【二】

「絵奈ちゃん、絵奈ちゃんじゃない?」


 校門を出て一分と歩いていないところで、柔らかな声に呼びとめられる。絵奈を見て小首をかしげているのは、母と同年代くらいの女の人だ。日傘の下で、胸まである波うつ髪と、足首を隠すスカートの裾が揺れていた。

 七月上旬の暑い日だった。もう夕方に差しかかろうかという時刻なのに、太陽はまだ、セーラー服の袖から伸びた腕を刺すように照りつけていた。

 母はよく学生時代の友人を家に招いてお茶をする。パートに出るようになってその回数は減ったけれど、幼いころから見知らぬ大人と接することに慣れている絵奈の顔には、反射的に笑みが浮かんだ。


「こんにちは。えっと……ママのお友達ですか?」

「こんにちは。そう。わたし平原ひらはら芽依めいっていうんだけど、おぼえてないかな? 斉樹いつきくん――パパのことも知ってるわ。絵奈ちゃんがちっちゃいときは、一緒に遊んだこともあるのよ」


 記憶を探るけれど、思いだせない。


「ごめんなさい、ママ、友達が多いから」

「気にしないで。綾音あやね、昔から社交的だものね。それに、絵奈ちゃんが学校に行きだしてからは会えてなかったし」


 だったら、どうして下校するたくさんの中学生の中から絵奈を見つけることができたのだろう?

 絵奈の疑問に答えるように、芽依はとうでできたかばんからスマートフォンを取りだした。さっと操作して絵奈のほうに向けてくれる。


「おしゃべりしながら綾音が写真を見せてくれるの。ときどき送ってくれたりもするから、絵奈ちゃんのことはよく知ってるのよ」

「えー、やだ、恥ずかしい! ママったら勝手なことして!」


 画面を覗きこんだ絵奈は思わず両手で顔をおおった。

 そこに写っているのは幼い絵奈だ。小学校の卒業式の日だとすぐにわかった。自分の名前が筆書きされた卒業証書を手に、絵奈はほこらしげな笑みを浮かべている。絵奈の肩を抱く母も笑顔だ。式に参加していた父が写っていないところをみると、撮ってくれたのが父なのだろう。


「昔の写真でごめんなさい、すぐに呼びだせたのがこれだったものだから」


 芽依が困ったように笑うので絵奈は慌てて首を振った。


「怒ってるわけじゃないです」


 立ちどまったふたりの横を、下校する生徒たちがけるように通り過ぎていく。


「よかったらそこの公園でもうちょっとお話ししない? ここだと邪魔になっちゃうし、絵奈ちゃん暑いでしょ。せっかく会えたんだし、どうかな?」


 断る理由はない。誘われるがまま、絵奈は芽依とふたりで近くの公園に移動した。



 大きな木々の陰になったベンチに腰かけて、芽依が自動販売機で買ってくれた炭酸飲料を飲む。喉を通って胃へとすべり落ちていく冷たさと刺激に、絵奈はぷは、と息をついた。

 一方、母とは別の友人を訪ねた帰りだという芽依は、冷たい紅茶の缶を両手で包んで、おっとりと微笑ほほえんでいる。絵奈に声をかけてきたのが不思議なくらい、物静かな印象のひとだった。


「学校どう?」


 目下もっか、絵奈にとって最大の関心事かんしんじは来年に迫った高校受験だ。そう話すと芽依は、


「あんなに小さかった絵奈ちゃんがもう受験生だなんてびっくりしちゃう」


 感慨かんがい深そうな顔を見せ、それからゆっくり首を傾げた。


「受験生でも、夏休みは家族で旅行?」


 さすが母の友人だけあってよく知っている。夏休みに両親と絵奈――去年からは、新しく家族に加わったトイプードルのあんずも連れて――の三人で旅行するのは絵奈が幼いころから続く船戸家の年中行事ねんちゅうぎょうじだ。


「前からうすうす、わたしはパパとママが行きたいところに連れていかれてるだけなんじゃないかな、って思ってたんですけど、受験生でもお構いなしだなんて。わたし、間違いなく振り回されてるだけですよね」


 高校時代に交際を始め、同じ大学での生活をて地元に戻った両親は、社会人二年目に結婚した。それから十五年以上がつというのに、ふたりはいまでも恋人同士のような雰囲気をただよわせている。絵奈の記憶には両親が喧嘩けんかしているところはおろか、相手への不満をこぼしている姿すらない。

 芽依には大げさなくらい唇を尖らせてみせながらも、そんな父と母は、内心絵奈の自慢だった。


「わたしが綾音たちと知り合ったときにはもう、ふたりは驚くほど仲がよかったのよ」

「ママからも、うちに来るママのお友達からも聞かされます。パパは、娘相手にやめてくれ、って困った顔してますけど」


 言葉とは裏腹に絵奈の声は明るく弾んだ。


「それ言ってる斉樹くんの顔が見える気がする。関係がずーっと続いてるなんて、すごいことだよ」


 微笑みは変わらないのに、芽依の物言いはどこか寂しさを感じさせる。絵奈の視線は、自然と芽依の手に吸い寄せられた。缶を持つ左手薬指に指輪はない。


(あんまりはしゃいじゃいけないのかも)


 絵奈の遠慮を察したのか、芽依は、そうだ、とつぶやくと開けたきり口をつけていない紅茶の缶を脇に置く。かばんの中から取りだしたのは、両手に乗るくらいの大きさをした透明の袋だった。一口大ひとくちだいのクッキーが詰まっている。


「今日のお茶会用につくったんだけど、友達がひとり来られなくなっちゃったの。その子にあげるはずだったもので悪いんだけど、よかったら綾音と――斉樹くんとも食べて?」

「いいんですか?」

「もちろん。でも、絵奈ちゃんのお友達にもらったことにしてくれるかな? わたしに会ったことは内緒にして」

「どうしてですか?」

「絵奈ちゃんみたいに上手じゃないから恥ずかしいの。それに今度綾音と会ったとき、絵奈ちゃんに会ったのよ、って驚かせたいし」

 

 芽依は、絵奈がお菓子づくりを得意としていたことまで知っているらしい。


「わたしがつくったもの、食べたことあるんですね?」

「パウンドケーキもドーナツもおいしかったわ。お店のみたいだった」


 聞けば聞くほど母と芽依は親密しんみつなようで、おぼえていないことが申し訳ない。

 けれど、められるとついついほおがゆるんでしまう。


「そう言ってもらえるとつくるの再開したくなります」

「再開?」


 芽依が驚いたように目を見開く。つられて絵奈も眉を上げた。


「ママから聞いてないですか? ちょうど一年くらい前なんですけど」


 その日、スポンジを焼こうとしていた絵奈は薄力粉の袋を開け――悲鳴を上げて袋を放りだした。白い小麦粉の中に無数の茶色い虫がわいていたからだ。以来、怖くて小麦粉を使うお菓子はつくれずにいる。

 話を聞いた芽依は何度か唇を空回からまわりさせて、それからようやく口にした。


「――わたし虫がすごく苦手だから。綾音、言えなかったのかも」

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