7−17 お姫様なのよ

“はあ、はッ……ぐ、ぅ……っ!”

“おにいちゃん、がんばって。がんばって……はやく、おきてよ”


 高熱にうなされている兄の手には時折、群青色の鱗が浮かび上がる。ベッドの木枠を軽々と握りつぶす力が宿ったその手を取ってやることはできず、少女はただ泣きながら唯一の家族の生還を待った。


“ふたりとも、でちゃんと会えた? おかあさん、おとうさんのこと、よろしくね……”


 家の裏手に並んだ両親の墓。父の墓石はまだ新しい。両膝を抱いたまましばらく涙を流していた少女は、小さな手でぐいと頬を拭って立ち上がった。


 額を擦りつけることを許してくれた広い胸も、よくできたと褒めてくれる大きな手も、もうどこにも無い。今はただ兄が起きた時のために、胃に優しいスープをこしらえなくては。


 暮れていく空を見る。あの恐ろしい襲撃者たちが、ふたたび現れたら――?


“あたし……なにも、できないのに”

『ちいさな悩みだね。お嬢さん』


 涼やかな声に驚いて振り返ると、そこには精霊のものと思われる光が浮かんでいた。自分を心配して寄ってきてくれた風精霊たちよりも、ずっと強い輝き。


『大きな争いの気配を感じてやって来たが……かわいそうに。このままお兄さんが死んでしまったら、君はひとりぼっちだ』

“やめて! お兄ちゃんはジョーブだもの、お熱なんかで死なないわ”

『あの力は、ヒトの子供には重すぎる。誰かが力を流して助けてやらないと危ない』

“そんな……! じ、じゃあ、町からお医者さまを”

『君にもできることだよ』

“ほんとう!? やるわ、なんでもやる!”


 小さな精霊たちが迷うように、あるいは警告するように震えた。しかしそれらを黙らせるほどの強い光を放ったあと、大きな光の塊が甘い声で告げる。


『本当だとも。我が名は――君の願いを叶える者。さあ、森の盟約を交わそう――“精霊の姫君”よ』

“あたしが……おひめさま?”

『そうだよ。王である私の元へ来てくれるならね。君の兄を助ける力も与えよう』

“でも、でも……お兄ちゃんをおいてはいけないわ”

『少しあとでもかまわないさ、君はまだちいさいからね。でも、これは“約束”だ。だから期限を決めておくれ』

“きげん……”

『それから、この約束のことは誰にもヒミツだ。ヒミツは力を強くするからね』

“わかったわ”


 少女は両親の墓を、そして背後にある我が家を振り返る。父も兄も、そして竜の友も、大切なものを守るために命を張った。ならば自分も。



『あたし、十六になったら――あなたの、お嫁さんになる』




「……」


 身体の側面に広がる冷たさに気づき、エルシーはゆるゆると目を開けた。今のは脳が創り出した摩訶不思議な夢ではなく、明確な記憶だ。見るのであればもっと愉快なものがよかったと思いつつ、少女は背の高い窓にもたれかかる。


「これじゃ本当に、“おひめさま”だわね……」


 妖精王が花嫁じぶんのために用意したという豪奢な部屋。しかし清潔なリネンを用いて整えられたベッドにも、凝った猫足細工の椅子にも座る気にはなれなかった。仕方なく月光が差し込む広い窓辺の端に身を寄せたところ、森を歩き通した疲れが出て眠ってしまったのである。


「ゴブリュード城よりも古いのかしら。すごいところね」


 妖精城はたしかに絵本の中に迷い込んでしまったかのような美しさだった。他国からの貢物だろうか、仲間の商人が見れば腰を抜かすだろうほどに価値ある絵画や壺などが長廊下を彩っていた。柱や窓に施された流線の掘り込みの精緻さには、きっと誰もが見惚れるに違いない――そこかしこで黒い氷に閉じ込められている妖精たちの姿を無視すれば、の話だが。


 幼い頃に自分と“盟約”を交わした妖精王、グリュンヴェルム。彼は自分が生まれてすぐ、並々ならぬ“精霊の隣人”の素質があることに気づいていたのだという。そこからは時折ホワード家の森に分体に近い精霊を飛ばし、成長を見守っていたらしい。


「……後悔なんて、していないわ」


 竜人サリーンの襲撃によって、自らも同じ竜人と“成った”兄セイル。力の反動に苦しむ彼の身体を物理的に救ったのは、グリュンヴェルムから貸与された癒しの力だった。竜人には圧倒的な治癒力が備わっているが、あの状態の兄は間違いなく危険だったと今でも思う。テオギスもその頃は意識体として馴染もうとする最中だったらしく、エルシーが密かに得た力のことは無事に少女だけの秘密となった。


 そしてその秘密の約束は期限を迎えた。まさか明日、自分がヒトでなくなるとは思わなかったが。


「でも、まあ……よく健闘したじゃないの? エルシー・ホワード」


 湧き上がってくる恐怖から目を逸らすため、少女は不気味な黒い氷に覆われた窓を見る。城の至る所に張り巡らされたこの氷だが、実は触れても冷たくないので水晶と言うべきかもしれない。ただとても嫌な感じがするので、少し距離を置いた。


