自分の足で、帰った事

冬原水稀

自分の足で、帰った事

 木々をかき分けると開けた所に辿り着いた。ここが話に聞いた所で合っているだろうか……

「……うわ」

 思わず声が漏れる。

 ぽつ、と一軒木製の小屋。多分あそこが僕の目的地で間違いないけど、目を見開くべきはその周り。学校のグラウンド程の大きさの池に囲まれていた。幾つか色を添えるように浮かんでいるのは蓮の花。

 あの小屋のある孤島まで一体どうやって行くんだろう。と思ったら、静かな小屋の扉がパァン!と開け放たれた。

 ……扉、今凄い音がしたけど壊れなかった?

「訳分かんねぇ事ばっかいいやがって! 二度とくるかこんなとこ!」

 苛立たしげに出てきたのは男の人。普通の、三、四十代くらいのサラリーマンで、「多分同じ電車に乗り合わせたことあるんじゃないか」と思うくらい普通の人だった。まぁ、ここに訪れる人は皆普通の人か。僕もそう。

 男の人は怒りにまかせ飛び出してきたはいいものの、周りに池があるのを忘れていたのか両足で踏みとどまった。怒りにまでブレーキをかけられたみたいで一瞬戸惑った様子を見せると、近くに停めてあった一人分の小舟にズカズカ乗り込み、オールでこちらまで漕いでくる。

 なるほど、これで行けばいいのか。

「おいガキ」

「えあ、はい」

 もう18なんだけど。まぁガキか。

「あんなとこに頼っても意味ねぇぞ」

「……はぁ」

「逃げるくらいだったら最初っから来んじゃねーよ! 私のやり方には向いてねーから! どっかで幸せに生きな〜」

「…………」

 あの小屋に悪態をつく男の人に対してだろう。小屋の方から家主と思われる男性……女性? の声がした。声で判別するには中性的すぎて決定打に欠ける。

「言われなくても帰る!!!!」

 駄々をこねる子どもみたいで何か面白い、とは言わない。ここに来るくらいだから、まぁ僕と同じ状況で来たんだろうと思うと半分同情、でもやっぱり半分面白い。

「……」

 小舟に恐る恐る近づいて、きしと片足を舟に乗せる。

「わっ、あ……」

 水に沈んでゆらゆらと揺れるものだから勢いに任せて両足乗せてしまう。持ったことのないオールを持って、記憶の見まねで漕いでみる。

 水の流れもないのに、吸い込まれるように小屋の方へ小舟は進んでいった。


「……着いた」

「お疲れぇ、濡れなかった?」

 いきなり馴れ馴れしく降り注いだ頭上の声に目を見開く。

「えっと」

「ここの家主。よろしく」

 肩までのばした髪と優しげな目元にまでかかる前髪。服は何か……そこらへんのものを適当に来た、みたいな。軽い口調と相まって、ずぼらというより適当な人みたいだった。僕よりは年上みたいに見えるけど。そしてやっぱり、性別は分からない。

「……ありがとうございます」

「よく来たねー。前の人は怒って出てっちゃったよ。まーいいけど」

「いいんですか……」

「いいのいいの。他人に縋って来る癖に他人の話を最後まで聞けない人は結局独りよがりでも生きれるもんだから」

「そういうものですか」

「そういうもの」

 入っていいよとも言わずに、家主さんは小屋の中に入っていってしまった。開けっ放しにしといてる……って事は、入っていいの……かな?

