間話:春と剣(前)

 己の主がそばに舞い降りると、いつもすぐにわかる。ふわりと春風が吹き、豊かな花々の香りが鼻をくすぐるからだ。


 形の良い唇に自然と咲いた笑みを急いで消し、妖精国ヴェール・レムのエルフ警護兵団を率いる女団長――リエンドーラ・トゥールマンは、銀の鎧に包まれた背を伸ばした。


「グリュンヴェルム様」

『おお、リエンドーラ。帰ったぞー』

「帰ったぞじゃありません。またおひとりでフェ・アルンの町へ?」


 純白の手すりの上で、柔らかな七色の光が踊っている。その中央に見えるのは、自身のレイピアの柄のようにほっそりとした色白の背中だ。大きく開いた薄い衣服の背から伸びる四枚の羽は透き通り、常春の陽光を反射して金剛石ダイヤモンド顔負けの輝きを放っている。


『“虹のふもと亭”の新作甘味が今日からと聞いてなぁ。現店主のひいひいじいさんの時代から儂が贔屓にしている店だ。駆けつけてやるしかねーだろ、これは』

「だとしても、お側付である私を置いて姿をくらまされては困ります。本気で隠れた貴方様を見つけ出すなんて、妖精の血を継いだエルフといえど不可能なことですよ」

『へーいへい。ったく堅苦しいなあ。見ろ、この美しき国のどこに危険なことがあるってんだ!』


 淡く発光する細腕を広げ、妖精王――グリュンヴェルムは、いたずら少年のような顔でにかっと笑んだ。世の理を無視して気まぐれに逆だった黒銀の髪が波打ち、彼の温かな魔力に撫でられた森の木々が微笑むようにして揺れる。


 白眼の少ないその瞳に、決まった色彩が灯ることはない。大妖精と謳われる彼のみが持つ、七色の瞳。リエンドーラが五十年以上の忠誠を捧げてきた主の瞳は、今日も変わらず澄み渡っている。兵団長は結んでいた唇をふっと緩め、大きな赤い瞳を細めて言った。


「もちろん、今日も貴方様の国は惚れ惚れするほどの平和ですとも。おかげで私はこの五十年で一度も、本国への報告書に“異常なし”以外の言葉を綴ったことがありません」

『だーから、そのレイピアを振り回してぇのなら好きにしろと言っとるだろーが。森の若木で試し斬りは許さんがな』

「いいえ。これは貴方様をお護りするための剣ですから。そしてこの身は――」


 ふ、と空気が揺れる。鍛え抜かれた自分の反射神経を凌駕する疾さで、七色の光が眼前に立ち塞がっていた。忙しく上下する羽を携えた主が、白い頬をぷうと膨らませてリエンドーラを睨んでいる。


『どうせ儂の盾になるとか言うんだろ。この

「……それが私の仕事です。ヴァルムヘイルでは価値のなかった私に残された、生きる理由」

『ふん、エルフ共の国は相変わらずだな。こんなにも美しい蕾の、花弁の色も気にならんとは』


 ティースプーンほどの長さしかないほっそりとした腕が伸びてきて、リエンドーラの前髪を優雅に掬う。兵士としては格好がつかないと常々思っていた桃色の髪の下で、女はかあっと頬を薔薇色に染めた。


「お、お戯れを。自分を花だと思ったことなどありません」

『そーかぁ? ま、いつかわかる時が来るだろうよ。少なくとも、儂がこの七色の眼を開けている間はこの国に冬が訪れることはない。いつでも気が済むまで咲き誇ると良い』


 行儀悪く足を組んだまま宙で逆さになり、小さな王はけらけらと笑った。


「……はい。我が偉大なる春よ」


 何度この笑顔に救われてきただろう。エルフとして充分な魔力に恵まれながらも、魔術師としては開花することがなかった自分。唯一身のこなしや剣術には自信があったものの、“知こそ宝”を掲げる祖国が目をかけてくれることはなかった。


 魔力が乏しい者や他種族混じりの“半端者”たちと一緒に祖国を追われ、何人もの仲間を失いながら辿り着いたのがこの地だ。当時は妖精のみによって治められていたこの城で目を覚ました時は、全員が死を覚悟した。エルフと妖精の祖は同じと謳われているが、妖精たちはエルフを仲間とは思っていないというのが通説であったからだ。


“この一団の代表は私です。勝手に国へ踏み入った罰なら、私が……。けれど彼らに罪はないのです”

“はーぁ? お前、儂のこの姿が見えとらんのか?”

“え、ええ……? えっと、あの……”

“うむ。今世紀最大の『かわいい対うつくしい』論争の原点とは、いかにも儂のことだな”

“初耳にございます……”

“つまりだ。そんな慈悲深く美しい儂が、行き倒れていたエルフ共を再び森に転がすわけがねーだろがってこった!”

