月色のオオカミ

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月色のオオカミ

 月明かりに満たる部屋の影は、薄い青色をしている。

 薄暗闇では色をはっきりとは認知できず、仰向けのまま腕を伸ばして彼は自分の掌を見た。

 天井を背景に、手は白く浮かび上がる。

 明るい、と思ったら月が出ているのか。

 顔だけを動かして窓を見れば、カーテンから光が漏れている。起き上がり、カララと窓を開けると透明な風が前髪を揺らした。

 清浄な空気だ。

 肌に心地よい温度の風が頬を冷やす。

 ーー行こう。

 夏の名残の薄いタオルケットを抜け出て、ベッドから下りる。物の少ない自分の部屋で、制服の隣に掛けていた裾の長い厚手のカーディガンを羽織った。それは寒いときに学ランの下に着ているカーディガンでもあった。

 窓に裸足の足をかけ、外へと出る。

 ヒヤリと土の感触がして、爪先で歩いて急いでベランダのスリッパを履く。家の前の通りまで出れば多少は音がしても大丈夫だから、パタパタと足とスリッパの間の土を払った。

 玄関から出れば親が気付く。それ以前に部屋を出た時点でおそらく隣室の妹が気付く。

 どこへ行くの? と聞かれたときの返答は用意していたが、本当の理由はあまり言いたくない。

 それに何よりあまり嘘を吐くのが上手じゃない。例え「ちょっとコンビニに」なんて言ったところで「本当に?」と問い詰められれば、次の言葉が上擦ることは経験上で分かっていた。

 そういうところでも、自分は未熟だ。

 彼は嘆息しながら、足を目的の方向へと向ける。気ままな散歩のようで、行く宛はあるのだ。

 深夜一時の月の下。

 近くの公園へと。





 夜の空気が好きだった。

 涼しい空気で頭の中がスッと冷えて、胸の内のわだかまりやうだうだと堂々巡りの思考が、幅跳び後の砂のようにならされるような気がした。

 人のいる昼間よりも、人のいない夜の方が世界は優しい気がする。誰かに気を使う必要がなくて、一人だから気楽で、どこへでも行ける。夜の方が自分は自由だ。

 足取りは軽く、ポツリポツリと街灯の点る道を行く。交差点を二度曲がり、マンションを過ぎたところに公園はあった。

 公園は住宅地の間にある。遊歩道や広場もあり、土日になると家族連れがバドミントンやボール遊びをしていた。元々は林だったのだろう、広場の周囲には緑が多く夏には昆虫採集のイベントも開催されている。雨ざらしで色の剥げた遊具もあり、キリンの滑り台にタコのシーソーなどがある。その内のゾウのブランコに彼は腰掛けた。

 ゆらゆらとブランコを漕いでいると、甘い金木犀の匂いが鼻腔をくすぐった。甘い匂いに卵たっぷりのパンケーキ色の月は、よく似合う。脳裡でハチミツをかけたパンケーキに、金木犀の花を散らす。明日の朝は久々に焼いてみようか。母さんも妹も家にいるはずだし。

