傷を舐めあう

くずき

傷を舐めあう

 多くの、色とりどりの袴や、スーツが多くうごめく中。赤い花がちりばめられた袴を着た先輩が、遠くで、誰かと話していた。

 ようやく、その姿を見つけられた。

 胸を撫で下ろし、近くのベンチに腰を下ろす。おそらく、この後、仲のいい友達と遊びに行ってしまうのだろう。

 ぼうと、笑う先輩を見ていると、先輩はこちらに視線を運ばせ、少し彷徨った後、目が合った。思わず、体が強ばり、咄嗟に頭を下げると、先輩はほほにえくぼをつくって、手を振ってくる。無邪気なその姿。

 こんなに大勢いて、目が合うなんて、運命的でないだろうか。

 先輩は友達とまた、話し始めたかと思うと、互いに抱きしめあった。先輩は、その友達に手を振って、こちらに歩いてくる。

 長い袖は、風でなびいた。

「セイちゃん。久しぶり」

 先輩は珍しく、ラメの多いアイシャドーを塗っており、口紅もいつもより赤が濃かった。いつもと違う先輩は、普段の倍、綺麗に見える。

「久しぶりですね。友達はいいんですか?」

「いいの。どうせ、また会えるんだから」

「ふーん」

 次を約束された友達がうらやましかったが、そんなことは言えない。

 先輩を黙ってみていると、先輩は笑って、「なに? さみしいの」と、弾んだ声で聴いてくる。

「そうですよ。もう、廊下ですれ違うこともなくなりますし」

「そうだね。私も悲しいなあ。セイちゃん、私と会うと、犬みたいに寄ってきたから」

「あれ?もしかして俺、犬と同じですか?」

 先輩は面白そうに笑った。

「犬と同じよ。セイちゃんだもの」

「じゃ、犬の散歩でいいんで、今度一緒に出掛けません? 次は俺がお店、選ぶんで」

 いつもは、おいしいお店をよく知っている先輩が、昼食をどこで食べるのか、決めてくれていた。

 別に、いつものように、先輩が決めた店でもよかった。何でもいいのだ。くだらないことを夜が更けても話していたい、その口実が欲しかっただけだった。

 先輩はわざとらしく、眉間にしわをよせる。

「ええ? 私の知ってるところのほうがおいしいからなぁ」

「いいじゃないですか、たまには」

「まあ、そのときの気分次第かな」

 先輩は髪を耳にかけた。見えたその首筋も、とても綺麗だった。

「今日、先輩に言おうと思ってたことなんですけど」

「なに?」

 先輩はじっと、こちらを見つめる。

 せかすものではなく、何を話すのか、注意深く聞こうとしている、先輩の癖だった。それが、たまらなく恥ずかしく感じて、下を向いてしまう。

 先輩の小さな足がすっぽり下駄にはまっているのが見えた。

「あの……俺、先輩みたいな人がタイプなんです」

 素直に、好きと、口から出てこなかった。

 先輩の足が一歩、離れて、二歩、また近づいた。

「子供のお守りは面倒よ」

 震えた声に、顔を上げると、先輩は泣いていた。

 なんで、泣いているのだろう。俺は言葉を間違えてしまっただろうか。

「先輩、俺」

 謝ろうとしたところで、先輩は距離を詰めた。急に目の前に迫った、先輩の顔をさけることも、何もできず、唇に、柔らかい先輩の唇が当たった。

 なんで。

 聞こうとしたところで先輩は、泣いたまま、「ごめんね」といって、背を向ける。

 どんどん遠のく背中は、どれだけ人にもまれようと、目で追うことができた。角を曲がって、背中が見えなくなったとき、ようやく足を踏み出せた。先輩の背中を見つけようとしたが、どこ探しても見当たらない。