“⁉︎”


 言葉を失っている薄汚れたエルフの肩に遠慮なく腰掛けた美しき妖精は、薄い唇を完璧な角度で持ち上げて上機嫌に言う。


“特にお前。剣の神に愛されているな? 儂の可愛いペットの毒蔓草たちが、スープにぴったりのみじん切りにされちまった”

“も、申し訳ありません! お仲間とは露知らず――”

“いいさ、切ったら切った分だけ増えるからな。だがちっと無理しすぎたんじゃねえか、武人よ。柔肌が毒アザだらけだぞ。儂が昼寝から起きるのが遅れてたら命はなかった”

“!”


 その言葉に、リエンドーラはハッとして背後の仲間たちを振り返った。皆不安そうな顔をしているが、毒によって四肢を失った者はいない。護りきったのだ。蔓の猛毒によってどんどん腐食していく愛剣の姿を思い出し、身震いする。


“そうそう、お前の剣な。溶けちまったから、今日からはこれを使え”

“は……?”


 意味がわからず呆けていた女の前に、妖精が数人がかりで細長いものを運んでくる。カシャンという軽い音を立てて膝に落とされたのは、柄に黄金の薔薇細工をあしらった世にも美しいレイピアだった。


“こ、これを私に⁉︎ 受け取れません、こんな逸品”

“なァに気にすんな。知り合いの不死鳥からもらったんだが、どうも儂にはなんでな”

“ですが……”

“それに最近、近くに作った町がようやく栄えてきてな。それはいいんだが、たまーに無礼などあほが城にカチ込んでくるから、何本か『長い手』が欲しいと思っていたトコだ。どうだ、お前たち――我が妖精国を護る番人になるつもりがあるか?”

“!”


 空気が熱を帯びる。春だというのに、燃え盛るような魔力の奔流がリエンドーラを包んだ。いつの間にか目の前に浮かんでいる、七色の瞳を持つ存在。剣を運んできた妖精たちは彼よりも低い位置で、皆恭しく頭を垂れている。つま先から髪の毛の一本に至るまでその魔力に圧倒されながらも、不思議と威圧は感じない。


 温かい。

 まるで、大きな腕に抱き締められているかのように。


“妖精王……様”

“グリュンヴェルムだ。まァなに、てきとーにやれ。儂もお前らも、長生きだからな”

“――は!”


 迷うことなく片膝をついたあの日からずっと、この命は主のものとなった。


 兵団を結成し、フェ・アルンの町の治安を任される。どこにも行き場がなかった自分たちにとっては、夢のような仕事だった。祖国は狡猾ともいえるしたたかさでこの機を利用し、妖精国と良好関係を結んだつもりでいる。


 それでも構わなかった。常春の日差しの中で森を見下ろしながら、主がのんびりと大きなクッキーをかじっている――そんな姿を見るのが、リエンドーラにとっての何よりの幸せだった。もちろん脅威に備えての修練は欠かさない。結成時から変わらぬ面子の誰もが、妖精たちの平和を護るという志を共にしていた。


 そしてその覚悟は、凍てつくような闇夜にあっけなく砕け散った。



『すまんかったな』





 身体の至る所が灼けるように痛み、手足が凍てついたように軋む。常に身につけていた鎧を今夜は鉛のように重く感じ、リエンドーラはそれらを外して森を進んだ。


「はぁッ……は……! うっ……」


 国を育んできた愛しき森は様変わりしていた。自分の目から光を奪ったあの剣士たちと共にいた、おぞましい魔法を使っていた男――おそらく奴の仕業だろう。精霊たちは怯えて気配を消し、妖精たちの笑い声は途絶えてしまっている。


「だれか……! だれか、いないのか。妖精たち、精霊たち……いたずら好きのリスたちでもいい……だれか、返事をしてくれ。森は、どうなっている」


 何も見えない。しかし時折、何かぼうっとした光が遠くで輝くのが視える。物理的な視力を失ったはずの自分に捉えられるということはきっと、あれはただの灯りではない。リエンドーラは縋るようにしてその光を目指し、ふらふらと森を進んでいた。


「あッ!」


 歩き慣れている森だというのに、道に落ちていたなにかに簡単に足をとられてしまう。転落の危険がある川や崖からは離れていたものの、今はまわりの何もかもが恐ろしかった。痛む体をなんとか起こし、手探りで転倒の原因を見つけ出す。


「これは……あの男の、水晶か……?」


 森の岩とは違う整った触り心地に似合わぬ、身の毛もよだつような闇の魔法の気配。やはり森の住人たちも自分の兵士たちと同様、あの水晶の中に囚われてしまったのだ。リエンドーラは大きなリンゴほどしかないその物体を抱きしめ、呼びかけた。


「誰か、中にいるのか? ここはナナイロスイセンの香りがするから、ウェルグリドルたちが好きだった遊び場の近くだ……。兄弟たち共々、皆が封じ込められてしまったのか」


 手中にある冷たい物体から、返事はない。巡回するリエンドーラの姿をみかけては寄ってきて、いつも森の花々を髪に差してくれたウェルグリドル。まだ花から生まれ落ちたばかりでぼんやりと空を眺めてばかりだった、彼の弟のアウェンデルム。ほかにも数えきれないほどの愛らしい民たちの気配が消えていた。


