地獄の縄

伊勢祐里

地獄の縄

 薄暗い部屋に一本の縄が垂れ下がっている。押し入れに転がっていた古いものだ。何を縛っていたのか、何に使っていたのか検討もつかない。それは、私がこの家のことを何も把握していないからだろう。いや、把握させてもらえなかったという方が正しい。結局のところ、父は一度たりとも私を一人前の男として扱ってはくれなかった。


 土地を半分売りに出した時のことだ。父と祖母の話し合いに私は混ぜて貰えなかった。古くに亡くなった祖父が銭湯を営んでいた名残の土地を、月極駐車場として運営していたのだが、その収入がついに厳しくなってしまったらしい。


 私はただ、自分の部屋から真新しい家々が建って、懐かしい景色が奪われていくところを見守るしか出来なかった。


 それに、母と別れた理由も有耶無耶のままだ。男と女の別れに口を出すつもりはない。私が夫婦のすべてを見えていたとは思えないし、仲の良い夫婦など幻想でしかなかったことは理解している。けれど、息子として別れた理由くらいは知っておきたかったと思うのはおかしなことなのだろうか。


 垂れ下がるロープを手に取って天井を見上げる。二十五年ほど前の地震で出来た天井の壁紙に入ったヒビは、すっかり黒ずんでいた。カーテンの隙間から差し込む夕陽が天井を染めて、まるで瘡蓋の割れ目から血が流れ出ているように見えた。


 そもそも、父がいつまでも私のことを子ども扱いしていたのは、主に私の行いに非があったからだ。そのことは重々承知している。口を開けば言い訳を述べ、いつも紙を広げて絵空事ばかり描いていた。他所に出して誇れる息子でなかったことは自分の目で見ても明らかだ。


 だから、この顛末は身の丈に合ったものなのだ。これが、ただ目と鼻が付いているということでしか人間の体を成していない愚かで哀れな男の末路なのだ。

 

 音のない部屋に机の軋む音が響く。モノクロの炬燵机の上から見える部屋は、まるで知らない家のようだ。箪笥の上に被っている埃や本棚の上の空箱やテレビ奥の配線は、今日のこの瞬間まで誰にも見つかることもなく粛々と過ごしてきたらしい。


 そんな彼らに敬意を讃えたいと思う。誰からの賛辞も受けることなく、自分の役割を果たし続ける。それはどれだけ素晴らしいことだろうか。きっと、私は自分の人生を彼らに重ねてしまったのだ。いや、彼らと同じ土俵に上がることはおこがましいに違いない。私は褒められるほどの役割など果たしていなかったのだから。けれど、ここまで生きて来たことを誰かに褒めて欲しいと心が叫んでいる。君は良くやったと、一度くらいは褒めてもらいたかったのだ。


 そんな淡く儚い願いは叶うこともなく、私は最期を迎えようとしている。


 指を刺され笑われて来たこんな人生だから、自ら幕を引いたってバチは当たらないはずだ。ただ、正しくはない死に方をするのだから、地獄へ落ちても文句は言えないだろう。いや、人間に生まれ変わるよりマシなのかもしれない。しがらみばかりのこの世界より、地獄の方が生きやすいことだろう。私は地獄で罰を受けるに値する人間だ。


 私が死んだあとの後始末は誰がしてくれるだろう。妹に世話を掛けるのは申し訳ないが、それほど難しい処理では無いはずだ。借家なら誰かに迷惑がかかることもあるだろうけど、この家は建て壊して土地を売り出せばいい。それくらいの金は遺せているはずだ。たとえ、この家がなくなり、また新たな家々が立ち並び、懐かしい景色が失われようとも、私にはもう関係のないことなのだから。


 そうして私は縄を首にかけた。


 *


「なぜ自ら命を投げ出したか?」


 そう問われて、私は「苦しかったからだ」と答えた。


「苦しかった?」


 聞き返されて「そうだ!」と私は声を荒げてしまう。相手は、なんとも平静な声で「分からないな」とぼやいた。


「私の惨めさを理解できるものか」


 そこで漸く、語りかけてきている者が猫であることに気がついた。真っ黒なダブルのスーツに真っ赤なネクタイ、中折れ帽をちょこんと頭に乗せている。専用の帽子なのか、つばの縁に穴が空いていて上手く耳が出るようになっていた。