 噂に聞いていたこの小屋。来てみたはいいものの、些か不安になってきた。何か……思ってたのと、違う。もうちょっと繊細な、優しい、物腰の柔らかい感じの雰囲気かと思ってたんだけど……でも、ここが目的地、出合ってるんだよな……

 小屋の扉の真横、ぽつりと置かれる看板一つ。


『心を助ける小屋』


ーーーーーーーー


「何で聞いてきた? へぇ都市伝説」

「ネットで調べたの? 現代っ子だなあ」

「さっきの人がなんで怒ったかって言われても……私は知らないよ、あっちが勝手に怒っただけだし」

「え? 心を助ける小屋? うん間違ってないよ? あ、何か思ってたのと違うと思ったんでしょ。先入観と偏見、私が一番嫌いなやつ」

 ……人と打ち解けるのは早そうな人だ、と思った。でもやっぱり、違う。違うだろこれは……明らかに……「心を助ける小屋」と聞いて、その小屋にいる家主がこんなんだと、百人中何人が想像できよう。

 はぁと無意識に零れたため息を、出された紅茶に混ぜて一口啜る。お茶は美味しい……あと、音楽のセンスは良い。何のロックバンドか分からないけど、英語で、静かなバラードが室内には流れていた。

「え……と、家主さん、名前は?」

「必要?」

 カウンター越しに、家主さんは椅子に腰掛けて微笑んだ。

「名前はしがらみを生むけどいいの? ここを去った後も、私がいなくなった後も、何かしらの記憶で君に付き纏うような縁を結びたいかい?」

「……」

「先まで付き合う覚悟がないなら名前なんて知るべきじゃないよ」

「そういうものですか」

「そういうもの」

 いちいち遠回しな人だ。

 家主さんは人差し指を立ててくるくる回す。

「クラスメートも然り。別に付き合う気がないなら名前なんて覚えなくてもいい。記憶容量の無駄だね。覚えるくらいなら日本史の武将一人覚えな。逆に誰かと縁を結びたいなら名前は覚えるべきだ。知ってる? 人間、心理的に名前を覚えてる他人に親密さを覚えるみたいだよ。好きな子と距離縮めたいんだったら会話の中で時折名前を呼ぶこと」

「いやあの、家主さん」

「早速名前呼ぶテク使ってくれた?」

「そうじゃなくて!」

 常に会話のペースがこの人に持っていかれるな……

「分かりましたよ……名前を聞いた僕が悪かったです」

「宜しい」

 満足げに頷いて、家主さんは長い足を組む。ただ単に個人情報教えたくないとか……そういうんじゃない、の? 縁を結びたくないなら……か。真面目なのか真面目じゃないのかよく分からない。

「これ食べる? お茶に合うクッキーだけど」

「…………何があったか聞かないんですか?」

「聞いてほしい?」

「一応そういう場所でしょう?」

 心を助ける小屋。

 そう名乗っているくらいだ。ここに来る人がどんなものを抱えてここに来ているかくらい分かるだろう。

 …………でも、僕の場合、自分で言うのも何だけどちょっと特殊だ。普通に心が辛いのなら、まずは大抵カウンセリングを訪れる。こんな都市伝説レベルのあるかも分からない場所を探したりしない。

 でも僕には、カウンセリングに行くに行けない事情があった。きっと、誰にも分かってもらえない理由があるから。

 家主さんは、もう一度僕に微笑んで、甘い匂いを漂わせるクッキーを口に運んだ。

「私が思うに。何があったか、言えないからここにいるんじゃないの?」

 僕は少し目を見開く。

 分かるんだ。この人には。

「まぁ難儀だな。『目に見えて辛い事』があるわけじゃない。『死にたい』と思うわけでもない。人生特に辛いとも思ってない……でも、心が辛い。そうでしょ?」

「……そうです、そうです。そうです!」

 ガタ、と思わず立ち上がってしまった。さっきまで「この人が家主で大丈夫だろうか」という不安が一瞬で払拭される程、僕は安易に感激してしまった。

 分かってくれる人がいる。

「そりゃあ、悩みがなければ心理カウンセリングにも行けないわな」

「……そうです」

 一回深呼吸し、僕は落ち着きを取り戻して座る。感情が昂ぶったのが恥ずかしくなって、籠の中のクッキーに手を伸ばす。

「……苦しいんです。別に嫌な事があったわけじゃなくて、人に邪険に扱われたわけじゃなくて……普通に人といる事の幸せを、感じられない日があって」


 例えば、人がやりたがらない事をいつも引き受ける。

『優しいよね! 俺とは全然違うわ〜』

『いつも引き受けてて疲れない? たまには手伝ってあげるのに』

 そういう時、決まって「ありがとう」で流す。

 優しいなんて綺麗なもんじゃない。いつまで経っても役割が決まらないとモヤモヤするから自分が引き受けただけ。先生にもいい印象を与えられるなら、まぁそれでいいかと思っただけ。そこに他人への思いやりなんて一つもないんだよ。

