1 【2XXX/11/02】

 もし自分自身が過去に戻れるなら、やり直しが出来るのなら、と誰かに質問されたとしよう。「あの時にこうしておけば」「あの瞬間、こう言っておけば」と、やり直したい過去を振り返る者もいれば、「今ならこれができる」「あの時ならば挑戦できる」と、過去に希望を持って目を輝かせる者もいる。

 物事を悲観的に捉えるか、楽観的に捉えるかなんて人それぞれ違うのは当たり前の事だった。

 もっと簡単に言うと、風邪を拗らせれば苦しい。己の体に悪性腫瘍ガンが見つかれば不安になる。こっそりと想いを馳せていた異性の先輩が、自分に懐いてきている後輩と性行為をしていた事を小耳に挟んだ時は、色んな感情が混濁したのち溢れ出る。けれども世界はいつまでも広くて、美しくて仕方がない。

 最後に、地球は丸い。

 それはいつの時代も「当たり前」の事だ。


 ここで、少し時を遡ってみる。「耳は聞こえて当たり前だなんて、贅沢な事ね」と、聴覚障害を持つ者はハンドサインで悲しみを示し、「両目が見えて当たり前だなんて、俺の前では絶対に言うな」と、視覚障害を持つ者は暗闇に、けれど確かに人間に向かって罵詈雑言ばりぞうごんをぶつける。

 昔のこの国は、「当たり前が必ずしも当たり前であるとは限らない」ものも数多く存在していた。

 ところが、私が産まれた時、既にその様な身体的ハンデは淘汰されていた。健常者の細胞から正常な鼓膜や網膜を再生し、低コストで移植する事なんて朝飯前。生まれつき手足が無くとも、電気信号でスムーズに動く小型の義足を利用し、オリンピックで成果をあげる選手も存在する。

 勿論、この著しい発展は医療分野だけではない。

 指を振ればウィンドウが開き、手をかざせばキーボードが浮かび上がる。ローマ字入力が苦手な子供や高齢者は音声で文字を入力するし、車に乗れば走行中も半径一キロメートル範囲の真新しい周辺情報が即座に収集される。上げていけばキリが無い。それだけ、この国は高度な情報国家として発展していた。


「当たり前が当たり前に存在する」世界が、私が私であることを認識したその瞬間から、目の前に拡張ひろがっていた。


「人類が目指した理想郷」


 それが、私がこの日本に対して抱いた最初の印象。

 今現在もこの国は、変わらず美しくも暴力的な魅力を存分に発揮し続けている。



 ■



「……今日はここまでにしておこうか」

 施設のチャイムが鳴った。いつ聴いても間抜けな音だ。

「小袖の話、やっぱ難しいかな」

「む……改善の余地あり、か。ごめん」

「私は面白かったんだけどね」

 私の隣で堂々と目を擦っていたというのに、何を言っているのか。という言葉が顔に出ていたのか、「ご、ゴメンって!ご飯食べた後だったから前半がスッッごく眠くって」と、しどろもどろに喋り続ける同い年の友人。

 彼女は紡。私は眠気覚ましになるだろうと、軽く彼女の頭を叩く。

 ぶぇ、と女の子らしからぬ声を上げ、1つ結びにした茶髪が視界のド真ん中で散乱した。結んでいるから抜けはしないが。

「いった……いけど手加減はしてくれたんだね。感謝」

「本気で叩いたら紡の頭が飛ぶから」

 頭が飛んだ自分の事を想像し、顔を青ざめる紡を横目に講堂の照明を落とす。分厚い扉の開く重々しい音が鼓膜を震わせた。

 いつ来ても講堂は良い。どれだけ足音を盗んでも響いてしまうくらいに静かで心が洗われる。私にとっては都合のいい場所だ。こんな所で眠れたらどんなにいいだろうか。

 ……いいや、眠っていた人間なら、目の前にいる。私が喋っていたとはいえ、羨ましくて許し難い。

 私はひっそりと、今度は昼寝をするべく講堂に忍び込もうと決意した。

「待ってよ小袖」

「早くしないと閉めるよ」

「付き合わせといてその態度!もう!」

 そういえばそうだった。『来週の先生たちが不在の日、私が講師を代理で受け持つ事になったので、分かりやすい授業になっているかをチェックしてほしい』と紡を呼び出したのは自分であった。科目は近代歴史学。

「何故私が代理を務める羽目になったのか……分かる?答えて、紡」

「えっ?いきなりやめてほしい」

「5秒」

「無茶振りもいいところだよ小袖。ええと…」

「3秒」

「小袖が天才だから!!」

「……正解。私とつるむ紡も天才」

「えへへ〜〜参ったな」

「調子に乗るな」

 人をおちょくって楽しむな、小袖あんた常に無表情だから微妙に怖いのよ、なんで感情は豊かなのに表情筋は仕事しないのよ、ポーカーフェイス、黙ってれば美人、ああだこうだ。

 と、すぐ横から飛び出る暴言をいつもの様に聞き流した。


 ■


 ここは田舎の児童養護施設。「港坂愛児園」という名の通り、波打ち際へと続く坂が敷地内から長く繋がっている。

 緩やかな坂を下れば目の前に広がる碧海。施設自体は高台に建っているので、自然災害に対してはそう問題は無いとされる。海岸沿いを北に歩けば切岸がせり出しているため、今は立ち入り禁止。……フジツボがじっくり見れないのは残念だ。

 私達、最年長組の歳は既に15を越え、本来ならば東京都心の高等学校入学に向けて受験勉強を始めている頃である。

 何故、東京都心と限定的なのか。それもその筈、「高等学校及び大学・大学院は東京都内に」しかないのだから。


 発展した情報網は、日本の首都であり心臓部の東京を中心に張り巡らされている。のだが、地方になればなるほどセキュリティシステムが弱くなるのは昔から変わらない。プロフェッショナルを目指す、未来ある若者を安全に育てる教育機関。それを都内に集中させれば、高レベルのセキュリティシステムで保護をすることも容易い。都心に集まっているのは、そういう理由。


 けれども、私達は都内に行く事を拒否している。おびただしい数の教育管理システムに見張られ、胎内には必ず小型メディケア端末を常駐させる。確かにそれはサイバー攻撃等の脅威から守ってくれるし、安心出来る要素ではあるのだが。

 ……けれども、「もし」この情報社会の「核」が破壊されることがあったとしたら、真っ先に打撃を受けるのは勿論都心だ。そんな事、馬鹿でも猿でもノミでも分かるだろう。

 私達は良くも悪くも自分達が大好きだ。だから、被害を被るなんてまっぴらだった。


「海が見えて、施設の仲間がいて。何も特別なことは無いけれど、それが一番幸せなんじゃないかって思うよ」


 紡の口癖は何時もこれだった。私は勿論、反論なんてしない。

 この何の変哲もない時を過ごして、美しい自然の中で老いを重ねていけるのなら、それでいいと心から思っていたから。


「こそでー」

「なに?紡」

「小袖はここから出ていかないよね」

「うん」


 来たる授業の為に作り上げた台本。

 分かりやすいようにと工夫を凝らした授業システム。

 それらを抱えて私達は歩いていく。

 夕暮れ時の施設内、だいだい色に染められた廊下を二人で歩くこの日常は、きっと「当たり前」だと、そう信じながら。

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鉄紺のトロイメライ AZOTE @RNNRAzo

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