 それに二足歩行で杖を突いて、ゆっくりとこちらに近づいて来ていた。見た目では判別はつかないが、とっさに歳の食った猫なのだろうと思った。


「全く理解しかねるな」


「猫に人様の心を理解されてたまるか」


「君は、目と鼻が付いているということでしか人間の体を成していない愚かで哀れな男じゃなかったのか?」


 小馬鹿にするように髭と目尻が垂れた。「言葉を話せてスーツを着ている猫は、君より人間の体を成しているとは思わないか?」と猫は続ける。


 ごもっともだと思った。けれど、私はつい感情が先走ってしまう。「どうして知っているんだ」と訊ねれば、「アセスメントに必要だからだ」と猫は答えた。


「何の話をしているんだ」


「アセスメントだと言っているだろう。さぁ質問は終わっていない。最初の問いに答えてもらわないと。なぜ、自ら命を投げ出したのだ?」


 猫の問いかけを相手にせず、私は辺りを見渡す。先程までいた家でないのは間違いなかった。明治時代の洋風の屋敷といった雰囲気だ。神戸の異人館いじんかんや中之島の中央公会堂のような内装で、だけど古めかしさはない。綺羅びやかなシャンデリアが煌めいて、高価な壺と立派な絵画が部屋を飾っていた。暖炉ではチリチリと炎が燃えている。まるでその次代にタイムスリップしてきたみたいだと思った。


 そして、私はその部屋の中央でソファーに腰掛けていた。猫はちょうど向かい側の大広間からこちらに向かい歩み寄ってくる。真っ赤な絨毯の上を優雅に、そして上品に、きっと格式が高いか育ちの良い猫なんだろう。


「答えてくれねば埒が明かない」


 呆れた様子で、猫はため息を溢した。黄金色の双眸は、自分のことも分からないのか、と言いたげにこちらを見つめる。


「さっきも言っただろ。苦しかったからだ」


「自ら首を吊るほど苦しかったのか?」


「そうだとも」


 ほぉ、と息を吐き、猫は髭を整える。私の向かいのソファーに腰掛けると、足を組んで膝に手を添えた。


「君の父親は少なからず財産を残してくれていたはずじゃないか。土地に家、僅かながら保険金も入って来ていたはずだ」


 質問などしなくとも、十分に色々知っているじゃないか、と私は心の中でごちる。


「そうかもしれない。けれど、それじゃ何も満たされなかった。いや、父が残してくれた財産を受け取るのが申し訳なかったんだ」


「随分と自分を卑下しているな。しかしながら、自決とはあまり良い行いではない」


 まさか人生の最後に、猫に叱られるとは思わなかった。ごもっともな意見だが、もう決行してしまったものはどうしようもない。


 気がつくと猫はティーカップを手に持っていた。アールグレイの仄かな香りが鼻を燻る。


「猫に言われる筋合いはない」


「確かに私に君を説教する筋合いはないな」


 猫の手に今度はペンが握られていた。高級そうな万年筆だ。細い舌を出して、ペン先をペロッと舐め上げて、紙に何かを書き始める。


「名前や住所、年齢は言わなくて構わない。把握している。……電話番号、それにめーるあどれす? そっちでは必須項目らしいが、それも必要ない」


 訊ねてもいないのに。私の顔が不満げな表情に変わっていたのか、猫は筆を走らせながら、視線をこちらに向けた。


「ここがどこか気になっている様子だな」


「少しは。大方、あの世か、その手前の手続きをするところか?」


「いい勘をしている。それとも経験則か?」


 そう言って、ケラケラと猫は喉を鳴らした。見た目や仕草に気品はあるが、笑い方はちょっとだけ不躾なやつだ。


「こういうところが本当にあるのは驚いた」


「驚かれないように努力をしているのだが、あまり効果的でないのかもしれないね」


「いや、そういう意図があるなら成功していると思う。気は動転していない」


「時折、パニックになる人もいるらしいから。君は冷静な方だ」


 目覚めて猫に話しかけられれば、そうなるのも頷ける。それに自分が死んだかどうか分かっていない人も中にはいるんじゃないだろうか。私は自らその命を絶ったから、死んだことをはっきりと認識している。


