月と煙草
高村 芳
月と煙草
『有紀どうやったん、この間の模試』
電話の向こうから、笑いを含んだ疲れた声が届く。もう遅い時間なのに、帰宅したばかりなのだろうか。どさり、と何かをソファに下ろす音が聞こえた。「どうでもええやん」、と私は拗ねた口調で返す。ただでさえ約束の時間に遅れたのは向こうなのに、開口一番模試の結果を聞かれて、さすがに少し機嫌が悪くなった。ベッドの上でクッションを抱え込み、私は口を尖らせる。
『ごめんて。調子はどうなんかな、思ただけやんか。拗ねんなて』
なだめる声の向こうで、窓が開く音が聞こえる。「さぶっ」という小さな声に続いてカチッという着火音が聞こえ、彼は沈黙のあと、大きく息を吐く。
「あっ、煙草吸ってるやん。もう……」
今まで散々止めてほしいと伝えているのに、彼は煙草を吸い続けている。「まあまあ、ええやんけ」と笑いながら、彼の吐息が続く。三ヶ月前、久しぶりに会った日に煙草を吸っていた彼の長い指を、私は思い出していた。
『で、どうや? 頑張ってるか』
今度は打って変わって、優しい声だった。
ベッドの隣のデスクの上を見やると、「第一志望大学:D判定」と印字された模試の結果表が無造作に置かれている。今日の放課後、先生に「もっと頑張れ」と叱咤されたことも思い出す。私はその映像を頭の中から無理やり払い落し、「まあ、普通」とだけ答えた。
高校の先輩だった彼が一足先に卒業し、東京の大学に進学してから一年半が経った。優秀だった彼はまだ大学二年生なのに研究室に配属され、忙しい日々を送っているそうだ。私がちょうど今年受験なのも相まって、電話どころかメッセージのやりとりも、三日に一回あればいいほうだった。
『お、今日は月、綺麗やな』
私は窓の外に目を向ける。確かに今日は満月に近く、街灯が無くとも表の道路がよく見渡せた。
「こっちもよう見えるわ」
『そうか。今日はこっち、雪の予報やで』
「え、ほんま? さすがに東京は早いなあ」
話したいことはたくさんあるのに、いつも電話ではたわいのない話をしてしまう。彼の話に相槌を打ちながら、心の中では話が止まらない。
数学の点が伸びひんねん。どうしたらいい?
周りの友達はみんなもうA判定とか、B判定やねん。
受験、怖いわ。東京、行けへんかったらどうしよう?
そんな話ばかりすると、いつか別れを切り出されるんじゃないかと心配になって、いつも言葉を飲み込んでしまうのだ。
『有紀』
彼は一呼吸置いて、真剣な声色で私の名を呼ぶ。こぼれそうになる不安をぐっと胸に留めて、「何?」と私は問い返した。
『有紀やったら大丈夫や。頑張ってんの、俺は知ってる。東京で待っといたるから』
――何も言っていないのに、こういうときには励ましてくれる彼はずるい。私は膝を抱え込む腕に、ぎゅっと力を入れる。こみ上げてくる熱をどうにか押さえ込み、精一杯強がらなければ。弱い女だと思われたくなかった。
「言われんでも、押しかけたるわ。そっちこそ、浮気してたら承知せえへんからな」
高校生の時から変わらない笑い声が、電話口から流れてくる。その声に、私もつられて笑ってしまった。
部屋の壁掛け時計を見ると、電話し始めてから十五分が経とうとしていた。今年の春、受験生になったとき、彼との電話を週一回・十五分までに留めると決めていた。
「そろそろ十五分だから」
『そうか。無理すんな。じゃあ、また』
いつも切るのは決まって彼からだ。何も音が聞こえなくなったスマートフォンを握りしめ、ベッドに寝転んだ。彼が笑ったときの、くしゃっとなる顔が瞼の裏に浮かんだ。
「……勉強しよ」
私は体をベッドから引き起こし、椅子に腰掛けた。デスクライトに灯りを点ける。その拍子に、デスクライトにかけられたお守りが揺れた。彼がくれた、有名な神社の学業成就のお守りだ。私はお守りを指でつついてから、苦手な数学の問題集を開いた。
*
あいつ、気づかんかったな。
煙草が残り一本となり、冷たい風が体温をさげる中、まだ窓の外へ煙を吐き続けていた。真珠色に光る月を眺めながら、二歳下の彼女に告白されたときのことを思い出していた。
『先輩、夏目漱石は、「I LOVE YOU」のことを、「月が綺麗ですね」と訳したそうですよ』
真っ赤な頬で、でも目をまっすぐに見つめてくる彼女の声は、先ほどの電話と同じように震えていた。あいつは不安なとき、自分の声が震えることをまったく自覚していないようだ。
「寂しいんはお前だけちゃうんやぞ。早よ来いよ、目一杯甘やかしたる」
いよいよ身体が冷え切った。ベランダに置いてある灰皿に煙草を押しつけ火を消してから、俺は窓を閉めた。
了
月と煙草 高村 芳 @yo4_taka6ra
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