第9話 ポップコーンツリー

そしてついにその日がきた。


まだ真っ暗な時間に目を覚ましたアキは、ベッドに入ったままもう一度目を閉じた。

「今日が、マザーツリーにとって、みんなにとって、良き日になりますように。」



明け方、まだ薄暗い湖のほとりに、コミュニティの全ての人々が集まっていた。

湖には薄く霧がかかり、辺りには静寂が流れていた。


冷たい風が低く吹くと霧が流れ湖面が静かに揺れた。


アキはやはり例年よりも湖にもマザーツリーにも少し厳しい雰囲気を感じていた。

それはみんなも同じようで、いつもはもっと話し声が聞こえるのに、今年は静かに座り、軽く祈るように目を伏せている人もいた。


マザーツリーの折れた枝はやはり痛々しかった。

しかしその折れた枝にさえ、まだ大きな実がなっていることにアキは気づいた。


徐々に空が白んできた。

「さあ、そろそろ準備しようか。」

船の船頭をする初老の男性がそう言った。

そしてアキとミナミ、そこにいるみんなの少しの不安を払拭するように優しく言った。

「大丈夫だよ、マザーツリーはいつもと同じさ。」



アキとミナミはサクラさんからシルクの布を受け取り、小舟に乗り込んだ。

ダンはすでに泣きそうになっていた。


ゆっくりと船頭さんが船を漕ぎ、マザーツリーへと進んだ。


アキは小舟の先端が湖の透明な水を分かつ様子に見入っていた。

その手に持つシルクの布のように、柔らかそうな水だった。


やがて空が明るくなってきて、小鳥がさえずり出した。

マザーツリーの近くまで進んだ二人は顔を見合わせて小さく微笑み合った。

マザーツリーはいつもと同じように、優しかった。


「さて、まだ少し時間はある。

 二人とも、マザーツリーに触れて、少しお祈りをしよう。」


船をさらにマザーツリーに近づけると船の底が根っこに少し当たって止まった。

二人は同時に腕を伸ばしてマザーツリー触れた。

その幹は思っていたより滑らかで、温かみを感じた。

触れた手から何かが一斉に流れ込んでくるようで、アキは全身に鳥肌が立った。

生まれて初めての感覚だった。


マザーツリーの中に脈々と流れる、長い長い年月のいのちの積み重ね。


ミナミも同じように感じているのか、涙ぐみ、鼻をすする音が聞こえた。


「今年の自然の恵みと、マザーツリーの愛と恩恵に感謝を込めて。」

船頭さんのその言葉にみんなが静かに手を合わせて祈りを捧げた。


東から吹いた大きな風で、霧が全て散っていった。


その時、マザーツリーが揺れた。


たわわに実った重たい実が、急に重力を知ったように、全ての枝が下へ下へと引っ張られているように見えた。

母親が子供を産む時のように、マザーツリーもその身体を振るわせていた。

ずっと上の方にあった実が、アキが手を伸ばしたら届きそうな程に枝がしなった。


次の瞬間、朝日が射した。


アキは息を飲んだ。

朝日に照らされたマザーツリーが輝いた。


「きれい…」


カラカラカラ。

実が揺れてこすれ合う音が壮大な音楽のように湖に響く。


そして、下から突き上げるようなエネルギーを感じた。

しなっていた枝が反動で勢いよく上へ弾かれる。

アキもミナミも下から何かが自分の体を貫いたような衝撃を受けた。


地球と宇宙を繋ぐ生命の扉を開け放ったような壮大なエネルギー。

全身に鳥肌が立って、二人は体ごと宙に浮いたのではないかと思った。


そして次に感じたのは全身が震えるような歓喜だった。

マザーツリーと一体になったかのように、その歓びの渦の中にいた。


そして、実が全て枝を離れ、空へと飛びあがった。


ポンポンッ

ポンポンポンッ


空中で一斉に弾けた。


薄い茶色だった実が弾けて淡いピンクの綿毛になり、朝焼けの空にピンクの綿が舞う。


目の前の幻想的な世界にアキは涙がとめどなく流れた。


ただここには、生きている歓喜しかないのだと。

祝福しかないのだと。



「アキちゃん!」

ミナミの声で我に返ったアキは、自分がなぜここにいるのかを思い出した。

そしてシルクの布の端を持って、ミナミと一緒に大きく広げた。


弾けた実がゆっくりと舞い降りてきた。

アキとミナミは降り注ぐ淡いピンクのシャワーに身を預けた。


シルクの布にたくさんの綿が落ちてきた。

甘い香りが辺りに漂って、その柔らかさに包まれた。


湖面に落ちていく綿で無数の波紋が広がって、朝日が乱反射する


アキとミナミの笑い声が響いて、息を飲んでいた湖岸のみんなも歓声を上げた。

ダンは人目もはばからず大泣きしていた。



アキとミナミは布に落ちてきた綿を落とさないように大切に包んだ。

そしてゆっくりと岸へ向かった。


岸に着くとこの一年の間に生まれた6人の赤ちゃんが籐のゆりかごに入って集まっていた。

みんな大人達の笑顔に囲まれて笑っていた。

アキとミナミは一緒にピンクの綿を手ですくって、赤ちゃん達のゆりかごにそっと入れた。


赤ちゃんが手足をパタパタさせて喜んだので、綿がゆりかごの中で転がった。

皆が声を上げて笑った。

こうして赤ちゃん達はコミュニティのみんなとマザーツリーに生誕の祝福を受ける。


ポップコーンツリーは祝福の合図。


毎年ポップコーンツリーの後から様々な植物が豊かに実をつけ、豊穣の秋へと季節が移っていく。


「さあ、今年もまた収穫祭が始まるぞ!」

ダンの声が湖に響いた。

みんなが歓声を上げる。


アキはマザーツリーを振り返った。

マザーツリーはまたいつもの静寂を取り戻していた。


でもアキは知っていた。

マザーツリーの中に、尽きない泉がある。




全てのいのちを包むように

優しく

柔らかく

マザーツリーはただそこに在る


一年に一度、いのちの歓喜を謳うのは

ずっとずっと昔から続く

自然と宇宙との約束

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Popcorn Tree ~いのちは歓びを謳う~ marina @marina8

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