7−18 こわいの。とても
「罠、なのかしら……?」
静まり返った長廊下に、少女――エルシーの声が響く。足元を埋め尽くす豪奢な絨毯の上には、ぞんざいに取り去られたらしいこの部屋の錠が転がっていた。
「関係ないわ。城内を調べるチャンスよ」
すばやく廊下へ飛び出し、慎重に扉を閉める。錠をかけ直してやると、花嫁不在の密室が見事に完成した。これでもう今夜はここに戻れない。妖精王がこのことを知れば良い顔はしないだろうが、どうせ明日には尽きる命だ。少しくらいの“おてんば”など問題にはならないだろう。
それに逃げるわけではない。王のそばに竜人たち――“組織”の影があること、そして城内にいるであろうアーガントリウスの安否を確認したいだけだ。それらの情報を得たとして、どう仲間たちに伝えるかまでは思案中だが。
「ひどい有様ね……」
ドレスの裾をたくし上げ長廊下を進みつつ、エルシーは重々しくつぶやいた。財宝の合間に転がった、小さな黒い塊。その中に閉じ込められている妖精たちは皆、悲嘆や驚愕の表情をしている。グリュンヴェルムに反抗した者たちなのだろうか。
しかしあの王みずから城や身辺のことを世話するようには見えない。きっといくらかの従順な妖精は残されているのだろうが、城内はとにかく生命の気配が薄かった。
「でも丁度いいわ」
怯え隠れてくれているのであれば、こちらとしては好都合だ。精霊たちと違い、確固たる意志を持つ妖精たちはエルシーの味方とは限らない。
「きゃっ!」
何の前触れもなく、ずるっと足を滑らせる。つんのめって膝をついてしまい、小声で悪態をついた。広がりがちなドレスの裾には気をつけていたのに何故、と不思議な気持ちで絨毯に目を凝らす。
「こ、これ」
気づかなかった理由はすぐに判明した。赤い絨毯を濡らしている、大きな染み――それもまた赤かったのだ。わずかに黒々としているその染みの正体に気づき、ドレスの端を同じ色に染めたエルシーは慌てて立ち上がった。
染みはもっとも近い扉の下から広がっていた。一緒に漏れたわずかな明かりが照らし出すその液体の正体は、やはり大量の血である。跳ねる心臓を押さえ、エルシーは息を止めてその扉のノブを回す。開いている。
「……っ!!」
あまり広くはない石造りの部屋は、むせ返るような血の匂いに満ちていた。明かりのない部屋だったが、不思議な白い光の粒が舞っている。精霊ではなく、純粋な魔力のかけらのようだ。どこから、と薄闇に目を凝らしたエルシーだったが、部屋の中央に座り込んでいる人物を認めると思わず叫んだ。
「アガトさんっ!」
「……や、エルシーちゃん。久しぶり、かな……? 素敵な格好だ」
顔だけをゆっくりとこちらに向けたのは、探し人であった仲間――アーガントリウスだった。挨拶どおり久方ぶりに人と会話したのか、その声は掠れている。しっかりと扉を閉め、エルシーは急いで仲間のそばに屈んだ。床の上に流れる血がドレスの裾を染めていくが、かまわない。
「アガトさん、こんなところで何してるの!? ひとりで行っちゃって、みんなびっくりしたのよ」
「あー、そかそか……ごめん。もう、そんなに経ったっけ……」
いつもは飄々とよく喋る魔法使いの応答がやけに鈍い。眉をひそめたエルシーは明かりを探したが、近くへ浮遊してきた大きな粒子のおかげで仲間の姿をよく見ることができた。
「その怪我、どうしたの!?」
雪国用に彼が創り出した美しいコートは、ほとんどが赤黒い血に染まっていた。褐色の顔や首筋にも、いくつもの傷が走っている。兄と騎士をまとめて相手している時でも擦り傷ひとつ負ったことのない知恵竜が、これほど傷ついているところは初めて見るものだった。
いや、彼だって負傷することもあるだろう――問題は別にあるのだ。
「怪我も服も、治すことができるのに……どうして」
「今は、コイツに集中しててね……回せる魔力がないんだわ」
疲れ切った声で言う仲間は、さきほどからこちらを見てはいない。その紫の瞳はわずかに発光している。彼の集中が向かう先を確認した少女は、手で口を覆った。
「それ、何……!?」
「君ならなんとなくわかると思うけど……触んないように、ね」