 うるさいな、誰かが手伝ってくれてたら今こんなに自分一人で働いてないんだよ。しかも、本当に手伝う気なんてないでしょ。世辞のように見え透いた優しい言葉なんて要らない。もしも本当に「手伝う気」があったとして、それも要らない。だって一人でやった方が早いから。他人の仕事のやり方と、自分の仕事のやり方をすり合わせるのも煩わしい。


 僕は最低だ。


 それだけで疲れる。

 他人の言葉が僕の心と摩擦を起こすたびに、摩耗して、他人といるのが疲れると思いながら、僕は他人といる。

 それだけで疲れる。

「死んで解放される苦しみではないよね。そもそも死にたいわけじゃ無いでしょ?」

「それは……もちろん」

 僕は迷わず頷く。

「……死にたいと言えるくらいなら僕はこうじゃなかった」

 中途半端な苦しみに苦しみ続けている。こんな苦しみ、もっと「死にたい」くらい苦しむ人からしたら「お前は幸せだ」と指を刺されて怒られるだけなのに。

「……やっぱりこれは、僕の我儘でしょうか」

 気遣いも、思いやりも、人の心の裏を読むのも、その上での行動も、逆に何かをしてもらう事も、疲れるなんて。

 ふむ、と家主さんは唸って、唐突にカウンターの下に身を隠した。何かを取り出そうとしてる……?

「じゃん」と謎の効果音を口に出してから、家主さんはカウンター下から何かを両手で持ち上げた。

「うわ……え、なん、え!?」

「動物は嫌い? 私のペットなんだけど」

「いやいやいや」

 僕は高速で首を横に振った。確かに動物……動物? を一匹持ち上げていたんだけど。


 その容姿が異様すぎた。頭は猫、耳はウサギ、角もあって角は鹿(顔の大きさの割に重そう)、体は縞馬、手足は猿、尾っぽは両生類……ウーパールーパー……?


「触る?」

「いやあの、結構です」

 何て呼べば良いか分からないそれを、家主さんはたいそうかわいがっている様子だった。こいつと今までの話に何の因果が……?

 家主さんは今度は懐中電灯を取り出した。カウンターに謎の生物を座らせ、かち、とスイッチを入れた。……この生物からの視線が痛い。なぜかすまし顔で一睨みされていた。僕なんかした……?

「はい。君に問題です。この影は何に見えますか?

「影……?」

 気付けば家主さんは謎の生物(もうユーマとでも仮に呼ぼうか)を懐中電灯で照らしていた。ユーマがめちゃめちゃ迷惑そうな顔をしているが大丈夫だろうか。余計なことを考えてから、その影を映し出す壁に目を向けて……僕は固まった。

 光を当てる角度の問題だろうか、そこには動物の一部を変に詰め合わせましたみたいなユーマの姿は無く。

「何に見える?」

「……普通の、鹿の影に見えます」

「これは?」

「……鹿の角の影が良い感じに重なって、木の上にいる猿の影に見えます」

「じゃあ、今度はこっち見て」

 家主さんに促され、僕はユーマを抱き上げるところだった家主さんを見る。家主さんはユーマの顔に少し大きめなタオルをかぶせて赤子を抱くみたいに持ち上げた。家主さんの腕に隠れて、手足も尾っぽも見えなくなる。見えているのは胴体だけで……

「さすがに大きさに無理がありますから、縞馬……とは言えませんけど、普通に縞模様の小動物に見えます」

「でしょ。人間ってこんな感じ。オッケー?」

 家主さんは淡々と言って、ユーマをカウンターに置く。普段からこんな見世物的な扱いをされているんだろう、「今日も終わったか」とでも言いたげにぴょんとカウンターから降りて、どこかへ歩き去ってしまった。

