間話:春と剣(後)

「――グリュンヴェルム様ぁッ!!」


 その絶叫が自分の喉から出たものだと気づくまでに、少しの時間がかかった。息をするたびに心臓が痛む。汗を含んで濡れた髪は上腕に張りついていた。もうずいぶんと伸びた


 主が“春が宿ったようだ”と褒めてくれた髪の色も――それどころか今、自分がいる場所のこともわからなかった。瞼を走る傷が鈍く痛む。リエンドーラが最後に見た景色は今でも、あの悲劇の夜闇から変わっていない。


「リエンドーラ。起きたのかい」

「!」


 女にしては低く、しかし海のような深い優しさを含んだ声。リエンドーラがゆっくりと上体を起こす間に、女はてきぱきと現状説明をしてくれる。視力を失った者にとってそれがどんなに安心することかを心得ているのだ。


「お前は今、作業場の長椅子に横になっているよ。レイピアは右手を伸ばせば届く位置にある。修練着はあたしが替えたが……その様子じゃ、また着替えたほうが良さそうだね」


 低い声が空気を震わせる。彼女独特の笑い方だ。子供が聞けば少し怖がるかもしれないが、リエンドーラは感謝を込めて桃色の頭を下げた。


「ありがとう、ございます……。ニアケッタさん」


 何もかもを失ったあの夜。傷だらけになりながらも何とか森を抜けた自分を拾ってくれたのが、このアトリエの主人――“黒緋の魔女”、ニアケッタだった。ちらちらと自分の瞼に映っていた光は、彼女の強い魔力だったらしい。


「まだ態度がカタいねえ。兵士としての礼節ってヤツか……それとも、“魔女”の肩書きが怖いかい?」

「……」


 町の巡回もしていたので当然このアトリエの存在は知っていたものの、たしか住んでいたのは老エルフの服職人がひとりだったはずだ。しかし目の前の女の声は明らかに若い。なんらかの魔法で、普段は本来の姿を隠しているのだろう。


「それより、また地下でぶっ倒れるまで剣を振っていたね。あの部屋はお前のためにこしらえたものだが、もう切り刻むものが残ってないってもんだよ。全く」

「……身体を動かしていないと、腕が鈍ります」

「いくら凄腕の元兵士だからっていっても、一晩中何も飲まず食わずでなんて無謀というものだろ。ほら、両手を前に。少し熱いよ」


 素直に差し出した手の指先に、優しく陶器が触れる。マグカップを引き寄せると、ハーブの香りが鼻を掠めた。


「お前を拾ってから、もうふた月だ。そろそろ、悪い夢を見ないでも眠れる頃だと思うんだがね」

「……夢ではないんです。流れてくるのは、これまでの城の日々と……あの夜のことばかりで」

「そうかい……。映すものをなくした目が、溜め込んだ“画”を流し続けてるのかねえ。むごいもんだ」


 同じものを飲んでいるのだろう、少し離れたところから静かに飲み物をすする音が聞こえる。リエンドーラはそちらに顔を向け、そっと両目に魔力を込めてみた。


「痛ッ!! あっ、あつっ!」

「おやまあ、何してるんだい。動かず待ってな。無理に服を脱ぐんじゃないよ」


 目に走った痛みよりも、今はハーブティーを被った腕のほうが一大事だった。カップは落とすまいと踏ん張ったものの、腕を伝う熱湯が服に広がってさらに熱い。ニアケッタが傍にしゃがみ込む気配がし、すぐに清涼な魔力が辺りに広がった。彼女の魔法は多岐に渡るが、中でも水の扱いは見事なものだった。


「ああ、せっかく身体中の傷が落ち着いてきたってのに、またひとつ増えちまったね。“魔法眼”の修練は、完全に身体が癒えてからだと言ったろ?」

「す、すみません……」


 弾けることのない水の膜に腕を冷やされ、火傷の痛みはすぐに引いた。カップを引き取り濡れた服を拭いてくれるニアケッタからは、不思議な香が漂ってくる。


「でも、私に残されたのは剣とこの眼だけです。早く会得しなければ……。グリュンヴェルム様はきっと、私がこの眼で活路を見出すことを期待されている」

「そうかねえ? アイツはいちいちそんな小難しいことを考えないと思うよ。あたしが魔法における世界的な発見の話をした時だって、ほとんど寝てたんだから」


 可笑しそうに言う魔女を見上げ、リエンドーラは密かに唇を結んだ。主はいつも姿を隠してこの町に遊びに行くが、ニアケッタとは顔を合わせて話すほど仲が良かったのだという。長年仕えておきながら彼女の存在を教えてくれなかった理由は気になるが、妖精はまた皆そういうものだとも理解していた。彼らは秘密を愛しているのだ。


