生きる

とある中学生(わたなべ)

過去と未来



肌寒い部屋の中を照らす太陽。


そんな陽の光を背景に笑顔を見せる君は、ずるくて、愛おしい。



「──おはよ、起きるの遅かったね」


「……おはよ。……何時?」


「えーっとね、……10時過ぎだよ」


「……まじか。どんだけ寝てんの、私……」


「たまにはいいじゃん。寝られる時に寝とかなきゃ、身体壊しちゃうよ」



それは愛華もでしょ──と、心の中でツッコミを入れながら体を起こした。


愛華と話したおかげなのか、数十秒のうちに眠気はかなり吹き飛び、朝特有の怠さも消えていた。



「どう?ちゃんと眠れた?」


「ん、大丈夫だよ。ありがとう」


「そっか。良かった」



愛華はそう言って、優しい口元に微笑みを見せた。


今日は夢を見ることも無く、まるで意識が遮断されたかのように眠っていた気がする。どうやら、疲労が襲ってきていたみたいで、かなりの熟睡だった。


恐らく、愛華は私が起きるまでずっと、此処にいてくれたのだろう。確証なんて無いけれど、何年も一緒に居れば大半のことはわかる。


愛華は、''自分より相手が優先''という考えを常に頭の中にもっているみたいで、昔から自分のことはいつも後回しだった。


勿論、それは良いことだけれど、そんな愛華だからこそ自分を犠牲にしてしまわないか、怖くなる。


恋人である私にも、弱音を吐かないような人だから。



「……なに考えてるの?」


「んーー、愛華のこと」



突然の質問に、私は慌てる素振りを一切見せずに答えた。


すると、愛華は困ったように目を伏せるものだから、私まで恥ずかしくなってしまった。


寒いはずの部屋が、ほんの少しだけ暑く感じる。



「……好きだよ、」


「……え?」


「やっぱり、なんでもない」



愛華が視線を合わせてくれることは無かった。


胸の奥底から湧き出てくる愛情は、一体何処へ向かうのだろう?そうして、何処に溜まるのだろう?


