山ん婆の昔話/お絹の出世
やまの かなた
第1話 山ん婆の昔話/お絹の出世
女の子は生まれたらほんの物心がつく頃からいつかはお嫁さんになる事に憧れるものだ。
誰かを好きになってお嫁さんになる事が幸せの到達点だと思っている。
そんな多くの娘達の夢を壊すようで悪いがもしも年頃になってもそれしか考えていなかったら大間違いだヨ。
中には絵に描いたような一生を送る人がいるかも知れないが、七・八割方は思っていた事と大分違う現実がまっているものなんだヨ。
まず、幸せにして貰おうなんておもっちゃいけないヨ。
自分が相手や子供を幸せにしてあげなきゃネ。
それでもどうしても駄目だったら、その時は自分が強く決心して生きて行くんだネ。自分の進みたい道をサ。
昔々の話。女が生きにくい世の中の事。
日本のある所に住んでいる一人の女が見えて来たヨ。
女はもう若くないようだ。年は四十八歳。
もう五十に手が届く年になってしまって、亭主はいるようだがどういう訳かその女にはとうとう子供が授からなかった。
顔も並みなら見た目も普通のごくありふれた日本の女だ。
学がある訳ではないが、自分は人より劣っているとは思っていない。
もう孫がいてもおかしくない年頃の人並みの女だ。
三十過ぎの頃、子供のない生活がどうにもこうにも物足りなくて、ひところ貰い子をしようかと考えていた事があるが、亭主というのが怠け者で、年がら年中、やれ頭が痛いだの腰が痛いだの、はたまためまいがすると言っては始終頭を振ってみたりで、まともな日は一日としてない男だった。
それだけなら体の具合の心配もするのだが、ろくな働きもない癖に酒ばかり飲んでいる。
その酒がせめて良い酒ならいいが、酒を飲むとからむ酒で決まって機嫌が悪くなるのだから始末が悪い。
酒が入ると腹が立って来る質で、その口から出る言葉は誰かれに対する悪態ばかり。その果ては女房の気に入らない所を何やかやともっともな風に文句をつけるどうしようもない男だった。
人というものは年を重ねると人間が出来て来るというのは嘘で、この亭主の場合は一緒になったばかりの若い頃はほんの一時優しかったのが、この頃では飲んでいない時でも体の中に酒の気が残っているのか朝から不機嫌な顔をしては相手がいると文句の休む暇が無い。
女房や家の中を睨みまわして、些細な事を見つけては文句を言う。
その癖、一歩外に出ると急に善人顔になって、必要以上に周りに気を遣い良い人になるのだった。
その気の遣いようが家に帰って来ると途端に反転して、頭が痛い腹が痛い胸がムカムカすると具合悪さになって次の日には仕事を休む事も多かった。
そういう亭主と一緒になって三十年、女房の名前はお絹と言った。
お絹は先からこの亭主には愛想を尽かしていたが、親や世間体に体を縛られてズルズルとこの年になってしまったのだった。
そんな亭主とはとっとと分かれてしまえばいいものを、女一人で生きて行くには何の当てもないような気がして、それに心のどこかで世間のあらゆる女はこの程度の事はきっと我慢しているのだと自分に言い聞かせていた。
そしてたった一つ通い奉公の仕事場が、その逃げ場のようになって一日、また一日とここまで来てしまった。
そういったある日、お絹が疲れて帰って来ると亭主は仕事を早くひけて来たのか、それとも出て行くふりをして仕事を休んだのか、もうベロベロによって酒臭い息でお絹の顔を見ると、すぐにからんで来た。
気兼ねなく文句を言えるお絹の帰りを待ち構えていたのだが、そこは狭い一間だけの長屋だ。どこに行けばこのうんざりするような亭主の目から逃れられるというのだろう。
一年中、毎日の事だ。まるで牢獄のようだ。もしかしたら牢獄の方がましかも知れないと思ったりする。
お絹は今日仕事帰りに仲睦まじい老夫婦を見たばかりだった。
優しいお爺さんがお婆さんを労わっていた。お爺さんもお婆さんも柔和な顔をしていた。それをみて羨ましいというより、自分のこの先の長い道のりを思うと果てしない地獄がずっと続くようで悲しくなって来たばかりだったのだ。
どんなに貧しくたっていい。体が弱くてもいい。気持ちの優しい亭主なら女はどんなにしても我慢が出来るものだ。
薄い粥を啜ったっていい。静かな暮らしが出来るなら女は耐えていけるものなのだ。
それなのに自分のこの亭主は、家の中に一歩足を踏み入れた途端、やっぱりあの文句のある目をドロドロさせて悪態をつき始めた。
「何だ?そのツラは?」そのグチグチした悪態が酔い潰れて寝るまで延々と続くのだ。まるで生き地獄だ。
亭主は自分の煮えくりかえるような不満を思う存分投げつけれる相手を待っていたのだろう。
もう駄目だ!とお絹は思った。
今日は腹の底から怒りがグググッと湧いて来た。
いつもなら自分の人生はこんなものなんだと諦めて自分をなだめて耐えるお絹だったが、この長年抑えに抑えていたフタがどこかに飛んで行ってしまって、堪忍袋の緒がブチっと音を立てて切れるのが自分でも解った。
