第2話 完結


次の日、お絹は髪も髪結い屋にきれいに結って貰い着物の着付けはおかみさんがしてくれた。最後に赤い珊瑚玉のかんざしをさしてくれて、これもお絹お前の物だと言って笑った。

その時おかみさんが着付けながら、「私は十三の年に子供を身ごもった事があるんだヨ。生きていたらお絹お前とそんなに違わない娘がいたんだヨ。あの頃は病気の妹がいてネ。その妹を助ける為に私はまだ十二や十三で必死に頑張っていた時があった。

結局そうまでしたが、妹は亡くなった。ほんの十三の子供が赤子を生んだんだ。その赤子も亡くしちまった。お前は私の亡くした妹でもあり、亡くした赤子のようでもあるんだヨ。それから私は、自分の事を知る人のいない所に来て、自由に自分の思う

ようにしてきた。そんなにあくせくした訳じゃないが、運も手伝ってくれて十六の年に小さな食べ物屋を始めて以来、自分の勘だけを頼りにして少しずつ大きくして来た。ただ、いつも自分の背中に亡くした妹と亡くした赤子がいて私を見守ってくれているような

気はしてたんだヨ。」

そういう話をした。着付けが終わって鏡台に映った姿はあでやかで美しく自分ではないような気がした。

まるで夢に見た夢の中にいるような気がした。


「お絹、お前今日から私の妹になった気持ちで振舞ってごらん。お客様にはそれとなくそのように話すから。それから忘れてはならないのは、店で働く人は今まで以上に大事にするんだヨ。お客様あってのお店だけれどまた、同時にそれをもてなす店で働く者達あっての

お店だからネ。」

お絹は深く息を吸い込みながら、おかみの言葉も深く胸に吸い込んだ。

その日からお絹は、おかみさんの後ろについて座敷回りをした。

ただ後ろにいて頭を低くして黒子のように目立たないようにしたが、それでもこの店のお客様の様子や雰囲気は解った。

ある日おかみが、「お絹の漬物は美味しいが、手を荒らしてはいけないヨ。お客様はここへきて浮世の憂さを忘れてゆったり夢見心地でうまい酒を飲み、うまい料理を食べに来るのだからネ。そういう時に、今、台所をしてましたというような手を見せられたらせっかくの夢も覚めてしまうからネ。」と言って、柔らかい絹布で作った手袋と馬の油をくれた。

「夜、風呂から上がったら寝る前にその馬の油をたっぷり塗って、その手袋をしたまま寝るんだヨ。私はいつもそうしている。」と言って、自分の手を見せてくれた。

それは一度も水に手を入れた事のないような真白でふんわりしたすべすべの手だった。

それからも肌の手入れや髪の手入れ、化粧の仕方、お辞儀や身のこなし方や歩き方等、折ある毎に教えてくれた。

どんな些細な事も聞き漏らすまいと思った。この人の言う事は私を良くしてくれるののだと…。

ある日おかみさんが、「お絹、お前本当に一生懸命だネー。」と笑いながら言った。

「その必死さがよく伝わってくるけれど、私、必死です!って顔をしていてはいけないんだヨ。どんな時にもゆったり構えていてネ。例えばネ。お隣さんが火事だ!って聞いたら、あーら、お隣さんが火事なんですのー?っていう風にネ。」と言った後、自分でもおかしいのかコロコロ笑った。

お絹も思わず吹き出してしまった。

こんな時のおかみさんは本当に若くほんの小娘のように愛らしく見えた。

どのような事情かは解らないが、たったの十三の時に子供を生み亡くした悲しい過去があるとは考えられなかった。

お絹はそれからもおかみの後ろについて座敷を回りながらお客様の顔も覚え、おかみの身のこなしや物言いや、受け答えを見聞きして接待とはどういうものかを少しずつ少しずつ学び身につけて行った。

二十代や三十代の若い女では急には無理だったろうが、四十八歳という年齢がそれらしい衣装を身にまとう事で、何かそれらしい落ち着いた雰囲気を出してくれるのはお絹自身にも驚きだった。

見てくれが本当に大事だと思う。

お客もさる事ながら店で働く者達もいつの間にか、お絹に一目も二目も置いている。

お絹の裏表のない人柄が解ったのだろう。それに誰から見ても、ゆったりと思いやる笑顔は元々お絹に備わっていたかのようにお絹自身でさえこの頃では、元々の自分は本当はこれが本当の自分なのだと思うようになっていた。

