7−19 変わってないのねえ
扉が開いた音も、空気が揺れる気配さえなかった。まるで部屋の床を覆う闇から生まれ出たのではと疑ってしまうほどに、その人物の登場は唐突だった。思わず息を止めたエルシーを見下ろし、大きな影が笑う。
「はじめまして、妖精王の花嫁サン。アタシはレイヴィーン。そこの竜センセーの、かわいい元弟子よン」
「アガトさんの……元弟子?」
麗しい名前の主は、エルシーの首が痛くなるほど見上げねばならない偉丈夫だった。隙間なく鍛えられた筋肉に、その造形を見せつけるかのようにぴたりと身体に寄り添う真紅の服。後頭部の灰色の髪は刈り込まれているが、額より上ではよく手入れされた赤色の髪が踊っていた。深い彫りの中に埋まった鋼色の目は垂れがちだが、こちらのすべてを見透かすような鋭さがある。
赤から鋼へと変わる不思議な色の三つ編みをピンと指で弾き、男は紫の紅を乗せた唇を尖らせる。
「にしても、ふゥーん……お会いするのは久々だけど、こんな小娘が趣味になったってわけぇ?」
「あ……」
エルシーの背にぞくりと冷たいものが走る。黒く塗られた爪を持つ逞しい手が、気付けば少女の眼前にあった。屈んでこちらへ手を伸ばしている男を頭では認識しながらも、エルシーは動けないでいた。首筋に汗が吹き出る。
この男は――なにか、おかしい。
その刹那、ごうっと目の前で炎が爆ぜる。エルシーの髪一本を燃やすことなく渦巻く炎の球の熱に、さすがに男の手がぴたりと静止した。
「……その子に触るな。レヴィルドリウス」
唸るようなその声の主が仲間であることに気づき、エルシーは目を瞬かせた。いつも飄々としていて掴みどころのないアーガントリウスが――怒っている。
「んまっ、そんなオス顔されちゃたまんなァい。にしてもヤあねえ、魔法使いの指を灼くつもり? 文字通り、ずいぶんとアツいご挨拶じゃないのン」
「カンケーないでしょ。お前は首だけになっても魔法を放つだろうし」
「辛辣ぅ。あと、そのゴツい本名は忘れてって言ったじゃない」
「弟子の名前を履き違えるほど、老いてないよ」
続く言葉はすでに、いつもの彼らしい穏やかさへと戻っていた。聞き慣れた仲間の声を耳にしてやっと、エルシーの身体が自由を取り戻す。先ほどの恐怖を押し殺し、傷ついている知恵竜を庇うため両手を広げると大男を睨んだ。
「あんたがアガトさんをこんなにしたのね。それに、この闇の水晶も」
「あらっ、賢ぉーい! その通りよ、プリンセス」
「どうしてよ。元はお師匠さまなんでしょ!?」
「あらあら……うん。やっぱり若いのねぇ。かわいンっ」
「!」
くすくすと軽やかに笑う男に、エルシーはまたしてもあの冷たい感覚を味わうことになった。見目が奇抜なだけではない――この男はとうに、何かを踏み越えてしまっている気がする。
言葉にできない感覚に怯えていたエルシーだったが、仲間の低い声によってその正体の一端を知ることになった。
「お前、その魔力は……」
「あらーン、やっぱりわかっちゃう? 溢れ出ちゃってるゥ? 困ったわあン、普段は隠しておけって、“翼”にも言われてるンだけどぉ」
「……! もしかして、竜人!?」
エルシーの叫びに、レヴィルドリウスと呼ばれた男は大正解とばかりに身体をくねらせた。顔の側面に垂れた細い三つ編みが、しゃらしゃらと音を立てて主人を讃える。
「でも、アンタたちが今まで会ってきた雑魚たちと一緒にしちゃヤぁよン」
「どういうこと……?」
「エルシーちゃん、あいつは――竜なんだよ。俺っちと同じ」
「!」
竜人となった竜。これが相手の底知れぬ力の秘密なのだと、聡い少女はすぐに気づいた。確かに言葉のとおり、男がまとう魔力の濃さは異常である。すでにこの城に彼の魔法が満ちているという点を差し引いても、底の見えない崖を覗き込んでいるかのような深い闇を感じるのだ。
「まァ、アタシは“ちょーっと”変わっちゃったけど。アナタは変わってないのねえ、アーガントリウス。謁見許可のために集まってた有象無象なんて、どーでもよかったじゃないの?」