もう我慢ならない。
お絹は手荷物を床にドンと落とすと、平然と亭主の側に行った。
そして亭主がいつもするように皿、小鉢、酒がのったちゃぶ台を思いっきりひっくり返してやった。それから、そこらへんにある座布団や何かを手あたり次第亭主に投げつけた。
まずその事だけで亭主はびっくり仰天した。
普段自分が酔って暴れても文句一つ言わず下を向いて、散らかった物を片付けている女房がいきなり豹変したのだ。
腰を抜かして見上げている亭主の前にお絹は仁王立ちに立つと、思いっきりドスのきいた声で言ってやった。
「バカヤロウ!何様だと思っているんだい。言っておくけどね。お前って男は大した男じゃないんだヨ。解っているのかい?それをこっちが大人しくニコニコ言う事を聞いてりゃいい気になって。
グチグチ、ネチネチ言いたい放題の毎日だ。ええー?毎日だヨ!一年中、毎日だヨ。ふざけんじゃないヨ。もうこんな所にはアキアキしたヨ。今までだってうんざりする事は何度もあったけれど、今度という今度は
許さないヨ!あーあ、今まで我慢するんじゃなかった。」
お絹は驚いている亭主に人差し指をつきつけて言い渡した。
「今までの事は絶対許さないからネ!もしも未練がましく追いかけて来たりなんかしたら、ただじゃおかないヨ。痛い目に会うヨ!解ったかい!解ったら今すぐどっかへ行って帰って来るんじゃないヨ。お前の顔など金輪際見たくも無い、出てけ!出てけ!」と追い立てた。
世間では夫婦喧嘩なんかザラにあるし、それでもまた仲直りして何でもないように生活している人はいくらでもいる。
だから、このくだらない男との生活も我慢しなくてはいけないと思って今の今まで耐えて来たのだ。
お絹には親も兄弟もいる親戚もある。その人達がこれを知ったら何て言うだろう。男とはそういう者なんだ。女は何事も我慢して亭主に仕えるものなんだと諭しにかかるだろう。
だが、そう言う人は他人の事だから言えるのだ。私はネ、ああしろ、こうしろ、ああするな、こうするな、お前はダメな人間だと毎日、年がら年中言われ続けるんだヨ。
これから先の残り少ない私の人生がどうなっても構わないと言うのかい。
もしもそう思うなら、親でもないし兄弟でもない。心の中でお絹はそう思った。
もうやめた、やめた。こんな男、外面が良くて、口うるさい、女の腐ったみたいで酒以外の事にはケチで、ロクに稼ぎがない癖に威張り散らして文句ばかり言っているこんな男、ほとほと愛想が尽きた。
世の中の男がみんなこんなのばっかりじゃないかも知れないが、もう女房家業なんてウンザリだネ。こっちから三下り半を叩きつけてやる!
亭主を家から叩きだす時、お絹は言ってやった。
「そこの馬鹿亭主!私が別れるのに文句はあるかい!」と凄んでやった。
亭主はブルブル震えながら首を横に振った。
「何?はっきりいいなヨ。えっ?文句はないんだネ。後でグチグチ言うんじゃないヨ。」と言ったら首を縦に振って外に逃げて行こうとした。
お絹はその後ろ姿に向かって腕まくりをして、「へん、ざまあみろ、ベランメー。」と悪態を投げ言いたい事は、言ってやった。
今まで口に出した事のなかった乱暴な言葉をポンポン口に出して、あーあ、すっきりしたと思った。
それから、亭主のいなくなった家の中を見回して、散らかり放題の家の中が急におかしくなって大笑いに腹をかかえて笑った。
あーあ清々した。なんて気持ちいいんだろう。あの馬鹿亭主は今までのように図に乗るような事は無いと思うけれど、金輪際あんな男はこっちから願い下げだヨ。
ちゃぶ台や散らかった物を手早く片付けながら、お絹の頭の中は、あれこれ持って行くものの事を考えた。
もう心を決めると、この生活に全く未練はなかった。まず大きな風呂敷を二枚広げてその中に自分の着替えと必要なものを包みまとめると、さしあたり寝る時のものも必要と考えた。
掛け布団と敷布団と枕を一つにして縄で縛ると隣の家のおかね婆さんに預かった。
一人暮らしのおかね婆はお絹達のケンカの一部始終を聞いていたらしい。多分、あのいつもニコニコして大人しいお絹がこんなにも恐い女だったのかと内心びっくり仰天している事だろう。
お絹は「おかねさん、聞こえたかも知れないけれど、私達とうとう別れる事にしました。今までの生活にうんざりげんなりして、あのていしゅとはもう一日だって一緒にいたくないんです。
顔を見たら胸具合が悪くなってもどしそうになりますからネ。」と笑いながら言うと、おかね婆も仕方なさそうに笑った。
「それでお願いがあるんですけど、この布団一式をおかねさんの所で預かって貰えませんか?私は明朝ここを出て行きますけど、二・三日したら布団を取りに帰って来ます。もしも一週間経っても顔を出さなかったら、おかねさん、それをどのようにしても構いませんから。それから亭主には何か聞かれても何も知らないと言って下さい。」
おかね婆は、「でも、どこへ行くんだい?実家かい?」と聞いた。
