第3話 二重に歩む者
空はすっかり暗くなり始めていた。夕焼け雲が空を覆う。薄い月が遠くに見える。「そろそろ帰ろうか。」彼女はうつむく。「あ、帰る場所ないんだっけ?」そういえば、記憶がない彼女が昨日どうやって夜を過ごしたのか聞いていなかった。「いいの。またひとつ思い出せたし。」「どこに昨日は泊まったの?」「…。」何故かその質問には答えなかった。聞こえなかったのだろうか。私の家に来いとは言えなかった。母になんて説明すれば良いか分からない。今日帰ったら学校をサボったことをまず怒られるだろうし、記憶喪失の女の子を拾ってきたなんて言ったら、どんな顔をするだろう。警察に連れてかれるかもしれない。いや、そもそも警察に連れて行けば寝床も用意してもらえるだろうし、問題ないのではないか。「…ねえ、行こう。」立ち止まって考え込んでいたら、そう急かされた。「警察に行った方がいいんじゃない?連れてってあげるよ。」彼女に思い切って言った。しかし、彼女は俯き首を振る。「警察には行かない。もう少しで全て思い出せるはず。」何の自信なのだろう。「ほのかの家はダメ?」彼女は私を見つめている。「…え。それは無理だよ。お母さんもいるしさ。」大きく首を振って答えた。彼女は俯いたままだ。警察がダメならどうすれば良いか、考えていた。
「あ、ここ。」彼女が突然立ち止まる。目の前にあったのは、シャッターが締め切られた民家のようだった。「知ってるの?」彼女はうなづいた。「ここ、駄菓子屋だ。よく行ってた気がする。」私の家までかなり近い場所だが、覚えがない。締められているので、駄菓子屋なのか確かめようがない。彼女はシャッターにしがみついて、耳をつけたり匂いを嗅いだりしている。その姿をぼーっと見ていた。
「…ホ…カッ…タ。」(…え。)どこからか何か聞こえた。昼間聞こえた声よりもハッキリとしたものだったが、よく聞こえなかった。振り向いても誰もいない。「…オモイ…セ。」途切れ途切れでよくわからない。「…ソイ…コ…セ。」何か忘れている気がする。思い出さなければならない気がする。冷や汗が噴き出てきた。「大丈夫?」彼女が覗き込んでいるのが見える。ふらふらする。(この感覚はなに?また貧血?)頭がガンガンする。
「…ほのか!」遠くから声が聞こえた。ゆっくりと顔を上げる。こちらに向かって駆けてきたのは、杏だった。「なんで今日休んだの?みんな心配してたよ?」杏は彼女には目も暮れずそう言ってきた。「…うーん。ちょっとサボりたい気分だったの。」私は平静を装って笑った。「…あん?杏!私だよ!」隣にいた彼女が叫んだ。ビックリした。そんなに大きな声を出した彼女を見たのは初めてだった。彼女が杏に抱きつく。しかし、彼女の腕は杏の身体を通り抜けた。(え…。)「どうした?」杏は不思議そうに私を見ている。「あー。ここよく行ってたよね。いつのまにか駄菓子屋さん潰れちゃったんだね。」杏は何事もなかったかのように笑った。杏には見えていないんだ。彼女のことが。やはり彼女は幽霊だったんだ。頭が痛い。全身が震えている。(そうだ。)真っ黒な瞳に真っ白な肌。「…返して。」そう言って細い手を差し出す彼女。初めて会った時のことを思い出す。あの時感じた恐怖は、気のせいでは無かった。彼女を恐る恐る見た。初めて会った時と同じ冷たく憎しみのこもった眼をしていた。その眼に光は宿っていない。記憶がないなんて嘘だったんだ。目的は分からないが、彼女は人外で私に危害を加えようとしている。頭痛が酷くなってきて頭が割れそうだ。この頭痛もきっと彼女の仕業だ。彼女と杏に見つめられている。今の自分の状況を何とかして杏に伝えなければ。彼女がマフラーに手を掛ける。振りほどかれたマフラーが中を鮮やかに舞って消えた。黒髪に黒い瞳。真っ白い肌に包まれた鼻と乾燥した小さな唇。声も出なかった。彼女は、私と全く同じ顔をしていたのだから。(…どうして。)そこで私の意識は途切れた。
浮き立つ泡。日光が海面から差し込んでいて、海底で光がユラユラと揺れている。青や黄色、時には緑に輝く海の中は私の知っている世界とは別の世界のようだ。鱗を輝かせながら泳ぐ魚たちは手を伸ばせばすぐに触れられる距離にいる。手を伸ばし、掴もうと試みる。グラグラと視界が揺れて、上手く伸ばせない。魚の尾に限界まで近づいたところで見えない何かに弾き飛ばされた。不意に足を引っ張られる。相手は暗闇だった。何処までも暗い。もうすぐ手に入るだったはずの明るい世界はどんどん闇に包まれていく。海底の砂を必死に掴もうとするが、掴めるはずがなかった。私は思い知った。私自身がどちら側の者だったのか。閉じ込められていたのだから。途方もなく長い間、ここに。