床についたアーガントリウスの両手は、例の黒い水晶に覆われていた。妖精たちを覆うものや窓に張り付いているものより、ずっと色が濃い。まるで闇そのものが手に喰らいついているかのようだ。
「アガトさん、あのイヤな水晶に捕まってるの?」
「いーや。むしろ捕まえてるのは、俺っちのほう」
「え……」
闇の水晶の奥に目を凝らす。男にしては細く長い指が、ぼうっと淡く輝いていた。その色は、部屋を舞う粒子と同じ白。粒子がふわりとエルシーの頬を掠めていくと、不思議な温かさを感じた。
「もしかして……この水晶を壊すとか溶かすとか、そういうことをしてるの?」
「さっすがぁ。うちの女のコたちはみんな賢くて、鼻が高いねえ」
「そのためにひとりでお城へ? どうして言ってくれなかったのよ!」
潜まねばならぬ身であることを忘れ、ついつい語気が強くなっていく。秘密を抱えてここまで来てしまったのは自分も同じなのだが、とりあえず少女は年長者の身勝手を糾弾することに決めた。
「この魔法の原型を“アイツ”に教えたのは、俺っちだからさ。責任、取んなきゃね……」
「アイツって……。で、でもとにかく、やりすぎよアガトさん! 長い間、そうやって魔力を使ってたんでしょう。それに、この大量の血は何なの」
「あー、まあこれは……しばらく別のトコで、ちょっとドンパチやってたから。派手に出血してるけど、問題ないよ」
「なくないわ。一度、皆の元へ帰って!」
熱に浮かされたように発光する紫の瞳が、優しく細められる。
「“一緒に帰ろう”じゃ……ないんだね」
「!」
「エルシーちゃん……君は、妖精王と“盟約”を交わしたの?」
叱責の色は無い、だが静かな声での問い。彼が世のあらゆる知識を修めた竜であることを忘れたわけではなかったが、エルシーは目を見開いた。
「ごめんね。火山で君が妖精王の真名を口にした時から、不思議には思っていたんだけど……訊いたところで、言えないだろうと思ってね。あいつら、ヒミツが大好きっしょ」
「……ええ。他人に明かせば、力を失うって」
「君は何か強い覚悟の上で、その力を得た……。だから俺っちは簡単に、その秘密を暴くわけにはいかなかったんだよ」
さらに驚くエルシーの顔を見、大魔法使いは傷だらけの唇をそっと持ち上げる。
「今まで、よく頑張ってきたね。けど、そろそろ……話してくれても、いいんじゃない?」
「で、でも」
「安心して……。見破られた場合は、秘密の門を開いた罪には問われない」
「……」
喉の奥が苦しくなり、少女の目元がじわりと熱くなった。うつむいたまま、仲間の近くに身を寄せる。魔法の解除に注力し続けるアーガントリウスの横顔にそっと手を伸ばすと、指先から緑の光がこぼれた。
「あたしがグリュンヴェルムに“盟約”を持ちかけられたのは、七つの時よ」
「……君たち一家が竜人の襲撃を受けた時、だね」
素早く正確な計算をしてくれた仲間に首肯し、エルシーはゆっくりと手を動かす。盟約相手に気づかれぬよう、最小限に力を絞った癒しの光が竜の身体に降り注いだ。
「竜人化に苦しむお兄ちゃんをね……助けたかったの。それで無知な女の子は相手が誰かも知らずに、力欲しさにその場で約束した――十六になったら、あなたのお嫁さんになりますって」
「……そっか」
誰にも明かしたことのない秘密の告白に返されたのは、短い相槌のみ。それでも少女は、その一言に込められた深い労わりを感じ取っていた。声が少し震える。
「本当はその一度限りにするつもりだったの。でもすぐに、お兄ちゃんがいつか城を目指して旅立つことを知って……」
「……兄貴を、支えようと思ったんだね?」
「ええ。お兄ちゃん、怪我しても絶対放っておくし。竜人だからすぐ治るなんて言うけど、いつも落ち着いて治せる状況へもっていけるとは限らないでしょ」
「賢く優しい妹を持って幸せだねえ、セイちゃんは」
ほんのわずかだが、仲間の声にいつもの元気さが戻ってきた気がした。目の前の美男には申し訳ないが、顔よりも身体の傷を癒すことが先決だ。エルシーは血が大きく滲んでいる彼の腹部に手をかざしつつ、小さな声で語る。
「……大切な誰かが死ぬのが、こわいの。とても」