 どうして、キスをしたんだろう。どうして、泣いたの。

 たくさんの聞きたいことがあった。だが、何より、今まで続いてきた、先輩との関係を壊してしまったことが、つらかった。次の約束をできると思ったのに。

 先輩の電話番号も、メールも、何一つ、繋がらない。先輩は、俺から遠く、離れていってしまった。





 体が震え、唐突に寒さを感じる。

 寒い。とにかく寒い。

 手を伸ばすと、暖かな肌に触れる。それに腕を回せば、布団が動き、背に腕が回された。

「なに、眠れないの?」

 猫撫での、甘い声。

 布団に潜り込み、素肌の柔らかい胸に頭を押し付ける。

「寒いんだ」

「風邪でも引いたの?」

 風邪、はひいていない。怠さもない。眠いだけ。

 けれど、この肌にまだ、甘えていたい。

「かもしれない」

「やだぁ、うつさないで」

 肩を押され、ぬくもりが離れていく。

 目を開けると、眉間にしわをよせ、化粧の濃い女が視界にうつる。

「なら、一緒に朝まで一緒にいてあげる」って、返してくれたなら、この女の隣に居たいと願ったかもしれない。

 所詮、こんなのも一夜の遊びだ。

 腕を緩めると、女はゆっくり離れていった。

「今日は帰る?」

「風邪ひいてるかもしれないんでしょ? 帰るよ」

 胸の大きな女は、裸をあらわに布団から抜け出し、そそくさと服を着て、挨拶もなしに出て行ってしまった。

 後腐れのない、後悔も残らない、ちょうどいい距離感。結局、寒い。

 布団に潜り込み、両手で腕をさすってはみたが、体の震えは止まらない。

 枕元の時計を確認すれば、6時を回ったあたりであった。いつのまにか、夜が明けていた。

 二度寝をする気にもなれず、布団から抜け出し、パーカーとスウェットを着て、その上からさらに大きめのカーディガンを羽織る。

 床にきたない、ごみが床に転がっているのが目についてしまう。それは、さっきまであの女と一緒にいた印だった。

 どうしようもない、このさみしさから逃れたくて、財布を片手に、外へ出た。


 コンビニは誰もいなかった。店員さえも奥に引っ込んでいるのか、姿がない。

 きれていたゴムと、ビールにおつまみをカウンターに置き、バッグヤードをのぞき込む。

「すみません」

 レジから呼べば、眠たげな大学生ぐらいの男が出てきた。

「いらっしゃいませ」

「あと、ペティル」

 ピタッと、男は手を止めた。それから、小声で「タバコか」とつぶやくと、唱えながら、後ろの棚を探し始める。

 端から順に名前を指差して探し始めた。ペティルがわからないのだろう。

「ピンクのパッケージです」

「ああ」

「ペティル、ピンク」と、唱えながらも再び探し始めた。

 目で追いながら、一緒に探すが、目が悪いために、パッケージがピンクのものが一様に見えてしまう。男がようやく、ぴたっと動きが止まる。

「こちらですか?」

 見せてくれたパッケージは見慣れた、ピンクのパッケージだった。

「そう。ありがとうございます」

 男の顔は緩み、肩を少し落とし、商品にバーコードをかざした。

 外に出ると、あまりにも寒かった。

 不意に、泣く声が聞こえ、横を向くと、地面に座り、顔を膝にうずめる女がいた。

 女はロングスカートに、白いセーターを着ていた。長い髪がサラサラと、風がなびかせる。

 かすかに見えたうなじは、誰かに殴られたのか、紫色に染まっていた。

「ねぇ、寒くない?」

 声をかけると、顔を上げた女は頬が腫れ、首には何かにひっかかれた痕があった。それでも、綺麗で、美人だ。

 女はきつい目で俺を見つめ、それから、

「こんな面倒な女よりも、もっと軽い女、いると思うよ」

「面倒って、誰かに言われたの?」

 ほんの少し、女の眉がピクッと、いやに動いた。

 何かを言いかけたが、咄嗟にさえぎる。

「俺も面倒だって言われて、さっき、出ていかれた」

「……彼女に?」

「いや、ナンパ相手に」

 女は肩を落とした。

 呆れるように右手で髪をかきあげる。のぞく額のたんこぶが、なんとも色っぽく見えた。

「私もナンパ相手?」

「そうだね。寒くて」

 女は肩をすくめた。

「私もちょうどいいや。寒かったし。連れて行って」

「いいの?」

 そう言ってから、コンビニ袋を掲げてみせた。ちゃんと、ゴムのパッケージが見えるように。

 女は少し眉間にしわを寄せたが、ため息をつき、

「お互い様だね」

 と、立ち上がった。

 すると、女は突然手を振り上げた。なにをするのかと考えるまもなく、その勢いのまま、何かを地面へ投げ捨てた。それは、携帯で、女は足を持ち上げると、ヒールのかかとで画面を踏みつけた。初めて聞く、バギャっという、画面の悲鳴。