「……」
「あんなゴミ共をいちいち逃してるから、そんな酷い見た目になったのよ、わかってるのン? 美男が台無しじゃない」
敵の呆れ顔に驚き、エルシーは急いで仲間を見た。確かに彼の肌には、数日前のものと思われる古い傷がうっすらと残っている。
「この吹雪で最近じゃめっきり謁見希望者も減ったけど、やっぱり次々に来るのよねぇ。その中にアナタの姿を見つけた時は、身体の隅々まで滾ったわン」
「……それで、問答無用で全員水晶漬けにしようと思ったわけ?」
「せっかくの師弟再開シーンを邪魔されたくなかったんだもの。竜の姿で現れたアタシは、美しかったでしょう?」
突如現れた巨大な竜に蹴散らされる哀れな人々の姿を想像し、エルシーは唇を噛んだ。フェ・アルンの町人は謁見に赴く者たちに警告を寄越すが、耳を貸さない者も多いという。
「アガトさん……だから、そんなに」
しかしこの優しい仲間はいつものように、自分の身を省みず人々を逃がそうとしたに違いない。もしかすると、竜の相手をするために彼もまた本来の姿で戦った可能性もある。
「エルシーちゃん。誰か――酷い有様でも――町に戻ってきた謁見希望者は、いなかった?」
「……そういう話は、聞いてないわ。でも怖くなって、もう他の国に行ったのかも」
「んふっ、分かってるくせに。希望的観測はやめたらどうなのン?」
逞しい顎を持ち上げ、レヴィルドリウスが嘲笑する。それだけでエルシーは、謁見希望者たちの哀れな末路を思い描いた。無言で元弟子を睨むアーガントリウスの表情も厳しい。
「……ヤあねえ、冗談よ。そんなコワい顔しなくっても、殺してなんかないわ。まだ派手に殺すなって、“翼”から言われてるんだから」
自身の爪の手入れ具合を眺めながら、男が不服そうに呟く。皆の命はあるのだと知って少女がほっとしたのも束の間、敵は愉快そうに言い足した。
「でも、この城にはもう晶像の置き場がないでしょ。だからぜーんぶ、“外に置いた”わ。今頃アタシの闇水晶の中で、素敵な夢を見てるはずよン」
「お前……!」
アーガントリウスの浮かべた表情を見、エルシーの心はふたたび重く沈んだ。あの邪悪な水晶の中に囚われたまま視る夢はきっと、気持ちの良いものではないだろう。人々と妖精たちにそんな仕打ちをしているというのに、目の前の男は微塵も気にかけている様子はない。それがたまらなく恐ろしかった。
「アナタが本気を出せば、城から出られたはずよン。でもアタシの思ったとおり、今でもぐずぐずとここに残って――至る所でアタシの魔法をつついてる」
「お前の魔法とはよく言うねえ。俺っちの“光水晶”を
その言葉に、偉丈夫の整えられた眉がぴくりと跳ねた。しかし広い額にかかる髪を優雅に一度払い、男は腰を折ってぐいとこちらに顔を寄せる。
「何とでもおっしゃい。アナタのトコにいた時より、外にはずぅっと学びが多かったわよ? あの御方の側にいれば、アタシはもっと強くなれる」
「……ああ、そ」
「ふん、まァいいわ。ここはあの双子たちの持ち場だし、問題なければアタシは今回手出ししない。でも楽しませて頂戴ね」
唇に当てられた太い二本指が、ぱっとこちらへ寄越される。エルシーが眉をひそめると同時、レヴィルドリウスは煙のように闇へと溶けていった。血で汚れたドレスを広げてその場にへたりこみ、少女は早鐘を打つ胸を押さえる。
「い、行っちゃったの……?」
「昔から読めないヤツだから。ま、アイツの思惑がどうであれ……好機は拾っとかないとね」
淡々と言ったアーガントリウスの両手にふたたび白い光が灯るのを見、エルシーは慌てて仲間のコートを引っ張った。
「まだ続けるの、アガトさん!? 無理よ、少し休まなきゃ。せめて、今の傷を全部治させて」
「竜人から受けた傷は治りにくいし、俺っちの治癒能力は若者たちほどじゃない。けど、じっとしていれば治ってくから……」
「そんな……。でも、こんなに血が」