「そうだね。それは……八百年生きた竜にだって、恐ろしいことだよ」
「でもあたしの力があれば、誰も失わずに済むわ。だからいつでも迷わず、この力を使ってきた」
「そのために、君は……何を失ってきたの?」
緑頭を跳ねさせ質問主を見ると、夜明けの空を思わせる紫の瞳と視線がぶつかる。やはり“代償”のことも知っていたのだ。そう思えば、今までさらに頑なに守り続けていた秘密の箱の錠が、いとも簡単に外れて落ちた。
「あたしの代償は……行使した癒しの力に見合う分だけ、幸福だった時の記憶を差し出すことよ」
例えば、と言いかけて少女は口をつぐんだ。その例えに用いようとした記憶はすでに
――そういった記憶たちは“もっていかれた”のだと初めて気づいた時の恐怖は、今でもはっきりと覚えているのに。
仲間が小さく落としたため息の音で、エルシーはハッと現実に引き戻された。同時に、石造りの室内に吹くはずのない風が自分の手を柔らかく押し退けるのを感じる。アーガントリウスの風魔法だ。これ以上力を使うなと言いたいのだろう。
「幸福な記憶か……。妖精どもが欲しがるわけだわ」
「どうしてなの? そうしてあたしが人間性を失うことを期待してるのかしら」
「そういうわけじゃないけど、長くなるからここでは割愛しよっか。それに君から奪った記憶は単純に、盟約主にとっての“人質”にもなるでしょ」
「……そうね」
エルシーは暗い顔で頷いた。その通りだった。もし今回の目的地が別の場所だったとしても、自分はきっと密かにひとり離脱してこの神秘郷へと赴いただろう。
それほどに、失った記憶たちが愛おしかった。我が身可愛さに逃げ続け、盟約の期限を破る――それは、やろうと思えばできるかもしれない。しかし少女にとってその行為は、自らの身体を自らの手で引き裂くことに等しいものだった。
「……“妖精王の花壇”」
「え?」
ぽつりと落とされた仲間の声に呼ばれ、エルシーは暗い思考の穴から這い上がった。妖しい光が渦巻く水晶から目を離さず、アーガントリウスは静かな声で続ける。
「昔、旧い知人が酔ってこぼしてたことがある……。盟約を結んだ者から取り上げた記憶や魔力、あるいは寿命――そんなものを保管しておくための花があるって」
「本当!? じゃあ、あたしの記憶もその花壇に」
「たぶん、ね……。盟約なんて、ここ数百年は聞いてない話だ。一部の妖精しか知らないだろうし……場所までは、俺っちも……」
「アガトさん?」
癒しの光を受けた際に復活したはずの声音が、また弱々しいものに戻っている。急いで目を凝らしたエルシーの視界の中、真っ赤に染まった仲間のコートの肘からぽたりと滴る液体が映った。どうやら上腕から出血しているらしい。
「そんな、どうして! さっきは無かった傷だわ」
「心配ないよ……。今の治癒で、だいぶ楽になったし」
「でも次々に新しい傷が開くんじゃ意味がないじゃない。もしかして、その黒い水晶のせい?」
「まあね……」
仲間の両手を地に縫いとめている水晶は、石床を蔦のように張って広がっている。隅の割れ目から床の内部へと潜り込んでいるらしいそれをまるで生き物のように感じ、エルシーは身震いした。
「この黒い水晶……妖精たちだけじゃなくて、森やお城のほとんどを侵食してる。アガトさんだけでなんとかできるものなの?」
「どうかねえ。アイツも悪い意味で腕を上げたみたいだし……今は五分五分ってトコかな。でももう少し時間があれば、俺っちがこの魔法を掌握できる」
「ねえ、さっきも言ってたけど、そのアイツってひとは――?」
「……」
彼の集中を邪魔したくない気持ちはあるが、やはり気になってしまう。しかしエルシーの疑問に答えたのは仲間の声ではなかった。
「あらあらぁ? 名前も呼んでくれなくなったなんて、つれないじゃないのン――お師匠サマ」
***
近況ノート(イラストつき):
https://kakuyomu.jp/users/fumitobun/news/16818093075423702562
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