「つまりはスポットライトのあてようの問題ね。人間は複雑。そんな事は皆承知してる。なぜなら自分自身も複雑を抱えて暮らしてるからね」

「……」

「それが他人を見る時に忘れがちなのはどうしてか。スポットライトは一カ所からしか照らせないからさ。一か所からの、一つの影しか見えない。だから他人は単純な生き物、自分だけが複雑、特別」

「特別ってそんな」

「特別だよ。『自分だけがこんなに可哀想』で世界は回ってるんだから」

 嫌な言い方だ。この人、絶対人から嫌われるタイプだと思う。……でもそれも、ライトのあて方の問題って言うのか?

「……そういう、ものですか?」

「そういうもの」

「ひねくれてるってよく言われません?」

「言われるね。嫌われもする。私はそういう『分かりやすい影』を自分で作ってるから作意だよ作為。『それ以外の大事な触れられたくない何か』を持つ人は分かりやすい影を作りがちかな。キャラ作りって奴」

「家主さんは触れられたくない所があると?」

 思わず、間髪入れずに聞いてしまった。意味深なことを言った当人は「図星」という顔をするでも無く、ただ顔をしかめる。

「ある、と言ったら深堀りするのかい? 私に興味も無いくせにそういう事は聞くべきじゃないな。こういうときに人を深堀する輩の心理は三つ。「人の不幸は蜜だから」、「何か聞いてあげなきゃ」みたいな同情精神……あるいはありがた迷惑。人に優しくすることが板について純粋に聞いてしまうタイプだね、あんまりいないけど。これが君。……だからきっと君は疲れるんだ」

 家主さんは僕を責めるでもなく、ただ肩をすくめた。いつの間にか僕の話にすり替わっているものだから、僕は口をつぐんで黙り込んでしまった。「責めているわけではないよ」と家主さんは言う。

「寧ろ褒められるべき事だ。でも大抵『人に優しくある事は当然』という風潮からわざわざ褒めてくれる人はいない。優しい人なんて実はそうそういないのにね。優しさを褒められないと嘆けば今度は『優しくする事は褒められるのを期待してはいけない、それは見返りを求める優しさと同じだ』と怒られる。……君は勝手に人に優しくして、自分の行動で疲れているだけだよ」

 責めてないよ、と念を押すようにもう一度言う。僕はまた、というかずっと、黙り込んでいる。不平を言いたい気持ちも、さっきの男性みたいに怒って逃げたい気持ちも、なくはない。

「……励ますとか、ないんですね」

「カウンセリングじゃないからね」

 まぁ確かに、励まされても感はあるし、そこはこの人の役割ではないんだろう。

 カウンターに突っ伏して、腕の中に顔を埋める。何だか苦しくてしょうがない。何を期待してこの「心を助ける小屋」に来たというわけではないけど、何かが救われる気でここに来た。けど結局、他力本願の僕じゃ、何も変わらないのかもしれない。

 頭上からごそごそ、と音がして、続いて咀嚼音が聞こえた。どれだけクッキー食べる気だこの人。

「カウンセリングでもない、先生でもない、ただ私は君のような状況の『死にたい程じゃない理解されない苦しみ』の話を聴いては第三者視点からグチグチ一般論を口出ししてくるだけの、うるさい人。認識はそれだけで良い。君こそ私の言う事に納得しなくていいし、理解しなくていいし、賛同も否定もしなくていい」

「……それだけ人の事論破しておいて?」

「私の言う事なんて全部独り言だよ」

 そうですか、と呟いてカウンターの木目をなぞる。この人、本当に真摯になる気ないなと逆に笑えてきてしまった。

「あなたの言う事は全然一般論じゃないと思いますけどね」

「『私の』一般論だからね。社会の一般は知らないよ」

 少し顔を上げると、家主さんはすました顔で笑っていた。

「僕はこのまま苦しむべきですか?」

「さぁ。私から言える事はあまりないね。苦しみたくないなら手抜きをして生きろ。これは社会の一般論ってやつかな? 君みたいに誰よりも憂いて、誰の為にも願えるような人間は幸せになるのが難しい。なぜなら『他人』までが幸せになってようやく『幸せ』になれるからね。まったく、他人なんて勝手に幸せになるし不幸になるのに」

