わたしの腕時計

さくら京都乃

第1話

「では、一昨日の数学のテストの返却をします。呼ばれたら取りに来るように」

 そう声をかけた担任の先生を、私はやっとか、と思いながら眺めていた。

 既に教室のあちこちでは「嫌だ」とか「見たくない」とか、悲鳴に近いざわめきが起こっている。

 私はそんなクラスメイトの声を、どこか遠い気持ちで聞いていた。

 クラスのみんなの気持ちがわからないわけじゃない。一昨日のテストはとても難しかった。ほとんどの生徒の点数は好ましくないものとなっていると思う。前の私なら、きっとみんなと一緒になって騒いで感情を共有することで、テストの結果の悪さから目をそらしていただろう。でも、今の私はみんなのように騒いだりはしない。そんなことをする必要は、ないのだから。


「次、中山ゆいさん」

「はい」


 テスト返却をする担任の先生の声に返事をして、私は席を立った。

 ざわめく教室を歩いて、先生の元へと向かう。

 機械的にテスト用紙を配る先生から答案を受け取ると、その場でざっとテスト用紙を見た。ぱっと目に飛び込んできたのは大量の赤い×マーク。点数は、二六点。

 赤点だ。予想通りの結果である。

 あまりの出来の悪さに思わず笑い出しそうになってしまった。

 先生はそんな私の様子を一瞬怪訝な顔でみるが、すぐに目をそらして次の生徒の名前を呼び始めた。


 しばらくして全員のテスト返却を終え、先生が講評に入る。

「今回の出来はあまり良いものではありませんでした。解説をよく聞いて復習するように」

 そして始まった長い解説。私はそれを聞き流しながら、提示される解答だけを見つめ、ひたすらに暗記を始めた。問題に対する答え、ものによっては途中式までを丸暗記する。

 どうしてその答えになるかはどうでもいい。答えだけ、完璧にわかればいい。

 全てを残らずに暗記するころには授業終わりのチャイムが鳴っていた。

 ――よし、これで大丈夫。

 ではここまで、という先生の声で授業は終わった。休み時間に入ってすぐに教室がうるさくなる。

 ばたばたと動き出すクラスメイトをなんとなく眺めながら、私はいつものように腕時計のリューズに手をかけた。ざわめいていた教室が、途端に静まり返る。

 クリリリ、クリリリ

 何回か回して、日付が一昨日のテスト日になったことを確認する。

 ――うん、大丈夫。

 パチン

 リューズを戻して、軽く腕をふる。すると、途端に教室の喧騒が戻ってくる。同時に、教室の扉を開ける音が聞こえ、先生の声が響いた。

「はーい、これから数学の抜き打ちテストを始めまーす」

 ブーイングに包まれながら淡々と配られるテスト用紙を、私は内心ほくそ笑みながら見つめていた。



 私がこの腕時計を手に入れたのは、数カ月前だ。学校の帰り道で偶然落ちているのを見かけたのだ。最初は交番にでも届けようかと思って拾ったのだが、その道中でそれがただの時計ではないことに気が付いた。

 なんと、時を戻すことができる時計だったのだ。

 私がそれに気づいたのは、本当に運がよかったと思う。時計の時刻があっていないことに気づき、せっかくだからあわせてあげようといじったことによるものだった。

 次の瞬間、私は学校の帰り道で、再び落ちている時計を見つけていた。

 最初はその現象が信じられなくて何度も試してしまった。そして、繰り返される同じ場面。

 ――時が戻っている。

 その力が本物だと理解すると、今度は怖くてたまらなくなった。便利な力だけど、何か代償でもあるのではないか。だから、何度も時計を捨てようと思ったのだけど……。

 できなかった。

 怖さよりも、時を戻す力の魅力にとらわれた。

 あのときにああすればよかった、この先どうなるんだろう、みたいな誰でも考える悩みがこの腕時計一つで解決するのだ。突然降ってきた幸運。しかも、人生すら変えられる力を持つもの。そう簡単に手放せるわけがなかった。

 私はその日から時計を使って、自分に都合の良いように時間を巻き戻すようになっていた。




 その日は転校生が来る日だった。朝からみんなが騒々しい。ソワソワしているといったところか。

 ――私にはどうでもいいけど。

 そんなふうに思いながら、先生が来るのを待っていた。

 担任に連れられて入ってきたのはかわいらしい女の子だった。綺麗な茶髪で碧い眼の、整った顔立ちをしている。名前は斉藤マリアというらしい。あまり人前で話すのが得意ではないのか、若干下を向きつつ自己紹介をしていた。そんな彼女の姿を、私はぼんやりと眺めていたのだけど。

