◇ Episode1◇ ~匣ノ怪~
【 第零幕 】 第1話
#1
凍てつく冬の空気が暖かさを目いっぱいに孕む、春の始まりの頃が季節で一番好きだ。極端に寒くもなく、そして暑くもない。冬と春が同居する、束の間の安寧の時間。そんな季節も、そろそろ春一色に染まりつつある。
自宅のベランダで育てていたチューリップが、朝起きると咲いていた。ぽんと開いた、春の訪れを告げる赤い花。早咲きと聞いていたのに、四月に入っても開く気配の無い蕾に、育て方が悪かったかと半ば諦めかけていた矢先の出来事だった。
今日は朝から良いことがあったから、良いことばかりが起こるだろう。花が咲いただけで浮かれていたのは、紛れもない事実であった。だが、しかし。目覚めてから、わずか一時間と十数分後。目の前で起こった、たった数分間の出来事によって。平穏な一日を送ると云う俺の意気込みは、跡形もなく消し飛んだ。
言わずもがな上向いていたはずの俺の機嫌は、ワイヤーの切れたジェットコースター顔負けの勢いで、急降下を辿って地面に叩き付けられた。人間を矮小で愚劣な存在だと信じて止まない、偉大な神様がこの世に
いっそのこと。そのまま回れ右をして、家に帰って部屋に引きこもってやりたくなったくらいだ。けれども、大学生になって三度目の春を本格的に迎える今日の日をふいにする不真面目な勇気は、残念ながら持ち合わせていない。
そうでなくとも。引きこもりになろうものなら、待ち合わせをしている友人に問答無用で首根っこを引っ掴まれて、家から引きずり出されるのは目に見えていた。
ちらりとスマホの画面に視線を落とせば、待ち合わせの時刻まで少し余裕がある。どうせ遅れてくるだろう相手に『さっさと来い』と、愛想の欠片もないメッセージを送信したのは、完全なる八つ当たりだ。
朝っぱらから、ありえないくらいツイてない。春特有のぼんやりとした花曇りの空を見上げながら、長々とした溜息をこぼす。とっくに不機嫌の域は通り越して、人生諦めの境地に至っていた。こればかりは、自身の不幸体質を呪うしかないと分かっているが、理解するのと受け入れるのとでは、また話が別だ。
一切の感情が抜け落ちた、死んだ表情を窺い見る者が居ないのが、とにかく幸いだった。この御時世、自分が生きていくだけで、誰もが精一杯。見ず知らずの他人の事情に首を突っ込んで構っていられるほど、人間そんなに暇じゃない。
絶え間ない足音。雑音じみた話し声。広告塔から流れる音楽。電車の発着を知らせるベルの音。イヤホン越しにも届いてくる、ざわめきが耳障りだ。
ポケットに乱雑に突っ込んだ手で音楽プレーヤーの音量ボタンを探り当てると、小さめにしていた音量をこれでもかと言いたくなるほど上げる。人様に迷惑のかかる電車内じゃあるまいし、音漏れの心配はしなくて良い。
不意に。視界の端をかすめた影に、ぴくりと眉が跳ねた。
ユラリ、と暗い影が揺らめいた。粘着質な視線が煩わしい。至って平静な顔を装いながら、逃げるように目蓋を落とす。それが最善の選択肢だ。今の摩耗した俺の精神力で直視をすれば、生気を根こそぎ持っていかれかねない。
アンタ、もう死んでるよ。鏡で自分の姿、見てきたら良いんじゃないか?どれだけ内心で
此岸と彼岸。もしくは、
四十九日の間に彼岸へと旅立てず、死んだことを自覚しなかった人間の末路は悲惨だ。一度現世に執着してしまえば、その先は地獄だ。人間の形を徐々に無くして、吐き気を覚えるほど見るに堪えない姿になっていく。
目に映るすべての光景を拒むように目蓋を閉じれば、少しは鬱陶しさがマシになった気がした。イヤホンを通じて流れる、爆音の音楽で意識を強制的に逸らしながら、思考の海へと沈む。
俺こと、
幼い頃から他人の瞳には映らない、
◇ ◇ ◇
#2