 そんなとりとめのないことを考えていると、目の端で何かが動いた。ガサ、と素早い動きをするものが草を揺らす。タヌキやイタチのような小さいものではない。

 ーー良かった、今日はいた。

 動いた草むらに目を凝らす。

 何かが飛び出たかと思うとそれは一気に距離を詰め、次の瞬間飛びかかってきた。

 鎖から手が離れ、バランスを崩して台座からも落ち、勢いのまま倒れて背中と後頭部を強かに打つ。

 自分の上には、月色の毛のオオカミがいた。

 オオカミは毛を逆立てて牙を剥いている。ピリリ、と空気が張り詰めた。しかし、彼の心はこの状況に反してひどく凪いでいた。

「会えた」

 下手に触れば噛まれることは分かりきったことなのに、構わず腕を伸ばし皺の寄った鼻を鞣すように撫でる。

 オオカミはガチリと歯を噛むものの、それは威嚇であり手を噛むには至らない。次はないとでも言うように、グルルと唸る。

「……懲りない人だ」

 腹の底に響く声が、オオカミの喉から発せられる。

「覚えててくれたんだ」

 顎を撫でると、嫌がるように顔を背けた。

「満月の日にしか現れないんだね」

 オオカミは、満月を背負っていた。月光を受けた白い毛は淡く光を反射して、美しい肢体を浮かび上がらせる。

「ねぇ、朔」

「朔なんて、名前じゃない」

「早く俺を噛みなよ」

 開いた口の隙間に、彼は手を入れる。尖った牙と濡れた舌の感触がする。

 オオカミは慌てて口を開けたが、開いた瞬間に尚も手を深く入れる。生暖かい呼気が、冷えた手を暖めていく。

 オオカミは一度大きく首を振り、口から手を抜いた。

「……やめて、至流(いたる)先輩」

 月明かりの下、オオカミの影の中で、至流は腕を上げたまま残念そうに目を細めた。





 至流がオオカミと初めて会ったのは数ヶ月ほど前のことだった。

 今日と同じような夜の日に、至流はふらふらと散歩をしていた。

 夜に出歩くのは眠れないときの日課のようなもので、近所を一周して帰ればほどよく疲れて眠れる。眠るための儀式のようでもあった。

 眠れないのは決まって月の明るい日だ。元々部屋を真っ暗にしないと眠れない質であったから、月の光さえも眩しくて目が冴えてしまうのだろう。

 だから、夜に歩くのはいつも月の下。その日も同じように満月で、雲もなく空気も澄んで星も綺麗に見える夜だった。

 公園にいるとガサリと微かに草の擦れる音がしたから、野良猫でもいるのかと思い音の方へと足を向ける。

 背の低い街路樹の向こうを覗くと、身体を横たえた大きな犬がいた。呼吸の度に、胸がゆっくりと上下している。大型犬のゴールデンレトリバーよりも、尚大きい犬だった。人に気付いた犬は頭を上げて、互いの目が合いグルルと威嚇をするも逃げはしない。あまり動ける状態ではないらしい。

「だ、大丈夫?」

 思わず声を掛けていた。左足には深い傷が入り白い毛が痛々しく血に濡れている。

「動物病院なんて、この時間は開いてないしな……」

 大きいこの獣を、連れていく手立てもない。

 犬の側へと近寄り手の甲を嗅がせて敵意がないことを示し、そっと顎を撫でる。撫でられるのは好きではないらしく、ふいっと顔を背けたが、触られるのは了承したようでそのまま頭を地面に横たえた。

