ノラネコト

鷹宮 センジ

ノラネコト

言葉を交わす時、私達は意識するしないに関わらず相手に触れているのだと思う。何故なら言葉には感情があり、感情は五感を呼び覚ますからだ。


優しい言葉は甘くて暖かくて陽だまりの匂いがする。

決意の言葉は真っ直ぐで揺るぎなく硬い。

陰口はじめじめしていて冷たく触れれば怪我するくらいに鋭い。


言葉には魂が宿っていて、言葉には力があるのだという思想はきっと一部は正しい。ただ、私がこれまで生きてきた薄っぺらい人生が囁くところに拠れば、言葉に元から力がある訳ではないそうだ。


言葉に力を宿したのは人間で、魂は言葉で何かを伝える時にその人の手によって込められるのだ。ただ誤解しないで欲しい。その力や魂が相手に届く時、自分が思った通りに働いてくれる訳ではない。

あらぬ方向へ、あらぬ結果をもたらしてしまう方がむしろ多い。


私はこの現象に名前を付けてみることにした。


一度放たれた獣は、どれだけ躾られていても主人に忠義を尽くすとは限らない。元から飼い慣らしていなければ尚更だ。相手に牙を剥く猛獣と、逆に相手に寄り添いじゃれるペットは矛盾しない。

野良猫みたいに気まぐれな言葉、すなわち『ノラネコト』。


探してみればノラネコト達はあらゆる場所を悠々と行き来していた。

私が12才の頃、彼らに名前を与えた時から驚くことに『見える』様になった。


ラジオやテレビのニュース番組から飛び出るノラネコトは、だいたい毅然とした様子でこちらに歩み寄ってくる。たまに慌てていたり不満気だったりするけれど、彼らの姿にはある種の誇りや気品を感じさせられるのだ。


ここで忘れないで欲しいのだが、ノラネコトは人が創り出した獣だ。


神様が自分に似せて人を創ったと世界一のベストセラー本に書かれてあるらしいが、実は何となく創ってみたら似てしまったのだと告げられてもおかしくないと思う。つまりノラネコトもまた見た目通りじゃない。


人間より純粋な存在だけど、だから油断しやすい。彼らが誇りを持っているのはほぼ間違いないが、自信満々な態度に騙されてしまう人は結構いる。


騙されてしまうといえば、詐欺のノラネコトには美しい姿をしている者が多い。両親が留守にしている時、私の家にかかってきた電話越しから飛び出してきたノラネコトはなんとも綺麗な毛並みをしていた。

流し目で尻尾を振る彼あるいは彼女のじゃれ付きに危うく絆されそうになってしまったものだ。


私がノラネコト達を飼ってみようと思い付いたのは15才の時である。

しかしながらノラネコトを飼うにはどうすればいいのか小一時間悩んだ。何せノラネコトは生物じゃない。生物なら餌をあげて負担にならない程度の空間に閉じ込めておけばそれで済むが、ノラネコトに餌なんて概念はない。勝手にじゃれたり暴れたり自由に行動した後に何処かへと消えてしまう。


あの日あの時、あの人はどんな事を言ったのかな…などと思い出せばうっすら現れてくれる時もある。しかしそれは同じノラネコトではない。見た目は似ているが全く違うノラネコトなのだ。まったく同じ言葉から出てくるノラネコトでも、性格は千差万別。現れる時の環境に左右されるのではないか、という仮説を私は16才の時に立てた。生物ではないノラネコトだが、こういう点は生物に似ていると思う。環境に合わせて進化するのだ。適応出来なければ一瞬で死んでしまう。人はこれを死語と呼んだり、空気が読めてないと表現したりする。


さて、今の私は18才になる訳だが、ここで私はあることを思いついた。


ノラネコトを閉じ込める場所についてである。


というより、身近にそのヒントはあったのだが思いつけなかった。盲点、というのはよく分からない概念だが、多分そんな感じだ。


すなわち言葉を文字にして記すことである。


だがその作業は色んな意味で手探りであり暗中模索といった所だ。何せ私は、何かに記録するという作業をさほど重視していなかった。読む方ならまあなんとか出来るし、読み上げソフトという手段もある。だから書く方の学習をすっかり怠っていたのだ。


喋って記録するという方法も一応あったけれど、ノラネコト達について喋るのは直接書くのとは違って何だか気恥しかった。それにトチってしまえば記録をやり直したり編集しなくてはならなくなる。それこそ面倒くさいというものだ。


だから私は今、こうして言葉を紙に穿っている。



~・~・~・~



「――これが、初めて書いた小説なの?」


少し呆れたような口調で紙をピラピラさせているのは、私の読み書き担当の先生だ。自分で書いた記録を自分で読む気はつい最近まで無かったので、書く方の練習はここ数年片手間にしかしていなかった。それよりも介助無しの歩き方や食事の方法を特訓する方が重要だったからだ。