「いいえ、実家には帰りません。どこかきれいな空気が胸いっぱい吸える所に行って暫くは命の洗濯をして、それから考えてみようと思うんです。」と言うと、
「そうかい?何だか淋しいネエ。」とおかね婆は言った。
お絹は心の中で、多分、この布団を取りに来る事はないだろう。
おかね婆も貧乏だから、お絹の布団一組は大助かりだろう。少なくともあの愛想のつきた亭主の所に自分の使った布団を置いておく気にはなれなかった。
おかね婆の家から帰り、自分の家の流し場に戻るとお絹は、流し場の下の糠床のカメと梅干のカメを取り出した。糠床だけは持って行くつもりだ。
梅干の方は底の方に油紙に何重にもくるまれた、お絹のヘソクリが入れてあった。お絹は毎日下駄屋に通い奉公をして二十年以上も稼ぎの薄く酒飲みの亭主を支えて今までやって来たのだ。
着る物もろくに買わず、嫁に来た時のものを器用に、見た目が解らないように擦り切れそうな所にうまく継ぎを当てたり、帯もよそ行き用のが一本あるっきりで、普段通いにしめて行くものは親しい知り合いと
端ぎれをやりとりして縫い合わせたものだった。その端ぎれで出来た細帯は、いろんな柄の端ぎれを繋ぎ合わせると見た目が面白く変わっていて、よく人に「あら、その帯いいわネ。」と言われたりする。
この殆ど金のかからないその帯はお絹の少し自慢でもあった。
それを三本作って使いまわしているようなしっかり者なのだ。
だから、亭主が自分の稼ぎは殆どお絹に渡さず酒に飛んで行きながら、更には一時博打にはまって何度も借金を作って大変な頃があった。
そのたびにお絹があちこちからお金を借りたり、それを返す時も頭を下げて歩いているのを亭主は知っているので、お絹が少しずつ、少しずつ身を削るようにお金を貯めているとは思いもしないだろう。
そういう大きな借金は三度もあった。
ああいうことを三度も繰り返した後では、お絹はこの亭主は信用ならないとつくづく思ったのだ。とにかく自分の稼ぎをお絹に渡す事の無い亭主だった。頼りにしてはいけない。あてにしてはならない。
こんな男は性根の根っこが腐っているのだと思った。
あの時お絹は、世間の目もあり我慢しているがいつかブッチリ切れる時が来るだろう。そう思う事がしばしばだった。
その日の為にと亭主が酒を呑んでくだ巻いている時も、知り合いの野菜屋の女将さんからただで貰って来た野菜の屑を糠床につけそれをおかずに薄いかゆをすすりながら、ほんのわずかのおかねをコツコツ貯めて来たのだった。
いつかの為に…、いつかの為に…と。
その小銭ばかり入った油紙の包みを手に取っていると、さっきまでべらんめえ口調で威勢の良かったお絹の目にジワッと涙が湧いて来た。
私の三十年がたったのこれか…。その小銭の包みはあんまりにもみすぼらしい三十年のようにも思えて来る。無駄に過ごした三十年が本当に情けない。
いつの間にか、すっかり疲れた初老の女になってしまった。
しかし、このまま泣いて年をとって死んでたまるか!そんな意地が湧いて来た。
これから後の人生は私一人だけのものだ。
どこでのたれ死のうと、自分が思い通りに行き、どこへでも行きたい所に行けるのだ。
それだけでも今の私にゃ十分サ。
翌朝、お絹は家を出る時、まず一枚だけの一番いい着物を着た。
その上にいつもの着慣れた着物を着た。そして、いつも履いていた歯のちびた下駄を見ると惜しげもなくおかね婆の家の近くにポンと捨てた。
それから大事にとって置いた薄紫の絞りの鼻緒の付いた上等の桐の新しい下駄を履いた。
普段は菜っ葉を多く入れた雑炊ばかり食べていたけれど、何かの時にと大事にとっておいた米を全部炊いて梅干とおかかのおにぎりにした。
それと、二つ一組の物をいくつもこさえて、それを風呂敷包みの上にしっかり結びつけたのをよいしょっと背中に背負った。
朝といっても、まだ辺りは暗く人の通りもなかった。
誰に見咎められる恐れもなく、顔見知りに声をかけられ、いらぬ詮索をされる心配も無かった。
今まで爪に灯をともすようにしてコツコツと貯めた小銭ばかりの金は四つに分けて三つは帯の内側にそれぞれ縫いつけて、残りの四分の一は財布に入れて行く事にした。
今までお世話になった下駄屋には後で何らかの方法で連絡しよう。一緒に働いていた仲間はみんな良い人達ばかりだった。
だから、今までこんな生活も耐えてこれたんだ。あの馬鹿亭主と暮らしたこんな家、なんの未練もなかった。
お絹は外に出ると、まずどこへ行こうかと思った。
前から気がクサクサしたり辛い時は、風の向くまま、気の向くままにのんびり旅に出たらどんなはいいだろうとよく夢見たものだったが、ここへ行きたい、あそこへ行きたいと思った事はなかった事に気が付いた。
そうか!風の向くままか!
お絹は人差し指をしゃぶって風向きを見てみた。
どうやら、lいつも通いなれた下駄屋とは反対方向のようだ。
いいさ、風の向くままに行ってみよう!!