何年か過ぎて行った。

実家や元の奉公先には一年程して落ち着いてから手土産を持って顔を出した。

親兄弟を安心させ、下駄屋の仲間達にも突然いなくなった事を詫びた。

どちらにもお絹がいなくなった後、元の亭主が行き先を知らないかと訪ねて来ていた。

一年ぶりに会った人達は誰もがお絹の変わりように驚き、今どこにいるのかを尋ねた。けれど居所は教えなかった。

まだ元の亭主が訪ねて来て、おかみさんや皆に迷惑をかけるのを恐れたのだ。

昔の知り合いの所に顔を出し礼を尽くした事で、気持ちにもしっかり一区切りが出来、お絹は水を得た魚のように活き活きとして毎日を忙しく過ごした。

四十八にもなった自分にこのような場所が与えられる等、夢のようなものだもの。

あの頃、まるで泥の中で先も見えず、もがき苦しんでいたのが、美しい川底や水草の見える澄んだ爽やかな川に出た魚のような気持だった。

人生にはこういう事もあるんだ。私はなんて運が良いんだろう。

仕事が終わってゆっくり風呂に入り部屋に戻って顔や手の手入れをしながら自分の手を見る。

いつの間にかあんなに硬かった掌は柔らかくなり、手の甲も白いふっくらとした手になっている。

ああ、みんなおかみさんに出会ったお陰だ。そしてここに来るまでの事を思い出しながら、諦めないで良かったと思った。

あの時、思いきれずにあの長屋にいたら、今も亭主にグダグダといびられ、なじられて生き地獄のような日々を送っていた事だろう。あの時は自分の事を価値のない駄目な女だと思っていた。

それが今はこんなきれいな着物を着て、人から頼りにされながら時にはおかみさんのお供をして美味しい物を食べに歩いたり、歌舞伎を見に行ったりしている。

勿体無いくらいの贅沢な身の上だ。

が、それでいて、そこそこの貯えも出来た。

おかみさんと先日外に出て、水かけ観音にお参りした時、「お絹、お前の夢は何?」と聞かれた。

「昔、夢見ていた事が今の生活のようなものでした。だから今、その夢の中にいるようなものです。」と答えるとおかみさんは笑いながら、

「お前もそろそろ先の夢を見てもいい頃だヨ。仕事とは別のネ。」と言って、自分の夢を語ってくれた。

おかみさんは旦那もなしでこの大きな店を切り回しているので、今まで泊りがけで遊山に行った事がないと言う。どこにも遠くへ出かける事が出来なかった。

盆も暮れも使用人に休みを出しても自分はこの店を留守にする事なく店を守って来た。

それは夢があったからだ。六十六になった時丁度五十年だ。まだ足腰がしっかりしていたら、この店を信用出来る誰かに任せて期限なしのゆっくりした旅に出るというのが夢だ。

行く先々でその土地の旨い物を食べ、欲しい物を買い、のんびり時間もお金も心配しないで歩くというものだ。

その一つには四国の八十八か所やお伊勢参りも含まれる。

その為にネ、私が自由に出来るお金をコツコツ貯めてあるんだヨ。その先の事は考えていないと言って笑った。

その日の晩、お絹はおかみさんの話を思い出し考えて見た。

私の夢?それは一にも二にも”安心”だ。人間はいつかは必ず死ぬ。

まだまだという年なのに人はどんどん死んで行く。自分が何歳まで生きられるか解らないけれど、自分だけ特別に死なずにいつまでも生きていられる訳もない。

自分はあと何年生きられるだろう。

そう思うと、秋の夕暮れ時、すすきがゆれる丘に立ったように物悲しく、うら淋しくなる。

そうだ墓を建てよう!

死んだ後の世界がどうなっているか解らない。けれど死ぬ事が最後の眠りなら、安心してぐっすり眠れるお墓を建てよう。

そう心が決まったら、お絹の体の内にはまた力が湧いて来た。

おかみさんはお絹にいろんな事を教えてくれた。

お茶や、お花、お客様に求められたら、小さな芸の一つも隠し持っていなければ堂々とした態度ではいられないと小唄のお師匠さんにも週に一度程通わせてもらったりした。

着物や帯もお絹にやるのは惜しくないと自分がもう袖を通さないからと惜しげもなくくれた。

まるで実の娘か、実の妹のようによくしてくれた。

そのお蔭でこの五年でお絹は衣装代にかけるお金をそのまま貯める事が出来た。

店には石材店の旦那も来る。

良心的な人柄のその石材屋に話を聞いたみたいと言うと、おかみさんはお絹にエライネー、と目を細めた。

そしてそれなら私が話を聞いてあげようと言ってくれて、そしてあっという間に話を進めて、この店から左程遠くないお寺の墓地に新しく広げた場所を一区画、かなり大きめなのを求める事が出来た。

それはやはりおかみさんの顔によるものだった。

すぐにその場所を買う事にしてお絹はお金を払ってからその場所をもう一度一人で見に行った。

これが終の棲家かー、悪くないナと思った。

墓地にもいろいろ広さがあるが、それはかなり広かった。天気の良い日だったので遠くの山々の裾野が春霞にかすんで何ともいえず気持ちがいい。

近くの桜の花の淡い桃色の何と美しい事。

本当に本当にここに眠れるんだナーと思うと安心した気持ちになる。

そうだ、ここの後ろにも桜の木を植えよう!