「ほどほど理解はしてもらえたかな? 私は質問をする。君はそれに答える。単純な作業だ」


「それで私の行く先が地獄か天国か決まるというわけだな」


「そういうことになるな」


 ――だったら。


「私は地獄へ行くべきだと思う」


「それを判断するのは君じゃない」


「そうかもしれないが。きっと、君も同じ判断を下すと思う」


 猫は足を組み替える。双眸が細く縮んだ。


「どうしてだ?」


「さっきも言っていただろ。私は自分を愚かな男だと思っている。天国へ行くなんて恐れ多い」


「だが、君は自殺をした理由に、『苦しかったからだ』と言ったはずだ。それは報われるべき慈悲があるべきだ、と言いたかったんじゃないのか」


「そうなのかもしれない」


 特別な才能や秀でた容姿も富もなく生まれた私は、いくら努力しても愚か者だと皆にあざ笑われた。けれど、その腹いせに人を妬んだことやひどい仕打ちをした記憶はない。幼さのあまり罵倒してしまったことはあるが、然るべき反省のもと成長した自負はある。現実の理不尽も無常も己に科せられた運命だと受け入れ、誰かを恨んだりはしなかった。


 ――ただ。


「真面目には生きていなかったと思う」


「というと?」


「最後まで一生懸命にはなれていなかった」


 自分に特別な才能がないと気づいたその日から、半端な態度で仕事をしていた。もちろん妥当な給与でもなく、雑務を押し付けられこちらの意見は微塵も通らない、そんな職場だったが、手を抜くのは道理ではない。正しさの天秤にかければ、懸命に物事を成すことにふれるはずだ。


「きっとその時だ。人生に嫌気が差したのは」


 それに常に正直ではいられなかった。嘘や言い訳は己の価値を下げると知りつつ、楽な選択肢として重宝していた。正しさの中に留まっていないのに、自分に好機が来ないと嘆いているのは、やはり愚か者に他ならない。結局は、上手くいかないことを、誰かのせいにしたかったのだ。本気に、懸命になればなるほど、その言い訳は使えなくなってしまう。


「報われるべきはどういう人間なのか、慈悲を受けるべきはどういう人間なのか、分かっているつもりだ。もしそうなら、私の行いは十分罪に値すると思う」


「なるほど」


 猫は頷きながら立ち上がる。床に一つ杖を突けば、ぱっと屋敷が靄の中に包まれた。


「君はやはり面白い」


 轟々と風が吹き荒れる。冷たさと温もりが交互に頬を叩いた。激しい雷鳴のようなフラッシュが何度か灯り、白い靄がじわじわと晴れていく。鼓膜を揺すったのは、賑やかな人の声だった。


 やがて目の前が明瞭になり古い町並みが視界に飛び込んで来た。


「ここは?」


「平安の都だ」


 行き交う人々はこちらの姿に気づいていない。猫は、杖の先を一軒の屋敷に向けた。


「あの家が何か?」


「あの家は、商いで成功した小金持ちの家だ」


 コツコツ、と土の道を杖で鳴らして、猫はその屋敷の方へと歩み寄る。「何を見せたいんだ?」と私が訊けば、「懐かしい光景だ」と猫は帽子のつばで顔を隠した。


「一人の下人がとある罪を犯そうとしている」


 猫が屋敷の門を開いた。恐らくそういう作りではないはずだが、門の先はすぐに部屋に繋がっていた。部屋には、この時代にしては裕福そうな服を着た家族と、その家族に短刀を突きつけている男がいた。


「飢饉で金が失くなった。だから誰かの富を奪うしかなかった」


「そうだとしても許されることじゃない」


「そうだな。人間が理性と道徳を持った時点で、この行いは悪以外の何者でもなくなった」


 この家の主人と思しき男性は麻袋を抱えていた。どうやらそれを渡すことを男は要求しているらしい。中には金品や高価な物が入っているのだろう。恐怖心から泣き叫ぶ娘、母が怯えながらもその震える身を抱きしめている。この屋敷に奉公人はいるのだろうか。それともこの男がそうなのか。屋敷が広い故に叫び声が届かないのかもしれない。助けを呼ばれて困る男は、有無を言わさず、主人に短刀を振りかざした。


 血しぶきが飛ぶ。身が裂ける音が聞こえた。ぐったりとした父を見て娘はさらに泣き叫んだ。「命だけは」と母が男に乞う。泣き叫ぶ親子など見る気もせず、男は主人が持っていた麻袋を手にその場から逃走した。


「事の顛末を知りたいか?」


「捕まったのか?」


「いや、男はすぐに都を出た。『下人の行方は誰も知らない』だ」


 猫は有名な一節を引用したのだろうけど、述べたのはただの事実のはずだ。あの男は、犯した罪を問われることはなかったらしい。だが、それであの男は幸せだったのだろうか。私にはそうとは思えなかった。


