第11話
誰にでも、後ろ暗い過去の経験はあるものだ。
それはどんな偉人聖人だろうが違いなかろう。大っぴらに、自信満々に、己の過去の全てを曝け出すことのできる人間なんて、いない。
できるのは、純真無垢な、生まれたての赤ン坊くらいだ。
――もちろん、私だってそうさ。
言えば、大したことのないものかもしれない。
彼氏と遊んで、酒でも飲んで、眠ってしまえばすぐに忘れてしまえるようなこと。
でも、どうしてか。
※
それは、まだ私が大学院生だったころ。
春にやっとこさ、国家試験に受かった。
夏には生まれて初めて彼氏ができた。
秋には地元に就職も決まったし、冬には仲間内でスキー旅行の計画も立てていた。
順風満帆で希望に満ちた毎日に、私はとても浮かれていたのだ。
その日は寒い冬の、珍しく雪がちらつくような曇天の一日だった。
数日後にスキー旅行に出掛けるため、当時の彼氏と買い物の約束をしていた私は、車を運転していた。
待ち合わせ場所は、家から車で30分ほどのショッピングセンター。雪だからか、いつもよりも道は混んでいた。約束の時間までは、あと少し。でも、どんなに急いでも間に合うまい。
私はやや苛立ちながら、車を走らせていた。ようやく渋滞を抜けたので、スピードを上げ、急ぐ――と。そんなときに、携帯電話に着信があった。
ナンバーディスプレイに映るのは、彼氏の名前。
私は慌てて携帯電話を手に取る。きっと待ち合わせ場所にいないから、まだか、というお叱りの電話だろう――
『ごめん、
予想は外れた。彼氏もまた、この天気で渋滞にはまり、遅刻するという。
『良いよ。私も遅れそうだったから、丁度良い。着いたらまた連絡する――』
私の苛立ちは途端に鳴りを潜める。ああ良かった、彼も遅れるのなら、おあいこだ。
そうやって安堵に胸を撫で下ろした瞬間であった。
『っ――!』
天気が悪かったのはある。雪で視界が少しだけ狭かったのもある。
だけど一番悪かったのは、急ぐあまりに速度超過し、携帯電話を使い、脇見をしていた自分だった。
赤信号に気付かなかった。横断歩道を歩く中学生? の女の子が、すぐ車の目の前まで来ていた。
慌てて急ブレーキを踏む。間に合うか、間に合わないか? いや、間に合ってくれ――!
……結果として、私は事故を起こさなかった。横断歩道のほとんど手前で、車はぴたりと停まってくれていた。
恐る恐る前方を見ると、まず目に入ったのは、女の子でなく中学生? の男の子。制服を着ているから、たぶん中学生だとは思ったが、いかんせん身体が小さかった。小学生と言われても、なんら違和感のない体躯だった。
いやいや、そんなことを呑気に観察している場合でない。あの女の子は、どうなったのか?
すぐに視界に女の子は入ってこない。私は身を乗り出して、ようやく、その女の子を見つけた。
彼女は車の進行方向の、やや右にいた。尻餅をついている格好だ。私の
だから。もし、静止が間に合わなくて。事故を起こして轢かれていたのなら――犠牲になってしまうのは、すぐ目前にいる男の子だった。
ただ。様子がおかしい。
助けられた? と言って良いのかは分からないが、女の子の方は呆然としながらも、その可愛らしい大きな眼を見開いて、男の子の方を見ている。
対する男の子の方も、女の子と、こちらを交互に見てはいるが、特になにか言う風でもない。
周囲には人の気配はない。行き交う車の数も、先ほどまであんなに多かったはずなのに、いまはとても少なくなっていた。こちらの様子を伺う視線も、ほとんど感じられなかった。
――私は、それまで私が考えていた以上に、小狡い人間だった。小賢しく、卑しい考えの持ち主だった。
彼らがいま、混乱の中にあるのを判っていて。
出てきたのは謝罪や心配の言葉でなかった。ここで『ごめんなさい』『怪我はない?』なんて声を掛けられれば、後に後ろ暗い過去として記憶に残ることはなかったかもしれない。
私の口から出た言葉は――
『ちょっとあなた! いきなり女の子を突き飛ばすなんて、なに考えているのよ!』
――だった。
それは責任を転嫁して、罪を男の子に擦り付ける行為だ。
私は運転中にややスピードを出し過ぎて、携帯電話を使ってはいたけど通りすがりの善人である。
