獣の章

 井綱イヅナ 楠人クストが彼――藤堂トウドウ 大器ダイキと対峙するのは、約半年ぶりになる。


 そのとき両者は別公園の戦場トイレにて相まみえ、井綱が「順番待ち」として座を奪いとった。九十九連勝の、一勝目だ。


 しかしそれ以前の戦いで、特に今日と同様「先客」の立場スタンスで、藤堂から座を守りきれたことは一度たりとてないのだ。

 戦士たちは各々に得意とする立場があり、井綱は「先客ウケ」側を得意としていたが、藤堂の「順番待ちセメ」にはどうしても敵わなかった。


 彼の操る秘技・扉撞震撃崩ひしょうしんげきほうは、衝撃音ソニックブームどころか個室ごとすべてを揺さぶって三半規管を責めあげる。さらに必殺の扉壊撞ドア・クラッシュは、ドアが破壊され無防備な姿を晒してしまう恐怖さえ武器に「先客」を追い詰めるのだ。


 いかなる「先客」からも暴力的にその座を奪いとる、「扉壊者ドア・クラッシャー」の二つ名を冠されし現役最強の「順番待ち」――それが藤堂 大輝という男なのだった。


 だが、井綱が今日にいたるまでの九十九勝は、決して平坦な道ではなかった。その道程で磨かれた力と技が、倒してきた者たちの想いとともに、いま井綱のなかに息づいている。

 決して半年前と同じ自分ではない。そう、お互いに。


 ――この戦いの勝者が、坐神の称号を得るのだろう。そんな確信めいた空気が戦場トイレ内に満ち、換気扇に吸い込まれ消えていった。


 藤堂の肉食獣のごとき獰猛な視線と、しずかで理知的な井綱の視線、ふたつが交錯し、青と赤の火花が激しく咲いて散った。

 そして奇妙なことに、散った花弁ひのこのひとつがかすめた井綱の頬には、現実の熱さと痛みを伴って、ひとすじ走る赤い痕が浮かび上がる。別の花弁ひのこが当たって消えた藤堂の額にも、同様に赤い斑が残っていた。


 あくまでイメージの中の出来事のはずなのに、何が起きたのか?

 これは、いわゆる聖痕現象スティグマティクスである。信心深いキリスト教徒に顕現するという、キリストの磔刑におけるそれと同様に手首に浮かび上がる傷痕。自らを教祖と同一化し刑を追体験した者の脳が、それを自身の肉体へのダメージと誤認することで発生する現象と考えられている。


 いま二人が身を置くのは、現実を基盤として双方向から強固に補完されたイメージの世界。そこで負う肉体へのダメージは容易たやすく脳を欺いて、現実の肉体にフィードバックされるのだ。


 先代の坐神は、この聖痕現象スティグマティクスを応用した最強の秘技を操ったという。そして藤堂はかつて、引退直前の先代坐神と戦い、その技の恐ろしさを身をもって味わったというもっぱらの噂だ。


 右手の甲を井綱に向けたままの体勢で藤堂は、見た目にもわかるほどに、全身の筋肉に力を込めはじめていた。

 衣服の下で筋繊維が血管を押し潰さんばかりに盛り上がり、脈動する。深く深く練り上げて吐き出された呼気は、真冬の朝のように白く曇って見えた。いや、息だけではない。彼の全身のいたるところから、もうもうと白い蒸気がたちのぼりはじめていた。


「まさか、それが……?」

「そう、その“まさか”だ!」


 無言のまま、イメージの中でのみ交わされる二人の言葉。


 そしてぎりぎりに張り詰めた何かが破裂するかのように、藤堂の屈強な肉体は人間としてあるまじき形状にまでいっきに膨張していた。衣服を引き千切り、次の瞬間そこに立っていたのはすでに藤堂 大輝という「人間」ではない。

 筋肉が異様に発達した逆三角形の上半身を、びっしり覆う紅の剛毛、より鮮やかな真紅のたてがみで飾られた容貌かおは、もともと野性的ではあったものの、それを遥かにオーバーランして猛々しい肉食獣そのものと化している。


