「大学四年」

     20.


 目まぐるしい日々だった。

 就活に始まり、ゼミでの活動に卒論。〈つづり〉に顔を出す余裕もなくなってきて、気づけば四年目の――大学で過ごす、最後の冬となっていた。

 このみくんは僕よりも、だいぶ忙しそうだった。

顔を合わせれば挨拶するし、ゼミが始まる前に世間話はできるのだが、二年の合宿の時のように、本腰入れて会話することはまるっきりなくなっていた。

 僕はそれが物足りないと思う同時、仕方ないとも割り切っていた。

彼女は相変わらずの人気者で、周囲に人が絶えない。二人きりで話すチャンスなど、ほとんどないに等しい。あったとしても、邪魔が入るのがオチだった。

 けれど、それが良かったのだろう。

 そのおかげで卒論やゼミ活動に精を出すこともできたし、ギリギリのところで――小さな会社だけど――内定を得ることもできた。そのことを彼女に報告すると、「良かったじゃん!」と肩をばしばし叩かれたものだ。ちなみに、このみくんはとっくの昔に大学院に進むことが決まっていた。

 卒論も一段落ついたところで――僕はこのみくんに、話を持ちかけてみることにした。できれば直接声をかけたかったところだが、できるだけ他人に聞かれたくなかったのだ。

 ある日の夜、僕は彼女に電話した。どんな風に話を切り出すかをシミュレーションしていたものの、やはりこういう時は緊張してしまう。

『はい、もしもし?』

「あ、黒崎です」

『あ、黒崎氏! どうしたの? なんかあった?』

「いや、特に、これといった用事が……」

 言いかけ、はっと口をつぐんだ。これではいけない。これだと、用もないのに電話をかけただけではないか。

 僕はひとまず咳払いし、慎重深く切り出した。

「あのさ、このみくん。前に言ったこと……覚えてる?」

『うん? どんなこと?』

「いつか、二人で飲みに行こうって話。あれって、まだ有効かな?」

『あ、そっか! そうだったね! ごめん、何やかんや忙しくて、忘れるところだった! そっか、そうだよね……もう卒業も近いんだもんね』

「あ、うん……そうだね。だからっていうのもなんだけど、できれば近い内に、飲みに行けたらいいなって」

『そうだね。黒崎氏とはここんとこしばらくガチで話し合ってないし、ちょうどいいな。じゃ、いつにする?』

 トントン拍子に話が進んでいくのに多少驚きつつも、なんとか約束を取りつけることに成功した。今すぐというわけにはいかないのが残念ではあるが、この際贅沢は言ってられない。

『卒業かぁ』

 ぽつりと、このみくんが呟く。

『早かったね。色々と』

「うん、四年間もあったのに、あっという間だ」

『ほんと。でも、すごく楽しかった。黒崎氏はどう?』

「うん、僕も楽しかったよ」

『ほんとに?』

「ほんとに」

『ほんとかなぁ~?』

 チェシャ猫のような笑みを浮かべているこのみくんを想像し、僕は我知らず口元が緩んでいた。

 通話を切り上げた後も、僕はにやにやとしていた。

このみくんと飲みに行ける――この一大イベントを前にして、気持ちが弾まない方がどうかしている。卒業式の前というタイミングも、実に都合がいい。何が起こってもおかしくないし、いい区切りにもなるし、思い出にもなる。

 僕は浮かれた気持ちで、その日を待ちわびた。


 あの時、なぜ、このみくんは僕と飲みに行くことを承諾したのか。たまに、そのようなことを考えることがある。

 彼氏がいることは承知の上で誘った。

あわよくばという、下心もあった。

 最後の機会になるかもしれないから――そういったノリで僕の誘いに乗ったことは、十分に考えられる。

でも、本当にそれだけだろうか。

 おそらくこのみくんは、ずっとこの機会を狙っていたのだろう。僕の下心などお見通しで、それでもなおこのみくんは、僕に語りたいことがあった。僕の気持ちを諦めさせるとか、そういう保身的な事情ではなく。

 実際のところは、彼女にしかわからない。

 しかしその時の僕は有頂天になっていた。浮かれに浮かれて、精いっぱい背伸びをした服装で臨もうとしていた。約束の日の前日に、普段は行かない美容室で髪を切るといった具合の、気合の入りようだ。