その答えを見つけるには、まだ早いみたい。



私って、本当に愛華のこと大好きなんだなぁ……なんて思いながら、ゆっくり体を起こしてベランダに目を向けた。


相変わらずの晴天。

もう冬だっていうのに、まるで夏のようだ。



太陽がよく映える程の青い空。


小鳥の密かな鳴き声。


学生たちの賑やかな笑い声。


耳の奥まで響き渡る工事の音。


ずっと向こう側に見える古びた建物。


そして、隣にいる愛華。



変わらないものは、沢山ある。


だけど、決して無くならない訳ではない。


いつかはきっと、消え去ってしまうもの。


それが人間の美しさであり、儚さ。

それが人間の性質であり、価値のひとつ。


永遠ではないからこその魅力が存在している。


この世界って不思議だなぁ。



「由依、今日はゆっくりしようよ」



愛華は、そう言って姿勢を変えた。


だから、私も愛華と同じようにベッドの背もたれに身を預けた。



「ねぇねぇ。由依って小学生の時、どんな感じだったの?」


「え、私?……んー、でも大人しかったかな」


「やっぱり?」


「うん。小学生の時は、放課後にずーっと''石英''集めてた笑」



──ふと記憶が蘇る。


学童生徒が数人いる校庭で、私はひとり砂場に腰を下ろすのが日常同然で。


用もないのに帰宅時間を遅らせては石英を探して、手のひらに乗せていた。だけど、チャイムが鳴り響いたことを合図に腰を上げて、石英を全て落とすのだった。


校門まで向かう途中、校庭を走り回る下級生を見て、自分はどうしてこんなにも社交性がないのか、と思わず呆れたこともあった。



そんな日常が変わったのは、中学生になってから。


クラスにも馴染めない、人に対して猜疑心を抱いてしまう。そんな私に話しかけてくれたのは、愛華だった。


あの時のことを、今でも鮮明に憶えている。



「──本岡さん?」


「……?」


「えっと、中元愛華です。……あっ!突然ごめんね、」


「いや、私は全然……」


「……その、……友達になってもらうことって、できますか?」


「……え?」



思わず声を発してしまう程、驚いた。

いつも下を向いているような私だから、話しかけてくる人なんてひとりもいなかった。それなのに、愛華は私に話しかけてくれた。


少しの躊躇いはあったかもしれないけれど、そんなこと、どうでも良かった。それ以上に嬉しくて、私は段々と愛華の優しい心に惹かれていった。



身近な大人からの否定で疲弊しきった時


ありのままの自分がわからなくなった時


神頼みを捨てて命を消そうとした時



どんな瞬間にも、私の隣には愛華がいた。


愛華のおかげで、私は変わることができた。



明るい部屋が好きになった。


鬱陶しかった太陽にエネルギーを感じるようになった。


周りの才能を羨むことをやめられるようになった。


ほんの少しだけ、自分を愛せるようになった。



そして、私に孤独という文字は似合わなくなった。


薄暗い部屋の中、ひとりで縮こまって泣いていた日は消え去った。ひとりで泣く必要のないような日が、私に訪れたから。


私は中学生にして、非凡な人生から抜け出した。



だけど、良いことばかりではなかった。


愛華の優しさが苦しくなった時も、愛華の笑顔を見たくない時も、愛華の声が嫌になった時も、数え切れない程あった。


愛華への特別な感情が、何もかもを塞いで、壊して。


私はまた、無機的な人間に逆戻りしてしまいそうだった。


だけど、そんな私を見兼ねたのか、愛華は勇気を出してくれた。



「──由依、……好きだよ。……だから、付き合ってほしい」



よく晴れた日の放課後、愛華は私に告白をしてくれた。


後に聞いた話、私の特別な感情に愛華は気づいていたらしい。それが本当なのか、或いは気遣いだったのかは今でもわからない。


ただひとつ言えるのは、愛華の優しさは本物である、ということ。


私が愛華の優しさに救われたことは、何度あるだろうか。その回数は、きっとこの先も更新されていく。



私が生きる限り。


愛華が生きる限り。


この世界が動き続ける限り。



単純な話、この世界がなければ、私は愛華に出会っていなかった。となると、この世界に大きな感謝を捧げなければいけない。


何だか照れくさいし、阿呆らしいから、その感謝は心の中に閉まっておくことにした。


だけど、いつかは表に出そう。


声を上げなければ、感情をあらわにしなければ、伝えたいことは意味をもたなくなってしまうから。



──



「なんかさ、色々あったよね。……私たち」



愛華は、引き攣った笑顔を見せている。


恐らく、過去のことを思い出したのだろう。

愛華の過去は、お世辞にも良いものだとは言えない。


私の場合は身近な人からの暴言だったり、暴力だったり、そういうものが苦として重荷になっていたけれど、愛華の場合はそうではなかった。


完全なネグレクト。


愛華は、愛に飢えている。

その原因が、愛華のお母さんとお父さん。

ふたりは、愛華に興味がなかった。それは、家族でもない私から見てもわかるようなことで。


懇談会の時も、修学旅行の説明会の時も、文化祭の時も、体育大会の時も、卒業式の時も。


愛華はずっと、独りぼっちだった。


周りの子たちがお母さんと笑いあったり、お父さんと話したりしている時、愛華はそれを羨ましそうに眺めていた。


私のお母さんとお父さんは、どの行事にもほとんど来てくれていた。決して優しさではない。他の人からの疑いの目が怖かっただけ。それでも、偽の優しさが心地よかったのは事実。私自身も、人間を恐れていたのだ。


そして、愛華も偽の優しさに憧れを抱き、密かに願っていた。それが叶うことは、なかったのだけれど。


高校を卒業すると同時に、愛華は親御さんと縁を切った。切ったと言っても、何も言わずに家を出て行っただけ。それでも、愛華の親御さんは捜索願を出すようなことをしなかった。メールを送ることも、電話を送ることも、何もかもしなかった。してあげなかった。


