雪の車中
ほんのワンテンポ、遅かった。佳宏が近くまで来たときに、駅から出てくる人たちがいた。由利がいつも佳宏が停めている辺りに立っているのが見えた。佳宏は花束を後部座席に移し、由利の前に車を停めると、運転席から飛び出した。
「遅れて悪い」
由利を助手席に乗せると、スーツケースを後ろのトランクへ入れ、急いで運転席に戻る。今の一瞬だけで顔が凍りつきそうだ。由利はダッシュボートの上に置いておいたフェイスタオルに顔を埋めている。よっぽど顔が冷たかったんだろう。
「悪かった」
もう一度謝ったのに、返事がない。いつもならめちゃくちゃ文句を言うのに。
由利は車に乗った瞬間、社内に漂う仄かな甘い香りに女の存在を感じ取った。ダッシュボートの上にふわふわのフェイスタオルが置いてある。こんな気遣いが、佳宏にできるわけがない。いろんな思いが交錯し、泣きそうになる。
使いたくなかったけど、佳宏が運転席のドアを開けた途端、そのタオルで顔を隠してしまった。謝る佳宏に返事ができない。泣きそうどころか、本当に涙が出てきてしまう。泣くつもりなんてなかったのに、いつだって泣くのはずるいと思って絶対に人前で泣いたことなんてなかったのに、一度溢れだした涙は止まらなくなってしまう。
こんなことになるなら、もっと早くに伝えて置くべきだった。優しい匂いの柔らかいタオルに誰かを感じて、投げつけてしまいたいのに、きっとぐちゃぐちゃになっている顔から離すこともできない。
さっさと帰ってベットに潜り込んで大泣きしたい。だけどなぜか少し走ったところで車が停止した。
とりあえず車を発進させたものの、隣の由利の様子が気にかかり、佳宏は車を停めた。
ただ顔が冷たかっただけにしては、いつまでも埋めたままなのはおかしい。文句を言わないのも変だ。いつもの由利と違う。何かあったのだろうか。
「由利? 泣いてるのか?」
まさかと思いながら声をかける。
「泣いてない」
しばらくしてあった返事の声は、明らかに涙声だ。
「向こうで、何かあったのか?」
「仕事でやらかしたのか?」
「話なら聞いてやるから、何でも言えよ」
「……男か?」
慰めるつもりでいろいろ声をかけていたのに、一番聞きたくないことも聞いてしまう。
佳宏は玉砕を覚悟して、後部座席の花束を取った。由利をこんなに泣かせる奴よりは、俺の方がまだましじゃないか。
聞いているうちに由利は、おかしくなってきた。普段あんまりしゃべらない佳宏が、ここまで言ってくれている。もういいか、撃沈しても。結果がわかっていても、最後に驚かしてやれば。そう決めて、顔をあげた。
「あのね。私が泣いてるのは佳宏の……」
続きの言葉は言えなかった。目の前に大きなバラの花束があったから。
「俺じゃ、だめか?」
一瞬、由利は何が起こったのか分からなかった。そして甘い香りが誰かの残り香ではなくこのばらだと理解した瞬間、さっきとは別の涙が溢れだした。
「そんなに泣くほど嫌なのか」
しょげかえる佳宏の首に抱きつき、由利は耳元で囁いた。
「出会ったときから佳宏が好き」
雪の夜 楠秋生 @yunikon
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