 傍から見ても、後から振り返っても、実に滑稽だった。

 そのぐらい、僕は彼女に本気だったんだろう。


 約束の日は、思っていたよりも早く訪れた。

 三月に入ったばかりの時期で、まだまだ空気が冷たい日だった。

よどんだ曇り空が、繁華街を覆い尽くしている。心なしか行き交う人々の表情も、暗く沈んでいる。

そのような往来の中で僕は、このみくんの肩を並べて歩いていることに、柄にもなくはしゃいでいた。

 このみくんは黒のワンピースに、白のジャケットを羽織っていた。「カッコいいね」と褒めると、「いやぁ、照れちゃうな」と頭に手をやった。誇張でもなんでもなく、彼女は輝いて見えた。

 予約を入れた居酒屋は、駅から出て十分ほどの距離にあった。

そこに向かうまでの間、お互いの近況を尋ねたりした。このみくんはバイトをしているのだが、就職をきっかけに辞めるのだそうだ。僕はといえば、ゲームをしたり本を読んだりと、時間を無為に過ごしていただけなので、ちょっとだけ気が引けてしまう。

 居酒屋に着くと、四人用の個室に案内された。席が狭く、個室といってもカーテンで仕切っているだけなので、音はほぼ筒抜けといってもいい。

「もう少し落ち着いたところが良かったかなぁ」とぼやきながら席に着くと、「私は別に大丈夫だよ」とすかさずフォローを入れてくれる。

 ひとまず飲み物を注文した。僕はウーロン茶で、彼女は初っ端からリキュールだ。

そういえば、このみくんが酒に強いのかどうか、僕は知らない。合宿の時に飲んでいたような記憶があるが、酔っていたかどうか、記憶が定かではない。

「お酒、強いの?」

「んーまぁ、人並みには。黒崎氏は?」

「僕は全然。少し飲むだけで、赤くなっちゃう」

「えー、もったいないなぁ。せっかくの飲み会なのに君だけシラフなんて、しらけちゃうじゃない。君も飲もうよ!」

「……わかったよ」

 先ほどのウーロン茶を取り消してもらって、代わりにアルコール度数が低めと思われるぶどうサワーを注文した。その合間にこのみくんは白く、細長い指をおしぼりで丁寧に拭いている。銀色の、ややごつめの指輪が右手の人差し指にはめられているが、左手には何も着けていない。

 リキュールとサワーが届いたところで、僕たちはグラスを軽く合わせて乾杯した。ひと口つけてみると、やたら甘い。そのくせ、量だけは多い。これを飲み干す頃には、僕は真っ赤になっていることだろう。

 適当に料理を注文したところで、このみくんが軽く頬杖をつく。

「四年間、あっという間だったね」

「そうだね」

「卒業を前にして黒崎氏、今の感慨はいかがですか?」

 マイクを持つように、僕に拳を向けてくる。

えーっと、とわざとらしく咳払いして、「楽しかったよ」

「良くも悪くも、いい思い出を作ることができた。高校までの僕なら、考えられないことだ。あの場所で僕は、生まれ変わることができたんだと思う。誇張じゃなくってね」

「なるほど……そういえば黒崎氏って、高校まではどんな感じだったの?」

 僕は苦笑しながら、「嫌なガキだったよ」

「地味で、暗くて、友達もほとんどいなかった。そのくせ、何かに一生懸命に取り組んでいるような人を馬鹿にするように、斜に構えていて……自分一人では何もできないくせに、自己意識だけが肥大したような、嫌なガキだった」

「あはは、なんとなく想像できる」

「ひどいなぁ」

 お互いに笑い合った後で、このみくんは口元に指を当てた。記憶を辿るように、目をあらぬ方向に向けている。

「確かに、初めて会った頃の黒崎氏はまさにそんな感じだったと思う。でも少しずつ変わっていったよね。何か、きっかけとかあったの?」

「きっかけ、か」

 僕は思案げに腕を組んだ。

「そうだね、変わりたいと思うきっかけはあった。中学の時にちょっとトラブルがあってね。高校になってもそれを引きずっていて、これじゃあ駄目だって自分でも思ってて、大学に入るのをきっかけに、変わろうと思ったんだ」

「ふぅん。差し支えなければ、そのトラブルについても、聞いていい?」

「ああ、今となってはもう時効だからね」

 そうは言いつつも僕は、肩がこわばっているのを自覚せずにはいられなかった。そういえば僕自身の過去について、このみくんに語るのもこれが初めてだ。

 大したことじゃないんだよ、と前置きする。

「合唱コンクールってあるじゃない? ほら、クラス一同で歌を歌って、競い合うっていうの。女子はなんでか気合入ってて、男子はほとんどやる気がなかった。全体練習の時にあまりにもやる気のない人が目立っていて、それで音楽の先生がキレちゃって、練習を取り止めにしちゃったんだ」

