二重に歩む者

久保結紀

第1話 出会い

 そこは、暗い暗い海の底。わずかな泡がかすかに光を反射して白く見えるほどで他には何も見えない。手探りで掴もうともがく。もがけばもがくほど、落ちていく。足に枷でもついているのではないかと思うほど足が重く、動かそうとしても感覚がない。息が苦しい。まだ意識があるのが不思議だ。ずいぶんと長い時間落ちている気がする。視界が歪んできた。苦しくて苦しくて、早く終わってくれとさえ思っていた。その時、何かが見えた。暗い中にうっすらと人影が見える。最期の力を振り絞って手を伸ばすが、届かない。あれは、誰かだろう。誰でも良いから、たすけて…。


 けたたましい音でスマホのアラームが鳴り響く。嫌がる瞼を無理やりこじ開けると、揺れるカーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。

「…はあ。」深いため息をつき、重い身体を起こす。変な夢を見たからか寝汗がすごかった。しばらくは動きたくなくて、布団に頭をうずめた。

「穂乃花ー!遅刻するよ!はやく起きなさい!」下の階から母の声が聞こえる。ドンドンと階段を登ってくる音もする。「はあ。もう!」仕方なくベッドから起き上がり、掛けてある制服を雑に手に取った。それと同じぐらいに扉が開かれ、かなり苛立った母が現れた。「起きてるなら返事くらいしてよね。」捨て台詞のようにそれだけ言うと、また大きな音をたてて階段を降りていった。カーテンを開けるとあふれんばかりの光が部屋に差し込んだ。部屋中がさっと色づく。パジャマを脱ぎ捨て制服に袖を通す。着なれたもののはずなのに、不快感が否めない。全身が映る縦長の鏡の自分を睨みつける。鏡の中の自分も私を睨みつけている。階段を一段一段降りるたびに膨らむのは、憂鬱だけだった。

 ノロノロと支度をしていたら、時間ギリギリになってしまった。白飯と昨日の残りの味噌汁が机の上に並んでいたが、食べている時間はなかった。食欲がないと言って家を出る。「さむっ!」思った以上の寒さに声が出た。見上げると空は、ちぎれそうな白い雲に覆われていた。


私が教室についたのはチャイムがなった少し後だった。わざとらしく息を上げる。「お!きたきた!」そう言って手を振っている3人組が私の今の友達だ。「穂乃花ー。遅いじゃーん。また遅刻?」半笑いでそう言うのは佐藤清香。2週間程前にいきなり茶髪に染めてきて散々先生に怒られたのにまだ染め直していない上に化粧もバッチリだ。「おはよー。」その隣で眠そうに欠伸をしているのは、バスケ部のエース、横井麻衣だ。毎日朝練があるらしく、常に眠そうにしている。「穂乃花も懲りないね。またペナルティ掃除じゃね?」菅田杏がキレイに巻かれた髪をいじりながら言う。彼女は私の小学生時代からの幼なじみでもある。だが、仲はそこまで良くはない。杏はあまり喋らないのだが、ハッキリと物事を言うタイプなのだ。サバサバ系と言うのだろうか。彼氏には甘いらしいからツンデレ系か?「へへ。また寝坊しちゃったの!掃除とかダルいからサボるわー。」笑いながら席につく。幸い担任はまだ来ていないようだった。遅刻したことはもう、知っているだろうが、そんなことどうでも良い。今が楽しければそれで構わないのだから。登校前の憂鬱は彼女たちと話している内に、いつの間にか飛んでいってしまっていた。


 放課後。やはり掃除を命じられた。渡されたホウキはよりによって肢が短いもので、かがまなければ地面に届かない。「…クソじゃんか。」呟きながら、下駄箱の辺りをはいてるフリをしていた。サボろうとしていたものの、担任がすぐ近くで睨みをきかせている。日頃の行いが悪いせいだろう。

「…うける!」部活に向かう途中の麻衣が通りかかった。「うるさいー。しっかり掃除してますよー。」「あはは!ファイト!」麻衣は、そう笑いながら言って駆けて行ってしまった。(…いいな。マイは。)キレイに高い位置で束ねられた黒髪を見つめ思う。身長はクラスで1番。スタイルが良い上に胸もデカい。運動神経はもちろん良い。前世でどれだけ徳を積んだらそうなれるのか、羨ましい限りだ。