「でも、死んだんだろ?」


「どうして分かる?」


「なんとなく、そんな気がした」


「そうか。君は罪に耐えられなかった」


 猫の言葉をすぐに理解できたのは、男の顔がどこか私に似ていたからだ。だが、猫がこの光景を見せた理由は分からなかった。


 猫がまた杖を突く。床に広がっていく主人の身体から溢れ出る赤が、吹き荒れる風でかき乱され、じわじわと輪郭を失っていった。絹染めのように世界は真っ赤に変わり、やがて漂白剤で洗浄したように靄に飲み込まれて辺りはまた真っ白に染め上げられた。


「次に行こう。このシーンはまるで昨日のことのようだ」


 また景色が綺麗に晴れる。まず聞こえてきたのは鐘の音だった。等間隔で響く美しい音色が、薄く曇った空へと溶けていく。立派な橋の上を渡っていく人々の口元からは白い吐息が漏れ出ていた。


「除夜の鐘というものはいい」


 うっすらと灯るガス燈の明かりに照らされて、橋の袂へと猫の影が伸びていた。「大晦日か」と私が訊ねると「また一つの時代の暮れでもある」と答えた。


「どこにいるんだ?」


「ちょうど橋の上だ」


 そう言って、猫が杖を差した。私がその杖の先に視線を向けた瞬間、見窄らしい服装の男が、立派なスーツをめかし込んだ男性のカバンを奪った。


掏摸すりだ!」


 男性が声を上げた。男はすばしっこい動きで、橋を渡る人々を躱しながら、人波と反対の方向へと走り去る。「誰か捕まえてくれ!」男性の叫びも虚しく、男はすぐに夜の闇の中へと消えていった。


「大戦後の好景気から一転、アメリカで起こった恐慌が日本にも影響を及ぼしたらしい」


「言い訳だ」


「言い訳だな。だからこそ君がここにいる」


 どうやら、いつの時代も私は言い訳ばかりを並べていたらしい。最悪なのは、自分の現状を誰かのせいにしていたことだろう。その性格は未だに変わっていないのだ。


「だが、どうだ? 今度は命を奪わなかった。少しは褒めてあげてもいいじゃないか?」


「決して褒められることじゃない」


「君は自分に厳しいな」


 本当にそうだろうか。自分に厳しく、ちゃんと律した人間ならば、もう少し立派に胸を張れたはずだ。そうじゃないから首を吊ったのだ。猫はそれを分かっているのか、嫌らしく口端を吊り上げた。鋭い犬歯が顕になる。


「もっと懐かしいものを見せよう。私が君に初めて出会った頃の記憶だ」


 今度は暗い茂みだった。明かりなどは一つもない。夜の闇が自然と一体になって恐ろしい勢いで迫ってくる。空気がひんやりと冷たい。張り詰めている緊張感は、命の奪い合いが日常的に行われているからだろう。まるでサバンナの茂みに身を隠している草食動物の気分だ。


 獣の声や虫の声、風の音に混じって遠くから女の叫び声が聞こえた。ガサガサと茂みがざわめく。次の瞬間、衣が半分はだけた状態の女が転がるように飛び出してきた。


 息を切らしながら、女は立ち上がりまた駆け出した。獣にでも襲われたのだろうか。女に遅れてすぐ、茂みから出てきたのは獣ではなく男だった。


 いや、獣と称した方が正しかったかもしれない。暗闇の中で遠ざかっていく女を見つけると、男は声も上げずに走り出した。懸命に逃げる女は、足をもつれさせる。男は、転んだ女に馬乗りになって、髪を掴み、僅かに纏っていた衣を剥ぎ取った。


「見たければまだ別のも」


「いや、結構だ」


 私が断りを入れると、ぱっと景色が元の屋敷に戻っていた。猫はソファーに腰掛けて、今度はワイングラスを傾けていた。グラスの中で揺れる赤が、あの時の主人の滲んだ血に見えた。


