イン・ザ・ブルー

@thispen

東京。海。私。

 私は今日も、オフィスビルから東京へと漕ぎ出す。

 空のポリタンクに木の板を取り付けただけのいかだは、帆をビル風に膨らませて、海水に浸かったビルの間を進みだした。櫂を手繰り進路を調整する。


 人という支配者を失い、役目を終え、果てに水没したこの都市は静かに佇んでいる。

 東京は、資本主義の舞台から、生態系の舞台に取って代わった。家の住人は人から魚に。アスファルトの道路は藻に覆われ、高級車には貝が住み着き、線路沿いやビルにかけられた看板には蔦が絡みついている。クリニックに漫画喫茶、パチスロに貸金業者。かろうじてまだ読めるけど、派手な彩色も誇張気味の宣伝文句も、今では虚しさが強調されるだけだった。


 海上には、段ボールや空き缶、服に文房具など、様々な物が浮かんでいる。運がいいと、こんな風に有名なブランド物のコートが浮かんでいることもある。私はそれを櫂ですくい上げて、筏に固定した籠に入れた。冷え込む秋と冬に備えて、防寒具はなるべく集めておきたかった。


 近くにペットボトルが流れてきて手で拾う。キャップを外し、まだ少し残っていた水を喉に流しこむ。見上げた私の視界を、ビルからビルへ飛び渡る鳥が横切った。


 それを見て、もう何年も前に他県に引っ越していったれんを思い出す。私はなんとかこうして生きているけど、彼もまだ生きているだろうか。それとも大多数の人たちと同じく、あの恐ろしい病に死んでしまっただろうか。

 もう、確かめようのないことだった。


 ビルから約20分こぎ続けて、ようやく目的地の中学校に到着する。4階の窓枠に手をかけて上がり、窓枠と筏を綱で繋ぎとめる。

 何となくチョークを手に取った私は、黒板に思いつくままに適当に数式を書いて、私の中学生の頃の席、窓際の一番後ろに座った。

 ピンと右手を挙げ、私は言う。


「y=3x+8とy=2x+1の交点の座標は、(―7,―13)です」


 さざ波だけが響く教室に、何やってるんだろ私、と笑う。懐かしく感じるかなと思ってやってみたけど、あまりそのような感慨は湧いてこなかった。

 まあ、私はセーラー服どころか水着にシャツなんて恰好だし、教室の床は水浸しで、さらに蟹やヒトデが住み着いているなんて状況。懐かしめないのも無理はないか。


「ねえ、蓮」


 かつての隣の彼の席にそう問いかけてみても、「そうかもしれないね」なんて、あの気だるげな返答はもちろんない。「もっとはきはきしなさいよ」なんて彼に言ったこともあるけど、今となってはあの声が愛おしかった。


 中学生のように机にもたれかかるようにして少し寝て、休憩を取ってから、私は作業に取り掛かった。

 シャツを脱ぎ、ロッカーから水中眼鏡とダンベルを詰めたリュックを取り出して背負い、蓮の机の上に放ったままだったスコップを手に取り、筏に乗り込んだ。目印とした赤いポリタンク目指して櫂を漕ぐ。


「紐はほどけてないかな……」


 海中の木に繋がっている、ポリタンクに結び付けられた紐を引っ張り、抵抗があるのを確認する。そして、筏をその木の近くに寄せる。

 リュックから水中眼鏡を取り出して装着し、一つ深呼吸をする。肺を新鮮な空気が満たし、私は水中に身を投じた。


 バシャッと音をたてて、私の体は海水に包み込まれる。少し口を開くと、塩辛くて生臭い海水が舌に触れた。まぶたを開く。水中眼鏡越しに私の両目は、水没した母校を映した。海底の校庭に向かって、私は沈んでいく。