 彼女は挨拶を済ますと、スッと前を向いて、こちらを見た。視線がちょうどぶつかる。思わずツイっと視線をそらしてしまった。

 ――まあ、どうせ彼女と友達になることはないからいいよね。

 そう思ってそのまま窓の方に向けていると、不意に声が上から降ってきた。

「よろしくね」

「え、あ。うん。よろ……しく」

 そういえば、私の席の隣に新しく机が置かれてたっけ。

 愛想笑いを浮かべながら言ったものの、正直な話、自分が関わることはないだろうなと思っていた。私はあまり親しい人づきあいをしないから。正確には、しなくなったから。

 この腕時計がある限り、私は自分の思い通りに生きられる。だから、基本的に自分に都合の悪いことは起こらない。というより、起こらないように未来を変えられるといったところだろうか。勿論、いじめにあうこともない。いじめにあったら、あう前に時間を戻して、回避すればいいだけだ。テストもしかり、なんでもが、起こる前に戻って回避すれば、困難な事も嫌な事も起こらない。だから、常に時間を巻き戻して過ごしてきて、一体どれぐらい巻き戻ったのか、わからないくらいだ。

 そのせいだろう。私はだんだん人と深く関わることが難しくなっていった。時を何度も戻した私と、そうでないみんなとは経験や記憶に齟齬がでる。最初はたいして気にならなかったそれも、何度も繰り返すうちにどうしようもない差になってくる。

 どの記憶がみんなと共通のもので、どの記憶がそうじゃないのか。それを間違えるたびにみんなに変な顔をされ、私はまた時計のリューズに手をかける。それを繰り返すうちに、だんだんと面倒になってきたのだ。

 なら、いっそ。人と親しくなるのをやめてしまえばいい。害を加えられない程度に浅い付き合いでも、時々障りない世間話や愚痴をするのには事足りるのだ。

 だから、私にはいくら転校生が来たと周りが騒いでも興味すらわかなかった。でも、そんな私に彼女は話しかけてきた。席が隣になったから、と言うだけでなく、毎日毎日、まるで前からの親友だったかのように。そして、それが本当のことになるまでそう時間はかからなかった。気づけば私からも彼女に話しかけるようになり、私達はいつも一緒にいる仲になった。

 彼女と仲良くなって、私の生活は変わった。

 毎日、たわいない話をして、学校の帰りにちょっぴり寄り道をする。そんな充実した毎日を送ってる実感が最近はある。試験の前には、どこが出るかヤマをかけてみたり、一緒に勉強したり、わからないところは教えあって、気がついたらこの腕時計を使うことすら忘れていたぐらいだった。


 しかし――


「ねえ、ゆい。今のテストどうだった?」

「ん、私? まあまあ、かな……」

 マリアの言葉に私はあいまいに返した。なぜなら、答えをカンニングしたようなものだったから。

 今回のテストはまたしても先生の抜き打ち。私は久しぶりに腕時計の力で答えを書き直した。さすがに満点にするのはやりすぎだろうと思って、ある程度の点数には調整した。

「え~、私は全然できなかったよ~! どうしよう、絶対赤点だよぉ……」

 うなだれるマリアを慰めるように私は彼女の頭を撫でた。

「まあまあ、まだ確定したわけじゃないし……」

「こんなの確定したも同然だよ! はぁ~、ゆいはすごいなぁ。普段からちゃんと復習してるってことだよね? 今回のテスト相当難しかったもん。それがまあまあ、って。さすがゆい。尊敬するよ」

「そ、そんなことないよ~」

 マリアはとてもほめてくれるけど、私はそれを素直に聞くことはできなかった。当然だ。ずるをしているのだから。マリアがすごいと言う度に、私の心はちくりと痛む。そんな私をマリアはじっと見つめてきた。その碧い瞳に見つめられて、一瞬ドキッとした。なんだか、自分のやっていることを見透かされたような気がしたからだ。

「あ、あのねマリア。実は私、今回のはヤマがあたったみたいなの。そろそろ先生が抜き打ちするかなー、そして出すならここらへんかなーって、この前ふと思ってね?」

 思わず、言い訳のような返答をしてしまう。

「え、また? その前もヤマ張ったのがあたったって言ってたよね?! なにそれ百発百中?」

 ヤマがあたるなんていいなーと呟いているマリアに苦笑しつつ、私は腕時計の力のことを考えていた。

 今まで誰にも話したことはなかったけれど、マリアになら言ってもいいかもしれない。とはいっても、時を戻す力のことを言うわけじゃない。さすがにそれは怖いから。でも、今度でるテストの内容をヤマとして話すくらいなら。

