第2話 奪われた思い出

 目的もなく、砂利道をひたすら歩く。靴の裏から足を刺激するような鈍い感覚がする。雑草をよけて、ジグザグと歩いていく。朝早いせいか、風が心地良い。どこに向かっているのかも分からないが、何が起きても大丈夫な気がした。土手の道が線路を隔てて終わり、雑に敷かれたコンクリートの道が広がる。学校とは反対方向なのでこの辺にはほとんど歩いて来たことがなかった。道の先にポツリと小さな神社があった。元々は赤かったであろう小さな鳥居は薄汚れて茶色っぽくなっている。(こんなところに神社なんかあったっけ?)興味本位で鳥居をくぐる。神社の中は子供用の遊具が端のほうに置かれているだけで、他には賽銭箱と汚れた小さな民家のような建物しかなかった。ブランコに誰か座っている。ブランコで遊んでいる様子はなく、座ったまま地面の石を蹴っている。目を凝らすと小さな子どものように見えたその子は、間違いなく昨日の少女だった。無敵だと感じていた先程までとはうって変わって、恐怖に支配された身体が動かなかった。そのままその場にうずくまった私は、彼女に気付かれないよう静かに震えていた。じゃり、じゃりと彼女が近づいて来る音がする。もうダメだと思った。

 「怖がらなくていい。私は何もしない。」顔を上げると真っ黒な彼女の瞳が私を見つめていた。昨日と同じ格好だ。座り込んでいる私に細くて白い手を差し伸べる。その今にも折れてしまいそうな手を掴み、立ち上がった。背丈は同じくらいなのに随分と小さく見えたのは単に彼女が痩せているからだった。「あなたは、何者なの?」声が震えた。彼女は少し考え込むような仕草をして答えた。「分からない。記憶を無くしてからずっと1人で探してたの。記憶を失う前の私を。でも、見つからなくて心細かった。そんな時、あなたに出会った。初めて思い出したの。あなたが拾ってくれたこれ。このハンカチが私の物だって。」そう言いながらポケットを探り、ピンクの汚れたハンカチを取り出した。よく見ると黄色い花の刺繍が施されていて可愛らしい。どこか懐かしいような感覚もした。「私はこのハンカチを拾っただけで、あなたの記憶を取り戻す手掛かりにもならないよ。」目の前に立っている彼女を避けて歩き出す。冷たい風が吹いて木々がサワサワと揺れた。立ち止まり、天を仰ぐ。錆びきった鈴の音が渇いた空気を引き裂いた。「…お願い!頼れる人が他にいないの。」後ろから泣きそうな声が聴こえる。私にどうしろと言うんだ。「…お願い…しま、す。」千切れそうな今にも事切れそうな小さな声。彼女は泣いているのかもしれなかった。しかし、後ろを振り向くことは出来なかった。

 彼女の泣き声が延々と続いていた。晴天だった空は、私を非難するかのように曇りはじめている。人通りの少ない場所で良かった。はたから見れば、私は女の子を泣かしている悪人だ。助ける気はなかったが、泣いている彼女を放ってどこかに行く気にもなれなかった。彼女が座っていたブランコに座り込む。ブランコは、すっかり冷え切っている。どうすることもできなかった。しゃがみこんで泣いている彼女は、少し強い風が吹けばあっという間に消えてしまいそうだ。ふと、彼女から視線を外し遠くを見ると、また懐かしい気がした。(この場所、来たことがある?)先程まで見覚えがなかった町が彩られ、目の前の景色が生き返るような感覚がする。不思議だ。何かが私を呼んでいる。思わず立ち上がる。この気持ちは何だろう。一歩ずつ歩き出す。行ってはいけない気もした。行ってしまったら帰って来れない気がして、怖かった。不安を紛らわす方法はひとつしかなかった。縮こまって震えている彼女の背を撫でる。「一緒に行こう。私も思い出したい。」顔を上げた彼女の顔は涙でぐちゃぐちゃになっていたが、かすかにに笑っているようにも見えた。

 

 人目を避けて住宅街の路地の間を通る。松の木が生い茂る道を抜けると、少し開けた場所に出た。目の前には海が見える。「…ここは?」黙って後ろをついて来ていた彼女が私の顔を覗き込む。私を呼んでいた声を頼りに歩いていた。たどり着いた場所は潮風が気持ちの良い海岸。昔、ここでよく遊んでいたような気がするが、確信がなく記憶も曖昧だ。周りを見廻すと、近くに沈没船のようなものが見えた。「行こう。」あそこが声の場所だと直感した。彼女の手を握りしめる。少し汗ばんでいた。