「さすがにそこまで優しくないですよ……」

 僕だって自分の方が可愛い。さっきのように、人に優しくする為に自分に理由をつけるし、悪態も文句も言う。そんな聖人君子じゃない。

 しかし「そうだといいね」と家主さんは流すだけだった。

「さっきの影の話に戻ろう。他人を見る時、一か所からの影……つまり一側面しか自分の目には映らない。じゃあどうする?」

「……多方面からライトを当てて、色んな影を見る?」

「ブブっ」

 家主さんは死にかけの蝿みたいな、変な声を出した。不正解。

「正解は被写体……とは言わないか。被照体? そのものを見る事。さっきの場合でいうと、私の光を当てる前のペット、そのものの見る事」

 僕は一瞬息をつまらせた。その考えが浮かばなかった訳ではない。けど。

「……僕は家主さんのペットを光に当てる前に一目見たとき、『変だ』、って思ったんですよ」

「それが?」

「……それでいいんですか?」

 他人の事を「変な奴だ」、と認識した瞬間、僕は自分にゾッとする時がある。どこかの国の人種差別の萌芽、いじめの萌芽、そんなものに思えてならなくて、そんなものを持つ自分が、怖くて仕方なくなる。

 それが、いい事なのか? 他人を真正面から向き合った時に自分から出る感情を、僕自身が受け止められるのか? 本当の他人を知ることがいい事か。それが分からないから皆建前で生きているんじゃないのか。

「それはお互い様だな。君は他人を変だと思うし、他人は君を変だと思う」

「それは何の解決にもなってないですよ」

「ちょっと私の事を神か何かだと勘違いしてないかい? まぁ君の話を無責任に請け負ったのは私の責任である事は否めないけどね。でも私は、君の全てに正解を与えられるわけじゃ無い。私だって白紙の解答用紙を出すことくらいあるんだけど」

 無責任な、と思った。けどまぁ、思った。全ての解決をこの人に委ねようとしたのは僕の責任だ。あまりにもこの人が達観した事を言うものだから、全てを信じる気になる。でもそれも、この人からしたらどうでも良いんだろう。賛同が来ようが否定で叩かれようが、そもそもこの人は誰に向けても喋っていない。

 全ては自我に頼った独り言。

「他人を変だと思うことに抵抗があるのなら、もう人と向き合うことは諦めた方が良いと私は思うね。他人の影だけを見て、上辺で付き合う。時に上辺で付き合った方が幸せなこともあるし、悪いことじゃない」

 ゆらり、とカップを揺らして、家主さんはお茶を啜る。それが最後の一口みたいだった。ふとカウンターの木目が淡く赤く色付いている事に気づいた。窓から夕日が差している。

「……家主さんは、苦しんだ事ありますか? あの、責めてるとかじゃなくて、興味本位」

「興味本位。いいね」

 何が良いのか。家主さんはあるよ、とあっさり笑って言った。一度も苦しんだ事ありませんみたいな気軽さで、あると言った。

「寧ろ、苦しんだから無理に答えを出した。私が君に言った事……君が模範解答だと捉えた私の言葉は、全て自分に向けた理由付けだったりする。そうやって自分を無理矢理納得させた、成れの果てが、結局なにも解決しないようなもの。けど、解決しなくても幸せに生きられるように、自分に暗示をかけるもの。……だから私の言葉に反感を持つのは当然だ。だって私の言葉に賛同するのは、私だけなんだから」