お絹は思いついてすぐおかみさんに相談した。

まあ、お絹は楽しい事を考えるんだネーと言いながらお絹に付いて行ってくれて、きれいな物を買って来て植えた。

墓石はこの広さの所だ、どんなにも出来ると思うと楽しみが湧いて、お絹は増々生き甲斐が出来、仕事に精を出した。

目的を持つと毎日が楽しくなる。

楽しいと一日があっという間に過ぎて行った。

ある日、お絹はおかみさんの部屋に呼ばれた。

おかみさんは、「お絹、私もいよいよ六十六歳だ。」と笑いながら言う。

毎日会っていると変わらず若く美しい。世間の女の人はこの年になると腰も曲がって、本当のお婆さんだがおかみさんは少しも変わらず今も若々しい。

考えればお絹もいつの間にか五十四歳になるという筈だった。

今の私は、人からはどのように見えるのだろうか。

そんな事を一瞬考えていると、おかみさんは、「以前、お絹に話した事があるだろう。ずっと夢だった気ままな旅に行って来ようと思うんだヨ。お絹に留守番を頼んでネ。」と言った。

「はい。」と不安気に答えるお絹に、

「お前はもう大丈夫だヨ。この私が仕込んだんだから。昨日のように今日すればいいし。今日のように明日もそうすればいい。お前の力になってくれる板場の者達にも女中頭にも、また気心のしれた旦那衆にも

困った時は相談に乗ってくれるよう話をしてあるからネ。お絹、お前は自分が思っている何倍も立派なおかみなんだヨ。自信を持っていていいんだヨ。この店をどうかお願いしますヨ。」と、最後にはおかみさんに

手をついて頼まれてしまった。

「それからお絹、これは私が自分が死んだ時の為にと別に用意していたお金だ。私には身内もいないし一人っきりだっし、墓を建てようなんて考えた事もなかった。けれど、お前が墓を建てる時に使っておくれ。

そしてその中に私も一緒に入れてくれないか。」と言って、かなりのお金をお絹の前に差し出した。

そしてお絹に、「受け取ってくれるなら、一緒に入れてくれると思っていいんだよネ。」とニッコリ笑う。

お絹にとっても死んでから一人よりも二人の方がいいに決まっている。

「おかみさん、旅に出かけるお金は大丈夫なんですか。」と心配すると、

「お絹に心配されるなんて。」と言っておかしそうに笑った。「大丈夫だヨ、万一足りなくなったら金送れって手紙をよこすからネ。墓の方は常連のお客様の中にいい人がいるから欲得抜きで相談に乗ってくれる筈だ。

お絹の建てた墓を早く見たいものだ。」そう言ってその後いくらもしないで、おかみさんは寄り合い仲間の隠居達男女合わせて十名ばかりの団体で旅に出かけて行った。

皆、仕事を子供に譲って悠々自適のお金持ちばかりだもの。さぞ豪勢な旅が出来るでしょうと使用人達は集まって見送った。

こうしてお絹はその時大きな料理屋のれっきとしたおかみになってしまったのだった。


墓石は思いがけなくおかみさんが大金を出してくれたのでお絹は、自分が貯えた分と合わせてかなり立派な物を作る事に決めた。

おかみさんもお絹も子供に残すお金の心配はいらない。自分だけならいざ知らず、料亭をここまでにして来たおかみさんが入る墓にふさわしい十分な構えの物にしようと…考えた。

それが今までの付き合いも手伝って更に豪華なものが出来上がった。

手がけた墓石屋の旦那が、なんていったった二人のおかみが入ろうってんだ。飛びっきりあでやかで豪華にしなくっちゃねと特に力を入れてくれたのだ。

お絹は嬉しかった。

こんな豪華な墓はそこら辺を見渡してもない。おかみさんが見たら喜んでくれるだろう。


店の方はお絹が心配するような問題も起こらず、一日が無事くれるとフーッと胸を撫でおろし、また一日が終わると一安心した。

働いている者達が心を一つにして留守を守っているという実感があった。

「皆が力を合わせて留守中頑張っていたら、おかみさんがお土産を買って来てくれるんだって!!」と言うと、「そうだ、そうだ。」と言い、板場の若い男が「頑張らない者は土産を貰う権利がないんだからナー。」と言って