 豪快に、その携帯を蹴り飛ばされ、道路のど真ん中に鎮座した。きっと、直ぐ車の下敷きだ。

「すご」

 何がそうまでさせたのだろう。

 女はまた、髪をかきあげ、「くそったれ」と言葉を吐き捨てた。

「いいの?」

 女は俺をみて、笑った。

「どうせ、連絡しても誰も話し、聞いてくれないから」

 おそらく、男に捨てられたら、他はいなかったのだろう。

 けれど、それを俺が知る必要はない。

 肩をすくめた。

「行こ。寒い」

「私も」

 女は俺の隣を歩き出した。

 女は、予想以上に小さく、俺の肩よりもう少し下に頭がある。あっても150センチ。小さな、子供のようだった。


 家に着くと、俺からではなく、女からキスしてきた。頭を両手で挟み込まれ、強引に唇を当てられる。慣れているのかと思ったが、ぎこちなく、震える唇。両手も震えていた。

 女の首筋に手を添えると、焦る女に、ゆっくり、唇を触れ、舌をからめた。

 名前を聞くと、女は「ナホ」と答えた。

「あんたは?」

「セイヤ」

 ナホは可笑しそうに笑った。

「顔に似合わない名前」

「どんなのが似合う?」

「そうだなぁ、ミナミが似合う」

「なに、女っぽい名前が似合うの?」

 長い髪を梳きながら、ナホの顔をじっと見ると、熱の持った目が次第に潤んでいく。

「だって、ちょっと可愛い感じの顔だから」


 行為におよんで、わかったことだが、ナホは初めてだった。

 流石に最後まではできなかった。それに嫌な顔をしたナホだが、酷くは、できなかった。

「なんだかんだ言って、面倒なのはセイヤだね。私の彼氏は、もっと酷かった」

 ナホは涙を浮かべながら、俺をにらんだ。

「初めての相手に、そんなことできないよ」

「初めてじゃない」

 そう言い張るが、さわれば一目瞭然だった。

 怪我のしていない方の、頬を撫でながら、

「酷くできないのは、俺が本気じゃないからだよ」

 更に、ナホの眉間のシワは濃くなっていく。

 それからは、お互い話さなかった。

 ナホの気に触れてしまったかもしれない。起きたとき、もう彼女はこの部屋から居なくなっているだろう。


 暑さに目を覚ますと、小さな、骨ばった腰が見えた。腰をゆっくり撫でると、その体はよじった。

「おはよう」

 声をかけると、ナホは振り返りもせずに、窓を見つめたまま、「おはよう」と、返す。窓の向こうは、もう真っ暗だった。

「電気、つけてもいいよ」

 声をかけると、ナホは手を伸ばし、枕元にあるスタンドライトに明かりを灯した。

 明るくなる視界に、くっきりと現れた背中。あざだらけで、ところどころ、タバコで焼かれたような、傷痕がある。

「セイヤって、ずいぶん可愛いタバコ吸ってるね」

 枕元に転がるペティルのパッケージの封が空いていた。ベットサイドの棚に置かれた灰皿を見ると、一本だけ、火をともしていた。ただ、全く、吸われていなかった。

「俺の好きだった先輩が吸ってた」

「その子とはどうなったの?」

「口説けなかったなぁ。成績はいつも上位で、真面目なんだけど、たまにサボったりする先輩だった。俺も一緒にさぼろうとしたら、俺がいると面倒だとか言われて、置いてかれた」

