一歩を踏み出すとき

八神翔

一歩を踏み出すとき

 鞄から取り出したノートを開いた瞬間、わたしは息を呑んだ。

 さえない女子高校生が、学校一のイケメンと甘酸っぱい学校生活を送る。見開かれたページには、そんなストーリーの漫画が描かれていた。作者はわたし。


「どうして、これがここに……」


 妄想が炸裂したノートは、わたしだけの秘密だ。当然、学校には持ってこないようにしている。大勢の生徒が集まる場所では、ふとした拍子にノートの中身がばれる危険性がある。もしクラスメイトに漫画を描いていることを知られたら、向けられるのは嘲笑と困惑の眼差しだけだ。中学の頃、身をもって経験した。

 今朝は寝坊してしまった。そのため、時間がない中、机の上に並べてあった教科書やノートをろくに確認もせずに鞄に詰め込んだ。おそらく、秘密のノートはそのときに紛れ込んでしまったのだろう。

 なんという失態。あれほど気をつけていたというのに。

 背後に人の気配を感じた。わたしは慌ててノートを鞄にしまおうとしたが、失敗して手を滑らせる。あ、と間抜けな声が出た。

 わたしの手を離れたノートは、あろうことか漫画の描かれたページを広げて教室の床に落ちた。泡を食ったわたしが拾うよりも先に、別の手が横から伸びてくる。


「おい、これ」


 見れば、クラスメイトの佐多さた友也ともやだった。

 わたしは一瞬硬直する。

 イケメンだが不愛想。いつも不機嫌そうにしており、話しかけても大した返事はない。ゆえに、女子たちからは観賞用イケメンと陰で言われている。彼はそんな人物だった。

 佐多くんの視線がノートに落ちた。漫画? 口元がそう動くのが見えた。

 顔が熱を持つ。喉が急速に乾いていった。わたしはなんとか言い訳を絞り出そうとするものの、こんなときに限って適当な言葉が思い浮かばない。

 やばい。どうしよう。なにか言わないと。

 気持ちばかりが焦る。

 佐多くんがぱたんとノートを閉じた。わたしはびくりと肩を揺らした。彼の表情を見るのが怖くて、顔を伏せる。


「ん」


 下を向いたわたしの視界に、ノートが突き出される。


「あ、ありがとう」


 おそるおそる受け取りながら、ちらりと佐多くんの表情を盗み見た。普段と変わらない無表情。少なくとも、小馬鹿にした様子は見受けられない。

 見て見ぬふりをしてくれたのだ。わたしはそう解釈する。

 てっきりそのまま去るかと思いきや、佐多くんはなぜかその場にとどまっていた。どうしたのだろう。びくびくしていると、彼は冷めた表情のまま言った。


「絵、上手だな」

「え? あ、ありがとう」


 褒められた。そう理解するまでに多少の時間を要した。そのせいで反応が中途半端なものとなる。

 佐多くんは自分の席に戻っていった。

 わたしは彼の背中を目で追う。まさか好意的な感想をもらえるだなんて思ってもいなかった。予想外すぎる出来事に、わたしの頭はすっかり混乱していた。





 堀井ほりいってブスだよなあ。

 小学生の頃から、容姿を馬鹿にされ続けてきた。中学生までは太っていたため、デブと呼ばれた。高校進学を機にダイエットに励み、標準程度の体型におさめることに成功したものの、不揃いな顔のパーツまではどうすることもできなかった。眼鏡をかけ、根暗なわたしは、誰がどう見ても下の下の女だった。ブスと言いたくなる男子の気持ちもわかる。許さないけど。

 そんなわたしの唯一の心の拠り所は、漫画を描くことだった。といっても、とても人様に見せられるようなレベルではない。なによりも、こんな不細工な女が、イケメンと恋に落ちる漫画を描いているだなんて周囲に知られたら、痛いやつと思われるのがオチだ。妄想乙。そんな言葉をかけられる場面を想像するたびに、わたしはぶるりと震えた。