皆で大笑いした。

お絹はそんな皆が我が子のように可愛くて、ああ、おかみさんはこんな気持ちでいたんだナーとしみじみ思った。

ほんの些細な事はいくつかあったが、それもお絹の才覚でなんなく納めて三ヶ月が経とうとしていた。

おかみさんはどの辺にいらっしゃるんだろうと考えていると、酒屋の灘屋から使いの者が来て、あと十日もしたら旅を切り上げて帰って来るそうですとの使いだった。

行く時はこういう事はもう最後だろうから、一年ぐらいものんびりしてくると出かけて行った一行だった。

誰か途中怪我や病気になったのだろうか。

まさかおかみさんが?と心配していると、旅の一行が元気に帰って来た。

おかみさんも少し陽に焼けはしたがいたって元気そうである。

店の者達にはまとめて後からお土産が来という。土産話が先になった。

いい旅だったという。

あちら、こちら有名な所を見て歩き珍しい物と聞くと何でも食べてみてあっちの温泉に入りこっちの温泉に入って、それはいい思いをした。

あちらの神社、こちらの寺でお賽銭をあげてお願い事をして歩いた。土産物も沢山買った。

そして三ヶ月もすると誰かが、何だか家が恋しゅうなったと一言言うと、皆私も私もと言い始めて誰も反対の者はいなかった。

そしたら土産物を仰山買って帰りましょうかという事に話が決まった。

まだまだ旅がしたいと言う人は一人もいなかったんですヨ。もちろん私も十分楽しみましたとおかみさんは言って笑った。

お土産はおかみさんの後から仰山送られて来た。皆めでたく珍しい物を受け取る事が出来た。

おかみさんがお絹に、「お店の方どうだった?」と聞くので、些細な出来事を含めて話すと、「お前はもう立派なここのおかみですヨ。私は今まで十分に働いたから、これからは気ままな後見になります。この店のおかみは

これからお絹お前だからそのつもりで。」と言われた。

おかみさんは旅から戻ると以前よりもなおおっとりとして夢見がちになり、ちょこちょこ外に遊びあるくようになった。お絹をすっかり信頼して任せているようであった。

それでもお絹は、何かあったら相談出来るおかみさんがいつも呼べばすぐの所にいると思うだけで、留守中の時のように緊張する事なくゆったりとした気持ちで店に立つ事が出来た。

ある日、石材屋からすっかり墓地が出来上がったという知らせを受けて、おかみさんと一緒に見に行った。

それは図面で見て想像していたより美しく、墓地をくるりと囲むかこいは上品な竹細工で出来ており、かこいの中に敷かれた真白な玉砂利砂も清らかで中央の緑がかった御影石の石塔を奥床しく守っている風情があって申し分のない

出来だった。

おかみさんも大変満足し、お絹は涙が出る程の感動を覚えた。ここが私達の終の場所だ。やがて後ろの桜が大きく育って花をつけるだろう。その様子は何とも言えず雅な感じがした。

その寺の住職にお経を上げて貰い、それが済むといつなんどきやがて訪れる死も安心して迎える事が出来るのだ。

本当の自分の落ち着く場所が出来たと思った。


おかみさんは十六の年から、この店の最初になる小さな食べ物屋を始めたと言っていた。

その何年も前から、病気の妹や家の為に苦労のし続けだったのだろう。そんな事は少しも感じさせない人だが、お絹に店を任せてからは若い頃出来なかった、いわゆる青春を取り戻すかのように友達と一緒に遊びに出掛けるようになっていた。

お絹はそんなおかみさんを実の姉か母親を応援するような目で見ていた。今まで散々苦労なさったのだもの、悔いのないようになさいませ。


お絹はすっかり店のおかみであった。もう大分前から部屋も元のおかみがいた部屋に移り、おかみは店の離れにあたるところに移動して、そこにはいろんなお友達を招いているらしかった。

お絹はそれでも朝と寝る前には必ずおかみさんの部屋に行き、おいでになるお客様の人数やお名前を報告したり、お料理の品書きを確認して貰ったり、その日一日の様子を報告する事を忘れなかった。

お絹は板場の者に、漬物の漬け方、塩加減や重しの加減量を細かく教え込んで、自分では漬物を漬けてはいなかったが、朝には必ず味見して確かめていた。

その日も出来上がったものを味見して、板場の若い子に「大分、漬け方のコツをつかんで来たみたいだネ。おいしく漬かっているヨ。」と言っている所に、裏口からじっとお絹を見ている目に気がついた。

可愛い十二・三の女の子だ。粗末な綿の着物を着ているが、目がクリっとしてその目が一心にお絹を見ている。

それにお絹を見たその目は何故かお絹に好感を持っているような。

例えば懐かしい人に出会ったような、そんな目に見えた。

誰だろう?こんな若い子に知り合いはいないし、親戚の娘にしたって私を知っている筈はない。そう思っていると、その娘はお絹の近くに歩いて来てペコリとお辞儀をした。

その目ははっきり嬉しそうに微笑んでいる。

可愛い娘だが、誰だろう?