 どこかで事故にでもあったのだろうか。身体の毛が黒く薄汚れていて、土の汚れでは無さそうだった。車にでも轢かれたような汚れだ。

 少し足に触れると驚いたように頭をもたげたが、不服そうに睨むだけだ。どうやら骨も折れてはいないらしい。

「ちょっと待ってな」

 薬局はもう開いて無いが、近くに二十四時間営業のスーパーがあったはずだ。大きいスーパーだから、包帯やガーゼくらいならば置いているだろう。

 必要なものを買いビニール袋を提げて戻ったときには、いなくなってもおかしくないだろうと思っていた。

 しかし戻ってきたとき、その犬は変わらずいて至流は胸を撫で下ろす。

「少し痛いかも知れないけど、我慢して」

 血を拭き取って消毒をしていく間、痛みがあるときにウーと唸り声をあげたが逃げはしない。

 頭のいい犬らしい。いや、多分そもそも犬じゃない。

「なぁ、お前は犬じゃなくてオオカミだろ? こんなところまで下りてきちゃったのか?」

 確かに山は近かった。とはいえ、サルやイノシシの目撃情報は聞いたことがあったが、オオカミは聞いたことがない。

「できた」

 包帯を巻けば出来上がり。出来上がりはあまりうまいものとは言えないが、ひとまず最低限の手当ては出来た。

「……ありがとう」

 不意に声が聞こえて、キョトンと目を見開いた。辺りに人はいない。腹の底を震わせるようなその声は、明らかにオオカミからしたようだった。

「どういたしまして……?」

 恐る恐る額に手を近付けると、押し付けるようにすり寄った。どうやら、感謝を伝えようとしているらしい。

 心を開いてくれたようで、至流は嬉しくなる。

「落ち着いたら帰りなよ」

 そうして至流は家へと帰った。

 次の日に学校からの帰りがけに公園に行くと、オオカミはおらず残っていたのは掠れた血の跡だけだった。





 満月の日は憂鬱だった。

 朔は人であり、オオカミでありーー人狼であった。満月の夜にだけ、彼女はオオカミの姿になる。

 彼女がオオカミの姿に変わるのは満月の度にという訳ではない。昼間に何か起きたときや心が揺れているときにだけ、オオカミの姿になるのだ。

 しかしながら、朔が人の姿で満月の夜を過ごすことは少なかった。

 理由は主に二つある。一つは朔という名前のせいだった。

 彼女にとってその名は、《人間であれ》という呪いのような名前だった。母親が満月の夜にオオカミになる少女に月のない日という意味の《朔》を名に付けたのは、オオカミの側面を真っ向から否定するためだった。

 名前を呼ばれる度に、彼女の胸は違和感にざわついている。

 もう一つは、朔は人とぶつかることが多いせいだ。

 それはすぐに感情を顔に出してしまうせいであったし、愚直とも言えるほどに真っ直ぐに、そしてはっきりと物を言ってしまうせいでもあった。

 元々無口で、言葉が少し足りない。それは彼女の生来の性格によるものだった。人狼であることも、余計に彼女が人に壁を作ってしまう要因にもなっているから、状況が良くなることはない。

 無害で一見大人しいものが、突然牙を剥けば人は恐怖するものだ。高校に入学して早々、クラスで起こった不平に一言口を出してから、彼女は『キツい性格』『さわるな危険』とレッテルを貼られてしまう。

 またやってしまった、と後悔しつつも間違っていないとう自負もある。だから彼女は教室の端の席に、いつも一人で座っている。

 友達はいない。それは自分が人狼であるから人の心が理解できないのだと言い訳して諦めた。

 そんなとき、少女はいつも走った。

 何かがあると少女はオオカミの姿で走る。内のストレスを、そうして発散させてしまう。

 走っている間は何も考えなくて良かった。

 いっそ本当に一匹狼になれたら良かったのに。

 走っているときに思う。これは逃げているのか、どこへ向かっているのか、はたまた目的地はどこなのか。

 公園は隠れる場所が多い。その日も公園に向かっている途中に、彼女は車にぶつかった。

 公園の手前の十字路は車通りが少ないから、いつも確認せずに横切っていた。

 車の方も、深夜で人が通ると思っておらず一時停止を怠った上、直線の道であったから少しスピードが出ていた。

 ダン、と鈍い音がオオカミの体を突き飛ばす。

 足を地面に擦りながら、彼女は道路の真ん中に投げ出された。

 止まった車の扉が開く前に、彼女はなんとか立ち上がり、公園の草むらへと逃げる。他人に存在を知られてはいけない。

 朔の母親は満月の日には自室にいるように強く言っていた。ひっそりと抜け出している手前、事故で足を怪我したなど言えるはずがない。

 明日は日直だからと母親が起きる前に家を出て、帰って来たときに学校で怪我をしたとでも言えば誤魔化せるだろうか……と考えながら、茂みで痛みをやりすごす。

 ジクジクと脈打つように傷が痛い。反して、寝転んだ土の上は冷たくて、身体がだんだん冷えていく。

 家に帰れるかさえ、危うい。

 そのときに自分を見付けたのが至流だった。





 高校の廊下で、至流は一人の少女が気になった。上履きの色からして、至流より一学年下の生徒だろう。

 左足に包帯を巻いて引きずっていた。それだけならば気にならないのだが、その包帯が昨日自分が巻いたもののように見えた。不器用な自分が、包帯の巻き方を知らないなりに巻いたもの。