お絹は歩き出しながら、
フン、どうせ心残りなど何もない。子供が一人も出来なかったのがかえって幸いってもんだ。
実家のお父っつあんやお母さんは心配するだろうが、お絹の他に兄弟が四人おり、それぞれまともな連れ合いに恵まれて悪くない暮らしをしているようだ。
以前、二度三度と亭主が借金を作って、途方に暮れて泣きついて相談に行った時、自分が一番の親不孝になっている事を知った。
けれども、それもこれで終わりだ。
いつか少しはまともな暮らしが出来るようになったら、その時は旨い物でも届けてあげよう。
お絹は今までの弱虫で殻から一歩も抜け出れなかった昨日までの自分とは別の人間になったようで足が軽く感じた。
それは今履いている新しい下駄のお蔭かも知れない。
だってサ。これはそんじょそこらの人が手の届かない最高級の下駄なんだからネ。
今履いている下駄は、霧の中でも特別上物の中から選ばれて作られていた。鼻緒も正絹の絞りの上品な物だ。
女ならこんな下駄どういう人が履くのかネーと皆がうらやむような代物だ。
少なくともお絹のような貧乏人には到底、手の届かない代物だったが、店で一番古い下駄職人の次郎吉爺さんが、お絹のちびた下駄を見て哀れに思ったのか、「ホラ、これを履きナ」と言って、お絹に半端物の桐で作ってくれたのだ。
下駄を作る材料の中には時に傷物があるほんお少しのえくぼのような物でも、高い値段の物として出すわけにはいかない。それで、そういう物は主人やおかみさんや、主人の子供達の下駄になるのだが、
時には働いている者達に安く売る事もあるけれど、お絹の貰った下駄は見た目どこに傷があるのか解らない程だった。
次郎吉爺さんがうまくこさえてその上、これを鼻緒にしな!と言ってくれたのが、藤色の上物の絞りの半端ぎれだった。
「お絹だったらこれを良い所だけ出して鼻緒に出来るだろう?」
そのハギレを見た途端、絞り模様がわずかに残っているそのハギレを自分ならこうしてああするとうまく出来そうだと思った。
「次郎吉爺さんありがとう!!」お絹は家に帰ってそのわずかなハギレから、きれいな鼻緒を作り次郎吉じいさんからこっそり貰った傷物の桐下駄に取り付けたのだった。
お絹は店では色とりどりの生地から鼻緒を作る仕事をしていた。
出来上がった下駄はもうもう履くのが勿体無い程、贅沢な上物に仕上がった。
自分の足をその上にすべらせると、足の所だけが良家の奥様や大店のおかみさんになった気がする。正絹の柔らかいそろりとした着物を着ている足のように見えて来る。
あーあ、私もそんな着物を着てこの下駄を履いて、そろりそろりと歩いてみたいものだ。
ほんのひと時、夢見心地になった後は、お絹はその下駄を亭主に見つからない所に隠しておき、そしてまた、亭主の留守の時にこっそり取り出しては履いて見ていたのだった。
その下駄を今はこうして堂々と履いて道を歩いている。
何度も何度も履いて見てたお陰で程よく足になじんでどこも痛くなく、すこぶる履き心地がいい。
こんな上等の下駄を履けただけでもこの世に生まれて来た甲斐があるってもんだネー。
暫らく歩いて行くと、橋の袂にさしかかった。朝まだ暗いうちから家を出て最初は少し興奮しながら、途中からは初めて来た土地に物珍しく歩いて来てしまったが。
どれだけ来てしまったのか検討もつかない。いつの間にかお天道様が頭の真上に来ている。
どうやら昼時らしいと解る。
そう言えば、朝は何も食べずに家を出て来たのだ、どうりでお腹も空いて来たヨ。
向こうに大きな橋の見える手前の所まで歩いて行き、橋の手前でキョロキョロ辺りを見渡していると、丁度いい場所に切り株のあるのを見つけてそこに腰を下ろした。
そこは割合人通りが多く、いろいろな人達が通り過ぎる。
こんな遠くまで来たんだ。私を見知っている人はいないだろう。そう思うと気持ちも楽になってお絹は握り飯の一組を取り出すと、行き交う人達を眺めながらゆっくりと食べ始めた。
ああ、やっぱり白い米の握り飯は旨いネー。うすい雑炊とはえらい違いだネー。
手にぶら下げて来た糠床のかめを取り出して、その中からきゅうりを一本取り出して、糠を指でしごいてそのまま洗わずにかぷっと食べる。
ああ、丁度いい具合に浸かっているヨ。旨いネー。この味の解る人に食べさせてあげたいネー。
握り飯を一口食べ、きゅうりの糠漬けを食べて満足している顔をじっと見ている目に気が付いた。
少し離れた所の野菜を積んだ荷車の陰で腰を下ろしている男だ。その横に小さい女の子を連れている。
お絹はその方に向かって食べるかい?と手振りをまじえながら聞いた。
男と小さい女の子はゴクリと唾を飲み込みながらも黙っている。
お絹はもう一組の二個握り飯の入った物を小さい女の子の所に持って行ってホラ、梅干とおかかの握り飯だヨ。「お父っつあんと一つずつお食べ」と言ってあげた。
子供は緊張した面持ちでコクリとお辞儀をするとそれを父親の方へ見せた。
すると父親は、「さぞ腹が減っていたのだろう。」なんども礼を言って受け取るとそれを開いて子供に一つをやり、自分も一つにかぶりついた。
それをみてお絹は今までにない満足感を味わった。