目を覚ますと、そこは自分の部屋だった。長い夢を見ていた。月明かりもない真っ暗な部屋。全てを理解した私は起きあがろうとして、力を入れる。即座に何者かに身体を押さえられた。何かがキラリと暗闇で光る。それが刃物だと判断することに時間はかからなかった。誰もいないと思って完全に油断していた。押さえつけられている腕が痛い。片手で押さえられているはずなのに何も抵抗出来ない。上に乗っているのが誰なのかは、すでに分かっていた。怒りに任せて思い切り振り上げられた刃物は、私の胸を切り裂いた。鈍い痛みが走り、血らしき飛沫が飛び散る。暗闇の中でも制服の白シャツが真っ赤に染められていくのがわかった。身体の力が抜けていく。もう、痛みも感じない。すでにこれは私の身体ではないようだ。私が目覚めるまで待っていたのが彼女の優しさだったのか、それ以外の目的なのかは分からない。私は、もう一度永遠の眠りについた。
『彼女』が奪い返しにきたことが分かった時、諦めはついていた。あの日の彼女はただ俯いて泣くだけの弱い人間だった。初めて彼女を見たのは、海の見える公園。潮風の匂いも音も今や鮮明に思い出せる。両親と手を繋いで並んで歩く小さな少女だった。絵に描いたような幸せ。三人で砂の城を作る姿は、誰が見ても入る余地などなかった。腹いせに置いてあったピンク色のハンカチを隠してやった。しかし、この親子は泣く彼女を連れて日が暮れるまでそのハンカチを探していた。私はそれを見て更に欲しくなった。彼女と彼女の幸せを。
私が彼女の弱みを握るのは意外にも容易であった。彼女は幼い頃から人の目を伺うところがあった。自分自身に蓋をして相手に合わせる。それが一概に悪いとは言えないが、私が入り込む隙としては充分だった。父親が不倫をして母親が怒り狂い、離婚をすることになった時も同じだった。彼女は、隠れて泣いていた。学校で他の子に物を取られた時も同じ。取り返そうともせず、ただ黙って見ていたと思ったら、陰でメソメソと泣く。彼女はどんどんと自分を覆い隠すようになった。自分が傷付けられない方法を彼女は探していた。そんな彼女に私は語りかけた。「…私が嫌なこと全部変わってあげようか?」と。「?」彼女は訝しげに首を傾げる。私は出来るだけ優しい顔で笑った。「嫌なことは誰でもしたくないだろう?私が貴女の代わりとなってあげよう。そうすれば貴女が傷つくことはないよ。」彼女は少し考え込んでいたが、涙を拭いながらうなづいた。彼女は、そんな私を秘密の友達だと呼んだ。私が彼女の身体を乗っ取って、生活の一部を送ることを彼女は、了承した。彼女は言った。学校が嫌だから代わりに行って欲しいと。それがどんな結末を迎えるのか彼女は知らなかったのだ。私は、手に入れた。自由に動かせる手足。実体のない存在であった私にとって憧れの物だった。ただ、計算外だったことは、私が彼女に入り込みすぎてしまったことだ。身体を乗っ取る時間が長ければ長いほど、自分の意識が薄れていく。私は、彼女になっていく。いつの間にか私は、忘れていたのだ。彼女を閉じ込めたまま、私は彼女になった。
『彼女』は、私の秘密の友達だった。私はいつも生きていることがつらくて泣いていた。そんな時、声を掛けてきたのが鏡の中の彼女だった。白雪姫のような魔法の鏡なのかもしれないと思ったが、違うらしい。彼女には身体のようなものが存在せず、どこにでも行けるそうだ。鏡のみが私たちの世界と触れ合える唯一の手段だと言っていた。鏡の中の彼女は私と全く同じ姿をしていた。ただ、私と違って凛としていて私には無いものを持っているような気がした。そんな彼女がある交渉を持ちかけてきたのは、私のお父さんとお母さんが喧嘩をして離婚をすることになった夜だ。家族が離ればなれになることがとにかく辛かった。でも、二人には言えなかった。お母さんはものすごく怒っていてお父さんのことはもう嫌いだと言っていた。お父さんもお母さんのことなど、すでに愛していないと叫んでいた。もう心が離ればなれなのだと察した。彼女にそのことを相談すると、彼女は私の代わりにその辛さを背負ってくれると言う。はじめは迷った。彼女が私たちの世界に憧れていることは何となく分かっていた。彼女には家族も友達もいない。人間のように彼女と同じ存在がいないのだと言う。ずっと何百年も何千年も独りなのだと言った。彼女は、生きていない。つまり死もない。続く永遠の中で誰にも知られない、求められない辛さを味わってきたのだろう。私も嫌なことを代わってくれるなら嬉しい。彼女も身体を手に入れられて互いに良いことづくしだ。一時的ならと、私はその契約を承諾した。それが絶望の始まりだとは知る良しもなかった。