 もう何回目になるのだろう。中学時代の友人である蓮と埋めたタイムカプセルを掘り出すために、こうして潜水するのは。

 お互い20歳になるその年、二人で掘り起こそうと約束したけれど、その前に世界は疫病の蔓延や大規模な気候変動で、ご覧のありさまとなってしまった。

 それでも約束を憶えていた私は、なんだかんだ生きのびてついに20歳になった今、一人ででも掘り起こすために何度もここに通っている。

 もはやそれは、私の人生と同化していた。


 しかし、どこに埋めたのか。木の根元に埋めた。それは憶えている。しかし、どの木だったかは記憶になかった。この学校の校庭には何十本も木が植わっているので、探すのにかなり骨が折れるのだ。

 

 海底に足が付き、リュックの重さで後ろに倒れないよう気を付けながら歩き、昨日の作業場に辿り着く。

 東京の青く薄暗い海底で、私は木の根元に向けて一人スコップを振るう。掘り出された土と砂が辺りに広がる。黄土色のその霧を払いながら、私はまたスコップを地面に突き立てる。蓮との思い出を掘り当てるため、『過去』の採掘作業に没頭する。


 十回ほど土を掘り出した辺りで息が苦しくなり、バッグを降ろし、浮上する。タンクが使えればとつくづく思う。しかし、使い方はわからないし、手入れされないままに長い時間が経った今でも安全に使用できるのかは疑問だ。


 潜水、バッグを背負い直して地面を掘り、息苦しくなったら浮上。それを何十セットか繰り返して疲れ切った私は、筏の上で寝そべった。波が揺り籠のように筏を揺らし、潮風が肌を濡らす海水を心地よく冷やすものだから、眠気に誘われる。


「……今日は、そろそろ帰ろうかな」



〇〇〇



 帰り道、眼下にコンビニが見えて、食材を調達しようと、私は近くの高層マンションの一室にお邪魔した。幸い窓に鍵はかかっていなかったので、強盗まがいの真似をする必要はなかった。まあ、したとしても咎める人は誰もいないんだけれども。


 懐中電灯を拝借し、それを厳重に何枚もの透明な袋で密閉した。それと大きめの手提げバッグを手にして、私はコンビニ目がけて潜った。

 開きっぱなしのガラスドアから入店。懐中電灯で棚を照らしながら、お目当ての商品を探す。ふわふわと浮かぶ、とうの昔に消費期限が切れた弁当類やふやけた雑誌類を手で除けながら、飲めそうな飲料と乾麺、それと缶詰を袋に入れるだけ入れて、マンションに戻る。


 収穫物をマホガニー材のテーブルの上に全部出してから、再びコンビニへ。先ほどと同じようなラインナップの商品と近くを泳いでいた小魚を袋に入れて海上に上がると、コンビニには並ばない、前からの私のお目当ての物が浮かんでいた。


「あっ、ボート!」


 何とも幸運なことに、ボートが一隻近くに浮んでいた。ついこの前浸水させてしまったところでちょうど欲しかったのだ。

 ボートの上に荷物を放って、泳いでボートをマンションにまで押し運ぶ。延長コードでベランダの手すりとボートをしっかり繋ぎ合わせた。


 コンビニでの収穫物をボートに積みながら、これならもうちょっと積み込めそうだぞと、私は泥棒のように部屋を探ったが、結局食料も水も期待していたほどには見つけられなかった。

 しかし、代わりに多く見つかったものがある。


「……化粧ねえ。もう何年やってないんだろう」


 かつてのこの家の主は女優か何かかと思えるほどに化粧用品や洋服類が多く見つかった。もちろん生存のための必需品ではなかったけれども、せっかくだからと両方ともスーツケースいっぱいに詰め込んで、持っていくことにした。


 水上マーケットの商人のようにボートいっぱいに荷物を積み込んだ私は、ボートと筏をカーテンロープで繋いだ。その頃にはもう夕暮れで、空も海も都市もオレンジに染まっていた。