 彼女は通りかかった先生と話している。

「お、いいところに。日島朔、次の授業の資料なんだが持って……いけないな」

 先生は話している途中に朔の左足のケガに気付いく。

「すいません、別の人に頼んでいただけると」

「足は大丈夫か?」

「ええ、お構い無く」

 凛とした通る声だ。先生は通りすぎていった。

「日島、朔」

 至流は彼女の名前を知っていた。一見物静かな子で運動部にも入っていないのに昨年のマラソン大会で二位を取り、彼の所属する陸上部をざわつかせた。マラソン大会の上位は陸上部かバスケ部、テニス部などの部員が占めているのに、突然順位に食い込んできた名前はあまりに異質だった。

 彼女がオオカミならば、足が早いのも納得できる。

 振り返った朔は、至流の顔を見てあからさまに目を見開いてぎょっとした表情をした。意外と感情が顔に出るタイプらしい、と至流は思う。

「……何か?」

「その足、どうしたの?」

「ちょっと事故りまして」

 スッと目を逸らす。その反応が、自分が何か隠そうとしているときの動きにも似ていて、どこか親近感が湧いた。

 手すりにぐっと力を入れて、朔は階段を一段昇る。

「大丈夫? 手、貸そうか?」

「いいです」

 迷惑は掛けられない、とその顔が言っていた。

「何階まで行くの?」

「五階」

 ここは二階で、あと三階分昇らないといけない。足は床にも付けることも出来ないようで、一段一段手すりに寄りかかって昇るにはあまりにも時間がかかってしまいそうだった。

「待って」

 至流は朔の肩に手を置いて引き留める。朔は振り返り、じとりと睨んだ。

「……親切の押し売りですか?」

 冷たい声音は拒絶の色が濃く出ている。普段であればそれで相手は引いていくのに、今回に限っては逆効果だった。至流は思わず破顔して、その反応に朔の眉は歪む。朔はめんどくさい、と思いつつ、そんな気持ちを飛び越えてくるように至流は言う。