 佐多くんにノートを拾われたのは運が良かった。もしほかのお調子者の男子に拾われていたら、どうなっていたことか。

 絵、上手だな。

 ノートを渡してくれたときの彼の言葉が、何度も脳内で繰り返される。社交辞令に決まっている。そう言い聞かせようとするものの、油断しているとすぐに頬の筋肉が緩んだ。

 自分はいったいどうしてしまったのだろう。ふとした拍子に佐多くんのことを思い浮かべてしまう。以前はまるで気にならなかったのに。

 翌朝、登校すると、下駄箱前でちょうど佐多くんに出くわした。

 ぎょっとして立ち止まっていると、彼がわたしに気がつく。


「おはよう」


 突然の挨拶に面食らった。え、挨拶した? 誰に? わたし?


「お、おお、おはよう」


 驚きのあまり、声がどもる。青天の霹靂だった。明日は槍が降るかもしれない。


「なに突っ立ってんの?」


 呆然としていたら後ろから声をかけられた。振り返ると、友達の真里菜まりなが不思議そうに首を傾げていた。


「なんでもない」


 視線を下駄箱のほうに戻したときには、佐多くんの姿はもう見えなくなっていた。ほっとするような、残念なような、複雑な気持ちになる。


「佐多となんかあった?」

「え? まさか。ないない。ただ、突然挨拶されたものだから、ちょっとびっくりして」


 ふうん。どう見ても納得してない様子だ。

 漫画を褒めてもらったのだと告げるわけにもいかず、わたしは笑ってやり過ごした。真里菜の勘は侮れない。

 教室に入ると、男子たちの笑い声が耳に入ってきた。

 カースト上位に位置する男子たちだ。見た目がかっこいいとか、スポーツがうまいとか、みなわかりやすい美点を持っている。彼らの中には佐多くんも混じっていた。相変わらず表情筋が死んでいる。しかしイケメンだ。

 もっとリアクションしろよー。隣にいた友人に背中をバシッと叩かれ、佐多くんは少し眉を寄せた。

 むっとした表情も絵になるなあ。

 鞄の整理をしながら、わたしはちらちらと視線を送る。

 きめ細かな肌、さらさらとした黒髪。

 これまでは、恐れ多くてまじまじとご尊顔を拝見したことがなかった。改めて見て、女子たちが騒ぐのも仕方のないことだと理解する。もしこれでとっつきやすい性格であれば、きっと毎日のように告白されたことだろう。