そう思っていると後ろからいつも来ている野菜売りの男が顔を出した。「おはようございます。いつもお世話になっています。これは娘です。」と言う。

「こいつが小さい頃におかみさんからお握りをいただいて食べた、あの娘です。」

お絹はああ、あの時の小さい女の子がと気がついた。

あの小さい子がこんな娘になったのかと改めて月日の流れの早い事を知って、「あの時のお嬢ちゃんがもうこんなになりんさったの?」と言うと、

「あの頃は女房を亡くしたばかりで私はこの子をいつも一緒に商いに連れ歩いていました。初めてお絹さんに会ったあの時も、母親恋しい盛りの子供と野菜は売れないしで正直、泣きたい気持ちでいたのです。その時、お絹さん、いえおかみさんから

いただいて食べたあのおにぎりの美味しかった事。きゅうりの漬物の美味しかった事。その後もずっと野菜を買っていただいて、この店に卸す事が出来て。本当はおかみさんは私達にとって観音様みたいな方です。この子も小さいながら、あの時の

嬉しさは心にしみたらしく、いつも時々話していたんです。あの時の事を思い出すらしく、私が今は立派なおかみさんだヨというと、一緒について行って会ってみたいというものですから今日は一緒に来ました。」

お絹はいっぺんであの日の事が蘇って来た。そうだったのか。

お絹だってあの朝、家を飛び出して、これからの当てもなく本当は不安で心細かった時だ。

あの時、思わず目が合った。そして朝握った握り飯を一緒に食べた。人に喜んでもらう事で自分も元気が出たような気がしたのだった。

あの時、あの小さな女の子は母親を亡くしたばかりで本当に心細かっただろう。時間が経った今初めて、その事情を知ってお絹の目はジンとして目頭が熱くなった。

「あの時の事を覚えていてくれたの?」と聞くと、頬を染めて”はい”と言った。

そして、「あの時の事は一生忘れません。本当にありがとうございました。」と言った。

素朴な女の子に見えたがきちんとしている。

お糸は、「きちんとあの時のお礼が言えて安心しました。」そう言ってニッコリ笑った顔が愛らしい。

お絹が、「いくつになりなさるの?」と聞くと、「十二歳です。もう少ししたら、十三になります。」と言う。

お絹は何だか懐かしいこの娘に好奇心が湧いて、父親に向かっていろいろ聞いた。

今までは年取ったおふくろが面倒見てくれて、畑も手伝ってくれていたが、いよいよ年取ってここ半年ぐらいは逆にこの子が寝込んだ祖母の世話をしていたが、とうとう年には勝てず少し前に亡くなったという事であった。

その葬儀に来た妹夫婦がこっちの事情と自分たちの事情を合わせて考えて、これからは夫婦揃って畑作りを手伝ってくれる事になった。そういう話をした。

お絹は実は、その若い娘を見た瞬間から何か自分の中で動くものがあった。

「名前は何と言うの?」と聞くと、「糸と言います。」とはっきり答える。その受け答えを見ても、さっきのお礼の言葉もきちんとして賢い。

お絹は思いきって、「お糸ちゃん、もしも良かったらここで働いてみる気はない?」と言った。

お糸は一瞬、顔を輝かせて父親の方を見た。父親は、「それはもう有難いお話なんですが、うちの娘のようなものがこんな大きな店で務まるでしょうか?」と言う。

「それなら大丈夫です。最初は誰だって新人なんですから。おうちへ帰ってもう一度相談して、もしもその気ならまた、お父さんと一緒にいらっしゃい。」

「はい、必ず来ます。よろしくお願いします。」

父親とお糸はいつものように野菜を卸すと帰って行った。

お絹は思い出していた。

おかみさんが橋の袂で漬物を売っている私を見た時、この人は信用出来る人だと思ったと言ってくれた。それが勘だと言っていた。お絹も何故かその子の目の中に好感を持ったのだった。

母親を亡くしたばかりの子と何もかもどうでもいいという気分で家を出て来たばかりのお絹がそこで会って、今また、何年か越しに自分を覚えていてくれたというこの娘が、何かの縁で結ばれているような気がした。

