席に見知った顔があるのに気がついた。食堂の席にあまり収まりきっていない長身に、三白眼気味の鋭い目つき――きりこだ。制服姿の彼は、なんだか全体的に憔悴しきった雰囲気を纏っていて、匙で掬った麻婆豆腐をのろのろ口に運んでいる。彼は剣道部なのだが、今日は部活終わりで疲れているのだろうか。僕が斜向かいの椅子を引くと、きりこは匙の動きを止め、それからおもむろにこちらを見上げて「……おう」と力ない声を漏らす。
「おつかれ……」
「おつー。すごい疲れてるじゃん」
僕の言に、きりこは「ん、疲れたわぁ……」と答えながらぐったりと机に伸びた。「あのさ、数学の課題終わった?」
「あぁ……」彼の憔悴の原因に何となく察しがつく。すなわち明後日提出の数学の課題に追われていたのだろう。須賀先生の繰り出した殺人的な量の課題を、僕もちょうど今しがた部活の時間を使って無理くり終わらせたところだった。
「うん、終わったよ」
「え、マジ? やるじゃん……」
「やー、部活の時間で終わらせたからなぁ……」本当なら展覧会に向けた絵を描かなければならない時間に課題をこなしたので、これは別段全然流石などということはない(絵の進捗もかなりヤバい)。「見る?」僕の言葉に、きりこは少し迷うそぶりを見せ、それから首を振った。
「やるわ、自分で……」言い終えて、それから彼はトレーを持ち上げ、残った幾らかの麻婆豆腐を茶碗に掛け始める。彼の手元にミニ麻婆丼が出来上がっていく。
引き続き再びもぞもぞ麻婆丼を崩しにかかるきりこに、僕も割り箸を手に取り、夕食に興じることにした。揚げたてチキンカツを持ち上げて齧ると、まだ熱を持つ衣がザクザクと前歯で弾ける。それを奥歯で幾らか押し砕いたのち、すかさず白ご飯を二口掻き込んで頬張り、麦茶でぐっと押し流す。昼ぶりの質量が麦茶の冷たさとともに胃に流れ込んでいき、喉の奥にひんやりとした感触が残った。
*
「麻婆豆腐って旨いよな」
「うん、……どした」
胡麻ドレッシングを掛けたサラダを食みながら、唐突なきりこの言に思わず聞き返して顔を上げると、何やら真剣な表情のきりこが手元に一口だけ残る麻婆丼を見つめていた。
「僕はさ、麻婆豆腐でも特に、花椒が効いてる感じのさ、本格的なやつが好きなんだよな」
「おー……」
「で、この食堂のやつってさ、結構ちゃんとそういう感じがあるんだよな。ちゃんと『わかってる』麻婆豆腐」きりこは言いながら、手元の一口麻婆丼から箸で何かをつまみ上げる。「何気にこれ豆豉だしな……」豆鼓。
「はぁ……」急に麻婆豆腐について語りだしたきりこに、僕は曖昧に相槌を打つ。「……え、きりこってそんな、麻婆豆腐に拘りあったっけ……」
きりこは顔を上げ、僕を見つめ、口を開きかけ、「えっと……」それから遠くを見つめるような眼差しになって沈黙した。「わかんないや……」どうやら相当疲れているようだ。お茶、お代わりいる? と尋ねると、彼はフーンと肯定だかなんだかよくわからない声を漏らしながら再び机に突っ伏した。
*
ドリンクサーバーから麦茶をお代わりして席に戻ると、きりこは机に突っ伏したまま寝息を立てており、いつの間にか横にもう一人増えていた。都立高のものとは少し違ったデザインの制服様の衣装を纏う、黒髪ロングの猫耳少女。
『桐子ちゃん』だ。彼のバーチャルチャットルームでのアバターである。改めて現実で見るとなかなか実在感があるけれども、艶掛かった黒髪の先は炎のように揺らめいており、彼女が現実の存在ではなく
「……あの、起こしてあげてもらえませんか?」
「あぁ、うん……」
なぜ彼女がわざわざ現実に、それも僕に対して可視化された状態でいるのだろうか。そう図りかねて固まっていたところに、桐子ちゃんが急に話しかけてきて、少し面喰らってしまう。黒髪、ブレザー、猫耳、金の瞳と、きりこが自分で作ったアバターなだけあって性癖が盛り盛りではあるが、今こちらを上目遣いにこちらを見返す桐子ちゃんは、その仕草も相俟って大変可愛らしい。僕が彼の肩を揺すり起こすと、桐子ちゃんはそれを見るに「ありがとうございます」とだけ僕に告げて微笑み、次いで視界から跡形もなく消える。代わりに「あぁ、ごめ……」呻きともつかない呟きがあって、きりこがむくりと起き上がった。麦茶を差し出すと、彼は、ありがとう、と告げ、一気にそれを呷る。
「……帰ろうぜ」
時間はすでに二十時を回っている。僕がそう提案すると、彼は眠そうな目を擦りながらこくりと頷いた。
鈍色 古根 @Hollyhock_H
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