 唐突に、佐多くんがこちらを振り向いた。

 ばちんと視線がぶつかる。

 わたしは慌てて明後日の方向を見た。

 やばい。思いっきり目が合った。これじゃ見てたことがばればれじゃん。

 顔が火照る。心臓がドキドキと鳴っている。穴があったら入りたい気分だ。

 そろりそろりと視線を前方に戻せば、佐多くんはもうこちらを見ていなかった。





「やっぱあんたヘンよ」


 昼休み、弁当を食べていると、向かい合って座る真里菜が言った。

 そうかな、とわたしは惚けたものの、彼女には通用しなかった。机の向こう側から、じっと睨まれる。


「いつにもまして挙動不審。原因はあれでしょ、佐多でしょ? ん? 正直に言ってみな。怒らないから」


 うう、とわたしは縮こまる。圧がすごい。


「実は」


 あっさり陥落したわたしは箸を止め、昨日、佐多くんに漫画を見られたことを真里菜に打ち明ける。

 彼女は中学からの友人だ。わたしの趣味についても把握している。

 話を聞き終えた真里菜は、目を丸くした。


「あんた、もしかして佐多のこと好きになったの?」

「す、すす、好きだなんて、そんな滅相もない」

「動揺しすぎ。どんだけ耐性ないのよ。あんな漫画描いてるくせに」


 真里菜はあきれ顔だ。

 わたしはさらに縮こまる。だって仕方ないじゃん。生まれてこの方、彼氏なんてできたことないんだもの。妄想しかしてこなかったわたしに、リアル恋愛はハードルが高すぎる。


「わたしが、その、あれだなんて、佐多くんに申し訳なさすぎるよ」

「どうして?」

「だって、こんな根暗でさえない女子から好意を向けられたら、迷惑でしょ。しかも、少し漫画を褒められたぐらいで舞い上がるようなちょろすぎるやつだし」


 自分で言ってて辛くなる。

 うつむいていると、真里菜がこれ見よがしに盛大なため息をついた。

「卑屈になりすぎ。あと考えすぎ。迷惑がられることなんてないって。佐多は口数が少ないだけで、中身は誠実だから。あんたが漫画を描いてることを知っても、茶化さずにいてくれたんでしょ」

「それは、そうだけど」

「そのうえ褒めてくれたんだから、あいつは相当いいやつよ」


 そうなのだろうか。いや、そうなのかもしれない。数時間前の出来事が脳裏をよぎる。

 二限目終了後の休み時間。廊下にたむろする男子生徒たちに、彼が一言、邪魔と短く告げているのを耳にした。

 そんな直球を投げなくても。わたしがあわあわしていると、男子たちがどいたことで生まれた隙間を、女子生徒がほっとした顔を浮かべて通っていった。その様子を見て合点がいく。男子が邪魔で廊下を通れずに困っていた彼女のために、佐多くんは注意したのだろう。

 いい人という真里菜の見立ては、確かに間違っていない。


「だから安心しなさい。佐多は迷惑がったりしない。あんたの気持ちを受け止めたうえで、興味なかったらきちんとふってくれるから」

「それ、わたしを励まそうとしてるの? それとも追い詰めようとしてるの?」

「もちろん前者よ」


 にっこりと笑う友人に、わたしは疑念を抱かずにはいられない。


「真里菜、絶対楽しんでるでしょ」

「あれ、ばれた?」


 あっけらかんとそう言う彼女を、わたしは精いっぱい睨みつけてやった。

 




 数日前まではただのクラスメイトとしか認識していなかったのに、意識し出した途端、やたらと佐多くんの姿が視界に入るようになった。

 授業中に頬杖をつく姿も、休み時間にあくびを噛み殺す姿も、どれもこれもわたしの目をひきつけて離さない。

 ああ、真里菜が余計なこと言うからあ!

 我に返るたび、恥ずかしさのあまり頭を掻きむしりたくなる。

 まずい。本気でまずい。このままだと頭の中が佐多くんでいっぱいになってしまう。

 不相応な感情を抱けば抱くほど、自分が辛くなるだけだ。わかっているのに止められない。

 家では趣味の漫画に没頭しようとするも、気づけばヒロインの相手のイケメンを佐多くんそっくりに描いてしまっている。

 奇声を発しながらそのページを破り捨てていたら、妹から注意された。ごめん。

 佐多くんに会いたいような会いたくないような、そんな曖昧な気持ちを抱えたまま、今日も登校する。

 数学の授業終了後、クラス全員分のノートを集めて準備室に持ってくるよう教師から指示を受けた。

 日直だからって女子に重労働を強いるなんてどうなのよ。そんな文句を胸中で吐く。もう一人の日直は、用事があるとかでさっさと教室を出て行った。貧乏くじを引かされたのだと気づくぐらいには、わたしだってバカじゃない。

 教壇の上にそびえたつノートの山を前にして、気持ちを奮い立たせる。意を決して山を持ち上げる。そのとき、ちょうど真里菜が通りかかった。もしかして、手伝ってくれるの? 希望の目を向けたところ、彼女はくるりと身を翻した。あれ?