そしてまた、糠床からきゅうりを一本取りだすと、それを二つに折って女の子と父親に私が漬けたんだヨと言って渡した。
それを食べた父親は、美味しい美味しいとさかんに褒めた。
お絹は心の中で、この味が解ってくれるなんてありがたいネ。あの馬鹿亭主は当たり前に食べて、一度だって旨いとも何も言った事がない。
おまけに機嫌が悪いとその漬物の入った鉢をちゃぶ台ごとひっくり返したりしてサ、等と思ったりした。
子連れの男は食べ終わると思いついたように、大量の売れ残った野菜をお絹の所にかかえて持って来て、それをお礼にくれるという。
お絹は旅の途中でもあるし大量の野菜なので、最初断ったがどうしてもと言うので、財布の中から少しのお金を出してその親子に与えた。
男は最初はお礼なのだからとお金を受け取らなかったが、その親子とて野菜で暮らしをたてているのだからこんなに大量の野菜をただで貰っては後味が悪い。
お絹はこれからの自分の後先も考えずにその野菜を仕入れてしまった事になる。
親子は嬉しそうに帰って行った。
多分今日は野菜が売れずに大量に売れ残って、帰るに帰れず昼飯を食べる事も出来なかったのだろうとお絹は思って人助けをしたような良い気持ちになったが、そんな場合じゃないと考えて苦笑した。
それにしてもこの野菜どうしたものかネ。
少し元気がなくなってはいるが漬物にしたら立派に美味しい漬物になる野菜だ。
見回すと、丁度真向かいに荒物屋がある。その店に入って行った。
急に行きがかり上、大量の野菜をいただいてしまったので、すっかりしなびてしまう前に漬物をつけたいと思うけれど、この野菜を漬けるような大きなかめを安く売っている所はないかと聞いてみた。
その店を見渡しても皆、どれも小ぶりな物ばかりだ。
駄目でもともと野菜を引き受けたいきさつも正直に話したのが良かったのか、奥で聞いていたかみさんが顔を出して物置に亡くなった婆さんが使っていたものがあって、かなり大きいがそれで良かったらお金はいつでもいいよと言ってくれた。
お絹は喜んでそれを貸して貰い、その店で他に塩と糠と唐辛子を買い求めた。
その上、その家の水場を借りて古い糠床に新しい糠と塩・唐辛子を足して野菜をサッサと漬けた。
親切な荒物屋の主人とかみさんはそれを見ていて驚いたもんだネと言っている。
お絹はお礼に主人とおかみさんに、「お金はないのでこれはほんの気持ちです。」とおにぎりを二組差し出し、漬かっていた残りの漬物も添えてやった。
荒物屋の亭主とおかみさんは物置に寝かせておいた邪魔なおおがめが美味しそうな握り飯と漬物に化けたので、かえって恐縮している。
握り飯の塩加減も美味しいが、この漬物は最高だネ。これは商売が出来るヨと言い出した。
お絹はそれで商売をしようと初めから考えた訳ではなかった。
売れ残った野菜をただ駄目にしたくないという気持ちだけだった。朝から晩まで汗を流して育てた野菜を無駄に腐らせてしまうのが忍びなかったのだ。
漬物が出来たら喜ぶ人達にただであげよう、情は人の為ならずっていうからネ。
それを食べた人達の中に、あるいは自分の進む道を示してくれる人がいるかも知れない。そんな漠然とした気持ちがどこかにあっただけだ。
しかし、荒物屋の亭主は真剣にそれを勧めた。二言三言話したお絹の身の上に同情してくれたのだろう。
かみさんも、「今晩泊まるあてがないんだろう?なんならお前さんの行き先が決まるまでこの物置を遠慮なく使っていいんだヨ。」と言ってくれた。
世の中というものは、なかなか捨てた物じゃないよ。お絹は物置の片隅を片付けてその夜はそこで寝た。有難く好意を受ける事にしたのだ。
果たして翌日になって、かめの中の漬物を見てみるといい塩梅の浅漬けが出来ている。
荒物屋の夫婦に味見させると、「これはいい!これは売れるヨ。」と言ってくれた。
お絹は橋の袂に”浅漬け”の看板を立てて貰い、安い値段で漬物を売って見た。
すると、手頃な値段なので通りがかりの人は次から次へと買って行く。それも食べてまた買いに来る人もいて、大がめ一杯の漬物は売り切れてしまった。
そして馬鹿にならない程のお金が手に入った。そして、その大がめを安い値段で売って貰い、そのかめを買ってもまだまだ余裕があったのであの野菜売りの親子が来ないかと待っていた。
すると、これも運のよい事に、またあの親子が来て昨日と同じ所に荷車を止めた。
お絹は小走りに寄って行き、昨日の野菜が漬物にしたら全部売れてしまったので今日はその売れ残った野菜を当たり前の値段で買い取らせて貰いたいと話しかけた。
すると男は大層喜んでまたそこでも残った野菜を全部譲ってくれて、こちらが助かるのですからこれ以上はいただけませんと半値にしてくれたのだった。
お絹は最後になった握り飯の二包みを親子と自分とで平等に分けて浅漬けの残しておいたものと一緒に食べた。
家を出る時握って来た握り飯が思いがけなく自分をも他人をも喜ばせてくれて、おまけにいつの間にか懐も温かくなっている。
これからの自分に少し自信が持てるのだった。