「これらを見れば、幾分かマシになってきていると思わないか?」


「あれと比べられるのか」


「過去は変えられない」


 細くなった双眸は鋭さを持ってこちらを見つめる。黄金色の瞳に映っているのは、どの時代の私だろうか。


「過去と比べて、今日の君の罪は同等のものだと思うのか?」


「同等とまでは言わない。人を殺めたり、女を襲ったりするよりかはまともな人生だったと思う」


「だったら、今世の行いは許されるべきだと思わないのか?」


「だけど、正しい姿じゃなかった」


 猫は私の言葉を聞いて、深く頷いた。真っ赤なネクタイをぐっと締め直す。


「さて、そろそろ君の処遇を決定しなくてはいけない」


「そんなもの分かり切っているじゃないか」


「そうかな?」


 可笑しそうに猫は首をかしげる。必要な書類を書き終えたのか、紙の束を一つにして、どこからか取り出してきたトランクケースに仕舞った。


「地獄で罰せられるべきだ。そもそも、いま見たものが過去の私の行いなら、今日まで生まれ変わって人として生きていたこと自体が不思議だよ。地獄の釜で永遠に煮詰め続けられていても文句は言えない」


「地獄に釜か。それは君たちが作り出した想像の地獄だな」 


「なら、地獄とはどういうところなんだ」


「地獄は、前世の罪滅ぼしをするところだ。罪滅ぼしとは、心の浄化。幾度も繰り返し、心を、精神を研ぎ澄ましていかなくてはいけない。そこで正しく清らかさを持った者だけが天国へ行ける」


 ならば、私は天国へ行くべき人間ではない。真面目に素直に生きてきてなどいなかったのだから。


 猫が表彰状のような一枚の紙を私の前に差し出した。


「君の行き先は地獄だ」


 やっぱりと思った。だが異論はない。私は素直にその紙を受け取る。


「分かった。けれど、もう人間は懲り懲りだ。君はマシになってくれていると言ったが、地獄での懲罰が終わり、どうしても生まれ変わらなければならないなら、他の動物や植物にしてもらいたい。以前の私がどう頼んだかは定かではないが、また人間をやりたいなんておこがましいことは言わないよ。もう本当にうんざりなんだ」


 困ったように、猫は眦を下げた。そういう注文は受け付けてはいないのだ、と言いたげだ。確かに罰を受ける側が、注文を付けるなど可笑しな話だ。それに、こんな注文を付けるなんて、まだ心のどこかで、また人間として生まれ変われると思っているのかもしれない。本当におこがましい限りだ。


 けれど、そう思うのは、何度も人間に生まれ変わっているからだろう。こう何度も人間をやっているのは、猫の図らいなのかもしれない、と思った。猫は私に何度もチャンスをくれていたのだろうか。ちゃんとした人間になれるチャンスを。だとすれば、私は猫の期待にまた答えられなかったわけだ。 


「無理ならいいんだ。すまない忘れてくれ」


「その要望は聞けないが、一つだけ。今回は少々勝手が違う」


「勝手が違う?」


「リセットはやめておこうと思う」


 猫の言っている意味が分からず、私は首をかしげる。


「なんのことだ?」


「リンカーネイションはしないということだ。前回の刑の継続さ」


「輪廻をしない? 継続?」


「そうだ。君には刑を全うするチャンスをあげよう」


 猫は微笑みを浮かべた。それは優しくとても朗らかなものだった。


「つまりね。死とは刑の中断でしかないのだ」


 猫は最後にそう告げて、杖を鳴らした。


 *


 全身の痛みで私は目を覚ました。視界に飛び込んできたのは見知った床だ。「どうしてだ」と思い、首だけを捻って天井を見上げる。縛っていたはずの縄が切れてしまっていた。本当に古いものだったらしい。そのせいで私は死にきれなかったようだ。


 窓の外はすっかり夜になっていた。どれだけの時間、眠っていたのだろうか。身体を起こせば、腰の痛みに思わず叫び声を上げてしまう。


 痛みで意識が覚醒していく。脳内を駆け巡ったのは、先程まで見ていた不思議な夢だった。あれは本当に夢だったんだろうか。しかし、記憶は鮮明だった。まるで直前まで見ていた映画のワンシーンを思い出すかのように、すべてがはっきりと蘇る。あの屋敷の臭いやソファーの感触、猫の声まで、私の五感が現実の出来事だったと告げていた。


 ふと、視線が机の上に落ちる。そこにあったのは紙だった。私は痛みを堪えて、その紙を手に取る。それは間違いなく、あの猫に手渡されたものだ。そして、そこには罪状が書かれていた。


 行き先は「地獄」、そして犯した罪は「掏摸」。


 どうやらここが私の望む地獄だったらしい。


 了

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地獄の縄 伊勢祐里 @yuuri-ise

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