彼女の姿ならどこへでも行けた。誰にも何か言われることもない。有料の場所にも無料で入れるし、海の上だって歩ける。空だって飛べる。自由だった。ただ、身体と魂が離れすぎると元に戻れなくなるからと言われていたので、代わっている時間はすぐに退屈なものになった。日に日に時間が長くなっている気がする。彼女が私の身体になったきり帰ってこないのだ。一度だけ彼女について行ったことがある。私の知らない世界で私の知らない友達が出来ていた。私の幼馴染の杏もいたが、杏もすっかり変わってしまっていて、私ではない私と上手くやっているようだ。何だか見ていられなくて、その日はすぐに家に帰った。私より私の世界に馴染んでいる彼女が少し恨めしかった。みんな本物の私より彼女のほうが良いのかもしれない。彼女には学校の間だけ代わってもらっていたが、休みの日も私として過ごすことが億劫になり、代わってもらうことが多くなった。そんな日々が続いていた。私は、彼女の世界の限界を知りたくなった。戻れなくなると言われていたのに興味が止まらなかった。何より戻ることが怖くなっていた。海の先へ先へと歩いていく。少し歩いたところで壁にぶつかった。見えない壁だった。指先で触れると少し弾かれる。そこから先はどう頑張っても行けず、何処までも続くかと思っていた世界は、呆気なく終わった。彼女はこんなに狭い世界で暮らしていたのかと絶句した。そして私の世界がどれだけ広かったのかと。私はずっと見えていなかったのだ。自分の中に閉じこもっていたせいでこんなに世界に可能性が溢れていたことを知らなかった。私は、急いで家に戻った。もう交換は無しにしようと、身体を返してくれと彼女に言うために。
久しぶりに彼女に話しかけた。面倒だったのでしばらく自分の身体に戻っていなかったのだ。鏡の中から必死に彼女に話しかける。彼女は少しこちらを見て、すぐに部屋を出て行った。返す気などはじめから無かったのだと思い知った。気付くのが遅かったのだと絶望した。その後、彼女に私の声が届くことはなかった。彼女は私の存在など無かったように振る舞うようになった。いや、彼女にはもう私のことは見えていなかったのかもしれない。それからは、毎日私しかいない世界で泣いていた。日付が変わり、季節が変わったことにも気が付かなかった。こちらの世界は、ハリボテのようなものだ。鏡を通して向こうの世界の小さな粒子くらいは動かすことができるが、こちら側の世界では物には触れられないし、人が居ることもない。音もない。波打ち際に打ち上げられた鏡の破片から微かに聴こえる波音が、心の支えだった。鏡の中から向こうを覗くことは出来るが、鏡のない場所のことはもちろん分からないし、私の声が鏡の外の人間に届くこともなかった。もし、この世界から鏡が無くなったら。恐ろしくて震えた。狭い檻の中で何も出来ず、死にもしない。この世界ではお腹も減らないし、病気にもならない。苦しくもなければ、楽しいという感情もない。だんだんと感情を失っていくのが分かった。私自身もハリボテになりかけていた。そんな時だった。彼女の異変に気づいたのは。元々こちらの世界にあった彼女の存在が、とても不安定なものだと分かったのだ。私の皮を被った彼女は、あくまで偽者だ。私と彼女は二人でひとつ。彼女が人間らしくなればなるほど、歪みが生じる。私は、ずっと待っていたのだ。鏡から出ることが初めて出来た時、これが最期のチャンスだと思った。この機会を逃す訳にはいかない。返して貰うのだ。彼女に、一度手放した私の全てを。
久しぶりに物を強く握ったせいか、まだ手の感覚が掴めない。悲惨なほどに飛び散った液体は、壁に妙な模様を付けていた。何度も何度も突き刺した。『彼女』は簡単には死なないと思っていたから。しかし、私の身体を乗っ取っていた彼女は呆気なく動かなくなった。周りの状況と相反して、彼女は穏やかな表情で眠っている。少しばかり笑っているようにも見える。私は、震えていた。次から次へと濁流が押し寄せ流れ出ていく。身体中を包み込み、飲み込んでいく暗闇は、あの時夢に見た深海のようだ。何処までも何処までも落ちていくあの夢は、彼女と私の末路を予知していたのかもしれない。
月明かりが差し込み、辺りが僅かに明るく照らされる。鮮やかに真っ赤な光が反射する。目の前に居る者が一体何だったのか。私が誰だったのか。もはや考える必要はない。私は、微笑を湛えながらゆっくりと瞼を閉じた。月が陰り、再び暗闇が重なり合った二人を飲み込んでいく。
二重に歩む者 久保結紀 @yu_ki58
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