このようにしてその野菜売りにこれからも野菜を持って来てくれるように話をつける事が出来、お絹は荒物屋の物置をきれいに掃除して綿のたっぷり入った夜着を一枚だけ買って来て、とりあえずはそれにくるまって寝起きしながら漬物を漬け始めた。
そして次の朝には、浅漬けをして売りさばいた。美味しいのと値段が安い事が評判を呼び、かめを二つにしても午前中であっという間に売れてしまうのは嬉しい悲鳴だった。
荒物屋にも十分にお礼をした上に、浅漬けも荒物屋用によけて置いて渡すので、亭主もおかみも喜んで「ここに腰を落ち着けて商売をした方がいい。」と言ってくれた。
お絹も心が動いた。しかし、それも悪い話ではないが、何か道の途中のような気がする。
ひょんな事から野菜をお礼に貰い、それを売って見たら飛ぶように売れた。
最初からあんまりに調子良く事が運んで嬉しいには嬉しいがさて、ここに腰を落ち着けて漬物を売って行く事を今まで、自分の漬物を商売にする等と考えた事もなかった。
そういう人生も確かに悪くはないけれど、何か他にあるような気がするのは欲張りなのかナと思ったりして心を決めかねていた。
それから何日も経ったある日、その日の漬物も大方順調に売れて、あとの残りは今晩の自分の夕飯のおかずにしようと店じまいの準備をしていると、目の前の大きな太鼓橋をカラリコロリと渡って来る下駄の良い音がする。
ふと目を上げると、小女を連れたややお絹と同じ年風のあでやかな作りのおかみさんがこちらに向かって来る所だった。
おかみさんはお絹と目が合うと、「ここが美味しくて有名な浅漬け屋さんだネ。あんたが漬けていなさるの?」と聞くので、「はい。」と答えるとお絹の顔をしげしげと見て、「歯触りが良くてしゃきしゃきしているのにとっても良く漬かっているので用事のついでにのぞいて見たんですヨ。」と言いながら、お絹の様子を見て、「もう、店じまいですか?あーあ、残念一足遅かったネ。」と言う。
「あっ、いいえ。残り物ですが少し残っておりますのでそれで良かったらお代はいりません。」とお絹が言うと、
「あーら良かった。でもお代はしっかりいただいて下さいヨ。今度またという事もあるんですから。」そう言いながら漬物を受け取ると、多めにお金を置いて嬉しそうに帰って行った。
その時の足元を見ると、お絹が大事にしている下駄と同じではないか!」
「あの上等な絹の下駄はこんな方が履くんだ。」とお絹は遠ざかって行く着物や帯、歩いて行く後姿をいつまでもいつまでも見ていた。
そのおかみさんの着物は決して派手な柄ではなかった。ねずみ色の地にポツポツ細かい白い点で模様が付いているが、全体にねずみ色の地味な着物だ。それに帯は白の地に墨で山河をサーッと描いた物であり、それに帯揚げや小物にほんの少し赤身の明るいあずき色を使っている。
お絹はそれらを見逃さず、じっと見ていたのだった。
何て素敵な人だろう。こんなに地味な作りなのに何とも言えぬ人を引き付ける美しさがあった。
飛びぬけて美人だという訳ではない。年もそう若い訳ではないだろう。あの落ち着きのある物言いは、若く見えてもお絹より一つ二つ下か、もしかしたら同じくらいにはなっているだろう。水仕事など一度もした事の無いようなきれいな手、着付けもゆったりしていて毎日カリカリ生きている自分や世間の女房達にはない豊かさを感じさせる。
お絹は一目でその人に引き付けられ興味持ち始めた。
私が同じ所と言ったら、あの下駄くらいだナと思い、それでもあの人と同じものを一つでも持っていると思うと嬉しかった。
お絹だって女だ。女に生まれたら、あんな女になってみたい。
そう思うのは当然だ、今まであんまりにも生活に追われて夢見る事さえ出来なかっただけだ。自分の足元を見ると、藁草履を履いている家を出る時は思い切って履いて来たが、傷めたり汚れたりするのが惜しくてすぐに藁草履に履き替えてあの下駄は大事にとってあるのである。
今まで、家と下駄屋の行き帰りで人の身なりや履物にこんなに注意を払って見た事は無かった。心に余裕がなかった事もあるが、お絹の周りの女の人は皆、似たり寄ったりでくらしもそうだがすれ違う人々の中にも振り返ってみたくなる人にはめったにあったことがないせいでもあった。
今日は初めて、自分と違う世界の上等の女の人を間近に見て話をし、自分の漬けた漬物を褒めて貰った。
それにその人は、お絹が鼻緒をすげた下駄を履いていた。それは店の中でもとても高価な物なのだ。それと同じ下駄を私も持っているヨ。
ただ一つのその事が生まれてお絹に初めて嬉しい興奮をもたらした。
また、来てくれないかナ。もう一度会って、もっとじっくりあの人の身なりを見てみたい。名前が”絹”でありながら、あんな高価な絹地の着物を着る日は自分にはないだろうし。
それに無理してきても似合わないに決まっている。
だけど同じ女なのにあのひとはどんな暮らしをしているのだろう。
店を閉まって帰って明日の為に漬物を漬けながらもそのきれいな人の事ばかり考えていた。
それが、そのおかみさんはそれからもちょくちょく小女を連れて買いに来てくれるようになった。それも沢山買って行ってくれる。
「いつも沢山買っていただきありがとうございます。」と言うと、