 近づいてみて改めて分かったことは、沈没船が公園の遊具の一つだったことだ。ネットが張り巡らされ、いろんな場所から登り降り出来るようになっている。地面は柔らかい砂場で、誰かが作った砂のお城がポツンと建っていた。「ここ!」急に彼女が私の手を振り払って駆け出した。「ここ、来たことある!」沈没船の頂上に登って手をヒラヒラ振っている。彼女が来たことがあるということはこの辺りに住んでいる子なのか。私はなぜこの場所に呼ばれたのだろう。遠くに見える水平線に家族の絵が映し出される。子供用のスコップとバケツを持った女の子がお父さんらしき男の人と砂を積み重ねて何かを作っている。目を凝らして見ても鮮明には見えなかった。その絵は蜃気楼のように消えて無くなった。(気のせいか。)ふと横を見ると彼女は、記憶を一つ取り戻せたことで大喜びしている。これは彼女の記憶を取り戻すことが目的で、私の思い出の場所を巡る旅ではない。そう言い聞かせる。声はもうしなくなっていた。そもそも私のことを呼んでいたのか、声がしたのかさえ自信がなくなっていた。私には幼い頃の記憶がほとんどない。今はお母さんと二人暮らしなのだが、昔はもちろんお父さんも一緒に暮らした。二人は私が小学4年生になったばかりの頃、離婚した。ショックだった。お父さんのこともお母さんのことも大好きだった気がする。今さら何も思い出せない。思い出したくない。自分自身で記憶に蓋をしたのだと思う。それなのに今、思い出したいと思い、声にしたがってここまで来た。自分でも矛盾していると思う。ただ自分が何なのか原点を知りたかっただけなんだ。さっき見えたものはもしかして私の過去なのだろうか。「ほのか?」ふと顔を上げると彼女がいた。子供のようにはしゃいでいたからか、服の裾が少し汚れている。いつの間にか砂の山も増えている。「どうした?何か思い出した?」彼女は深くうなづいた。「ほんの少しだけどね。むかーしここに来たことがあった。お父さんとお母さんと三人で。日が暮れるまでおにごっこしたり、砂のお城を作ったりしてた。ぼんやりだけど、お父さんとお母さんの顔が見えたの。優しい顔をしてた。」そう言って寂しそうな顔をした。「そう。」私はそれだけ行って歩き出した。彼女にも親がいて楽しい思い出があったわけか。なぜ羨ましいと思ったのだろう。私だって同じはずだ。(大丈夫。)自分にそう言い聞かせた。


 日がいつの間にか高く登っていた。公園の時計が13時を指している。グゥーっとお腹が鳴った。私の腹の虫だった。「ごめん。お腹すいたわ。」カバンを探り、財布を取り出した。財布の中身は3000円。二人でお昼を食べるには十分だ。ただ、学校をサボってることがあり人目は避けなければならない。ファミレスで優雅にランチという訳にはいかないのだ。(コンビニかなんかで済ませるか。)「行こう。」ふたたび歩き出した。なるべく学校から離れようと歩いた。この前、清香たちとランチしたカフェを横切る。あそこのオムライスはおいしかった。皆んなでパンケーキをシェアしたなと思い出す。横をチラッと見ると彼女はカフェなんか興味もないようで真っ直ぐ前を向いて歩いていた。いつもは何か会話をしていないと我慢ならない私だが、不思議な雰囲気を纏った彼女とは無言でも圧は感じなかったり。それが気楽だった。彼女から話しかけてくる事は全然ない。海までの道でそうだった。もともと喋らないタイプなのかもしれないし、記憶をなくしていて話せることがないのかもしれないと思った。「…ここ。」彼女が突然立ち止まった。ふたば幼稚園とある。ここは知っている。私の通っていた幼稚園だ。「私、ここに通ってたかもしれない。」彼女はそう言う。彼女は同い年くらいに見えるが、実際は何歳なのだろう。もし、同い年ならば私と同時期に通っていたことになる。「ここ、私が通ってたとこだよ。…ねえ、そういえば今いくつなの?」「分からない。」彼女は首を振る。「自分のことは何ひとつ覚えてない。名前も生まれも歳も。でも、なんかここは覚えがあるの。」真剣な眼差しで見ている。中では小さな子どもたちが元気に走り回っていた。先生の姿見えた。「…あんまり近づかないで。平日の昼間だし、変な人だと思われる。」彼女の腕を引っ張ったが、彼女は頑なに動かなかった。「私ね、小さい頃幼稚園が大嫌いだった。だって、お母さんと離れなきゃならないでしょ。」こちらを向いた彼女は少し泣きそうになっていた。「お母さんとずっと一緒にいたいって思う気持ちってそんなにおかしいかな。」何を伝えたいのかサッパリだった。そんな事よりこの場から早く立ち去らなければ、彼女はただでさえ怪しいので不審者だと思われてしまうかもしれない。私は制服を着ているし、学校に通報なんてされたらたまったものではない。必死に説得してやっとのことで諦めてくれた。「中に入ってみないと分かんないや。」残念そうに俯いている。「私が通ってたとこだし、もし同級生だったら卒園アルバムがあるからそれ見たら、載ってるかもよ!」私がそう言うと彼女は嬉しそうに少しだけ笑っていた。

 コンビニでそのまますぐに食べられるサンドウィッチとおにぎりを買った。自分の好みも分からないと言うので、適当に私の好きな具を買って半分こすることにした。おにぎりはツナマヨと梅にしたのだが、どちらも美味しいと言って食べていた。ご飯を食べた後、これからどうしようか迷った。私ももうアテがないし、彼女のこともよく分からない。とりあえず、幼稚園があそこなら家も近いのではないかと推理し、しばらくこの周辺を歩くことにした。しかし、それから収穫はひとつも無かった。時間のみが過ぎていって日が傾いていく。オレンジ色に染まった雲が沈んでいく。私は疲れ切っていたが、彼女は立ち止まることはなく、ただ歩き続けていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る