月並みな
倉井さとり
月並みな
仕事終わり、自宅のベランダで、夜空を見上げながら晩酌をしていると、急に月が話しかけてきた。
「なぁ、悲しくなってこないか」
私は内心驚いていたが、月などに悟られるのは癪だったから平然と、
「何がだよ」
と言い返した。
「いやね、会社や上司の言いなりになって、あくせく働くのがさ」
私は、ここ最近、仕事でミスを繰り返していて、もどかしさを腹に溜め込んでいた。酒が回っているのも手伝って、それが一気に頭に立ち上った。
「うるさい。お前なんかに言われたくねぇよ!」
気がつくと私は、空に向かってそう叫んでいた。
「まったく静かにしろよ。せっかくの満月なんだ」
月は得意満面な顔でそう言った。
「知ったこっちゃねぇや」
「月並みな言葉だけどさ、あんまり考えすぎるなよ」
「そりゃお前は、空にプカプカ浮いてりゃいいだけだからな、気楽だろうよ」
「おいおい、何を言ってんだ。俺は夜の哲学者でもあるし、夜の吟遊詩人でもあるんだぜ」
「まるっこい顔して、何言ってやがんだ。さっさと沈んじまえ」何てうるさくて、気どった月なんだ。「だいたい、太陽の光を跳ね返してるだけのお前も、俺と同じようなもんじゃないのか?」
「まあ、実際そうだがね。でも俺は、仕事でミスなんかしたことないぜ」
いっそう光輝き、月は言う。
「おい、新月や月蝕は何なんだよ」
「あれは有給みたいなものさ、俺だって働きづくめでね」
さも上手いこと言ったというように月は言う。
「けっ、屁理屈はきやがって、それにお前は、いつも半休みたいなもんじゃねぇか」
「はっはっはっはっは」
一本取られたとでも言うように、月は陽気に笑った。
「だいたい、何で急に話しかけてきたんだ?」
「君が、あんまり悲しそうに飲むものだから」
「今日に限ったことじゃねぇよ」
「たまに回線が合うんだよ」
「回線ねぇ」
「昔は普通に人と話せたんだが、今では、ごくたまにしか話せない。なにせ距離が昔より遠くなったからね」
月はどこか悲しげに、雲間に揺れた。
「それで俺に、ちょっかいかけてきたってわけだ」
「まあ、そんなところさ」
「遠いって割には、声がはっきり聞こえるけどな」
「誰も聞こうとしなくなったんだ。耳さえ澄ませばこの通りさ。……人は空なんか見なくなったんだ」
「そうかもしれねぇな」
「人は、自分たちが作ったものしか、見なくなってしまった」
「……そうだな」
「地球が泣いてるよ」
「わかるのか」
「そりゃあね」
「何て言ってる?」
「どうだろな」
「なんだ、わかんねぇのかよ」
「地球は、多く語らないのが性分だから」
「お前とは大違いだな」
「まったくね。でもね、そうとうに地球は悲しんでる」
「俺にだってわかる気がする」
「まぁだけど、君みたいに空を見上げるやつがいるなら、地球も人に興味をなくすことはないだろうね」
「そう願いたいね」
「星に願いを」
月と星たちが、一瞬、仄かに煌めいた。
「誰かのために忙しく動き回るってのも、そう悪いものじゃないさ」
そう言って月は、親密そうな顔で笑った。
「そう思うことにするよ。そろそろ寝るかな」
「それがいい」
「おやすみ」
「いい夢を」
月並みな 倉井さとり @sasugari
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