「あらまぁ」

「その後が問題だった。女子は残って、自分たちだけでも練習しようとしたんだ。でも、そのノリについていけない男子の半分以上は、教室に戻っちゃった。僕とか他の真面目な男子は一応、女子と共に練習しようとはしていたんだけどね……何がきっかけだったのかはわからなかったけど、女子の一人が泣いていたんだ。多分、男子たちに一緒に歌おうって持ちかけたのかもしれない。でも、うまくいかなくて、泣いてたんだ。……実はその女子は当時、僕が仲良くしていた人で、その人が泣いているのを見た時、僕はついキレてしまったんだ」

「男子に?」

「そうだね。教室に怒鳴り込んで、色々と喚き立ててしまったんだ。今思うと、とても馬鹿馬鹿しい出来事だった。キレた後で、存分に後悔したよ。それから男子たちは僕を遠ざけて、そこから卒業するまでの間は、まぁ地獄だったな」

「そっか……」

「なんで合唱コンクールなんかに、あそこまで必死になっていたのか、今でもわからないんだ。子供の頃って、家と学校だけが世界全体みたいな風に思っていたから……そこで起きた出来事は、大人からしたら些細なことで、でも子供からしたら重大な出来事だった」

「わかる」

「それからだよ。僕が、僕を嫌いになったのは。……高校は別の区のところに入った。でも、自分から進んで何かをやろうっていう気にはなれなかった。何をしても、人から笑われてしまうんじゃないかって思い込みに囚われていた。僕だって、これでいいとは思っていなかった。これじゃあいけないと気づいた時には、とっくに卒業寸前だったんだ」

「だから、大学で変わろうとした?」

「そうだね……でも、うまくいかないことはしょっちゅうだった。人との付き合いを避けていたから、人との距離の測り方がわからなかったんだ。そんな自分に愕然としたね。でも少しずつ、人と話すようになって……色々失敗なんかも繰り返して、ようやく今の僕があるって感じだ」

 ひとしきりまくしたてた後で、僕はサワーに口をつけた。

なんだか体が熱いのは、空調のせいだろうか。

 このみくんもリキュールを少しだけ飲んで、「そっか」

「黒崎氏にも色々あったんだね」

「まぁ、誰にでもそういうのはあると思うよ。若さゆえの過ちというやつかな」

「あはは、それを言い出したらおじさん化の証拠だよ」

 ええー、と嫌そうな顔をすると、このみくんはくっくっと喉を鳴らした。それから口を緩やかな弧に曲げる。

 慈しむような、優しい微笑みだった。

「話してくれてありがとう」

「……いや、僕も聞いてくれてありがとう。なんだか、ようやく気分がすっきりしてきた気がする。今までこんなことを話せる相手って、いなかったから」

「そうなんだ。……苦しかったろうね」

「いや、別に、そんなことは……」

 慌てて否定しようとしたが、このみくんの眼差しを前に黙ってしまう。同情でもなんでもなく、ただ、僕のことを案じている目だ。これまで抱えてきた後ろめたさが、今になってようやく、報われたように感じられた。

 僕は目を伏せる。

「……苦しかった、のかもね」

「一人で抱えると、本当に苦しいよ」

「そうなんだろうね。僕は……僕はずっと、一人だった。一人でいる時間が長かった。だから目の前の人のこともよく見れていなかったし、どんな風に付き合っていいかもわからなかった。恥ずかしい話だけどね」

