心配性、○○をする。

亀虫

第1話 心配性、睡眠をとる。

 僕は今、とてつもなく不安な気持ちに駆られている。


 明日、会社で大事なプレゼンがある。もしかしたら今後の自分の評価に大きく響くかもしれない、大事なプレゼンだ。新入社員の僕にとっては初めてのプレゼンで、とても緊張している。だが失敗はできない。第一印象は大事なのだ。もし失敗したら「使えない社員」の烙印を押されてしまう可能性がある。


 だからしっかりと関連知識を勉強した。スライドを準備をして、それをどう発表していくか考えた。発表の練習もした。質問にも答えられるように用意している。後は早く寝て体調を万全に整えておくだけだ。しかし、どうしても心配で心配でたまらない。何故なら、僕は心配性だからだ。


 心配性は、どんなに事前準備が万全であろうと決して安心することはない。予期せぬハプニング。これが、僕の一番恐れていることだ。


 発表中に噛んでしまわないだろうか。何度も確認して万全だと思っていた僕のスライドに万が一抜け穴があって、それを上司に指摘されたりしないだろうか。途中で急にお腹が痛くなってトイレに駆け込む羽目になるのではないか。発表の間、ずっとズボンのチャックが全開なことに気づかずに喋り続け、後からクスクスと聴衆に笑われたりしないだろうか……などと、あらゆるネガティブな可能性を想像し、心配してしまうのである。

 失敗をしないように気を付けているつもりだが、人間は抜けている生き物だ。それらを防ぐ絶対の方法は存在しない。


 そして、今まさに、気を付けても気を付けてもどうしようもないハプニングが起こっている。

 眠れない……心配が過ぎて、まったく眠れないのだ……! 体調を万全にしておかねばならないのに、そのために必要な「良い睡眠をとる」という行為が妨げられているのである……!


 これではいけない、と何とかして寝る方法を考えてみる。心地よい音楽を聴く、ホットミルクを飲んでみる、一旦起きて筋トレしてからまた布団に戻る……などと色々試してみたが、ますます目が冴えてきて逆効果だ。どうしよう、眠らなきゃ……と集中して考えてみたが、良い方法が思い浮かばない。最後には藁にすがる思いで羊を数えてみることにする。古典的な睡眠導入技法だが、逆にこのようなシンプルな方法が効果があったりするものだ。とにかく、試してみよう。



 そっと目を瞑る。そして、想像する……。昼過ぎ、太陽が程よく出ていて青空が広がる、緑の牧場の風景を……。長い柵が立っていて、その中には何百匹もの羊たちが押し合いへし合いしている……。それぞれがメェー、メェーと、高かったり、低かったりする鳴き声を発し、牧場のBGMを奏でている……。


 僕はその柵の扉になっている部分を一箇所開け、羊を呼ぶ……。おいでおいで……。それに気づいた一匹の羊がこちらを向き、走ってくる……。釣られて、その羊の後をつけるように次々と羊がやってくる……。数を数えなければならないので、僕は興奮する羊を宥めつつ、一匹ずつ柵の外へ誘導していく……。


 羊が一匹。


 一匹目の羊が柵を通過する……。

 メェー、と嬉しそうに鳴きながら、続いて、羊が二匹。羊が三匹。羊が四匹。羊が五匹。何事もなく、羊たちはその柵を通り過ぎていく……。


 彼らは何を思って柵を通るのだろう。その先においしい餌でもあるのだろうか。気持ちいいブラッシングをしてもらえるのだろうか。それとも、彼らにしかわからない快楽が待っているのだろうか。羊を通している僕自身にも、それはわからない。もしかして、この羊たちはこのまま出荷されて……?


 いけない。また余計な心配をしてしまった。また睡眠が遠くなってしまう。妙な考えを振り切って、僕は再び羊を数え始める。

 羊が六匹。羊が七匹。羊が八匹。

 滞りなく通過する羊たち。順調に数を数えられている。このままいけば、快適な眠りの世界もあっという間にやってくることだろう。


 羊が三十匹、羊が三十一匹。


 まだ眠れないが、焦りは禁物。焦燥は徒労の友、眠ることに焦って眠れなくなってしまえば本末転倒。きっとそのうち効果は出てくるはずだ。


 羊が百匹、羊が百一匹。


 少し眠くなってきた気がする。いいぞ。効果が出ている。この調子だ。


 羊が百五十一匹、羊が百五十二匹、羊が百五十三ひ……。


「ねえ、お兄さん」


 百五十三匹目の羊が、突然僕に話しかけてきた。驚いて、僕は数えるのを中断する。流れが止まったので、後に続く羊の群も柵を通るのを一時停止する。


「な、何だい」


 僕はしどろもどろに答えた。


「僕たち、一体どこへ行くの?」


 百五十三匹目の羊が見つめながら聞いてくる。


「あ、いや……どこかなあ」


 僕は羊から目を逸らし、誤魔化すように言う。


「どこなの?」


 羊は再度問う。僕は横目でチラリと様子をみる。なんて綺麗な、汚れのない瞳だろう。きっとまだ幼い子羊だ。絶望を知らない、未来への希望に満ち溢れた、そんな目だ。純粋で、好奇心旺盛。僕が大人になって失ってしまったものを彼は持っている。