「魔法眼で見えるようになるものは、魔力の揺らめきだけ。生き物がどこに立っているかくらいは分かるだろうが、それでもお前の目は不便なままだ」

「……」

「見えなくともあの剣さばきは見事だが、まずは日常生活を苦もなくこなせるようになることだよ。そろそろ仕事もしてもらう。あたしの助手からはじめて、いつか魔法衣職人になってもらうからね」

「ですから、私は縫い物などは得意ではないと……」


 自分の主張を遮るように、ソファの端が沈む音がした。決して大きな腰掛けではないところに大人の女が二人も座っているのだ、当然狭い。太ももがぶつかったまま、リエンドーラは不安そうにアトリエ主を見た。見えなくともやはり、話し相手の方を見てしまうものらしい。


「森で道に迷った時、お前ならどうする? 若きエルフよ」

「……引き返します。もしくは、動きません」

「つまらないねえ。あたしなら当然、適当に進むよ――なるべく曲がりくねった、獣道をね」

「!」


 予想もしなかった答えを投げられ、リエンドーラはぽかんと口を開けた。その唇をむにゅとつつかれると同時、知恵者の声が降ってくる。その姿を視認したことはないが、おそらく彼女は背が高い。


「見えない場所にしか、宝物は残っていないものだろ。こんな時だからこそあんたは剣を置いて、別の道をのぞいてみる必要があるのさ」

「私は……」

「このピアス、センスがいいじゃないか。爪も髪も、盲いても毎日手入れを怠っていない。お前には美を愛する才がある。そうだ、あたしの作った薬で、髪に空の色を差すのはどうだ?」


 長い耳に噛ませたピアスをくすぐられ、リエンドーラは頬を赤らめた。兵士は鎧と修練着があれば十分と心得ながらも、町へ赴くたびにそっとブティックの飾り棚をのぞいていたことが見透かされたかのようだ。


「ですが……私は、ヴェール・レムのエルフ警護兵団を任された者です。そろそろ町の住人たちも、城の異常に気づくはず。説明をしなければ」

「あたしが見たところ、城を乗っ取った者たちは現状に満足しているようだよ。昨日も無事に“王”との謁見を終えたという商人が、ホクホク顔で帰ってきた」

「そんな! だってあれは」

「旅人だけじゃない。町の者だってだれひとり、グリュンヴェルムの顔を知らないんだ。どうやってヤツが偽の王だと証明できる? 信頼できる妖精は皆、すでに水晶の中だ」

「……ッ!」


 悔しさに手が震えた。永きに渡りこの国の平和を保ってきたのは誰だと思っているのだ。のんびりと生きているようだが、妖精王の名は軽いものではない。森の恵みを盗もうとする侵入者を排除し、気まぐれな妖精や精霊たちの願いに応え、未来を見据えて森を育てる。それは七色の瞳を持つ彼にしかできない仕事だった。


「厄介なのは王位を欲した者だけじゃない。妖精族以外の介入があったことも明らかだ。嫌な予感がするんだよ……あたしの占いも最近、結果を見るのが憂鬱なくらいさ」


 力ある魔女の占いは、未来予測に等しいという。その力があったからこそ、彼女は行き倒れた自分の場所に導かれたのだとも聞いた。リエンドーラは握り拳を解き、力なくうなだれた。今自分にできることはないのだ。


「でもね、その占いが今朝面白い結果を出したんだよ。やっぱりお前はここで力をつけるべきだとね。そうすれば必ず、本当の春を取り返せる日が来る」

「つまり……少なくとも、近しい日ではないと」

「そうだ。だけど耐えるんだよ。いつかここに、お前に力を貸してくれる者たちが訪れる」

「私に、協力者が……?」

「ああ。その時にお前は――彼らに力を授けることになるだろう、ともな」


 最後の言葉は予想外のもので、リエンドーラは訝しげに眉を寄せた。このような状態になった自分が、来訪者たちに何かを授ける――そんなことがあるだろうか?


「そんなわけでリエンドーラ、お前に今必要なのは時間と隠れ蓑だ。エルフ兵団は城にて長期演習を行なっているというデマを流しておいたが、そろそろ不審に思う者も出てきている。処置が必要だよ」

「ええ……そうでしょうね。物資補給にも帰らず不在となれば、誰かが様子を見に城へ向かうことも考えられます。この町の人は皆、私たちに親切でしたから」

「そうとも。グリュンヴェルムが拓いたこの町に住み着いたのは皆、どこかの地から理由があって流れてきた者たちだからね。他人の事情には干渉しないが、求められたら手を差し伸べることを美徳とする。本当に良い町だよ、ここは」