 「おい!」ぼけっと麻衣の後ろ姿を見送っていると少し遠くから担任の怒鳴り声が聞こえ、身体が飛び跳ねるほど驚いた。どうやら、私のことでは無かったようだ。声のほうを覗いてみると怒られていたのは私を待ってくれていた清香と杏だった。二人とも校則違反を纏っているようなものだ。先生に会うたびに怒られている。(またやってるよ。)見慣れた日常の光景だ。すると清香のほうが私に合図を送ってきた。手を合わせ、上下に振っている。親指を立て右にまた振る。(ごめん。今日は帰るわ。)か。私がうなずくと二人はすぐに話を切り上げ、帰って行った。杏が少し心配そうにこちらを見た様な気がしたがすぐに目を逸らしたのでよく分からなかった。

 しばらく掃除をするフリを続けていたが、キレイになっていないことに気づいた担任に怒られ、結局ちゃんと掃除をして帰った。空はもう日が傾いてきていて少し暗い。久しぶりに1人での下校だ。いつもは帰り道が同じ杏と帰っている。今日は、清香も一緒にいたから二人は放課後遊ぶつもりだったのだろう。まあ、あの二人が私抜きで仲良くしようたって構わない。麻衣は常に部活優先だから放課後会うことなんてほとんどないし、私が今日行かなくたって遅れをとることはないのだ。田んぼが広がるのどかな田舎を歩く。米が実り始め、傾いた穂が夕日に光り輝く。ふと何かを踏んだ感覚がして足元を見ると、可愛いピンク色のハンカチを踏みつけにしていた。慌てて足をどかし、手に取った。踏んだ時には汚れはそこまで付かなかったようだ。というか、私が踏む以前から汚かったであろうシミやら何やらが付いている。いつから落ちていたのか。もしかして登校の時にはすでに落ちていたとか。少し考えて地面に戻そうとした。こんな汚い物拾ったところでどうしようもない。

 「…えして。」突然の声に驚いて顔を上げると1人の少女が立っていた。私と変わらない高校生くらいに見える。鎖骨くらいまで伸ばした真っ直ぐな黒髪に長いまつ毛の間から見える瞳。その眼に睨みつけられ、しばらく声が出なかった。真冬でもないのにマフラーのようなものを口から首にかけて巻き付けていて顔がよく分からない。衣服はシンプルな白いシャツワンピースだ。膝下丈のスカートが風になびく。「…返して。」もう一度ハッキリと彼女は言った。黒い瞳は揺れている。何故か少し泣きそうな様にも見えた。私は、慌ててハンカチを渡した。地面にまた戻そうとしていたことを怒っているのだろうか。彼女はハンカチを受け取ってなお立ち尽くしている。「…あの。私、そろそろ帰るんで…。」おそるおそる話しかけた。ハンカチを見つめていた彼女は少し顔を上げた。その真っ黒な瞳に吸い込まれそうだった。何だか少し怖くて、私はすぐ立ち去ろうとした。「…待って。」ぐっと腕を掴まれる。「な、何か?」また瞳を見つめた。少し俯き、考え込むような仕草をした彼女は、すぐに顔を上げた。「…帰る場所がないの。私、記憶がなくて何も分からないの。」私を掴んでいる腕が震えているのがわかる。「あ、あのそれなら警察とか行った方が良いんじゃない?私じゃどうしようもないんで。…じゃあ。」無理やり腕を振り払って走った。なんだか胸騒ぎがして怖かった。記憶喪失が本当ならば可哀想だが、私には関係ない。知ったこっちゃない。赤の他人だ。そう言い聞かせるしかなかった。 


 家の扉を勢いよく開ける。焦りに焦った表情の私が玄関の鏡に映っている。久しぶりに本気で走ったので汗だくだ。疲れて何だか眠い。少し休もうと思って階段を上がる。「おかえり、穂乃花。どうしたの?汗だくじゃない。」二階から丁度降りてきた母が驚いた顔で私のことを見る。母の顔をまともに見られないほどフラフラだった。朝を抜いたし、昼もろくに食べなかったから、貧血になっているのかもしれない。部屋に入り、カバンをほうり投げる。そしてすぐに倒れるように眠った。