それに長い事、野菜を届けに来る父親も善良な人間だという事は解っている。この子を育てて、いろいろ教え込んで見たいナという気持ちが突然湧いた。

おかみさんが私を仕込んだように。私もこの娘を仕込んでみたい。そういう気持ちになったのだ。

お絹はその夜、仕事が終わると離れに行って今日訪ねて来たお糸という娘の事をその出会った時の事から詳しく話し、

「大おかみ、私、正直その子の事が一目で気に入ったんですヨ。墓も建てて安心した所に急に飛び込んで来たあの娘の事が。どういう訳か大おかみが私を仕込んでくれたように、lわたしもそうして見たいと思っちゃったんですヨ。おかしいでしょう?」と言うと、

「それはきっとお絹の勘だね。私だって今までその勘だけで生きて来たんだ。その娘を思う気持ちはその娘にきっと伝わるだろうヨ。やってごらん。お絹のいわば新しい夢だ。だけれどねお絹、人を育てるにはネ、あんまりかぶさった教え方はいけないヨ。特に

若い子はネ。おおように気を長くして、愛情を持って入ればきっと、いつの間にかお絹の夢は叶っているだろうヨ。後はお絹の好きなようにするんだネ。」そう言ってくれた、


次の日、お糸は約束通りやって来た。

お絹は店の者達に、「明日お糸という娘が来るが、私が小さい頃から知っている子だ。何も知らないで厄介をかけると思うけれど、宜しく頼みますヨ。」と言っておいた。

店に働いている者達にいつの間にか話が伝わっていて、お糸が入って来ると、「お糸ちゃんが来た!」と知らせてくれた。

皆、年のかなり上の人ばかりなのでまだ十二・三の少女は周りから、お糸ちゃんと可愛がられるだろう。お絹はその様子を見て一安心した。

お糸を、前に自分が使っていた三畳の部屋に連れて行って、「お糸、これは以前私が使っていた部屋だが、一人は淋しいかい?」と言うと、

「いいえ、この部屋が気に入りました。ありがとうございます。」とキチンとしている。

お絹はお糸の髪をもう一度とかして結ってあげると、離れの大おかみの所に連れて行った。


「大おかみ、お絹です。先日お話ししました、お糸を御挨拶に連れて参りました。失礼して宜しいでしょうか。」と言うと、中から「お入り。」という声がした。

戸を開けてにじり入ると、大おかみはいつにも増して美しい深い水色の上品な着物を着て待っていた。

お絹は内心感謝した。大おかみが、お絹がお糸にどれだけの想いを抱いているのかもちゃんと見抜いてくれてるような気がしたのだ。

お糸は大おかみの前でお絹が教えたように三つ指をついて、「お糸と申します。どうぞ宜しくお願い申します。」と挨拶した。

その様子を大おかみはおっとりと目を細めて見ていた。

「お糸ちゃんと言いなさるの?このおかみさんはネ、いわば私の娘のようなものです。そのおかみにとって大事なお糸ちゃんは私にとっても大事な孫のような者。私はネ、楽しみにしていたんですヨ、お糸ちゃん。ここにはネ、いろんな人が働いています。

お客さんもいろんな方が見えます。お糸ちゃんはまだお客様の前には出ませんから、ここで働いている人達に混じっていろいろ覚えていく事になるでしょう。どの人もネ、一人一人がその人にとって一生という物語の中の主人公になって必死に頑張って生きています。

私もそうです。おかみさんもそうです。そしてお糸ちゃんも。お糸ちゃんの人生の中では主人公でしょ?今までも悲しい事はあったでしょうが。これからも悲しい事、苦しい事があっても一生懸命生きていくでしょう。そう思って周りの人や相手を御覧なさい。

どんな人も尊く見えますから。そして周りの先輩に感謝の気持ちを持って励むんですヨ。なんでも困った事があったら我慢しないでおかみに聞きなさい。」と言ってくれた。

だけどお絹は最初から考えていた事だが、お糸を大おかみのおそば係にした。

皆にはお糸は大おかみの側で行儀見習いをする事になるけれど、この店の中を知っておく為に十日程、そうじや食器洗いや雑用を手伝わそうと思うので教えてやってほしいと頼んでおいた。

お絹は皆の中に混じって働くお糸の様子を見てみたかったからである。

お糸はまだ十三ながら懸命に働いているようだった。その間にお絹は、大おかみにお糸をお側に置いていろんな事を教えて欲しいと頼み込んだ。

大おかみのお側にいる事がそれだけで勉強になるから。そして、お糸の躾は大おかみに全てお任せしますからと頼み込んだ。

その十日程の間にお絹は、お糸に合うような着物を何枚か作っておいた。

絹とかそういう高価な品ではないが、大おかみがお供に外に連れ歩いてもいいようなきれいな物を選んだのだった。

十日程、店の雑用を経験したお糸にお絹は聞いてみた。

「どう?慣れなくて大変だったでしょう?」

お糸は、「いいえ、緊張しましたが、とても勉強になりました。」と答えた。

「明日からは大おかみのおそば係をして貰います。大おかみという方は自分一人の腕でこの店をこれまでにした方です。私が一番尊敬している方です。少しも怖い人ではないし優しい方です。本当は私がお側についていてあげたいのですが、それは出来ませんから。