 いつもそうだった。

 大学を時々サボっては、山や、海、ショッピング、とにかく、先輩は好きなところへ一人で行き、その写真だけを見せてくる。

 行きたいというと、「やだね。邪魔だもん」と笑いながら、ピンクの箱からタバコを取り出して、火を灯した。

 あれが、たまらなくエロく見えたのを覚えている。タバコが性的に見えたのは彼女のタバコだけだった。

「だけど、昼飯だけは一緒に食べてた。先輩は一人でご飯を食べるのが苦手だって言ってたから」

「実はその先輩も、セイヤのこと好きだったんじゃない?」

「どうだろう。俺、先輩みたいな人がタイプなんですって、告ったら「子供のお守りは面倒」って、ふられたから」

「子供なの?」

「先輩から見ればね」

 先輩は、ある講義になると、俺から一つだけ席をあけ、座った。人の少ない講義だったが、必ず先輩は俺のそばに来た。それがあまりに気になって、はじめて、俺から話しかけたとき、先輩は心底嬉しそうに笑ったのだ。大きな目が細められ、頬にはえくぼができていた。それが、忘れられなかった。

「きっと、先輩からしてみれば、俺はうざかっただろうなあ」

 その講義かかわらず、すれ違えば、どちらからともなく話しかけ、どうでもいいことを話した。たいていは、先輩がどこへ行ったのか、聞いていた。先輩の見える世界は誰よりも広かった。知らない土地の名前、そこでしてきたこと、話してきたこと、見てきたもの、すべてが、未知のものだった。

 俺がせがんで、何度か二人で出かけたこともあった。俺は二人で出かけるのは好きだった。

「けれど、先輩から一回だけキスされたことあったんだ」

 どうして、あのとき、ふられたのか分からなかった。

 いつもよりも濃く、化粧をして、赤い花の袴を着た先輩。泣いて、いなくなってしまってから、どうしているのだろう。

 ようやく振り返ったナホの目は腫れていた。腫れていても、なお、その美しい顔は台無しにならなかった。

 ナホの、細い指がこちらに近づくと、俺の髪をくしゃくしゃと撫でる。

「その先輩がまだ好き?」

「わからない」

 だが、今でも先輩の面影は鮮明に思い出せる。

 時折、先輩が好きだった、カフェの前を通るとき、無意識に先輩の背中を探した。

 ナホはなでる手を緩める。

「セイヤはもっと酷い人かと思った」

「酷くして欲しかったの?」

 ナホを見上げると、今にも泣きそうに、唇をぎゅっと、噛み締めた。

「酷くしてくれれば、何も考えずに済んだのに」

 ヤリチンのくせに、優しいのは有罪と、前に言われたのをふと思い出した。その女も、確か男にフラれた後だったはずだ。

 ナホは俺の頬を撫でる。

 心地いい感覚に、眠気が誘われる。

「あとくされがない関係がいいんじゃないの?」

「……そうだね」

 ずっと、それでいいはずなのに、どうしようもなく、寂しくなってしまうのだ。

 目に入った、ナホの胸元には大きな、何かに殴られたような青黒い痣があった。

「ナホの彼氏は?」

 そう聞くと、ナホは曖昧に笑った。

「あの人は、セイヤよりもひどい人だったよ。あの人もタバコを吸ってた。けど、そのタバコはいつも煙たくて、不快だったけどね」

 そういうと、ナホはまた、俺の布団に潜り込む。

 図々しくも、俺の胸に顔を擦り付け、背中に腕を回した。時々当たる、鼻がたまらなくくすぐったい。

「俺、さっきから寒かったんだよ。風邪ひいたんかな」

 ナホはかすかに笑ったようだった。

「じゃ、私にもうつしてよ」

 その返答は、予想をはるかに上回った。

 今すぐナホにキスをしたかった。キスをして、明日の予定を一緒に立てたかった。

 だが、どうせ、大切にできずに終わる。

 ナホに視線を落とすと、もう、寝息を立てていた。

 そのまま、ナホの小さな体に腕を回した。潰れそうな体を大事に抱きかかえた。

 あまりにも久々の感覚に、何故か喉が苦しくなる。

 不意に、ナホのすすり泣きが聞こえたような気がした。

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