「この力のおかげでお兄ちゃんの旅立ちについていけたし、何度も仲間のピンチを救ったわ。“盟約”の呼びかけがあったから、どの地域の精霊たちも惜しみなく力を貸してくれたし……」


 森からついてきたらしい風精霊たちが、静かに部屋を舞っている。しかしこちらの問いかけに、彼らは一切応えてくれなかった。グリュンヴェルムの支配が強いのだろうとは理解しているが、近くにいつもの味方がいないと思うと少女の胸が軋む。


「ううん、悲しくなんかないでしょ。明日になったら、あたしはお姫様なのよ! 今だってほら、まずまずの仕上がりじゃない」


 ひときわ元気よく窓辺から飛び出し、エルシーは寝台の横にある姿見の前に立った。湖面のように均された鏡に浮かび上がるのは、美しい萌葱色のドレスに身を包んだ少女の姿だ。この城に連れてこられてすぐ着替えるように言われ従ったものの、胸元がやや開き過ぎていることは正直気に入らなかった。反抗の意思も込め、箪笥から適当なショールを選んで隠している。


「……やっぱり、どこかに隠したほうがいいかしら」


 見慣れないドレス姿の自分に唯一残されたのは、紅い宝石を戴いたいつかの髪飾りだった。ドレスに合わせた髪飾りも用意されていたので一旦外し、腕に巻きつけてある。あの妖精王のことだ、とことん己好みに自分を飾り立てるだろう――まるで着せ替え人形にでもなった気分だ。


「ここなら……わぁっ!」


 隠し場所を探して大きな衣装棚の扉を開け放ったエルシーだったが、思わず感嘆の声がこぼれた。所狭しと並んでいたのは、七色はもちろん純白から黄金まで世のあらゆる彩りをまぶしたドレスたちだったのだ。


「すごい。あたしのためだけに、こんなにたくさん……。でも、さすが妖精ね。普通のお嫁さんじゃ、白一択なのに」


 ためしにライトブルーの一着を手に取り、身体のラインに合わせてみる。髪の色とあまり合っておらず、少女は苦笑した。しかしやはり、どのドレスの型もパーティー用のものとは違う。人生で一度きりの大舞台で着用するにふさわしい、荘厳な雰囲気を漂わせている。


「……。本当に、“エルシー・ホワード”の名前とも今日でお別れなのね」


 心残りと言えば、自分の晴れ姿を兄に見せられなかったことだろう。無愛想なあの男でも、少しは感激してくれたのだろうか。竜の養父がいたら、その場で涙の湖をこしらえるかもしれない。


 しかし、そんな叶わぬ切ない想いに浸る少女の唇から落ちたのは、本人もまったく意識していなかった名だった。


「“エルシー・ライトグレン”」


 頬が熱く、そして冷たい。しばらくして自分が泣いていることに気づき、エルシーはぎょっとしてドレスを取り落とした。


「あれ、いやだ、なんで……。腫れた目で、いたくないのに」


 夢の中と同じように手で乱暴に涙を拭うが、それらは真珠のようにぽろぽろと伝い落ちていく。少女は上等なシルクの質感を持つドレスに遠慮なく顔を埋め、涙を擦りつけた。


「ありゃまー。そんなすんげードレスを、ハンカチ代わりにしちゃうんだ。さすがはプリンセスってやつ?」

「!」


 気楽とも呼べるその声に驚き、エルシーの緑髪がびくりと跳ねる。急いで振り向くと、長い足を組んでベッドに腰かけている半人妖精ハーフ・フィリア――双子の姉、キーリだ――の姿が目に入る。


「……何の用」


 低い声で言い放つが、片羽の妖精はけろりとした顔をしている。弟とは対照的な燃えるような赤髪、その切れ目から覗く瞳は挑戦的だ。細い腰に吊ったあの恐ろしいサーベルの柄を撫でながら、キーリは牙を見せて苦笑する。


「いやー、妖精王がさあ、キミの様子を見てこいってうるさいんだー。ドレス決まったあ? あたし着付けとかわかんないから、自分でなんとかしてよ」

「……あの紅いのにするわ」


 エルシーがぞんざいに指差した先にあるドレスを確認したらしい妖精兵が、大仰な声を上げた。


「えー、あれぇ? すっごい色。でもいいの? よく知らないけど、花嫁ってのはふつう、白いのを着るんじゃない?」

「いいの。……何もかも燃やし尽くすような、紅がいいわ」


 ふうん、と興味なさげに呟くところを見るに、ドレスの件は見張りのための口実だろうとエルシーは悟る。武器も精霊の援助もないこの空間で、自分がこの武人を突破できる可能性は万にひとつもない。