「いえね、私をはじめうちの者達もあんたの漬物が大好きになって、試しに常連のお客様にも出してみたんですヨ。それがお客様も大喜びで…。そうなると私も商売っ気が出て来て他のお客様にもさりげなく出してみたんですヨ。それが皆とても
喜んで下さって。もしかしたら、これはおかみが漬けたんじゃないかと聞いてくる方までいて、驚いているくらいなのヨ。」
こうして多めに買って行っても、お客様に出すと私らの口に入らないという事になっちゃって。」と笑う。
その日も無地のねずみ色の地に白い小花と草が所々サーサーと描いてある着物に銀と黒の市松模様の帯、帯を止めている帯締めは暗い赤だがチラリと見える帯揚げは薄い水色だった。
お絹はそれらをさり気なく観察して、足元を見る。いつも下駄はお絹と同じ藤色の絞りの鼻緒の下駄を履いている。
だがその下駄は少しもくたびれてはいない。髪もきれいに結い上げて櫛も目立たないものをしているが、後ろ髪に緑の玉かんざしを一本さしている。
あれが翡翠と言うものだろうか。
その次の日もおかみさんは漬物を買いに来てくれた。
「お絹さんといったっけ。ここでの商いは随分儲かりますか?こんな聞き方をして失礼だと思うでしょうけれど、それを承知でざっくばらんに話すんですけど、お絹さんに私の店に来てうちの店の為だけに漬物を作っていただきたいと思いましてネ。」と言った。
まあ漬物だけじゃなく、他の料理の板前の手伝いやお運びもして貰うかも知れないが、要はうちの店で働いてくれないかという事なんですヨ。お絹さんの腕を見込んでの事ですから、給金はその分はずむつもりですヨ。」と言った後、おかみは給金の額を言った。
その金額を聞くとお絹は驚いてしまった。住む所と食事もついて、下駄屋で鼻緒をすげる仕事で貰っていた三倍以上もの額だった。それも丸々手に入る金額だ。
それを全部貯めたら一年でどれぐらいになるだろう。お絹はすぐに頭の中で計算してしまった。
「もしもその気になってくれたら、私はすぐにも来て貰いたいんだヨ。寝る布団や道具は揃えてあげるから。」と言ってくれた。
お絹は二つ返事で行く事にした。
荒物屋の物置の隅も雨風がしのげて不安なお絹にとっては人の情けを感じ有難かったが、しっかりした屋根の下で、しかもこんなおかみさんの元で働けるという事はお絹にとっては仏様か観音様のお導きだと思ったのだ。
早速、荒物屋のご夫婦に事情を話してこれから働く店の名を言うと、
それはこの橋を渡って少し行った所にある有名な料理茶屋でそこのおかみさんから直々誘われるなんて大したものだと賛成してくれた。
野菜売りの男にも事情を話し、おかみさんとも話し合った上で、これからはお店の方へ届けて下さいと話すと野菜売りは大変喜んで帰って行った。
こんな訳でお絹は、家を出てから二か月も経たぬうちに自分も満足する奉公先を見つける事が出来たのだった。
いい事ばかり条件で話がトントン拍子に決まりはしたが、お絹は荒物屋の物置で粗末な着物から一枚きりのよそ行きの着物に着替えて緊張した面持ちでその店の前に立った。
大きくて立派な店だった。
おかみさん自らが漬物を買いに来るのだからとお絹はこんな大きな店は想像していなかったのだ。
そこはしかし、荒物屋夫婦が言っていたように、この街でも有名な料理屋だという事だった。偉い方や裕福な商家のダンナ衆が商談で使ったりするという。
芸者も沢山出入りする格式のある店だったのだ。
お絹は恐れおののいて裏口から恐る恐る入って行った。
するといきなりへーい、いらっしゃいという威勢のいい若い男の声がした。
驚いていると中にいる人たちが笑顔で迎えてくれて、お絹さんだネと言う。
私の名前知ってるの?とびっくりしていると、漬物上手なお絹さんが今日から来るってみんな楽しみにしていたんですヨと言う。
何だかいい人達みたいだ。誰かが、「おかみさーん!!」と呼ぶと、おかみさんがニコニコ顔で出て来て、「まあまあ、ようこそ。」と言ってお絹の足元を見て、「あら!私の下駄とおんなじ。」と笑った。
お絹は、実はおかみさんの下駄を作った所に奉公していました。鼻緒をすげるのが私の仕事だったんです。
おかみさんの足元を見た時、「あっ!!私が作った下駄だってすぐ解って嬉しかったんです。」と言うと、
あそこの下駄はとても軽くて履きやすくって気に入ると、私何足もまとめ買いしちゃうの。あの時もこの鼻緒が気に入ってあるだけ全部っていって五足全部買って来たのよ。」と笑った。
私のは正直言うと、下駄づくりのお爺さんがあんまりちびたのを履いている私を見て傷物を私にくれたんです。鼻緒は自分ですげろって残ったハギレも一緒に。それを工夫してこさえたので、おかみさんのように上等ではないんです。」と正直に言った。
おかみさんはそれを聞くと、「私達はやっぱり縁があったのネ。下駄の縁かな?」と言ってコロコロ笑った。
それから板場の人やお運びの女中さん達、会う人毎に美味しい漬物のお絹さんですと紹介してくれた。
みんな気持ちよく笑顔でよろしくネと言ってくれて、お絹は思いがけない歓迎に涙が出そうになった!