お糸がお側にいて精一杯大切にして下さいネ。大おかみのなさる事、大おかみのおっしゃる事、よく見ていてよく聞いていれば、お糸はきっといつか大おかみのような素敵な女性になれますからネ。お願いしますね。」お絹がそう言うと、お糸は大事な仕事を任せて

貰った人のように「精一杯、おかみさんの為に頑張ります。」と答えた。

次の日、きれいに髪を結って新しいこざっぱりした着物を着せてお糸を大おかみの元へ連れて行った。

「大おかみ、お糸は前向きな娘です。どんな些細な事でも本人の為と思って教えてやって下さい。後は宜しくお願いします。」そう言って置いて来た。

お絹は店の方も忙しかったが、お糸の仕込みを大おかみに任せたのだった。

そしてお絹は一切口出しをしなかった。

お糸が朝早く起き顔を洗うと、離れへ行き大おかみの諸々の世話をしているのはお膳を持って行ったりそれを下げたりしているのを横目て見て知っていた。

お糸は何とかやっているようであった。

一ヶ月経ち、二ヶ月経ち、三ヶ月経ち、

お絹は心の中では気になっていたが、朝夕の大おかみへの報告の時も何も聞かなかったし、お糸にもニッコリ笑顔を見せるだけで何も聞かなかった。

お糸は最初、緊張しているような硬い表情をしていたが、やがて段々慣れて来たのだろう。三ヶ月もすると、大おかみについて外に出掛ける時の二人の様子を見ていると、まるで実の祖母と孫のように仲睦まじく見えるようになった。

半年も経った頃、お絹は大おかみに初めて「本当にお疲れ様でした。大変だったでしょう。」と言って労った。

大おかみはおおように、「あの娘は本当に良い子だネー。さすがお絹が見込んだだけの事はあるわね。今では私もすっかりあの子が可愛くなってしまってあの娘にいろいろ習い事をさせたいと思うのだけどどうかしら?」と言った。

「全部大おかみにお任せしたんです。良いと思う事はそうしてあげて下さい。」

どうやら大おかみとお糸の間の他人という空気がかなり薄れて情が湧いて来ている事は確かなようだった。

それからお糸が来て一年経った頃、大おかみがお絹に、

「お糸はなかなか賢いし見込みのある娘だヨ。お絹の勘はなかなかのものだヨ。もしも本人の気持ちと父親の気持ちが承知なら、お絹、あの娘を正式に養子縁組をして娘としてここに入れた方が良いと思うんだがネ。」と言った。

お絹は大おかみのその言葉を待っていたのだ。

その夜お絹は、三畳のお糸の部屋に行ってその事をお糸に話した。

お糸はもう十五歳。なんでも自分の事を考え、判断出来る年頃だ。お絹とお糸はその晩、久しぶりに元のあの小さい女の子だったお糸と家を出て来たばかりのあの頃のお絹に戻って気どりもなく肩ひじ張る事もなく本当の母と子のように

しみじみおしゃべりをした。

お糸はお絹の養女になる事をすぐに受けてくれた。いつかは、いずれこの店を継いで貰う事になるけれど、一度実家に帰ってお父さんと相談してみるようにと休みをとって帰らせた。

次の日、半年の間に見違えるように垢抜けてきれいになった娘と一緒に野菜売りの父親が顔を出し、

「おかみさんどころか大おかみにも可愛がっていただきお糸は幸せ者です。宜しくお願いします。」と挨拶に来た。

絹と大おかみは相談して、それ相応の形を整えて盃事をした。

こうしてお絹はお糸という娘の母親になったのだった。

いろいろ三人で話し合った末、お糸は今まで通りあの三畳を自分の部屋にし、今まで通り大おかみのおそば係をし習い事をするという事、正し、月に一・二回はお絹とお糸が母子として一緒に買物等に出掛ける、そういう事にした。

普段は大おかみに預けている我が子と遠慮なく二人で楽しく過ごす日を持つ事がそれからのお絹の楽しみになった。

お絹は幸せだった。

こんな良い子を残して亡くなった実の母親に感謝した。

ある日お絹は、「お糸、今度お糸を生んでくれたお母さんのお墓参り一緒に行こうか?お糸はこんなに素敵な娘になりましたと見せてあげたいし。こんな良い娘を生んでくれてありがとうございますとお礼も言いたいしね。」