「まー、激しいコト。そういうとこに惚れたのかねえ、あのおめでた王サマは」

「……ねえ、あなた達は本当にグリュンヴェルムの配下なの? なんだか、忠誠心が感じられないけど」

「あたしたちが、あのキザ野郎の手下? ぷふーっ、笑っちゃう! んなワケないでしょ」


 けたけたと笑ってベッドの上にひっくり返った妖精兵を睨み、少女は確信を持って言った。


「“組織”に言われて来たのね? あなたたちは、竜人だわ」

「――へえ? なんでバレたんだろ。まだ一度も成ってないのに」


 黄金の瞳がすうっと細くなり、空気に冷たさが伝播する。エルシーは緊張によって汗ばむ手でドレスを握りしめたが、ツンと持ち上げた顎は下げずに言い放つ。


「リンさんを襲った時、一瞬だけど竜人の魔力を感じたのよ。身内がそうなんだもの、もうなんとなく分かるのよね」

「賢さだけはホントらしいね。“牙”の言ってた通りだ」

「牙……それって、あのオルヴァのこと?」


 人形的な笑みが不気味だったかつての敵を思い出し、少女は身震いした。しかしキーリは可笑そうに吹き出し、行儀悪く足でベッドを打ちながら答える。


「ぶっぶー、アイツは“尾”。いつもくねくね腰を折ってばっかだったから、ぴったりすぎだよね。ちなみにあたしたちはふたり合わせて“爪”。ね、かっこいーでしょ!」

「……やけに素直に教えてくれるのね」


 弟のシーラと比べると、この姉はずっと俗世めいた存在に思える。このままなるべく相手方の情報を引き出せないだろうかと思案しつつそう訊いたが、すぐに寄越された答えに少女は戦慄することになった。


「だって、明日死ぬ奴に言っても価値はないじゃん」


 花嫁に向けるにはあまりにも残酷な言葉。しかし無邪気に傾けられた顔には、悪意のひとつも浮かんではいない。身を硬くしているエルシーに気づいていないのか妖精はごろりとうつ伏せになり、組んだ腕の間に形の良い顎を乗せて笑った。


「あー、同情はしてるんだよ? キミは仲間のためにずっと身を犠牲にしてきたのにさ、こんな結末ってないよねえ」

「やめて」


 かけらも“同情”のこもっていないその言葉を、エルシーは嫌悪たっぷりに遮った。しかしおしゃべりな妖精の口は止まらない。


「何だっけ、キミの“代償”? 幸福な記憶をひとつずつ捧げるんだっけ? うわー、きっつー」

「やめなさいって言ってるの」

「ねえ、ホントに思い出せないの? どうやって王は記憶を保管してるんだろ。未だに教えてくれないんだよねえ、何かきいてない?」

「いい加減に――!」


 そんなこと、こちらが訊きたいものだ。怒鳴ろうと思いきり空気を吸い込んだエルシーだったが、目の前にぬっと現れた妖精の顔にそのまま息を呑み下す。規格外の速さだった。


「ねえキミ、大事なんだろ? あの金髪男のこと」

「!」

「あの男を救おうと、必死だったもんね。なんでそこまでやんのさ?」

「な、なんでそんなこと訊くのよっ!」


 驚きと羞恥が混じり、つい大声になる。妖精は昏く輝く金の双眸でエルシーをじっと見つめながら、迷いのない口調で答えた。


「死ぬ前に訊いておきたかったんだ。家族以外を大事に思うのって、どんな気持ちなのかと思って」

「え……」


 こちらを動揺させ、弱らせるための問いではなかったのか。戸惑うエルシーを置いて、キーリは夢見るような声で続ける。


「あたしの大事なものはね、もちろんシーラ。“あの御方”のことも大好きだけど、シーラほどじゃない」

「そう……なの」

「うん。でもあんたは命を張って、あの男を助けた。怒った妖精王に殺されるかもしれない場面で。それはどうして?」


 なぜ太陽は沈むのと尋ねる子供のような、混じり気のない無垢。エルシーは紅いドレスの端に触れ、静かに息を落とした。


「――大切だからよ。家族じゃないけど、あたしの人生にとって大切なひとなの。ただそれだけ」

「ほえー。うーん、わかんないや」

「何よそれ」


 ドレスと同じくらい顔を真っ赤に染めた少女の眼前が、ぱっと開ける。見ると、妖精はまたもや常識はずれな速度で部屋の入り口付近へと戻っていた。


「ありがとね、プリンセス。退屈な夜だと思ったけど、ちょっと楽しめたよ」

「あ、そ……」

「お礼に、あたしから――忠実なるあなたの妖精兵から、お祝いをひとつ」

「えっ?」


 かつん、とヒールの音が大理石の床を打つ。そっぽを向いていたエルシーが慌てて視線を戻した時には、妖精の姿はなくなっていた。かわりに残されたのは、暗い廊下へ向けて開け放たれたままの扉。


「妖精の国にいるんだ。ひとつの“予想外ハプニング”も味合わないなんて、嘘でしょ?」



 くすくすと悪戯っぽい声が闇に溶けていくのを、妖精王の花嫁はただ呆然と聞いていた。



***

近況ノート(イラストつき):

https://kakuyomu.jp/users/fumitobun/news/16818093075032790767

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