「そう、分かってるじゃん。分かってるなら文句言わないよね」

「言います」

「よっ、と」

「うわ」

 朔の身体がふわりと浮いた。肩と膝の裏に腕を入れて、至流は軽い身体を持ち上げる。

「いやいや、なんでよりにもよってお姫様だっこなんですか!?」

「おんぶだと素直に乗ってくれなさそうだから」

「人が見てますって」

「大丈夫だよ、今のところ誰も通ってないし」

 すると階段の上から、二人組のセーラー服の生徒が下りてきた。

「至流先輩……お疲れ様です!」

「おつかれさまー」

 そうして何事も無いかのようにすれ違っていく。

 しかし二人組がこちらを見て何か囁きあっているのを、朔は至流の肩越しから見ていた。

「やっぱ人いるじゃないですか!?」

「別に何か困るわけでもないし」

 朔は飄々と言う至流に苛立ちが募る。いっそ暴れてでも下りたいところではあったが、助かったと思っているのも事実で厚意を無下にも出来ない。

 そうしている内に五階に着いて、廊下に下ろされた。

「お人好し……」

 壁に手を付いて自分を支えながら毒づくと、至流は言われたことなど気にせずポンポンと頭を撫でる。手付きはオオカミを撫でたときと同じだが、フイと頭を避けられた。

 一匹狼で、強がり。

 初対面という呈にも関わらず、こうして誰彼構わず牙を剥く少女に至流は興味が湧いていた。

「困ってる人を見たら助けたいと思うものでしょう?」

「すいません、助かりました。……お名前だけ、よろしければ」

「志倉至流。至流でいいよ」

「至流先輩、ありがとうございました」

 朔が教室に入るまで、至流は彼女を見送っていた。





 次の満月の日、至流は公園にいた。やっぱり満月の日は眠れなかったのだ。

 この公園は隠れる場所が多い。あれから夜中に何度か探したけれどオオカミはいなかった。けれど今日は大きな木の下で丸くなっているオオカミがいた。

「朔」

 そうオオカミに呼び掛けると、自然にこちらを振り向いた。やっぱり朔なのだと、至流は確信する。

「足は治った?」

「……朔じゃない」

 億劫そうに頭をもたげてそう言った。

 このオオカミは彼の中で朔だと確信していた。なのに否定されてしまう。

 『朔じゃない』という、落胆して吐き捨てるように言った言葉には。

 ーーそんな名前、いらない。

 という意味も籠められているように聞こえる。

「関わらないで下さい」

「ではオオカミさん、なんでこんなところにいるんですか」

「……走ってる」

「走るのが好きなの?」

「好きって訳じゃない。何かがあったときに走ると、頭の中が整理されてスッキリするから、走ってる。逃げているのか、どこへ向かっているのか、はたまた目的地はどこなのかは分からないけれど」

 そう、と至流は短く相槌を打つ。

「ねぇ、朔」

「朔……なんですけど」

 オオカミは億劫そうに立ち上がり、ブルブルと身体を震わせた。

「朔という名前は、嫌いです」

 そうして至流の側に座る。

「なんでいるんですか」

「別に、今日はいるかなと思って会いに来ただけ」

「そうですか」

「もしかして、満月の日にオオカミになるのかな」

 今日も夜空にぽっかりと、丸い月が舞台の小道具みたいに浮かんでいる。

「……ええ。お察しの通り私は人狼です。けど本当はいつもオオカミになる訳じゃありません。精神が安定していれば、コントロール出来るはずなんです」

「なら悩みでもあるの?」

「あなたに話してどうにかなるとでも?」

 朔はわざとらしく拒絶する物言いをする。

「私に構わないでもらえますか」

「出会ったオオカミが一つ年下の人間の女の子と知って俺としては構わずにはいられないんですよね。それにそんなにあからさまに壁を作られたら、余計に気になるんだけど?」

「厄介すぎる」

「何が朔をそんな風にしたんだか。人狼だからという理由だけでは無さそうだね」

「……人と関わると乱されるから、関わらない。関わってなくても、この名前のせいでどちらにせよオオカミになる。それなら私は一人を取る。一匹狼なら、お似合いでしょう? だって、オオカミですから」

 温度のない言葉を、オオカミは吐く。

「だから、関わらないで下さいーーここに、来ないで」

 わざとらしく歯を剥いた。

「じゃなきゃ、噛みますよ」

「いいよ」

 朔の前に掌を上にして差し出した。

 オオカミの黒い目が、その手を見て至流を見る。至流の目には脅えや恐怖の感情はなく、「さぁどうぞ」と自分の料理を食べてもらうときのようにいっそ期待さえ孕むような印象があった。