そう言って二人は一日休みを貰ってお糸の実母の墓参りをして来た。

人の縁とは何と不思議だろうと思う。

子供が授からないとあきらめていたお絹にも今では娘と呼べる子供がいる。

お絹は幸せだった。

こんなに幸せでいいのかと思う程だった。

今の店があそこに移転して十年毎に、紅白の餅を作りそれを関係者やお客様に配ってお祝いする日がやって来た。

祝いにかけつける客も正装なら迎える大おかみもお絹も新しく仕立てた最高の着物を身にまとい、お糸も美しい振り袖姿であった。

お祝いの席も終わり、お客様のお帰りを見送っている所に、風采の上がらない貧相な老人がウロウロ何かを探すように近寄って来た。

絹はその時大切なお客様をお見送りするのに忙しく少しも気がつかなかったが、それに一番先に気がついたのはお糸だった。

何か華やかなその場に一番不似合いなその老人が何か聞きたそうに近づいて来るので、お糸が「あの何か?」と聞いた。

その貧相な老人が、「こちらにお絹という人はいませんか?」と聞いた。

お絹というのはおかみの名前だ。だけどこの人は誰だろう?

お糸は咄嗟に近くにいる大おかみの傍らに行って耳打ちした。

大おかみは何かピンと来るものがあったのだろう。ゆったりとおおように、

「何かお絹という方をお探しのようですが。」

「はい。ここにお絹がいると聞いたもので。」とその老人は答えた。

見た瞬間、良からぬ人物と勘が働いて大おかみが、「私の一人娘もお絹と言いますが。」と言った。

するとお糸も「私の母の名です。私はお絹の娘です。」と言った。

そのうらぶれて身なりの汚れた老人は「あのー、ここに働いている女の人の中にお絹という人はいませんか?」となおも執拗に聞いて来た。

大おかみの勘は、この男がお絹の元の亭主だとピンと来ていた。こんな男は変に隠し立てしてもかえって為にはならない。

そう思った大おかみが意を決して、その他にお絹という名前の人はいませんが。貴方の探しているお絹ではないと思いますけど。あそこで大事なお客様に御挨拶しているのがこの子の母親で私の娘のお絹ですが。どうぞお確かめ下さい。」

と言って手でお絹の方を指した。

そこにはあでやかな着物姿のこの料亭のおかみのお絹がそうそうたるお偉方のお客人達を相手に、にこやかに歓談しお見送りをしている最中だった。

その老人は目玉が飛び出さんばかりにお絹を見た。それはまぎれもなくお絹だった。

若い頃美しかった頃のお絹が、更にそれに磨きをかけて豪華な衣装を身にまとって優雅に振る舞っていた。

老人はワナワナ震えて見ていた。

その耳に「貴方がお探しのお絹さんですか?」と大おかみが訪ねると、老人は震えながら「いいえ違います、違います。」と言って慌てて立ち去って行った。

それを見て、大おかみは急いで紙になにがしかのお金を包むとそれを紅白の祝い餅の箱にそえてお糸に、「あのお爺さんに差し上げなさい。」と言って追いかけさせた。

お糸は急いで追いつくと、「お爺さん、大変残念でございました。今日はうちの店の大事なお祝いの日です。大おかみからせめてこれを差し上げてと言い使って参りました。お爺さんの探しているそのお絹さんという方見つかるといいですね。

さようなら。お気をつけて。」

無理矢理老人にその餅とつつっみを渡してお糸がそう言うと、老人は哀れな顔に涙を浮かべて力なく帰って行った。


俺が馬鹿だった。

俺が馬鹿だった。


そして二度と老人は姿を現わさなかった。お絹はそういう事があった事を少しも知らなかった。

ただずっと年をとってから、あの亭主はあの後どうしただろう。親兄弟も多くいて外面のいい男だからどうにかうまくやっているだろう。そう思ったりした。

それから何年かして、お糸は立派な美しい娘に成長し、お絹がそうだったようにおかみのお絹の後ろについて座敷を回りながら仕事を覚えた。

板前の中から腕も良く誠実な男と一緒になって次のおかみになった。

やがて子供も生まれ、お絹はおばあちゃんと呼ばれるようになった。

大おかみも随分長生きをした。お絹も大おかみに負けないくらい長生きをした。

二人共、最後まで美しくあでやかだった。

そして、今はあの立派な緑色の御影石の墓に眠っている。今頃二人して何を話しているのだろう。

美しい竹垣で囲んだ白い砂の上にハラハラと桃色の花びらが散っている。何と美しい景色だろう。

あの二人に正にふさわしい終の棲家だ。

お絹さん、本当に良かったですね。散る花びらを受けながら心からそう思います。



おわり



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

山ん婆の昔話/お絹の出世 やまの かなた @genno-tei70

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