「くそっ……くそおぉッ!!」


 まだ見ぬ敵が森にいる可能性を承知していながら、兵団長は吠えた。静まり返った森に、咆哮がこだまする。目が熱い。なんの役にも立たなくなったというのに、涙だけは止めどなく流れ落ちるのが悔しい。


「お護りすると誓ったのに! 私の剣は、貴方様のためにあるのにッ……!! 貴方が愛する森を、民を、春を……なにひとつ、私は護れなかったッ!」


 頬で固まっていた血が涙に溶け、唇から口内へと伝う。その苦味さえも、己の不甲斐なさへの罰のように思えた。


「すまない……! すまない、皆」


 地面に振り下ろした拳に額を擦りつけ、リエンドーラは食いしばった歯の間から声をこぼした。自分を信じてついてきてくれた仲間たちは今頃、あの昏い水晶の中でどんな苦しみを味わっているだろう。すでに砕かれた者もいるかもしれない。


“ねえ団長! 見てくださいよこれ。『虹のふもと亭』のオーナーに教えてもらって、ナナイロクッキーの焼き方をマスターしたんっすよ!”

“あのな……。我々は警護兵団であって、菓子職人じゃないんだぞ”

“もちろん今日の修練は終わってますって。でもこれ、グリュンヴェルム様の大好物でしょう? 城の中でいつでもお出しできたら、最高じゃないっすか?”

“……。私にもレシピを教えてくれ”

“そうくると思いました。今みんなで集まって、もっと美味い味ができないか研究してるトコなんですよ。さ、厨房へいきましょう。団長の分もエプロン、用意してますんで!”


 副団長のエルミルはのんびりとした男だったが、あの急襲の場面では誰よりも早く危機を察していた。リエンドーラを突き飛ばして逃し、自分は闇の水晶に呑まれてしまった。彼を含めた仲間の全員が自分の身を案じてくれていたのだ。そして自分たちの主人を護り抜くようにと希望を託した。


 それなのに結局、払った犠牲はあまりにも多かった。武人の武器のひとつである目を失い、城の統治を奪われ、罪なき小さな森の民たちを無力化され――そして、春の国の柱を失った。


「――ッ、グリュンヴェルム様ぁッ!!」


 名を叫ぶことですべての時が戻るなら、この声を一生失ってもいい。“黄金薔薇を護りし蜂”と謳われた女戦士はひとり肩を震わせ、暗い森の中で慟哭した。すでに何度も頭の中で再生された場面が、また勝手に浮かんでは女を苦しめる。


“いけません、グリュンヴェルム様! 正体不明の強者が三人……貴方でも、ひとりで相手することは”

“そろそろ良い歳だってのに、駄々こねるんじゃねーよ。行かねーなら、テラスから吹き飛ばすぞ?”

“行きませんッ! 王としての自覚がないのですか!? 貴方が生き延びずして、誰がこの春の国を支えるのです”

“なーに言ってんだ、このどあほ! こんなの、いつもの追いかけっこと変わらんだろうが”


 分厚い防護魔法の向こうから容赦無く斬りつけてくる双子の半人妖精と、屈強な身体に似合わぬ妖艶な笑みを浮かべて自分たちを見つめる魔法使い。


“儂は水晶に囚われたヤツらの命を繋ぎ止めるために残る。だがこの数をすぐに出してやるのはムリだ。お前は町へ行って、ニアケッタという魔女を頼れ。町の外れのアトリエだ”

“魔女……?”

“誰もこの城から出すつもりはねーが、追いつかれるなよ”


 主の手がこちらへと向けられると同時、リエンドーラの足に温かな風がまとわりつく。双子のサーベルによって貫かれた腿の傷が、みるみるうちに塞がっていく。


“リエンドーラよ。身内のつまらん争いに巻き込んじまって、すまんかったな。儂に今、すべての傷を癒すことは出来ねーが……せめてお前の美しい瞳が、これからは『まことのもの』を映し続けるよう。――そら、時間だぞ”

“きゃっ……!?”


 風の勢いが急に強くなり、グリーヴのヒールが大理石の床から浮き上がる。もがいても捕まるものがなく、鎧をまとった身体は軽々と宙へ押し上げられた。王の行動に気づいたらしい双子のひとりが魔法の構えを取るが、その姿を弾き飛ばすようにして巨大な岩の壁が迫り上がる。


“誰がこの国を支えるのかと言ったな”

“待って、嫌っ……いやです、グリュンヴェルム様ぁっ!!”

“儂もこの地に咲き乱れる、ただの花の一本に過ぎん。いや――儂にとっちゃむしろ、お前たちのような愛らしい『どあほたち』のほうが……よっぽど世界に必要なものに見える”


 少し乱れた黒銀の髪の下で、この世のすべての色を集めた瞳が優しく細められる。遠ざかるその眼差しに手を伸ばして名を呼ぶが、女の身体はあっという間に森の上空へと放り出された。



“また会おう――儂の美しき剣よ”




***

(後半へ続きます)


近況ノート: https://kakuyomu.jp/users/fumitobun/news/16818093076677489135

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