「あ……うん、そうだねえ……きっと、楽しいところだよ」


 この先に何があるのかは、僕も知らない。本当に楽しいところかもしれないが、地獄かもしれない。もし地獄だったらと思うと、こう言ってしまうのは気が引ける。もしかしたら希望から絶望へ叩き落としてしまうかもしれない。それでも、「この先は地獄です」なんて言うのは、僕には無理だ。


「何がどう楽しいの?」


 羊はさらに詳しく聞いてくる。僕は言葉に詰まる。素直に知らないと伝えるべきか。そういうと、がっかりするだろうな、と僕は思う。一度「楽しいところだよ」と口を滑らせてしまった。ここでわからないと言うと、その前言を撤回するのと同義。僕は困って、冷や汗をダラダラと垂らし始める。


「どうしたの? 本当は楽しくないの?」


 返答のない僕の様子を見て、急に不安そうな様子で訊ねる。僕は何とかして答えてあげなきゃ、と重い、言葉を無理やり絞り出す。


「えーと……おいしいお食事が……」

「この牧場って、「ほうぼく」なんじゃないの? ごはんなら柵の中にあるよ」

「あー、じゃあブラッシングとか」

「さっきやったばっかりでしょう?」

「あ、そうなの……。う……うーんと、ねえ」


 あと何があるのだろう。牧場の仕事とは。頭をフル回転させて考えるが、思いつかない。そもそも牧場の羊に関する仕事について全くの無知である。この後どうなるのか、見当がつかない。想像できるのは、もう出荷して肉になる未来だけである。


「こら、お兄さんをあまり困らせるんじゃありませんよ」


 百五十三匹目の羊の後ろから優しい声がする。見ると、群れをかき分けて、一匹の大人の羊が立っている。


「あ、お母さん」


 百五十三匹目の羊は嬉しそうに言った。そうか、この羊が彼のお母さんか。羊の違いなんて僕にはわからないが、何となく親子とも似た雰囲気を醸し出している気がする。


「息子がご迷惑をおかけしました」


 そう言って、母親羊は丁寧にお辞儀をする。僕も釣られてお辞儀を返す。


「ほら、早く行くのよ、坊や。後ろがつかえているの」


 母親羊は先程のように優しく、しかし諭すような口調で子羊に言う。


「でも、お兄さん、何も教えてくれないの」


 不満そうに子羊は答える。


「それが普通なのよ。だって、この牧場には羊が何百匹もいるのよ。その羊全員にどこに行くのか説明していたら、それだけで日が暮れちゃうわ。そうでしょう、お兄さん」

「は、はあ……」


 僕は間の抜けた調子で答える。母親羊は再び子羊を見て


「だからね、お兄さんを困らせないように、黙って先へ行きなさい」

 と言う。


「でも~」


 子羊は釈然としない様子だ。それを見かねた母親羊は

「わがまま言わないの!」

 と強めの口調で叱りつける。そして

「そんなに不安なら、ほら、お母さんが先に行くわ。それならいいでしょう?」

 と言って、僕を見る。


「いいわよね、お兄さん」


 僕は何を言っていいかわからず、そのまま無言で頷く。


「じゃあ、通るわよ。ちゃんと数えててね。坊やもちゃんとこっちへ来るのよ」

「お母さん!」

「大丈夫、怖くないから……」


 母親羊は前を向き、一歩ずつ足を踏み出し、柵の向こうへと歩み出す……。僕はただ、その後ろ姿を見送る……。


 羊が百五十……三匹。



 うわあああああああああああああああああああああああああ!!!!


 僕は声にならない叫び声を上げて飛び起きる。何だこれは! 羊を数えているだけなのに、どうしてこうなってしまったのだ! この羊たち、この先どうなってしまうの!? 出荷されてしまうの? 肉になってしまうの? 気になる、心配だ!


 僕は彼らの行く末を案じ、ますます眠れなくなってしまった。寝なきゃいけないのに、余計な心配事がまた増えてしまった! でも寝なきゃいけない、そうだ、仕切り直そう。僕は一匹目から羊のカウントをやり直す……。


 羊を八百九十六匹数えたところで、スマホのアラームが鳴った。起きる予定の時間だ。すでに日は昇っており、明るい。数をしっかり覚えていることからわかる通り、一睡もできなかった。


 しかし、その日のプレゼンは、事前の不安とは何だったのかと思えるほどスムーズにいった。上司からの評判も悪くない。無事に良い結果で終わることができて……心配事が一つ減って、とても清々しい気分だった。



「プレゼンお疲れ様! 初めてなのに上出来だよ。君の初プレゼンを祝して、今夜は俺飲みに行くか! 俺の奢りでな」


 上司は僕の肩を叩きながら言った。


「ありがとうございます是非行かせてください」


 僕はペコリと頭を下げた。


「おお、そうか。それじゃあ近くのジンギスカン屋で飲もうか。美味いぞ」

「ジンギスカン……」

「嫌いか?」

「い、いえ……大好きです。ありがとうございます」


 ジンギスカン……羊肉。僕は昨晩の羊を思い出し、少し複雑な思いがした。もしかしたら、肉になってしまった羊たちにも、あのようなやりとりがあったのかもしれない。そう思うと、何となく心配な気持ちになっていく。


 あの後彼らは本当に肉になってしまったのだろうか? 僕の頭の中だけに存在したあの羊たちは、一体どうなってしまったのだろうか? 僕が知らないのだから、真相は闇の中である。


 羊の行方は誰も知らない。

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心配性、○○をする。 亀虫 @kame_mushi

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