おかみさんが、「お絹さんは新人だけど若い人達と一緒じゃ若い子もお絹さんもお互い疲れるでしょう?狭くて申し訳ないんだけど一人部屋の方がいいと思って。」と連れて行ってくれたのは一番奥の三畳に物入れがついた小さな部屋だった。
何に使っていた部屋か解らないが、障子窓を開けると北の中庭が見える部屋だ。お絹はその部屋をすぐに気に入った。
誰に気兼ねなく静かに眠れる部屋。夢のようだ。物入れを開けると清潔な布団一式が入っていた。
隅に小机がある。小机の上にはおかみさんが置いてくれたのだろう手鏡が置いてあった。
それからおかみさんの部屋に連れていかれて、そこでお茶とお菓子をいただきながら簡単な仕事の説明を受けた。
それから女中頭だという人にお絹は紹介された。
少し険のある顔でキリっとした女だった。
女中頭が帰ると後でおかみさんが、「あの人、三十六歳の寅年なのよ。」と言って意味あり気に笑った。
お絹が「私も四十八歳の寅です。」と言うと、おかみさんも「私も寅年なのヨ。」と言う。
「同い年ですか。」と言うと、コロコロ笑って一回り上の寅だと言う。
それじゃ、お絹が四十八歳だからおかみさんは六十歳になるのか?お絹はびっくりしてしまった。
このようにして正面からおかみさんを見るのは初めてだが、どう見たって私より一回り(十二歳)も上には見えない。
紙も黒々としてたっぷりあるし肌もシワもなくお絹よりずっと若く見える。
驚いているお絹を気にせずおかみさんは、うちはね、いろんなお客様が見えるから、ここで働いている子の中にも好もしい子がいるとどんどん嫁の話があって、そういう人には幸せになって貰う事にしているの。うちはそういう意味でも、あそこに奉公すればいい嫁の口が
かかるって評判になってるみたい。そういう噂も手伝って次から次と働きたいという娘が来るのヨ。あのこも(女中頭をさして)仕事はよく出来るし真面目ないい子なんだけど、どうも顔に険があって今一つ声がかからなくてこの年になってしまったの。」
と心配そうに言う。
「お絹さんだっていい人がいたらこれからだって幸せになれるのヨ。」と言う。
「おかみさん、とんでもないです。もうこりごりです。」と今までのあれこれを正直に話した。
「家を出て二ヶ月経ちましたが一人がどんなに清々して気楽か知れません。この先、どんな大金持ちのお爺さんの後添いの話があったって真平御免です。」と言った。
おかみさんは笑ったが、急に何か思いついたように真面目な顔で、
「お絹さんお前がそういう気持ちなら私がみっちり仕込むからここでずっと奉公してくれるかい?」と言う。
「それはもう願ったり叶ったりです。」と改めて手をついてお願いした。
お絹はそれから自分の全てをかけてこの店の為に働いた。
自分の部屋に帰って休む時以外は身を粉にして、あちこち気働きして回った。
漬物を漬けるのがお絹の一番の仕事だが、家の周りの掃除、料理の材料の下ごしらえ、お客を招く部屋の隅々にまでおかみさんの為に一生懸命働いた。何せ下駄屋の三倍もの給金を貰っているのだもの。そういう気持ちがあった。
そんなある日、お絹はおかみさんの部屋に呼ばれた。
ここは慣れたかい?と聞かれ、「はい、皆さん良い人達ばかりで、でも緊張しながら今、一生懸命覚えようとしている最中です。」と言うと、
「お絹が頑張っているのは知っているヨ。」と言ってから、お茶を飲んで嬉しそうに、「やっとあの娘にいい話が舞い込んだんだヨ。」と言った。
よく聞くと女中頭の事だった。まだ小さい男の子が一人いる宿屋の主人なんだけど、連れ合いを病気で亡くして一年、子供はまだ三歳と母親の欲しい年頃だ。店もきりもりしてくれるしっかり者を探しているという。
あの子にぴったりだと思って二人を引き合わせたら、お互い気に入ったようだ。本当に良かったヨと肩の荷が下りたように嬉しそうだ。
「あの子は申し分ないしっかり者だが、うちのような客筋にはカリカリしたのは向かないんだヨ。だけど宿屋のおかみさんとなればお女中や下働きの指示や何や、しっかりシャキシャキしたあの子はうってつけだからネ。
それにあの娘はああ見えて情が深いから三歳の男の子を可愛がって大事に育てるだろうヨ、それに自分の子も一人ぐらいは持てるかも知れないしネ。」と言った。
お絹はおかみの話にただ頷きながら、使用人の一人一人に気を配りながらその人達の幸せを思う心に只々感心するばかりだった。
「ところでお絹、まだまだ先の話だが万一の場合、私の片腕になってこの店をやってみようという気はないのかい?」と言った。
いきなりそう言われてお絹はびっくりし、
「とんでもございません。私なんぞが他の古くからいるお女中さん達を押しのけてそんな事とても無理です。」と言うのとおかみさんは笑って、
「おまえの気性や働きぶりは見せて貰った。この仕事はネ、性格がいいだけでも闇雲に働くだけでも駄目なんだヨ。何ともうまく説明出来ないが、お絹お前なら急な時に私の替わりが出来るだろうと思ったんだヨ。私は根っからあまり深く先々を考えないでちょっとした思い付きや勘だけで気ままにトコトコここまで歩いて来たんだが、それがいつの間にかこのお店になっていたんだヨという事は私の勘も満更でもないという事だネ。私はある橋の袂で浅漬けを売っていたお前を見るなり信用できる人間だと思ったんだヨ。計算や駆け引きなしに話の出来る人間だと思ったんだヨ。その私の勘は正しかったという事でまだまだ先の事だから重荷に思わずに私がそんな気でいるという事だけは知っていて欲しいと思ってネ。これからは一言も何もしゃべらなくていいから、私がお座敷を回る時ただ後ろについておいで。
何かお客様に問われてもニコニコ笑っているだけでいいんだから。
お絹、何もお前の出来ない事を無理強いするつもりはないんだから気を楽にしておいで。」
そういうと立ち上がって奥から用意していたらしく、何枚かの着物と帯小物の入った物を持ってきた。
「私が以前着ていた物でもう着ないからこれを着るといい。その成りでは座敷回りは向かないからネ。」と言って、明日からはこれを着るようにと渡した。
どれもこれも正絹地の上等な着物ばかりだった。
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