 目を開けても違和感が無いほど部屋は暗かった。眠ってしまったのかと身体を起こす。おでこに何かひんやりしたものが貼られている。冷えピタだ。母が貼ったのか。よく見ると枕も氷枕だ。熱があると思われたのか。頭の奥がキーンと耳鳴りがしていて痛い。身体もいつもより重い気がする。本当に熱があるのかと思って体温計を手に取る。三十六度五分。平熱だ。明日、休めるかと少し期待してしまった。無駄に落ち込んで立ち上がる。学校が嫌な訳ではないが、行かなくていいなら行きたくはないのだ。高校二年になってから受験をしなくてはならない圧がかかり始めていた。将来のことなんて今はまだ考えられない。考えたくない。嫌なことを考えていたら、また具合が悪くなってきた。身体がフワフワしている。自分の身体じゃないようだ。力を振り絞り暗がりから出て明るい階下に降りた。母が机の前に座ってテレビを見ていた。私が来たことを知ると慌てて駆け寄ってきた。「大丈夫?熱は無かったみたいだけど。ご飯、食べれる?」覗き込むように見つめてくる。「うん。大丈夫。ちょっと貧血だっただけだから。」目を逸らし、うなずく。「…すぐご飯用意するね。」そう言って母は立ち上がり、机の上にラップをして置いてあった食事を温め始めた。

 椅子に腰掛け、テレビを眺める。名前だけ知っている芸人が裸で一発ギャグを見せている。それを見て爆笑する出演者たち。母はこういうのが好きなのか。私には、皆仮面を被っているように見える。きっとみんな皆んな偽物だ。金を稼ぐための仮面をつけて、自分を覆い隠して生きている。大人から見れば私はまだ人生の半分も生きていないだろうが、今まで会ってきた人は皆、他人には見えない化けの皮のようなものを纏っていた。素敵な服を着て、髪を整えて、メイクなどで自分を彩る。そうやって隠しているのだ。本当の姿を。

 お笑い番組が終わってニュース番組になったところで顔を上げた。母がこちらを見ている。「ゆっくり食べて。お母さんはお風呂、先入ってるね。」机の上で食事が湯気を立てている。熱々のハンバーグをゆっくりと噛み締めた。(美味しい。)お袋の味というものだろうか。体調が悪いせいか、いつもより美味しく感じた。


 湯船に浸かりながら思うのは、やはり帰り道で出会った記憶がない少女のことだ。あの子は今頃どうなっただろうか。警察に行ったのだろうか。あのハンカチはそもそも彼女の物だったのか。記憶が無くてもあれが自分の物だって確信が持てたのだろうか。何故、私に助けを求めたのだろう。考えれば考えるほど分からなくなる。そもそも記憶喪失は本当なのか。ドラマでしか見たことがないし、私は正直、彼女を幽霊だと思った。真っ白な服を着ていたし、季節外れのマフラーは顔を隠しているように見えて明らかに不自然だった。とにかく恐ろしかった。シャワーから水滴が落ち続けていてタプ、タプ、と音を立てている。私が少し動いただけで広がる波紋は、次々と連鎖していく。水面に映った私が歪んでいく。「…ふぅー。」深く息をついて、水面に映る自分を手で振り払った。パシャンと音を立てて弱い波に変わった。立ち上がると消したはずの自分がまた私を見ている。何を求めているか分からない光の届かない瞳はあの少女の眼にどことなく似ていた。


 朝が来たようだ。カーテンの隙間から弱々しく光が差し込んでいる。まだアラームは鳴っていないようだ。時間を確認するとまだ起きるには早かった。昨日、帰ってから寝てしまったことが祟ったらしい。眠気はそこまで無く、カーテンの揺れる影を見つめていた。しばらして「…起きてたの?」と突然、扉が開いて母が入ってきた。「急にどうしたの?」驚いて聞き返す。「…昨日、随分とうなされてた様だったから。」「そうなんだ…。」まったく思い出せない。夢を見ていたのかさえ分からない。「…大丈夫。何でもないから。」扉が閉まる音がして、母が出て行ったことに気づく。静かになった部屋で考える。夢の中でうなされていたのかもしれない。やはり昨日の少女が幽霊で私は取り憑かれてしまったのだろうか。なんてメルヘンなことを考えてしまった自分を笑った。(バカバカしい。)うなって頭を抱える。とりあえず昨日の失敗を活かしてご飯だけは食べようと思い、階段を降りる。身体がフラフラしていたので、足を踏みしめるように一段一段丁寧に降りた。リビングには昨日と同じように食卓には食事がキレイに並べられている。食欲は無かったが、無理矢理味噌汁を流し込んだ。喉につかえ、ひどくむせてしまった。その時に手が引っかかり、水を思い切りこぼしてしまう。スカートが濡れてしまった。ため息をつきながら濡れたスカートを干し、夏服の薄いスカートに着替えて外に出た。空は、雲ひとつない快晴だ。体調が悪い時は休んだほうがいい。私は、今日だけサボることを決めて、母が家を出るまで暇をつぶそうと普段行かない方へと歩き出した。悪いことをする前特有の謎の高揚感が気持ちいい。鳥のさえずりさえ、愛おしかった。

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