「……そういうものですか」

「そういうもの」

 かた、と家主さんは立ち上がった。自然と僕も立ち上がる。

「人生を何度もやり直す便利なボタンがあるわけでもない。別に死にたくもないなら、一度の人生、苦し紛れの言い訳を重ねて生きな」

「結局これだけ長く話してきて根性論なんですね……心を助ける小屋に、助けられるために来たのに、釈然としませんよ」

 僕はきっと、苦笑している。僕の心は晴れなかった。突然今日これから、明るくなるわけがなかった。他人への燻りを抱いてまだ生きる。

 けど、家主さんを怒る気にも呆れる気にもならなかった。

「君の心が助からないのは当然だよ」

 くすっと一回笑って、扉まで歩き、壊れそうなグラグラの取っ手に手をかける。種明かしでもするように人差し指を口元に当てた。


「だってここは、ここに来る人の心じゃなくて、『』心を助ける小屋なんだから」


 僕は一瞬キョトンとしてから、吹き出した。

「何か途中から、そんな気はしてました」

「そう?」

「だって家主さんばっかり楽しそうだから。……僕の予想ですけど。他人の話を聞く事で、家主さんは他人を分かろうとしてるんじゃないですか? 本当は、家主さん自身も他人に対して何も諦めてないのでは?」

「だとしたら、私は悪趣味だねぇ。人が苦しんでるの見て、客観視してるんでしょ?」

「そうかもしれないですけど……家主さんこそ誰の為にも願う優しい人みたいだから」

 今度は、家主さんがキョトンとする番だった。少しだけ、言い返せて嬉しい。

「無意識に嫌な奴の顔が出来る人ほど、優しかったりするんですよね」

「……そういうもの?」

「そういうものです」

 へぇ、と大して興味もなさそうに家主さんは頷いた。それでいい。これは僕の独り言だから。

 家主さんがゆっくりと扉を開けた瞬間、室内に流れていた洋楽がサビに入ったみたいだった。サビ特有の盛り上がりがひしひしと肌を揺らす、けど、それを歌い上げる声はやけに悲壮感に溢れていた。

「これ、何て歌ってるんですか?」

「ん? あぁ、私の好きな歌手の歌でね。『幸せなどどこにもない』っていう主張の歌」

「心を助ける場所な割に曲の選択がおかしいですよ……」

「いいじゃない。救いがなさそうで」

 相変わらず訳が分からないので、もう問い詰めるのはやめた。家主さんが扉を開けてくれている、その入り口と出口の境界線に僕は立った。

「じゃあね。お幸せに」

「何か結婚するみたいですね」

「突っかかるようになったね」

「あなたもお幸せに」

「どうも。……そうだな、目を瞑って」

 最後の最後になんだ、と思いつつ、僕は目を瞑る。戻るのか、と思った。死にたいとは行かなくとも、何かに頼りたいくらいには他人と生きる事が辛かった。今も辛い。

 辛いまま戻るのか。

 残酷なことしてくるな。

「次に目を開けた時には、宇宙が君を夢見てるよ」

「僕が宇宙を夢見るんじゃなくて?」

「それじゃただの宇宙飛行士志願だよ」

「宇宙みたいな大きい存在が、ちっぽけな人間の事を気にすると思うんですか?」

「だからこそだよ」

 僕の背中が、家主さんにとんと押される感覚がした。目を瞑っていたし、不意打ちの事だったので僕はよろける。この小屋の周りって池じゃなかったかと冷や汗が流れた。

「自分の目で確かめてきな」

 祝辞のように、餞のように、家主さんの声が追いかけてきて、僕は慌てて目を開ける。


ーーーーーーーー


「……?」

 そこは、森の出口だった。あの小屋を探すため、恐怖に慄きながら数時間前に訪れた森の入り口。入り口だったものが、今は出口。昼間だったものが、今は夜。

「いつの間に……」

 ゆっくりとあたりを見晴らす。大きい公園の野原だ。見慣れた景色。帰り道が誘い込むように僕の足を急かしたてる。

 その前に僕は森の方を振り返った。

 さわさわと僕に向かい風が吹く。帰り道の方を振り向くと、追い風だった。

 僕は何も言わずに、オリオン座の見える方角へと歩いていった。


〈終〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

自分の足で、帰った事 冬原水稀 @miz-kak

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る