 いまだ全身からたちのぼる蒸気もあいまって、その姿さながら炎の魔獣、煉獄の獅子王といった様相だ。


 これぞ、かの坐神が操った究極にして最強の秘技――その名を、招獣力しょうじゅうりきという。イメージの共有を逆手に取り、己の威圧感と存在感を増大させて、人間を超えた異形の魔獣として相手に認識させる。達人同士だからこそ可能になる、まさに究極の戦い方と呼べるだろう。


 そうして現出した炎の魔獣は、ヒグマのような剛腕を悠然と頭上に掲げた。どす黒くのびる五本の爪が、蛍光灯に禍々しくぎらりと光る。そこから繰り出される破壊的扉撞デストロイ・ノックが、もはや存在しない扉を貫通し井綱に襲い掛かろうとしていた。直撃すれば致命傷になり得るそれが、聖痕現象スティグマティクスによってどれほどの身体的ダメージを与えるか、計り知れない。


 しかし待ち受ける井綱は、きりりと真一文字に口を結び、握りしめた両の拳を膝の上に置いて、真っ直ぐ前方の壁を見据えるだけだった。


 致命的な一撃を、避けるのは容易い。その座から腰を上げればいいのだ。戦いから降りさえすれば、イメージの共有はたちまち解除される。あとはドアに守られた個室で身支度を整え、ライバルに順番を譲ればいいのだ。――坐神の称号と共に。


 無情にも剛腕のノックは振り下ろされる。それが叩くのはドアではなくて、背筋を伸ばし前方を見据えたまま微動だにしない井綱の頭部。だからノックの音として響き渡るのは、耳を覆いたくなるような、肉を裂き骨を砕く無惨なそれだろう。


 そして、激しい音が空気を振るわせた。だがそれは予想とは異なっていて、堅い物体同士がぶつかり合うような、渾身の剣と剣が打ち合ったかのような、甲高く鼓膜を刺し貫く音。


 井綱は座ったままだ。いや、井綱が座っていたはずのそこに鎮座するは、真一文字に結んだ口、前方を見据える凛とした双眸、揃えて座を踏みしめる両の前脚、そして全身を形成する灰白色の御影石グラナイト――その姿まさしく神の座を護りし聖獣、狛犬そのものだった。


 そう、これぞ井綱 楠人の招獣力である。藤堂にとっては皮肉なことだが、井綱はイメージ共有を入口にした直感的逆算リバースエンジニアリングでその秘技の原理を瞬時に解析したのだった。それと同時に、招獣力さいきょうには招獣力さいきょうをぶつけるしかないと彼は悟る。ゆえに、己が身を魔獣の剛腕の前にさらし極限状態へと追い込むことで、土壇場で究極の秘技を会得して見せたのだ。


 狛犬の堅固な頭部、その頭頂に屹立する尖角に迎撃された魔獣の凶爪は折れ砕け、そればかりか手首まであらぬ方向にねじ曲がっている。紅蓮の獅子を退けた灰白の聖獣は、勝ち誇るように天を仰ぐと、高らかに咆哮した。


 ぐらりとよろめいた魔獣の巨体が、体の輪郭からゆっくりと赤い霧のようにぼやけ散ってゆく。同様に狛犬からも白い霧がたちのぼり、やがて二人は元通り人間の姿に戻っていた。両者を隔てるドアもまた、半透明に浮かび上がり本来の姿を取り戻しつつある。


 元通りでないのは、聖痕現象スティグマティクスによって痛々しくねじ曲がった藤堂の手首と、割れて血のにじんだ爪だけ。しかし彼の表情はわずかも歪まず、精悍さはひとかけも失わず、あまつさえその右の手を胸前までもたげ、最後のノックを放っていた。


 凄まじい精神力。そして鍛え上げた括約筋による完璧な便意の制御クライシスコントロールあってのことだろう。


 対する井綱は、放心したように座っているだけ。初めての招獣力のあとは肉体認識が混乱し、外部に対してまともに反応できなくなる。そのことを藤堂は、自身の経験からよく知っているはずだった。


 個室内に静かに響くノックの音。無防備な井綱の鼓膜を、それは優しく叩く。衝撃音ソニックブームもなにも伴わない、ただのノックだった。井綱の意識を現実に呼び戻すための。


 我に返った井綱は瞬時に状況を把握し、静かにノックを返した。ただ「入ってます」を伝えるためのノックを。そこでようやく、藤堂の表情がすこし和らいだように見えた。微笑みとも呼べない、わずかな表情筋の緩みだったが。