男の子は、勇敢にも自分を犠牲に、女の子を助けようとして突き飛ばした悪人。
咄嗟に、そんな設定を作り上げたのだ。
そうだ。私は悪くはない。だって、結局は事故を起こしていないのだから。
私は車から降りて、女の子の元に駆け寄り、肩を抱いてやる。
見たところ膝に少し裂傷があり、血が滲む程度だ。きちんと消毒はしてやらなければならない。また、一目に軽い怪我ではあるが、私の専門は外科でない。念のために、病院に連れていった方が良いだろう。あれこれ男の子が言い出す前に、この場から引き離さねば。
『――乱暴者のマサ君なんて、大嫌い!』
そうこう私が考えていると、女の子は凄い剣幕で怒鳴り声を上げた。
名前を知っているとは――友だちかなにかだろうか。それは、まずい。
彼はきっと、自分の正当性を、胸を張って言うだろう。
『助けようとした』と。
私がこの女の子なら、見ず知らずの若い女の言うことよりも、知り合いの言葉を信じる。
そうなれば、悪いのはこちらだと、バレてしまう――。
私はなおも怒声を上げる女の子を
車中。
心にもないことを、延々と女の子に言って聞かせる私。
『こんな可愛い子に乱暴しようとするなんて』
『あいつと知り合いなの?』
『許してはダメ。可愛い女の子を襲おうとしたんだから、報いを与えなきゃ』
最寄の病院は、さほど遠くない場所にあった。道が空いていれば10分ほどで着く場所である。
私はカーナビを便りに、そこまで女の子を連れていった。
その短い時間の中で、己の罪を、必死に男の子に擦り付けようとしていた。
――それは、いまにして考えれば、許されない行為だったのだろう。
女の子は終始俯いたままで、下唇を噛み、ふるふると肩を震わせていた。
目尻には涙を溜めて、いまにも泣き出しそうに――けれども、決して泣かなかった。
ほどなく、車は病院に着いた。
私は彼氏との約束があったから、すぐに女の子と別れることにした――本当は、病院に同伴して、あれこれ医者から訊かれるのは不都合だと思ったからだった。
『私は用事があるから行くけど。ひとりで大丈夫?』私が訊くと、
『――はい。助けてもらって、わざわざ病院まで連れてきて貰って、ありがとうございました』
そんな風に感謝された。ちくりと、良心が痛んだ。
女の子はこちらの後ろめたい事情には一切気付かずに、後でお礼をしたい、と言ってきた。連絡先を知りたいとのことである。
勿論私は体よく断った。こちらの落ち度が明るみに出た場合、名前や連絡先を押さえられていては逃げようがない。
『お礼なんていらない。その代わり、これからは顔見知りだからって気を許してはいけないよ――いいね?』
『はい……マサ君は、絶対に許しません』
女の子は力強い視線をこちらに向けてきた。その瞳には、とても強い意志を感じた。
ずきりと、良心が痛んだ。
※
それからは、あの二人には会っていない。
もう何年も前だ。顔も声もうろ覚え。向こうだってそうだろう。
ただ私は、あのときの出来事だけは、忘れなれなかった。
あの少女の強い眼差しが、頭から離れなかった。
あのふたりは、いまどうしているだろうか――
「……いかんな。独り酒は、昔のいらんことを思い出す」
明日は非番だ。飲み過ぎたとて問題はない。
私はグラスを傾けながら、面白くもないテレビ番組に眼を向ける。
いまやっている番組は、かつて一世を風靡したけども、その後にどうなったのか。有名人たちのその後の人生を報じるバラエティ番組である。
――そんなものを観ていたのだから、つい昔の記憶が起き上がったのだろう。
ちなみに。
残念ながら独り酒だ。相手はいない。
仕事柄、週末も祝日もないのだ。友人知人の類いと盃を共にすることは滅多になかった。
彼氏? ああ、別れたよ。
大学を出た後に、お互い同じ職業になったけど。同じ職場とはいかなかった。
こちらは会えない時間に
だから、今日も寂しく独り酒なのだ。
ただ。
いまは過去の暗い話より、とびきりに興味を惹かれることがあった。
「我ながら、魔法なんてもの、信じるときが来るとは」
それは私が受け持つことになった少年のこと。年齢を聞くに、高校一年生といったところか。
興味を惹かれる、というのは、異性としてどうこうではない。相手は10以上も年下だし、元彼氏の憎たらしい顔を思い浮かべると、恋愛なんていう感情は、いまの私にはひとつも沸いてこない。