邪魔にならない、駅前ロータリーの隅。断続的にバスから吐き出される大量の人溜まりを避けるには、奥まったこの場所はちょうどいい。
壁に背をもたせかけながら、何をする訳でもなく静かに佇む。ぼうっと突っ立っているだけの俺は、本当に何も考えていなかった。
「おい、
ひったくり顔負けの早業で、外を歩く時には欠かせない相棒が奪われた。引っこ抜かれるようにして、それはもう一瞬で、耳からイヤホンがすっぽ抜けていった。
最低限の生命活動を除いて。何もかも放棄していた俺の意識は、随分遠くまで散歩していたらしい。情報を遮断していたツケと云わんばかりに、空っぽの頭を満たそうと周りの情報が凄まじい勢いで流れ込む。
眉間に皺を寄せながら、閉じていただけの目蓋を持ち上げる。真正面で声を張り上げられ、周りの注目の的になった挙句、イヤホンまで奪い取られた。
怒声かひっぱたく手のひとつ出るかと思いきや、返ってきたのは冷えきった反応だった。ちょっかいをかけた張本人は、まるきり予想を裏切る淡々として味気ない相手の反応につられて、鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をして、不自然に動きを止めた。
「えっ?まさか寝てたか?」
「寝てねえよ」
「強引に奪い取ったから、拳か蹴りの一つでもスッ飛んでくるかと」
「お望みなら。今すぐ地面に転がしてやる」
「朝っぱらから、親指下げんな。友人には優しくしてくれ」
「何言ってんだ、優しくしてるだろ?」
「歪んでる!だいぶ友情が歪んでるぞ!」
すらりとした長身を腰から軽く折った前屈みの体勢で、ひらひらと顔の前で手のひらを振る、腐れ縁もとい
よくも性格の正反対な二人が長年喧嘩もせず、友人を続けているものだと、我ながら感嘆を覚える。極めてドライな返事を決め込む俺に物怖じもせず、ちょっかいを出して怒られるのは日常茶飯事だが、十四五年の付き合いになってくれば、それすら挨拶のひとつになってくる。
呆れ混じりの口調の彼から推測するに、どうやらイヤホンを引っこ抜く強硬手段に及ぶ前から何度か声をかけていたらしいが、それを全力で俺は無視をした。さすがに悪かったと思わざるを得ない。
「てか……なんつー顔してんだ」
「……どんな顔だよ」
「ん?有り金全部、溶かした奴の顔」
「うるせえ。はっ倒すぞ」
俺はラスベガスのカジノで人生一発逆転を狙って、失敗したりしない。不確かな可能性に
握った拳で軽く春樹の胸元を殴って、差し出されたイヤホンを受け取る。ポケットに入れた音楽プレーヤーと一緒に、ほとんど物の入っていないリュックサックの中に放り込む。
「朝飯食った?」
「家で食べてきた。春樹は?」
「大家のおばちゃん家で食ってきた。昼飯前に腹減ったら、コンビニか購買行こうぜ」
「了解、了解」
何はともあれ。急降下を辿る一途だったテンションは、いつの間にか少し上向き加減になっていた。ローテンションなのは相変わらずだが、それでも春樹に会う前に比べると大分マシだ。
「おはよ。蒼波」
「ああ、おはよう……って。挨拶、遅くないか?」
「俺の呼び掛けと挨拶を、全力でガン無視した奴が居ただけであって。俺は挨拶したからな?」
「……悪かったっての」
「なんっにも反応返って来なかったから。うっかり別人に話しかけたかと思って、混乱したんだぞ。許さん」
随分と遅い挨拶に笑い混じりで突っ込めば、口を尖らせた春樹が遠回しに不満を口にした。悪い、悪いと苦笑いで謝りながら、視線を逸らして乾いた笑いを返す。そう云えば、空振りした挨拶の元凶は俺だった。
祓い屋・彼岸堂 怪異奇譚[改稿中] 如月 仍 @aoiro_ramune
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