 そうしたら、マリアの役に立つこともできるし。

 だから、私がその時にマリアに言ったのはちょっぴりの親切心のつもりだった。

「じゃあさ、今度のテストの前には私のヤマを教えてあげるよ。私のはよく当たるんだ。だから、特別ね? でも、誰にも言わないでよ?」

 その時、私はてっきりマリアは私の言葉に喜んでくれると思っていた。

 ありがとう、助かるって、笑うマリアの顔まで想像した。けれど。

「ありがとう。でもね、ゆいのヤマはいらないよ。教えてくれなくても大丈夫!」

「……どうして?」

「人に教えてもらったヤマが当たっても、ちっとも嬉しくないもん。自分で勝利はつかみ取りたいじゃない。だから、自分で勉強頑張って点数を上げるよ!」

 そういって笑うマリア。私は何も言葉を返すことができなかった。


 マリアの言葉を聞いてから、私は考えた。自分がしてきた事に、少しずつ疑問が生じてきた。時を巻き戻して良い思いをして、そして何が残っただろうか。

 良い点数を取ることも、失敗を回避したこともできたけど、それは自分の力ではない。

 全部腕時計のおかげで。自分の力では何一つ解決していないのだ。自分一人では何もできなくなっているのに、いまさら気が付いた。




 それから数ヶ月、その日も私たちは一緒に下校していた。帰り道の途中にある橋を渡っているときだった。

「ねえ、ゆい。その腕時計いつもつけてるよね。すごく素敵」

 マリアに言われて自分の腕時計に視線を落とした。

「ああ、これね。ありがとう」

「それって高そうだよね。誰かからのもらいものとか?」

「ん、いや。そういうわけじゃないんだけど……」

 私はそう言って腕時計に視線を落とした。以前は、毎日のように使ってた時計。最近はあまり使っていない。

 今までは嫌なことから逃げるために時計を使ってばかりだった。赤点から逃れるためとか、人づきあいの失敗をごまかすためとか。でも、あの日のマリアの言葉もあって、いつしか時を戻すことがなくなっていた。時を戻す力のことも、考えなくなっていたのだけれど――


 マリアと一緒にいるのは楽しい。友だちと一緒にいるのがこんなに楽しいなんて、少し前の私には想像もできなかった。

 ――だから、もっとこのままこの時間を過ごしていたい。


 そんな気持ちになり、久しぶりにリューズを少しの時間だけ、ほんの二、三時間だけでいいから戻そうと思った。マリアとのおしゃべりは楽しかったから、たとえ時を戻すことでマリアの記憶がなくなったとしても、またおしゃべりできるならきっと楽しいはずだ。


 私は立ち止まって、リューズに手をかけた。

 不思議そうに、マリアがこちらを見る。

 私はそれに構うことなくリューズを回そうとした。でも、しばらく使ってなかったリューズは固くなってしまったのか、なかなかまわらない。

 ――おかしいな。

 私は腕時計を外して思いっきり上下に振ってみた。

 しかし、こんなところでやるべきではなかった。

 手にあったはずの腕時計は、スルリと飛び出し、弧を描くように欄干から川に落ちてしまっていた。

「あ……」

 とっさに手を伸ばし掴もうとしたが、無理だった。

 最後にキラリと輝き、まるで高飛の選手が水に飛び込むように、ノースプラッシュで水の中に消えていく。

 空を切った手はいつの間にか欄干を握っていた。

「ねえ、腕時計が落ちちゃったよ!」

 マリアが慌てた様子で言う。でも、焦るとマリアとは反対に、私の心は穏やかだった。

 なぜだろう。やってしまったという後悔よりも、これでよかったのだという気持ちが強くある。今まで時計を手放すことなんて考えてなかったけれど、不思議とそう思えた。

 私は消えていった時計に背を向けてマリアに向き直る。

「もういいの。あれはもう私には必要ないから。それより、あの腕時計の代わりに新しいの買いに行きたいの。買いに行くの付き合ってくれる?」

 笑顔でそう言えば、心配そうな顔だった彼女は、にっこり笑って頷いた。

「もちろん! 可愛い腕時計探そ!」







 二人での買い物を終えて別れた後、マリアは再びさっきの橋の所に戻ってきていた。

 日も沈んで辺りは暗く、人の姿もまばらだ。

「えーと、この辺だったよね」

 浅瀬の川に入り、ライトで照らしながら水底を探す。

 十数分後、ようやくマリアは目的のものを見つけることができた。

 拾い上げた腕時計を愛おしそうにハンカチで拭うと、にっこりと微笑んで呟く。

「お帰り、私の大事な腕時計さん。これでやっと時間を巻き戻せるわ」



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