口には出さないものの、深い傷を負った愛華を見て、私は愛華と一緒に暮らすことを決めた。勿論、お金なんて数千円程度しかなかったから、最初のうちは一日中睡眠をとらずに、ただひたすら町をふらふら歩くようなことばかりしていた。日が暮れる少し前に温泉に入り、温泉施設の中にあるスペースを借りて日が明けるまで待っていたこともあった。


もう、戻りたくないような過去。


辛くて、苦しいものだった。


過ぎていく時間に逆らうこともできず、ただ流されるばかりで。


それでも、愛華がいたから耐えることができた。愛華のおかげで、乗り越えることができた。


1、2週間程すれば温泉施設で開店から閉店ギリギリまでバイトをさせてもらえるようになり、それなりのお金が手に入った。


毎日、バイトだけをこなしていく。代わり映えがなくて退屈だったけれど、ある日、そんな私に未知の光が差し込んだ。


音楽。


音楽の力で、世界をより良いものにしたい。


何だか嘘くさいかもしれないけれど、本気でそう思ったんだ。昔から、音楽だけは大好きで。歌を歌うことや、ギターを弾くことは、私にできるストレスの解消方法のひとつだった。


店内で流れる音楽を聴くためだけにスーパーに行ったり、買えもしないのに楽器屋さんに行ったり。音楽に対する熱量は、次第に深まっていった。


そして、そんな私を見た愛華は、突然「音楽やってみなよ。専門の大学とかあるじゃん」なんて随分と軽い口調で言ってきた。


勿論、私は否定した。


それなのに、愛華は「お金の心配はしなくていい。私がしっかり頑張るから」と、一点張りで引かなかった。


そうして、私は愛華に甘えて音楽の専門大学に通わせてもらうことにした。最初は着いていくことに必死で思うようにいかなかったけれど、徐々に音楽との向き合い方がわかるようになり、楽しさが増えた。


暗く、汚い私の世界を塗り替えてくれた愛華。


偽りのない愛情を、深く、永く、愛華に注いであげたいと思った。


それが私にできる、私なりの愛華への恩返し──。



──



「……大学、最近どう?」


「おかげさまで。すっごく楽しいよ」


「そっか。よかった」


「……どうしたの?」


「ん、いや……気になっちゃって」


「大丈夫だよ。確かに大変だけどさ、それ以上に楽しいから」


「……じゃあ、今度聴かせてよ。由依の歌声とギター」


「えー、恥ずかしいな……」



私がそう言うと、愛華は笑った。


何だか、ベランダの外の太陽も笑っているみたい。


愛華の温もりと、太陽の温もりに儚さを感じた私は、少しだけ寂しくなった。だから、温もりがなくならないように、消えないように、私は大切にしたい。愛華のことも、太陽のことも、この世界のことも。そして、自分のことも。


