「死」がテーマの作品に「生」を見るといったことは稀ではない。これらは隣り合った観念であると教えられてきたものならごく自然にふたつを同時で認識出来る。だから僕はこの作品を観る(敢えて観ると表現しますけれど)時、死或いは生そのものを一度取っ払って見つめてみようと思った。死をテーマとする企画に対してのこの姿勢を恥知らずと笑ってもらってもいい。しかしながらそうすると浮き彫りになるのは「優しさ」だ。思い遣りとも言える。兎角「死」と掲げながら痛みを一つとして感じない。その是非を議論することはしない。必要ないから。
語り手は若き死に敬意を払う。そうはなれなかった自分は「死ぬには歳を取りすぎた」とする。歳を取るとは何か。それは若き死が知り得なかったものである。言い返せば若き死でしか知り得ないものも存在するはずで一度の人生で獲得できるのはどちらか一つである。両者は互いに否定できない。彼女の世界には尊重だけがある。
また語り手は恋人だろうか、ともあれ自らの美しい死を諦めさせるほどには大切な人の言葉を想像する。結果彼女は生きている。精神の外側でも物理的に、或いは肉体的に尊重し合える間柄を獲得している。ここにも様々な方向性の優しさがある。
冒頭と括りの部分には鮮やかな詩が綴られる。「死を想え」想えばこそそれは美しく輝き続ける。そこに自らの死を添える必要性はもうない。オフィーリアはいつも共にある。