「そうですよ、先生。私はノラネコトを飼う為にそれを書いてみたんです。私から私に贈る言葉であれば、ノラネコトはいつでも変わらない姿で居てくれるんじゃないかと思いまして」


「それで?やってみてどうだったの?」


先生が何かを僅かに期待したような口調で尋ねる。ノラネコトは興味津々といった様子でこちらを見上げているのだが、私は心の中でノラネコトをそっと先生の方へ押しやる。


「いいえ、どうやら自分に向けての言葉でさえ常に同じ力で居ることは出来ないみたいです。どんな時でもずっと傍にいてくれるノラネコトはいないみたいです」


私の説明にちょっと残念そうな溜息を混じえつつ「そっかー」と零す先生の手を不意に撫でてみる。先生は特に驚かない。私の癖は高等部に入って以来の付き合いでよく知っているからだ。


「私……何だか不思議なんです」


先生に向かって、というより自分に向けて喋る。


「こうして先生の手に触れて、顔に触れて、匂いを嗅いでも『見える』感覚に至れないと言いますか。どれだけ他の情報で補っても『見える』気持ちが分からないんです。それなのに、どうしてか想像の上にあるはずのノラネコト達は…『見える』。そんな気がしてしまう」


ノラネコトには耳があって、尻尾があって、四足歩行だ。個体差が激しくて全く撫でられないくらい攻撃的な奴もいれば、限りなく優しく寄り添ってくれる子もいる。先生が連れて行ってくれたネコカフェで猫に触れる機会があったが、似ているけれど根本的に違うと実感した。視覚以外の五感で描いた想像上の猫よりも、ノラネコト達はびっくりするくらい自由に生きている。


「私、もしかして人と違うんでしょうか?生まれつき何も見えない私は、見えないだけだって思ってました。足りない部分なんて誰もが持っていて、自分の場合はそれが判りやすいだけなんだって、でも…」


でも、人に見えない物が見えるのはどういう訳なんだろう。これって何か別の病気なのではないか?理解されない怖さは今までの薄っぺらい人生でも重厚に経験してきた。それでも理解してくれる人が支えてくれるお陰で私はなんとかここまで生きてこれたのだ。


「ひょっとして、私は心の病気なのでしょうか」


口から飛び出した私の新たなノラネコトは、寒さに震えて行き場もなく怯えていた。

そのノラネコトに向かって、柔らかな言葉が歩み寄る。


「…いいえ、そんなことはないですよ」


先生のノラネコトだ。


「数の違いですよ。私たち健常の視界を持つ人間は数多く存在していますが、多い方が正解とは限りませんからね。私達は同じものが見えているようで、実は違う物を見ているのかもしれない。こういう議論は古代の哲学者達から連綿と受け継がれてきた有名なテーマの一つなのです」


先生のノラネコトは、何の飾り気も無いのに堂々とした足取りで安心感があった。そのまま包み込むように私のノラネコトに頭を擦り付けると、怯えていたノラネコトはゆっくりと溶けていく。


「見えない物が見えているものよりずっと大切なんですよ。私は今の貴女が少しばかり羨ましいですよ。少なくとも私には絶対に見えないような存在が見えている貴女は、私がこれまで経験した物事を全く違う新しい視点から捉えることが出来る。ノラネコトは心の病気なんかじゃありませんよ。むしろ逆ですよ。貴女だけが認識してあげられる、その存在に意味を与えられるのですから」


そして先生は、私に信じる神なんて居ませんが、と前置きしてこう言った。


「――神様の祝福なのかも知れませんね」


祝福、祝福かあ。

先生の少しばかり投げやりな〆に少々残念な感じがしたのは否めない。けれども間違いなくそこに込められたノラネコトは私の暗い感情をすっかり舐めとっていたのだった。


今日も私は紙に点を穿つ。この記録は私が私に向けて書いた私だけの小説にするつもりだったが、後で先生にこれを健常者向けの文字に直して貰おうと考えている。


私にしか見えないノラネコトが見える人を探すという目論見もあるが、これを読んだアナタに普段の会話の端々でノラネコトを意識して欲しいというのもある。


ノラネコトを飼い慣らすのは難しいと思う。感情に任せて衝動のまま放たれたノラネコトなら尚更だ。でも、そのノラネコトが暴れて誰かを傷付けたならば、アナタは飼い主としてキチンと責任を持たなければならない。


だからといって必要以上に怯えなくても大丈夫。ノラネコトは例え見えなくても、ちゃんと飼い慣らすことで暗い場所にいる誰かを導くことだって出来るのだから。



この文書に込めた私のノラネコトが、アナタの元に届きますように。

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