 誇らしげな女の声に、リエンドーラも頷いた。町の巡回をしているだけでたくさんの明るい声がかけられ、断っても菓子や果物を押しつけられる。常春の国に相応しい、穏やかで親切な人々――自分が守りたいもののひとつだ。


「町にいるからには、必ず人々は……グリュンヴェルム様の民は、私がお護りします」

「そう言うだろうと思ったよ。だから皆には、お前のことを忘れてもらった」

「――え……」


 ソファが軋み、話し相手が立ち上がったことがわかった。遠い国のものと思われる香の匂いが離れていく。リエンドーラも慌てて腰を上げ、彼女のあとを追った。玄関までたどり着くだけだというのに脇腹をテーブルらしきものの角にぶつけ、肩を柱に強打し、髪の毛が何かに挟まる。もどかしく感じながら手を伸ばすと、ようやく冷たい木のドアに触れた。開いている。


 久しぶりの外の空気に鼓動を早めながら、リエンドーラはドアにしがみついたまま不安げに呼びかけた。


「ニアケッタさん? どちらへ……」

「あらぁ、こんにちはニアケッタさん!」

「こんにちはぁーっ!」

「はいはい、こんにちは。良い天気だねえ」


 長耳に飛び込んできた声の持ち主の顔は、すぐに思い浮かべることができた。穏やかな声の女はアリーサ、自分がよく昼食に立ち寄っていた小料理店のおかみだ。可愛らしい声は娘のアネッサ。リエンドーラによく懐いてくれており、大きくなったら兵団に入るのだと張り切っている女の子だ。最後の老婆の声は、姿を変えたニアケッタのものだろう。


 懐かしくさえ感じる声に手を挙げようとした途端、不思議そうな声がリエンドーラの心を射抜いた。


「あら、そちらは? はじめまして、桃色の髪の御方。アリーサと申します。こちらは娘の……」

「フェ・アルンへようこそーっ! あたしたちのお店、ぜったいに来てね。おいしいから!」

「ほほほ。アネッサは商売上手じゃのお」

「な……」


 硬直しているリエンドーラを置いて、老婆がおっとりと話を続ける。


「あれは私の娘のじゃ。遠い国で暮らしとったんじゃが、目に怪我をしての。この地でのんびりさせることにしたんじゃよ。色々と助けておくれな」

「まあ、お気の毒に……。わかりました、町の皆にも伝えておきますわ。これからよろしくね、リュリュシエッタさん」

「なんでも言ってね! リュリュおねえちゃん!」

「……はい。ありがとう、ございます」


 弾むような足音が離れていく。対してリエンドーラの元にやってくる足音は、小さな老婆のよたよたとしたものではなかった。やがて、静かな声がどこか寂しそうに告げる。


「お前が眠っている間に魔法を張り巡らせたことを、許しておくれ。今朝、アネッサを含む子供達のグループが、ひそかに城へ兵団を探しにいくと計画を立てているのを聞いてしまったんだ。子供はこういう時、妙にするどいものだからね」

「……。私や……兵団の皆のことは、すべて忘れられてしまったのですか」


 盲いてもやはり、涙だけは流れる。知らぬ間に頬を伝う水が、風にさらわれていく。震える肩にそっと手が置かれるが、涙が止まらない。


「いいや。お前たちの築いたものはすべて、あたしが責任を持って“霧の奥の小箱”に仕舞ってある。この地に本当の王が戻り、お前たちの名を呼んだその時に――すべてが時を取り戻すだろう」

「……」

「その日までお前の名は“リュリュシエッタ”だ。魔法衣職人の卵であり、あたしの娘。……ったく、まさかこの歳でもう一度子育てする羽目になるとはねえ」

「ニアケッタさん……」


 顔を知らずとも、彼女の優しさは本物だ。夜の森で絶望していた自分を導いてくれたあの光が、彼女がいる場所でわずかに上下しているのが視える。


“せめてお前の美しい瞳が、これからは『まことのもの』を映し続けるよう――”


「グリュンヴェルム様……」


 まだ間に合うのだろうか。

 まだ足掻いていいのだろうか。


 貴方様はこの闇に切り裂かれた瞳に、何を映し続けることを望んだのか。


「……初夏のように暑い。我が主がもたらす温かさとは違う……やはりこれは、偽りの春です」

「そうだね。あたしもどうも気に入らないよ」


 耳を澄ませば、町からたくさんの音が聞こえる。いくつかを忘れてしまった、愛する民たち。それでいい。自分が心の剣を手放さなければ、永遠にこの忠義は折れないのだから。

 


「ニアケッタさん……いえ、お母さん。まずはに、針の持ちかたを教えてください!」



 

<間話:春と剣 完 >



***

リュリュの当時の装備らくがきとちょっとした設定語りなど:

https://kakuyomu.jp/users/fumitobun/news/16818093079330451128

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