 ボートに乗り込んで、私はゆっくりと帰路を辿った。



〇〇〇



 居住地としているオフィスビルの前に着き、ボートと筏を係留した。濡れたシャツを脱ぎ捨て、タオルでさっと体を拭き、乾いたシャツを羽織る。


 衣料品と化粧品の入ったスーツケースを、特大サイズのウォークインクローゼットとして使用している同階の会議室に。食料品を食糧庫として使用している最上階の社長室に運ぶ。その際に缶詰、カップ面、今日捕まえた魚、ペットボトル飲料などを段ボール箱に入れて持ち、屋上へ向かった。


 屋上からは水没した東京が一望できる。ここの景色はかなり気に入っていて、中学校付近に引っ越そうとは思わない理由の一つだ。地上の明かりがさっぱり消えて、空には無数の星と月が誇らしげに輝いている。


 乾かしておいた木材をいくつか手に取り、まとめてライターで火をつけた。木材は漂流物、ライターは近くのマンションの一室に灰皿の横に置いてあったのを失敬した。


 フライパンに今日収穫した焼き鳥缶をあける。そのフライパンをたき火の上にかざして焼き鳥を炙り、皿に移す。ペットボトルを一本あけ、水をやかんに注いで沸騰させ、カップ麺に注ぐ。取ってきた魚は鱗を取って、鉄の串に刺して丸焼きにする。

 立ち上がり、物干し竿にかかっている大きな海藻を鋏で切る。フリーズドライの味噌汁を入れた鍋に一口サイズに切ったそれを放り込んで、余った熱湯を注ぐ。

 焼き鳥、焼き魚、カップ麺に海藻味噌汁。以上が私の今晩のディナーだ。


 ゴムみたいに硬い海藻を噛みちぎりながら、ふと思う。こんな生活で、私はいつまで生きていけるのだろうか。別に長生きしようとも思わないけど、蓮と埋めたタイムカプセルを掘り出すまでは死にたくはなかった。

 ——まあ逆を返せば、タイムカプセルさえ掘り出せば、後はいつ死んだっていいってことだ。私ひとり、こんな場所で長生きしたって仕方ない。それまでは食料も水も十二分にもつだろう。


 食事を終え、手すりにもたれながら都市と海を眺めた。昼間は深い青に染められていた海は、墨汁を垂らしたように真っ暗に染まっている。一度潜ったら、もう戻ってこれないような気がして、恐ろしく感じる。


 そして、結局こっちに戻ってこなかった蓮のことを思い出して、海に問いかける。


「ねえ、私は君のことが好きだったけど、君は私をどう思っていたのかな……」


 もちろん、返答はない。

 なぜかその沈黙が、彼の沈黙と重なる。

 道理が通らないとはわかっている。幻影としての彼が、私に干渉してくれることなんてないことも。しかし、「どうも思わないよ」と言われているようでつい腹を立ててしまい、「なら私は私で好きにやるわ」と、思い立って下の階に降りた。


 事務机とパソコンが並ぶオフィスの一室で私は水着を脱いだ。贅沢に2Lサイズのペットボトル水丸々一本使って、体中の潮を流し落とす。そして、数カ月ぶりの下着を身につけて、今日訪れたマンションの一室で見つけた薄桃色のドレスを着た。ガラスに薄っすらと映った着飾った私は、背後の滅びた都市とのコントラストでひどく現実離れしているように見えた。


 会議室に入り、持ち帰ったスーツケースを開いた。埃の積もった大きな机の上に、化粧用品を並べていく。ファンデーションに口紅。それに化粧水とパウダー。それと——

 ふと手が止まって、私は苦笑した。見せる相手もいないというのに、いったい私はなぜこんなことを? 普段、海水に浸かった肌を真水で洗いもせずに寝るような女が、今さら化粧をするなんて、と。

 そんな自嘲的な笑みを浮かべながらも、私はきっちり化粧を施した。学生時代に覚えたやり方だったけど、我ながらうまくできたのではないかと思う。ランプの中のロウソクの灯が照らす私の顔は、つい数分前とはまるで別人だった。