「あ、佐多、ちょうどいいところに。堀井が困ってるみたいだからさ、これ一緒に持って行ってやってくれない?」

 待て待て待て。よりによって佐多くんにヘルプを求めるなんていったいどういう神経してるんだ。射殺さんばかりの視線を向けるが、真里菜はどこ吹く風だ。

 佐多くんは目を瞬かせたあと、なにも言わずにノートの山から三分の二ほどをがっつり持っていく。腕が軽くなった一方、気が重くなる。


「ごめんね。せっかくの休み時間を潰しちゃって」


 廊下を並んで歩く間、わたしは申し訳なさでいっぱいだった。


「別に」


 佐多くんの声は淡々としていて、怒っているのか気にしていないのかわかりづらい。

 沈黙が流れる。

 せっかく真里菜が作ってくれたチャンスを、有効活用できないまま時間が過ぎていく。

 周囲の女子からの視線が痛い。誰、佐多くんの隣歩いてる女。そんな会話がなされているに違いない。


「堀井ってさ、いつも貧乏くじ引かされてるよな」


 突然名前を呼ばれ、わたしは目を見開いて顔を跳ね上げた。


「貧乏くじ?」

「雑用。毎回、押しつけられてるだろ」

「ああ、まあ、うん。そうだけど……よく知ってるね」


 声をかけてきたこともそうだが、わたしがよく頼みごとを受けている様子を見られていたことも驚きだった。


「嫌じゃないのか」

「嫌じゃ……なくはないけど。でも、断るのが難しいんだよね。少しでも躊躇ったら、怖い顔してすごんでくるし。こんなに頼んでるのに断るなんて心狭すぎじゃない、みたいなこと言われたり」

「やけに具体的だな」


 鋭い指摘だった。わたしは笑ってごまかす。もちろんいまのは実体験だ。


「ああいうのって、頼まれごとをされた時点で負けなんだよ。角が立たない断り方がないんだもの」

「そういうものなのか」

「そういうものなの」


 会話が続く。奇跡みたいだと思った。

 数学準備室に到着する。ノートを提出したあと、わたしたちは来た道を戻る。


「佐多くん」

「ん?」

「ありがとう。この前、わたしの漫画、褒めてくれて」


 ずっと言いたかったことを、わたしはようやく口にする。


「あと、笑わないでくれて」

「笑う?」


 佐多くんが眉をひそめた。


「わたしみたいな女子が漫画描いてると、やっぱりへんに映るみたいだからさ。からかいのネタになるっていうか」


 長い時間かけて染みついた自虐癖は、そう簡単に抜けるものではない。

 妄想に浸ってるなんてかっこ悪いでしょ。わたしはそんなふうに続けた。すると、佐多くんから思わぬ反応が返ってきた。


「笑うなんて、そんなことするわけないじゃん」


 強い口調だった。彼が続けて言う。


「人の好きなものを笑ったりしないよ」


 まっすぐな言葉が胸をついた。心を揺さぶられる。わたしは足を止め、まじまじと佐多くんを見た。


「あと、自分でかっこ悪いとか言うな。好きなことしてるだけなんだ、自分を卑下する必要なんてないだろ。あんなにうまく絵をかけるだなんて、俺はすげえと思う」


 励ましてくれている。わたしなんかのために。理解したとたん、涙腺が緩む。ああ、だめだ。踏ん張っていないと、涙が目からこぼれ落ちる。


「堀井?」

「な、なんでもない。ただ、嬉しくて。そんなふうに言われたの、初めてだから」


 これはもう認めるしかない。

 わたしはやっぱり佐多くんのことが好きだ。

 申し訳ない気持ちとか、周囲の目とか、そんなものは関係ないと思えるほどの気持ちがあふれてくる。

 告白したところで、成功する確率は限りなく低いだろう。

 わたしだけが特別視されてるだなんて都合のいいことも考えない。

 だけど、なにもしないで終わらせるなんてできなかった。

 想いは、伝えなければ相手に届かない。


「佐多くん。あの、このあと少し時間をもらえないかな。伝えたいことがあるの」


 佐多は迷惑がったりしない。あんたの気持ちを受け止めたうえで、興味なかったらきちんとふってくれるから。

 真里菜の言葉を思い出す。

 勇気を出せ、堀井。妄想からリアルに飛び出すんだ。

 人生一番の大勝負。

 わたしは決意を胸に、一歩を踏み出した。

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