【三】

「ただいまー」


 飲み物がなくなったのをしお絵奈えな芽依めいと別れ、家に帰った。


(芽依さん、紅茶全然飲んでなかったけどのどかわいてなかったのかな)


 玄関の扉を開けると、あんずが飛びかからんばかりの勢いで歓迎かんげいしてくれる。けれど、普段はすぐに返ってくる母からの「おかえり」がない。

 杏を落ちつかせてリビングに向かった絵奈は、わずかに開いた扉の向こうから聞こえてくる声に息をひそめた。


「そうよ、さっき電話があって。仲よくしてくれてたのに連絡が遅くなってごめんなさい、って何事なにごとかと思ったわ」


 母は電話中だった。初めて耳にする張り詰めた声色こわいろに足がすくむ。


「やりとりなんてあるわけないじゃない。斉樹いつきのこと狙ってて大変だったの知ってるでしょ? あの子が大学卒業して実家に帰るって知ったとき、どれだけほっとしたことか」


 いったい何の話だろう。


「ちゃんとお悔やみ申しあげます、って言ったわよ。でも本当に気持ち悪い。あちらのお母さんが事故の前日にもわたしのネットの日記を見せてもらったばかりだった、って言うの。SNSのことだと思うけど」


 お悔やみ。事故。誰か亡くなったのだろうか?


「パート始めてからは更新なんてしてないわ。あちらに言われて、そういえばやってたな、って思いだしたくらいだもの」


 母がSNSを使っていたなんて、絵奈は全然知らなかった。


「アカウント? 教えたりするわけないじゃない。たしかに本名で登録してるし探せば見つけられるだろうけど、絵奈が生まれてから始めたものよ? えんなんてとっくに切れてると思ってた子から見張られてるなんて思わないわよ。うん。そうね。すぐに退会する」


 扉の向こうが静かになる。絵奈は深呼吸をひとつしてリビングに入った。

 部屋の隅にあるノートパソコンに向かっていた母はびくりと肩を震わせて振りかえると、


「――絵奈、帰ったのね。ごめん、ママちょっとやることがあって」


 すぐに頭を戻してしまう。パソコンの画面には有名なSNSサイトが映っていた。


「パスワード再設定しなきゃ、もう……」


 母はせわしなく手を動かしている。その姿に得体えたいの知れない不安を感じながら、絵奈は自分のスマートフォンを操作した。 

 SNSサイトにアクセスし母の名前を検索する。漢字に続いて調べたローマ字表記で、母のページは見つかった。

 最後の更新は一年半ほど前だ。並んだ記事につづられているのは何気ない日常で、時折写真も添えられている。たいていは物だけれど、まれに母や父やその友人、そして絵奈が写っているものもあった。


(勝手に載せて――)


 怒りかけていた絵奈の指が、何枚目かの人物写真でとまる。

 それは先ほども見た、小学校の卒業式の日の光景だった。芽依が持っていたものとは違い、記憶どおり中心に絵奈、右側に絵奈の肩を抱く母、そして左側にまっすぐ立った父と、三人の姿が収まっている。その写真をタップして――ひゅ、と絵奈の喉が鳴った。

 拡大表示した写真では父の姿が画面から切れてしまう。その画は芽依が「送ってもらった」と見せてくれた画像そのものだった。


「ねえ、ママ」


 嫌な予感を打ち消すように、絵奈は芽依からもらったクッキーの袋をかかげる。約束を破った。


「これ、もらったの。芽依さん――平原ひらはら芽依さんに」


「絵奈まで何言ってるの!?」


 勢いよく振り向いた母が叫ぶ。


「そんなことあるわけないじゃない、あの子、一週間前に死んでるのよ!?」


 払いのけられた袋は弾け飛んで、クッキーが床のうえに散乱さんらんする。杏が一枚をさっとくわえて走っていく。


「だめ、杏!」


 絵奈は慌てて手を伸ばす。間に合わない。クッキーを飲みこんだ杏が満足げに舌を覗かせた。



 その日の深夜二時ごろ。ベッドの中で眠れずにいた絵奈は柔らかな、けれどぞっとするほど底意地そこいじが悪く響く声を聞いた。


『生きてたときの名前を名乗るのが現世に行くための条件だなんてが悪いとは思ったけど、残念。ワンちゃんじゃなくて斉樹くんと綾音あやねを連れていきたかったのに。こっちの世界で今度こそ、わたしが斉樹くんに選ばれて幸せに暮らすところを、綾音に見せてあげるはずだったのに』

 

 飛び起きてケージに走ると杏は動かなくなっていた。毒を盛られたに違いないと言って聞かない母を納得させるため、遺体は専門の病院に送られた。

 けれど、毒物は検出されなかった。


     ◆


 ヨモツヘグイというらしい。

 漢字で書くと黄泉竈食ひ。黄泉よみはあの世のことで、は煮炊きに使うかまどのこと。

 異界いかいの火でつくられたものを食べてしまったが最後、その者はあちらの世界の住人となって現世には二度と戻れない、という言い伝えだ。

 絵奈はこう思っている。

 芽依が差しだしたクッキーは黄泉でつくられ、生者せいじゃを道連れにしようするものだった、と。

 

     ◆


 平原芽依は大学で絵奈の父と出会い、恋をした。父にはすでに母という恋人がいたにもかかわらず、在学中ずっと父を奪おうとしていたそうだ。

 当然、大学卒業後の芽依と絵奈の両親とに交流はない。

 ただし、芽依は母のSNSを見つけだして監視かんしを続けていた。

 父が芽依に心を動かされたことはなかったというけれど、芽依はあきらめなかったのだ。父と母が結婚していようが、絵奈が生まれようが関係なく、父を思い続けた。

 そうしてSNSから得た情報だけでつむいだ嘘の物語で絵奈をだまし、利用して、一家を――いや、父と母を連れていこうとした。

 芽依の執念しゅうねんはひとの命こそ奪いはしなかったものの、確実に絵奈たちをらえている。

 


 大学時代について話してくれたとき、父はすっかりやつれきっていた。自分も含め、家族の命を狙われた母はおびえ、こと食べるものに関しては常軌じょうきいっしたこだわりをみせるようになって、それまでの暮らしは壊れてしまった。

 絵奈にしても父にしても、いまだに食事には苦労している。自炊じすいしたもの以外信じられない。

 母の干渉かんしょうを嫌い、高校を卒業した絵奈は実家から遠い大学に進学した。

 絵奈の願いは少しでも早く新しい家庭を持つこと、芽依の呪いが残る家族から離れることだ。

 だから友人関係には目もくれず、恋人の心を掴み続けることに腐心ふしんしている。


「でも、もし心変わりされちゃったらどうしよう?」


 ひとり暮らしの部屋に帰りついた絵奈は、クローゼットの奥に手を伸ばす。

 小さな缶に入っているのは一枚のクッキーだ。

 あの日、床に散らばったクッキーは杏が食べてしまったものを除いて、すべて処分された。けれど片づけながら一枚だけ、絵奈はポケットにしのばせてしまったのだ。理由は自分でもわからない。


 黄泉の国のクッキーはいまもいたまず、できたてのような香りを放ち続けている。それはとても甘く、甘く――。

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黄泉竈食ひ《ヨモツヘグイ》 つばきの。 @uminomono09mt

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