「――おまえの勝ちだ。おめでとう」


 イメージの残滓のなか無言の声でそう告げて、藤堂はくるりと踵を返す。痛むはずの爪も手首もいとわず丹念な手洗いを済ませ、来訪時と同様に一歩一歩を踏みしめながら、彼は戦場から去ってゆく。認識共有から遠ざかったその姿は次第に黒い影となってぼやけ、やがて外の白い光の中に溶けて、消えていった。


 もう、新たな順番待ちの気配はない。すでにドアは元通りの存在感を取り戻し、外界から隔絶された個室にて井綱は、ゆっくりと、内に秘められし全てを出し尽くす。


 しばしの残心。百連勝を確信した彼が、日本のトイレテクノロジーの粋、温水シャワー洗浄の愉悦を堪能しようと操作パネルに左手を伸ばした、そのとき。


 ノックの音が、聞き取れるぎりぎりの弱々しさで、彼の鼓膜を微かに揺らした。


 次の瞬間、シャワーのボタンに触れることなく便座から腰を浮かせた彼は、幾度となく身を守ってくれた右手の中の紙片たちを、ついに本来の用途で使って身を清める。それを水面にはらりと堕としながら、すっくと立ち上がりボクサーパンツごとズボンを上げ、ファスナーも上げ、そしてベルトを締める。


 それらを流麗なワンアクションでこなすと、最後に水洗(大)のトリガーを引き、すべてを水渦メイルシュトロムの底に呑み込ませた。


 ついに、ドアを開ける時が来た。水洗(大)の余韻のせせらぎに背を向け、「順番待ち」の邪魔にならないよう、すっと一歩外へ踏み出す。


 待っていたのは小さな男の子だった。お腹を手で押さえいまにも泣き出しそうな彼に、井綱は微笑みながら優しく「どうぞ」と囁く。それを聞いた少年は安堵の表情を浮かべるや、あっという間に個室の中へと滑り込み、ばたんとドアを閉めた。


 その音を背にゆっくり手洗いスペースへ歩く井綱。鏡の中から近付く自分自身と対峙し、シルバーフレーム越しの瞳を見つめ返しながら。その中に一寸の後悔もないことを、自ら確かめるように。


 ふと、去来するのは幼き日の記憶――


 アイスを食べすぎお腹を冷やして駆け込んだ公園のトイレ、必死のノックにおどろくほどの迅速さで順番を譲ってくれた戦士ひと。そのひとの泰然とした佇まいと優しい微笑みに、少年かれは心の底からの安堵と、憧れを抱いたのだ。いま、鏡の中の自分はあのひとのようになれているだろうか。


 ――それが先代の坐神だと知ったのはずいぶん後だ。そして再会を果たすこともなく、憧れのひとは引退していった。


 さて、確かに井綱は用を足し遂げた。だが、その後の残心も洗浄も、すべてがトイレという行為の一部である。だから、受けたノックを返さずそのまま個室を出たという事実は、それがたとえ、全人類が庇護すべき幼きものの切なる願いを一瞬でも早く聞き届けるためだとしても――敗北は、敗北だった。


 井綱 楠人は敗れた。連勝は九十九で途絶えた。ゆえに、いま彼が坐神を名乗ることはできない。自らの手で、その権利を放棄したのだから。


 されど先代の坐神がそうであったように、本来それは自ら名乗るものでなく、相応しき者に人々が冠する称号である。名もなき影が去り際に浮かべた微笑。宿敵が発した無言の祝福。そして幼き少年の安堵。もうすでに、あえて名乗るまでもなければ、目指すまでもないのかもしれない。


 藤堂ライバルと競うかのよう丹念に手を洗うと、ちいさく仔犬のプリントされたハンカチで水滴を拭いながら、彼は戦場トイレを後にする。まだすこしぼやけた認識のなか、出入り口でちょうど清掃員の女性とすれ違った。


 数歩を過ぎてから振り向いた彼は、すでにトイレの中へと消えた彼女に向け、常日頃の感謝を込めて深々と一礼をする。



 ――西に傾きかけた太陽が、まるで後光のように彼を照らしていた。

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【坐神伝】 クサバノカゲ @kusaba

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