第18話
「はぁ、はぁ…」
遮二無二になって走り続け、気付けば僕は屋上にいた。
遠くからチャイムの音が聞こえてくる。おそらくHRが始まるところなのだろう。
そう考えるとさほど時間が経ってないのに、体がやけに重たい。
フェンスへと背を預け、ズルズルと剥き出しの床へとずり落ちていく。
やがて尻餅をつくのだが、伝わってくる冷たい感触が、少しだけ僕に冷静さを取り戻させてくれていた。
「なにやってるんだ、僕は…」
教室で取った一連の行動。あれは悪手だとかひどいだなんてものじゃない。
最悪も最悪。決して取るべきではない選択ばかりを選んで、最後には逃げ出したんだ。
これで今更どの面下げて戻れというのだろう。
「陽葵がせっかく助けてくれたっていうのにな」
自嘲するように零した僕の呟きは、眼下のコンクリートへと吸い込まれていく。
陽葵の助け舟を袖にして、駆け出して。本当に僕は、いったいなにをやっているんだろう。
こうしてひとり俯いていたところで、なにひとつ解決なんてしやしないのに。
情けなさと不甲斐なさ。どうしようもない自分への苛立ちで、もう泣きたくなってしまう。
「くそ…」
わかってる。全部が全部、僕が悪いんだってことは。
下らない意地を張り、現実の自分と理想のギャップに妥協できずに、陽葵に勝手に劣等感を抱いてる僕が全部悪い。
終いには彼女に勝てるところを探して上回ることができれば、きっと陽葵の隣に勝てるはずだと思い込んでいた始末。
いつの間にか妥協点を作り出し、気持ちのすり替えまでしていたのだ。
違うだろ。僕は彼女に勝ちたかったんじゃない。陽葵を守りたかったんだ。
だというのに、勝てば守れる?違うだろ。
僕が守りたかったのは、僕だ。
僕は、自分のちっぽけなプライドを一番守りたかったんだ。
僕が誰よりも大事だったのは、僕自身。
それに気付いた、気付いてしまった。
だから、僕にはもう―――
「こんなところにいたんだ、タケルちゃん」
殻に閉じ込められた鳥のように蹲り、下を向いていた僕の足元に、ひとつの影が差し込んだ。
同時にかけられる声。
それは誰よりも聞いてきた声だ。
誰よりも、それこそ今の今まで考えてきた、女の子の声。
僕はゆっくりと顔を上げた。
「陽葵…」
「探したよ、急に飛び出すんだもん。びっくりしちゃった」
そこにいたのは、陽葵だった。
苦笑しながらも、僕を見る目はひどく優しい。
「なんで…授業、始まってるのに」
「タケルちゃんが心配だったからだよ。授業なんてどうでもいい。それに、たまにはサボるのもいいかもね」
もちろん、タケルちゃんと一緒ならだけど。そう言って陽葵は笑う。
それが本心からの言葉だとわかるから、僕は思わず泣きそうになる。
「陽葵…僕は」
「天気が良くて気持ちいいね、タケルちゃん。いっそこのまま街にでも行っちゃおうか。少しは気分転換になるかもよ」
あんなことをしたというのに、陽葵は優しい言葉しかかけてくれない。
なんで逃げたのとか、一緒に戻ろうとか。普通なら聞いてきたり、連れ戻そうとするだろう。
責めるのも普通のことだ。当たり前のことのはず。
だというのに、彼女はどこまでも僕に優しくしてくれるのだ。
昔からずっと変わらないそんな陽葵が綺麗すぎて、眩しすぎる。
そして同時に、どこまでも辛かった。
こんないい子に、僕みたいな醜い男を付き合わせてしまっているという、途方も無い罪悪感が、心の内側へと津波のように押し寄せてくる。
防波堤はとっくに崩れ落ちていた。なら、後はもう呑まれるしかなくて―――
「ほら、行こうよ。タケルちゃん」
その差し伸べられた手が、トドメだった。
「陽葵…ごめん」
気付けばそう言っていた。
きっと絞り出すような声だったと思う。
「さっきのこと?それなら大丈夫だよ。後でみんなにも説明すれば―――」
「違うんだ…僕はその手を握れない、本当に、ごめん…」
心の奥底に押し込んでいた汚濁。それが今まろび出ようとしている。
必死に押し止めようとしていたけど、もう限界だった。
「え…なんで…」
「僕は、陽葵のことが好きだった」
手を差し出したまま戸惑いを見せる陽葵に、僕は告白していた。
「ぇ………」
「ずっと、ずっと好きだった。小さい頃からずっと…僕は本当に、陽葵のことが誰より一番好きだったんだ」
スラスラと、思いの丈を口にしていく。
だけどそこに熱はない。むしろ真冬に降る雪のような冷たさが、僕の心を浸している。
「だから守りたいと思ったんだ。陽葵のことを、僕が守りたかった…ずっと一緒にいるために、そうしたいって誓ったんだよ」
ずっと言いたかったことなのに、緊張もなにもなく、あるのはただの後悔だけだった。
「そう、なんだ…た、タケルちゃん!あの、私もね!」
「だけどごめん。もう無理だ」
なにか言おうとした陽葵の言葉を、僕は遮る。
彼女にはなにも言って欲しくない。これは僕の懺悔なのだから。
「僕じゃダメなんだ。僕じゃ陽葵に相応しくない」
了承も取らずに始めた僕の回顧録。
本当に僕はどこまでも身勝手で、だからこそ安堵できた。
「陽葵といると、辛いんだ。自分がどうしようもない惨めでダメなやつだと思ってしまう。どうしても君と自分を比べてしまう。そうするとわかってしまうんだ。自分の醜さというやつを、嫌っていうほど」
陽葵を守ることもできない、どうしようもないやつだと、はっきり諦めがつくのだから。
「僕じゃ君を守れないんだ…だから、離れてくれ。もう僕に近づかないで欲しい」
これを告げるのも自分のため。どこまでも僕は自分が可愛くて、だから彼女の手を取れるはずもない。
「ぁ…え?」
「もう僕から話しかけることもしないし、一緒に学校もいけない。そうしないと、僕は…」
きっと壊れてしまうだろう。いや、きっともうとっくの昔に壊れているんだろうけど、それでも。
「さよなら…!」
そう言うと、僕は駆け出した。
過去の全てを置き去りにするようにして、僕は屋上から、陽葵から逃げていく。
これが正しいはずもないことはわかってる。
その証拠に僕の目から次々に涙が溢れて止まらない。
「くそっ、くそっ…!」
だけど、これ以外にできることなんて思いつかなかったんだ。
これで陽葵を僕から開放できるはずだと、そうすれば彼女を幸せにしてくれるやつが現れるだろうと、必死に自分へと言い聞かせる。
誤魔化しだってわかってた。
僕は好きな人も守ることができない、弱くてどうしようもない臆病者で。
遠くで聞こえる女の子の泣いている声から、離れたくて仕方ないから、ただ逃げているだけなんだってことも。
―――泣かせたくなんて、なかったのに
こんなことでしか自分と彼女を守ることしかできないことが、どうしようもなく惨めだった。
僕じゃ君を守れないから くろねこどらごん @dragon1250
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