【坐神伝】
クサバノカゲ
影の章
鳴り響いたノックが、
この閉鎖された四角い
――カラカラカラ。
ホルダーの乾いた回転音をBGMに、新体操のリボンの如く廻し舞わせたトイレットペーパーの渦を障壁と成し、ドアの向こうの「順番待ち」による攻撃を鮮やかに防いで見せた。
鼓膜の身代わりとなって切り裂かれ、はらはらと白雪のように舞い落ちるトイレットペーパーのかけらたちを、男はすべて空中でつかみ取り、てのひらでひとまとめにする。
言うまでもなくそれは、いずれこの座を立つとき本来の用途で使用するためだ。ひとかけたりとて資源を無駄にはしないという、彼の高潔な信念がそこに垣間見える。
――都内某公園の片隅。ありふれた公衆トイレの一室。
きみは知っているか? そこでは日々、己が座を守らんとする「先客」と、奪わんとする「順番待ち」がしのぎを削る、ぎりぎりの戦いが繰り広げられていることを。
世界的に見ても、現代日本人の胃腸の弱さは特筆すべきものだ。主原因は、食生活の急激な欧米化にアジア人としての遺伝子が追いついていないこと。
そして、勤勉と表裏一体の不寛容な国民性から産み出されるストレスが、ここ数年で爆発的に普及した
かくして日本人の
わけても、公共の場に設置された公衆トイレにおけるそれは、互いの尊厳を賭した、まさに死闘と呼ばれて然るべきものである。
各地の公衆トイレを渡り歩きながら百戦無敗の偉業を打ち立て、その強さまさしく無双。されど決して驕ることなく、佇まいはひたすら泰然として自若。
そんな公衆トイレ界の生ける伝説の衝撃的な現役引退から、はや5年もの月日が流れる。
話を冒頭に戻そう。「順番待ち」の
齢は二十代半ば、ピンストライプのワイシャツと短い黒髪が清潔感を、シルバーに光る眼鏡のスクエアフレームが知性を醸す、なかなかの
彼が今日まで重ねに重ねた不敗記録は九十九勝、いま坐神の称号に最も近いとされる男だ。歴史上、百連勝を成し遂げたのは先代の坐神ただひとり。つまりあと一勝で彼は坐神に肩を並べることになる。
――新たな坐神を名乗る、誰もが求めてやまないその資格を得るのだ。
では、本日の戦場を確認しておこう。まず前提として、この
さて、戦いの舞台となる個室の間取りだ。着座して前面の壁、少々右寄りにペーパーホルダー。左手側には各種の
今、ちょうど先刻の
セオリー通りならばそれは、同位置に対してなされるはずだ。
彼は目を閉じ、全神経を手の甲に触れた硬質で冷たいドアの感触に集中する。表面は繊維強化プラスチック、いわゆるFRPだ。内部は合成樹脂の発泡体だろう。堅牢でありながら高い耐衝撃性を誇る材質。
抱くべきイメージは、そこに手の甲の触感を溶け込ませ、一体化させること。いわば、ドア全体を手の甲にするのだ。
そうすることで、向こう側の「順番待ち」の行動を文字通り
――井綱が、目を見開く。
手の甲をドアから一瞬だけ離し、そして内側からのノックとして叩きつける。さきほどのインパクトポイントから少しずれた位置に。
すると、奇妙なことが起きた。ノックの音が、鳴らなかったのだ。ストロークは最少だったが、それでも彼は充分な速度と重さを乗せてドアを叩いた。にもかかわらず、そこにあるのは無音だった。
「……ぐッ!」
その代わりに、ドアの向こう側からは動揺の気配をまとった小さな呻きが漏れ聞こえる。
一体、なにが起きたのか。それを説明するためには、まず井綱に見えている世界を理解しなければならない。すなわち、ドア全体に手の甲の感覚を完全同化させたなら、そこにドアという異物は存在しないも同義になるということを。
つまり井綱のイメージの世界では、透明化したドアの向こうに立つ「順番待ち」の姿が、輪郭のにじんだ影のような姿ではあるものの、一挙手一投足すべて克明に
さあ、この状態で先刻の奇妙な出来事、無音のノックを再現してみよう。