だから、これはもっと別の興味。つまり、学術的な関心て意味である。
「ビルの10階から落ちて、一命を取り留めた。それだけでどんな奇蹟なんだろうね」
私はまた酒で喉を湿らせながら、独り言する。
思い返すは、今日の仕事でのことだった。
「話を聞いたときは、一体どんな
一説によると、人間が高所から飛び降りて、確実にその命を落とすのは、ビルで言うと6階建相当の高さかららしい。
根拠は知らない。昔にどこかで聞いた話だ。
ただまあ、ビルの屋上から地面を眺めてみると思うはずだ。
――ここから落ちたら、絶対に死ぬ、と。
私の住んでいる場所は、5階建マンションの四階。そのベランダから下を見下ろすだけで想像できる。落ちたら助からない。
まさか駅前の10階建ビルの屋上が、ここより低いわけはないだろう。
「身体中の骨折と、肺と胃の破裂、脳内出血、おそらくは一生寝たきりの、
私はベランダで夜風に当たりながら、酔いで火照った身体を冷やす。
春とはいえ、まだまだ肌寒いし。
なにより、あの少年のことを思い出すだけで。ぶるりと鳥肌が立つのだ。
「――全治3ヶ月の骨折だけだって? ありえないよ、普通」
私が診たのはほとんど脳だけ。
事故当日の、病院に搬送されてきてすぐのMRI写真と。
翌日――つまり、私が診察した日に撮影したものとを見比べたのみ。
でも、それだけでも、いかにありえないことか、すぐに見てとれた。
前日の写真は、完全に死の状態だった。
脳は繊細な器官である。少しの傷や詰まりで、容易に身体全体の疾患に繋がる。ほんの数ミリメートル単位の腫瘍が、大事に繋がるような場所なのだ。
事故当日の、件の少年の脳は、原型を留めてはいた。ただそれは、あくまで形を保っているだけ、というだけ。彼の脳の大部分は、出血を示す黒色で覆われていたのだ。
これが生きている人間の脳か? とは初見の率直な感想だった。
仕事柄、脳挫傷で亡くなった患者を何人も診てきたが。これほど酷いものはなかった。
呼吸も鼓動も、およそ生命の維持に必要な身体の活動が、できるはずもない。生きているというだけで、奇蹟としか言いようがないだろう。
そしてその次に見たのが、事故の翌日の状態の写真。
はあ? なんて思ったね、正直。
だって。
「出血の痕すらなく、完全に綺麗な脳の写真を見せられてもねえ――どう治療する? もう
出血を示す黒い影はひとつもない。傷も見当たらない。奇跡だの魔法だのを疑う前に、なにかの間違いだと断ずるのは当然だった。
別の誰かの写真とカルテが混在してしまったのか? そんなの医療事故に繋がる。万が一にもあってはならないミスだ。
でも、その可能性を疑った方が、魔法を信じるよりは可能性が高いと思ったのだ。
「――
私は件の少年の顔を思い浮かべ、その名を口にする。
てんで出鱈目な二枚の写真と、全身包帯とギプスでぐるぐる巻きにされた佐伯雅美君とやら。
彼を見た途端に、確信した。
魔法は、本当にあったのだと。
そして彼が、どうやってかは知らないが、それを現実のものにしたのだと。
「精々楽しませてくれよ――」
私にだって、人並みに好奇心とか出世欲はある。
いまはまだ立証のしようがないが、もし魔法なんてものを医科学的に解明できれば――
私の名前が、将来の医学の教科書に載るかもしれない。
「――酒量が過ぎたかな」
荒唐無稽な夢物語を妄想したところで、考えるのを止めた。
肌寒いベランダを後にし、寝室へと向かうことにした。
こちとらもうすぐ30。寝る前の小中学生が考えるような夢を見るわけにはいかないのだ。
とはいえ。
つい先程まで頭を廻っていた暗い過去の記憶は、すっかりと消え去ってしまっていた。
――まだ、自己紹介をしていなかったかな。
私の名前は
佐伯雅美君の主治医だ。
朕(ぼく)は魔法使い皇帝の生まれ変わり~記憶が戻る前にやらかしたせいで引き籠りのぼっちの虐められっ子だったので、みんなを見返すためにまたやらかします~ サワダヒロシシ @sawadahiroshishi
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