私は、羞恥心を全身に巡らせながら、恐る恐る言った。



「……実はさ、ライブ決まったんだ。まだまだ小さい所なんだけどね、」



すると、愛華は伏せ気味だった顔を勢いよく上げた。



「……え!?」


「この前、大学に音楽のプロデューサーさんが来てね、ライブをやってほしい、って」


「すごい展開だね」



「突然だったから、びっくりしちゃったよ。しかも、そのライブに音楽のお偉いさんが来て、センスとやる気を見極める、とか言ってた」


「緊張だね……」


「今から不安だよ……笑 でも、せっかくの機会だし、愛華にも恩返しがしたいから、全力で頑張るよ」


「ん、応援してる」



愛華の瞳が潤んでいたから、「どうしたの?」って聞くと、「由依、強くなったね」なんて言って嬉しそうに微笑んだ。


自分が強くなったことは、あまり実感できない。


それは自分のことを理解していないからなのかもしれないし、自分に興味がないからなのかもしれない。


それでも、音楽という道に希望を抱いている以上、自分に失望はしていないのだと思う。


本当に私が強くなれていたとするのならば、それは間違いなく愛華のおかげだ。



「ありがとね、愛華」


「お礼を言ってもらえるようなこと、私はしてないよ」


「ううん、いっぱいしてくれてるよ。……でもさ、辞めてもいいんだよ?……仕事、大変そうだし。それに、私には時間があるから、バイトもできるよ……?」


「いいの。私がやりたくてやってるんだし。それに、私の夢は由依の夢を叶えることだから」



愛華はそう言ってくれた。


だけど、心配なんだ。その仕事は、お世辞にも良いとは言えないような内容だし、愛華は時々、仕事から帰ってきた瞬間に泣くことだってあるし。


やっぱり、不安になってしまう。


それでも、やらなきゃいけないんだ。やりたいんだ。


生半可な気持ちで通用する程、簡単な世界じゃない。


だからこそ、常に全力でいなければならない。


だけど、音楽という道は私が決めた道だから。愛華に出会わなければ抱いていなかったであろう、大きな夢だから。


どうか、未来がより良いものになりますように。


私も、遂には神様に美しい希望を願うようになったか、なんて我ながら感心してしまった。


この世界から消えるには、まだまだ早いようだ。


最大限の感謝を胸に、愛華の肩に頭を乗せた。



──



鳥の鳴き声はとっくに聞こえなくなり、冷たそうな風がヒューヒューと音を立てながら吹いている。


夜になると、冬を実感させられる。


私って、生きているんだなぁ。なんてくさいことを考えた。



「由依、もう寝よっか」



愛華の一言を合図に、寝室へと足を運び、ベッドに入った。



「……なんか、今日は怠けちゃったね」


「ほんとだね笑 でも、今日も生きてくれたから……お疲れ様」


「ん、愛華もお疲れ様」



愛華は軽く微笑んで、目を閉じた。


私も愛華も、まだまだ子どもだなぁ。


甘えたいし、甘えさせてあげたい。


幼い頃にもらえなかった愛情を、大人になった今、必要以上に欲している。


怠けだ、って笑われるかもしれないし、邪魔者だ、って指をさされるかもしれない。


だけど、今の私には生きる意味がある。生きる理由がある。


難しいかもしれないけれど、いつかは私のお母さん、お父さんに感謝を伝えられたらいいな。


産んでくれてありがとう、って。

私はふたりのことを何度も恨んで、憎んだけれど、本当は大好きだよ、って。


もう何年も更新されていないメールや電話の履歴。

いつか更新される時が来るといいな。


その時までに、私は大きな夢を叶えて、成長した姿を見せたい。


また嫌味を言われるかもしれないけれど、そんなことには負けない強さをもつことができたから。


何を言われようと、何をされようと、世界でたったひとりの私のお母さん、お父さん。



──



絶望に満ちた過去と、希望に満ちた未来。


過去を振り返ることが大嫌いだった私。戻りたいとは思わないけれど、過去を捨てようとも思わない。


過去の薄汚さも含めて、私の人生だから。



群れから離れた一匹狼になることは、もう辞めた。


縄張りを手に入れる為なら、相手も手段も選ばないようなやり方は、もう辞めた。


この世界は想像以上に醜い。泥黎行きの電車だって、あちこちに存在している。


人は皆、変わり者を嘲笑う。他人と違うことに、恐怖心を抱くらしい。


人が皆、水溜まりを避けて歩く中、靴をダイブさせれば凝視される。まるでゴミを漁るカラスを見るような、冷たい目で。


人は皆、自分にとって邪魔なものを排除したがる。典型的な利己主義者ばかりだ。



恣意的で、傲慢。それでいて、怯懦な人間。


複雑で不公平。それでいて、意外にも単純な世界。



それでも、時間は流れ続ける。


私は、私なりに生きよう。


自分にも、他人にも、嘘をつかない生き方で。



生きるって難しいけれど、良いことなのかな。



私は、明日も生きられますように、と目を閉じた──。



【終】

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