 朔は歯を剥いたまま、一向に噛むことをしない。

「噛みますよって言ったのはそっちなのに」

「……本当に、噛みますよ!?」

「噛んでって言ってるでしょう?」

 促すように言うものの、オオカミは怯むように小さく鳴いた。

「噛んでくれないんだ。優しいね」

 至流は目を細めて柔らかく笑み、朔を撫でる。朔は奥歯を強く噛み、されるがままに撫でられていた。

「そういうところですよ」

 大きくため息を吐いて、背を向ける。

「さようなら」

 別れの言葉を残し、朔は夜の暗闇に走り去っていった。





 そして、その次の満月の日。

「ねぇ、朔」

「朔なんて、名前じゃない」

「早く俺を噛みなよ」

 開いた口の隙間に、至流は手を入れる。尖った牙と濡れた舌の感触がする。

 オオカミは慌てて口を開けたが、開いた瞬間に尚も手を深く入れる。生暖かい呼気が、冷えた手を暖めていく。

 オオカミは一度大きく首を振り、口から手を抜いた。

「……やめて、至流先輩」

 月明かりの下、オオカミの影の中で、至流は腕を上げたまま残念そうに目を細めた。

 ひと月経って、また二人は公園にいた。

 ブランコを呑気に漕ぐ至流が視界に入り、なぜだか怒りがふつふつと沸いた。

 来ないでと言ったのに、噛みますよと言ったのに、なぜこの人は構わずこうして悠然と現れるのか。

 気付けば襲うように飛びかかり、至流を押し倒していた。

「何をやってるんですか」

「できるならば、俺は朔の助けになりたい」

「なら朔って呼ばないでください」

 呼ばれる度に、彼女は名前を否定する。

『朔なんて、名前じゃない』

 至流に放った言葉には、自らの願いも籠められていた。

 オオカミの姿のときに名を呼ばれるのは、あまり好ましくない。少女にとって、自分とは人とオオカミの両側面をもってこそ成り立つものであり、片方を否定すれば自分全てを否定することと同義だったからだ。

「オオカミの朔も、人間の朔も、同じ朔だよ。名前なんて、人を呼びやすくするための記号だ」

「簡単に言わないで下さい」

「走っても目的地が無いと言うなら、ここへ来ればいい。目的地はここでいいだろう?」

「無責任ですね。人狼じゃない先輩に、私の気持ちなんて分からない癖に。私は先輩と関わりたくありません」

「完全な理解は出来ないだろうね。ごめんね、想像することしか俺には出来ない。けどそれは関わらない理由にはならない」

 いっそ本当に一匹狼になれたら良かったのに、突き放すのが辛くないくらいに強くあったら良かったのに。

 朔は否応なしに踏み込んでくる至流に、辟易しつつも拒絶しきれないでいる。

「朔は自分のことが嫌い?」

「嫌いです。名前も人狼であるこの体もオオカミになってしまう自分の弱い精神も、全部嫌いです」

「俺はね、朔には自分のことを嫌いになってほしくないんだよ。だから俺を噛んでしまえばいいと思う」

「噛んだからどうしたっていうんですか。確かに噛めばきっと至流先輩も人狼にはなりますが、悲劇を増やしてどうするんですか」

「俺が人狼になっても俺のことが嫌いにならなければ、朔は自分が人狼であることを嫌いじゃなくなるんじゃないかなって」

 至流はオオカミの顔を両手で包む。

「一つずつ自分を嫌いじゃなくしていくことは出来ませんか」

 目を逸らさないように。また逃げ出してしまわないように。

「朔を一匹狼にはしないよ」

 その声はひどく優しい。

「一匹狼が二匹いれば二匹狼になれると思わない? 朔が一人になるくらいなら俺を噛んでよ。目的地にもなれないならば、俺も人狼になって一緒に隣を走るよ」

「絶対後悔しますよ」

「構わない。それに例え俺がオオカミになっても、一人にはならない。だって朔がいるから。ねぇ、約束して? 朔がどうしようもなく孤独だと思ったときは、俺を噛んでよ。そしたらもう一人じゃない」

 噛んで、なんてことを言う人がこの世にいると思わなかった。

 私のことなんて知らない癖に。理解できない癖に。

 一人になるくらいなら、例え自分が人狼になっても構わないなんて馬鹿げてる。

「ほんと、お人好し過ぎる」

 ただ自ら進んで噛まれたいと言う人の存在がいるという事実にどこか心が凪いだようで、一つ諦めたように息を吐く。

 朔は至流の上から退いて彼を解放し、起き上がった彼の側に座る。

「……私は至流先輩を噛まない」

 そこまで言ってくれる人のために自分ができることは、噛まないでいることくらいだ。何があっても、懇願されようとも、至流先輩を絶対に噛みはしない。

 至流がオオカミの顎を触ると気持ち良さそうに目を細める。耳を倒して広くなった額を撫でると、頭を押し付けた。

 その行動は、何の感情を示す行動だったろうか。

 一人と一匹は、いつも満月の下にいる。

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