 白いハイヒールを履いて、リノリウムの階段を上がる。履き慣れない靴に、私は何度か転びそうになる。その度に自分が滑稽に思えて笑う。今日はよく笑う一日だ。

 社員食堂に入って、丸いテーブルの上にぶちまけられた無数のCDを漁る。その中の目に留まった一枚とCDプレイヤーを手に取り、屋上へと再び向かった。

 小机の上にCDプレイヤーをのせ、電源をつけてCDを挿入する。そして、穏やかなピアノのメロディーが流れ出した。

 

 クロード・ドビュッシーの<月光>だ。


 舞台はオフィスビルの屋上という飾り気のない場所だけど、私は踊った。ただ思いつくままに手を、腕を、足を動かして踊った。薄桃色のドレスは、ビル風と潮風に揺らめき、膨らみ、まるで蓮の花のようだった。夜空に散りばめられた星々、波打つ海面とビルの割れた窓ガラスが乱反射する月光が、ささやかな照明として私を照らす。


 曲が終わり、静寂が訪れる。水没した東京に向けて、ドレスをつまんで一つお辞儀をする。

 

 誰に見せるでもない、私の私による私のための踊りだった。



〇〇〇



 今日も私は校庭へと潜る。

 遠くの高架下をくぐる魚群を横目に、海底に降り立つ。昨日とは別の木の根元に向けて、スコップを振るう。巻き上がる土に、周囲の小魚が逃げていく。

 そして、もう何百、いや何千と振るったスコップが、ついに地面の下の硬い何かにぶつかる。


(これは……!)


 スコップを放り出して、手で地面を掘り出す。そして、見覚えのあるアルミの箱が顔をのぞかした。

 リュックを捨て、我が子のようにその箱を胸に抱いてボートに戻る。

 さっそく蓋を開けると、かなり厳重に閉めていたのか、泥水で多少汚れているぐらいで、中身は思っていたよりも無事だった。20歳の自分に宛てた手紙や当時使っていた文房具。それに私と蓮が写った写真などが入っていた。


 中身を検めるたびに、懐かしさに甘酸っぱいような気持ちになる。しかし、それと同じくらい——いや、それ以上に「これで終わりなのか」という苦い思いも湧いてくるようだった。


 そして、20歳になった相手に宛てた手紙というのも見つかった。私が蓮に宛てた手紙には、青臭い言葉で蓮への告白文が書かれていた。恥ずかしさに、胸をかきむしりたくなるような気持ちになる。

 腹いせのように、さて蓮のやつは私にどんな手紙を残したのかなと、蓮の私宛ての手紙を探す。しかし、見当たらない。すると、箱の隅にまだ何かがあるのを見つけ、何かと思って取り出す。


「……石?」


 別にきれいでも何でもないどこにでもあるような石だ。特徴といえば、少し平たいことぐらいだろうか。サイズは片手で握り包めるくらい。ふと、その表面に油性ペンで小さく何かが書かれてあるのに気付く。

 目を凝らすと、『千世ちよに』と書かれている。私の名前だ。

 紙にではなく、石に書くなんて、ひねくれものの彼らしいと笑って、何が書いてあるのか見てみようとした。


 ——しかし、寸前で石をひっくり返そうとしていた手が止まる。


 そこに書いてあることを読めば、何らかの感慨深さが味わえることには違いないだろう。

 でも……その後は? 

 目的を遂げ、私の人生はそこで『終わって』しまうのでは?

 タイムカプセルの中身を完全に知ってしまった私は、『ただ』生きていくことができるのだろうか……


「本当は、私は……」


 彼が何を書いたのかを見ないまま、しばらく考えて、私は一つの決心をした。


 ボートの上で大きく振りかぶって、遠くへ向かって石を放り投げた。ぽちゃんと音をたて、石は海底の校庭へと沈んでいく。

 波紋が収まるまで見届けてから、私は教室にリュックとスコップを放り込み、ボートを漕いで校門の辺りから学校の外へ出た。

 少し振り返って、石が落ちた辺りを見ながら、私は言う。


「バイバイ、蓮。また来るよ」


 ——さて、今夜はどのドレスを着よう?

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