コートに染み出す紅い色に不安を覚え訴えるも、ヒト姿の竜はその場から動かない。身体は明らかに傷ついているのに、紫色の瞳が放つ輝きは異様だ。いつもの冷静な彼ではないような気がしたが、こちらの声は届いていないらしい。
「あと少し……。アイツの居場所さえ分かれ、ば……!」
黒い水晶を内側から照らしていた光が頼りなく明滅すると同時に、何かが折れるような大きな音が部屋に響く。エルシーは思わず飛び上がったものの、仲間の身体がぐらりと大きく傾いたのを見て慌てて手を伸ばした。
「アガトさん!」
知恵竜の手が水晶から離れたと知って安堵した少女だったが、すぐに猫のように目を丸くした。まるで水晶の闇がそのまま乗り移ったかのように、仲間の両手が黒く染まっている。魔法に精通しているわけではないが、一目見ただけでそれはよくないものだと悟った。
「……」
消耗しきっているのか、仲間が声を落とすことはない。何かに耐えるように固く下ろされた瞼を見、少女は横からそっとその身体を抱きしめた。
「お願い……、今この場にいる精霊たち、お願いよ。最後にわがままをきいて」
身体が温かくなり、ほのかな燐光――癒しの力が集まりはじめる。大きな力を使えば、盟約相手にこの場所を特定されるかもしれない。しかし少女は躊躇うことなく、癒しの力を仲間に注ぎ込んだ。
「エルシーちゃ……だめ、だ」
「いいの。アガトさんは帰らなくちゃ。あなたは無事に出してもらえるように、グリュンヴェルムに頼むわ。だから、これからも……みんなの旅を頼むわね」
部屋の隅々までを照らす光の中、身じろぎした仲間と視線が交錯する。しかし、少しは回復したかと期待した少女に向けられた言葉は意外なものだった。
「あいつは、グリュンヴェルムじゃない……! 君は、盟約を守る必要はないんだ」
「――え?」
「そこまでだよ。お喋りな老竜め」
「ッ!」
冷たい声を耳にした刹那、鼓膜が裂けんばかりの轟音が響き渡る。仲間の身体が腕から引き剥がされ、爆風のような風に煽られたエルシーも床に倒れ込んだ。それでもすぐに粉塵の中で身を起こし、仲間の姿を探す。
「アガトさんッ!!」
凄まじい風の力によって破壊された壁、その瓦礫に埋もれるようにして倒れている仲間を見つけて絶叫する。しかし少女の震える肩を押し込むようにして掴んだ手があった。
「まったく……自分に任せろと言っておきながら、レイヴィーンは何をしている? ひとの花嫁をたぶらかさないで頂きたい」
「何するのよ!」
「それはこちらが訊きたいね、エルシー。君のために仕立てたドレスが台無しじゃないか」
血と汚れにまみれたドレスを見下ろしているのは、自らを妖精王と名乗った男。エルシーはその手をばしりと払い退けて立ち上がり、圧倒するような長身を臆することなく見上げて怒鳴った。
「何よ、こんなもの! それに、どういうことなの!? あなた、グリュンヴェルムじゃ――」
「私はグリュンヴェルムだ。この地を統べる妖精王にして、君を手にいれる者」
「!」
ぐいと両腕を掴み、男はエルシーの身動きを封じる。少女は再びするどい眼光で対抗するが、やはり力では勝てない。しかし意思だけは折られてたまるものかと、意地を込めて男を睨みつけ――後悔した。
黄金の瞳の奥に、舞い散る花弁が見える。
「これは使いたくなかったけれど、仕方がない……“
しまった、と思う意思さえ自分のものとは感じられない。膝から崩れ落ちる直前、辛うじてその身が支えられたことはわかった。そして薄れゆく意識の中、少女の唇から心に燻りつづけるその名がこぼれ落ちる。
「リン、さ……」
自分を抱き止めてほしかったのは――この男の腕ではなかったのに。
***
近況ノート(キャラクターデザインつき):
https://kakuyomu.jp/users/fumitobun/news/16818093075837099298
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