「順番待ち」の影、その右の拳は、セオリー通りに初撃と同位置へのノックを放とうとしていた。内側で添えられた井綱の右手の甲に、透明のドアを挟んで衝突する位置である。それは初撃と同様、内側の「先客」を攻撃する
しかしインパクトの寸前、影はその軌跡をわずかに変化させる。
初撃を防がれた時点で一筋縄ではいかない敵だと理解した彼は、予測され対応されるであろう次撃に、フェイントを加えたのである。
――井綱が目を見開いたのは、まさにこの瞬間だった。
彼は影のフェイントによる「ずれ」を瞬時に修正し、外からの打点とまったく同じ一点に、寸分違わぬタイミングで内側からノックを放っていた。すなわち、ノックにノックをぶつけることで衝撃を相殺し、
結果として双方のノックはノックではなくなり、そこに無音が生まれたというわけだ。
影が右手首を抑えて呻く。
無理もない。彼の操る秘技・
そしてダメージに抗すべく下腹に込められた力は、彼の腸の蠕動に対しても少なからず影響を与えているはず。
――そう、忘れてはならない。彼はいま、トイレを我慢している状態なのだ。
それでも、彼は退かない。おそらくは井綱が明らかに格上であることを既に実感している。それでもなお彼は退かなかった。退かず、大きく息を吸い込むと、ゆっくり右の拳を胸の前に、心臓の高さに掲げ――
絶妙に打点をずらして放たれる十連打、迎え撃つ井綱が取った選択肢は、そのすべてに完璧に打点を合わせた十連相殺。そうでなければ、「順番待ち」の矜持を正面から受け止める器がなければ、如何にここで勝利したとて、坐神を名乗る資格は得られまい。
透過したドアなど最初からそこにないかのように、続けざまぶつかり合うノックとノック、無音が響きわたるそのたび、「順番待ち」のぼやけた影の顔相に少しずつ、苦悶の表情が浮かび上がってゆく。ダメージが積み上げられてゆく。
だが、それは井綱にとっても同じ。作用反作用である。相殺の瞬間、等分の衝撃が彼の側にも発生しているのだ。さらには、直立して正面に向けノックを放つ「順番待ち」に対し、座して真横向きに放つ彼のほうが、体勢としても明らかに不利なはずだった。
――そして十番目の無音が、決着の刻を告げる。
だらりと力なく右腕を下げたのは、影のほうだった。ゆっくりと右手を戻す井綱の、その指の隙間から覗くのは、初撃を防いだ際に無惨に切り刻まれていたトイレットペーパーの欠片たち。それらが多重構造のショックアブソーバーとなって、井綱の手首へのダメージを緩和していたのである。
左手で下腹をなだめるように抑えつつ、影はゆっくりと踵を返す。その表情に浮かぶのは焦燥、しかし口元に一瞬だけ、強者と戦い切ったことを誇ってだろう、微かな笑みが浮かんで消えた。
敗者は決した。しかし、これでめでたく百連勝とはならない。「先客」にとっての勝利は、あくまで「最後まで用を足し遂げ、順番待ちに促されることなく自発的に個室を出ること」なのである。
そして休む間もなく、別の影が
影は個室に近付くにつれて、ぼやけた輪郭をくっきりさせてゆく。それは大柄で屈強なシルエットだった。一歩一歩を踏みしめるように、彼は井綱の待ち受ける個室前へと辿り着き、無造作に、ノックの動作で右手の甲をドアに押し当てた。
瞬間。影は影ではなくなった。井綱よりいくらか年上だろう。鍛え上げられた肉体をレザーのジャケットで包み、オールバックの髪を赤く染めた男。野性味あふれる精悍なその姿が、明瞭なディテールを伴い立っている。
この状態は、彼も井綱と同様に手の甲の感覚をドアに同化させ、外側からもドアを透過させたことを示している。双方向から互いのイメージの補完が発生し、影はありのまま現実の姿を投影したのだ。そこに、二人を隔てるものは何もない。
男の名は
――井綱、最大最強のライバルである。
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