「恥ずかしくなんかないよ」

 このみくんは少しだけ、僕に顔を寄せてきた。

「過去がなんであれ、黒崎氏は変わりたいと思って、実際にそうしてきた。それは自分で誇らしく思っていいことだよ」

「そう思うかい?」

「うん、私が保証する」

 にんまりと笑った後で、いよいよ料理が運ばれてきた。

「さ、食べよ」とこのみくんが明るい声を出して、僕もうなずく。

料理に箸をつけている間は、お互いに短い言葉を交わすのみだった。「おいしいね」とか「この料理、味付け濃いね」とか、そんなのばかりだ。

 ひと通り平らげたところで、このみくんは両手をテーブルの下に隠し、「黒崎氏」と呼びかけた。

「うん、なんだい?」

「私にも君に、聞いてもらいたいことがあるんだ。……楽しい話じゃないんだけどさ、君さえ良ければ」

「聞くよ。なんでも」

「ありがとう」

 このみくんはほんの数秒うつむいて、それから面を上げる。

「黒崎氏。私が夏の合宿で発表したこと、覚えてる?」

「もちろん。確か、幼少期における経験による自我の発達と……うん。発達からくる、青年期との結びつきについて、だっけ」

「よく覚えてるね。感心感心」

 うんうん、と満足げにうなずく。

 けど、その目はすぐに伏せられた。

「あれね、私の実体験から書いたものなんだ」

「そうなんだ」

「私の親はね、すごい人間不信なの。娘の言うことになんか、全く耳を貸さないような人だった。子供の頃は躾とか言ってたけど、ほとんど虐待に近い扱いを受けていた。そんな人たちが子供を産んで、育てるなんて不思議だよね?」

 リキュールをぐいっと飲み干す。ここから先は酒の力を借りないと、とても話せないとでもいうように。

「小学生の、五年生の時だった。友達だと思ってた子にハメられて、万引きを疑われたことがあるんだ。私は何もしていないのに、店に呼ばれた親は一心不乱に謝っていた。危うく警察も呼ばれそうになっちゃってね。何もしてないって何度も言っても、取り合ってくれなかった。その代わり、散々責められた」

「…………」

「それからなんだよね。私が、人を信じるのが心底怖くなったのは」

 空になったグラスを傾け、底に残った氷をじっと眺めている。ちらり、と僕の反応を窺ってから、彼女は再び口を開いた。

「人並みな言い方なんだけどね。信じても裏切られるんじゃないかって思うとね、誰もが敵みたいに見えたの。私にすり寄ってくる人たちはみんな、本当は私を陥れたいんじゃないかってそんな風に思えてならなかった。一番近しい友達でも、それは例外じゃなかったんだ。……彼氏でさえもね」

「それは、言いすぎなんじゃないか」

 言った後で、僕はとっさに口を手で覆った。

今、僕がするべきことは、このみくんの話に口を挟むことじゃない。

 彼女は申し訳なさそうに、首をすくめている。

「ひどいよね、私」

「そんなことない」

「ううん、自分でもわかってるんだ。このままじゃいけないって。私はあんな風に……親みたいに、人を信じない人になんかならないって、そう決めていたんだ。大学に入って、髪型とかもイメチェンして、派手な服を着て……そうやって自分を塗り固めて、守っていたんだ」

「…………」

「それでも、そんな私に近づいてくる人はいた。友達になって欲しいって言ってくれる人もいた。ありがたくて、本当にありがたくて涙が出そうになるんだけど……心の底ではずっと、怖かったの。今はよくても、いつか裏切られるかもしれないって。むしろ、最初からそれが狙いなのかもって……そう思い始めると、ドツボにはまって、なかなか抜け出せなかった」

「……僕も、経験あるよ」

「きついよね?」

「うん、きつい」

「自分が大嫌いになるよね?」

「うん、わかる」

「そんな時なんだ。黒崎氏に会ったのは」

「僕?」

「うん。最初に会った頃の黒崎氏はね、目つきが悪くて、人を寄せ付けないオーラを持っていて……オリエンテーションの時とかも一人でいることが多くて……私は、それが凄いなって思ってたんだ」

「凄いって……別に、そんなつもりはなかったんだけど」

 どう反応したらいいのかわからず、額を掻いた。最初からそういった意図があったわけではなくて、僕はただ純粋に、人と打ち解けられないから一人になっていただけなのだ。

 それは、このみくんだって承知しているだろうに。

「一人でいるのって、意外と難しいことなんだ。私は……こういう言い方は失礼になるかもなんだけど……何もしなくても人が寄ってくるから、なかなか黒崎氏みたいに一人になれなかった。だから君と話せた時、とても嬉しかったんだよ」

「嬉しい?」

「意外?」

「うん……まぁね」

 いつの間にか、箸が止まっていた。

僕はなんだか落ち着かなくなって、そのせいでサワーを一気にあおってしまった。かっと体が熱くなって、心臓が脈打っている。

 このみくんの頬が、ほんのり色づいている。けど、まだまだ酔っぱらっていないことは目の色からもはっきりとわかった。

 誤魔化せない状況だった。

 ここで僕は、二杯目のサワーを注文した。このみくんも。

 ここで酒に頼るのは、ほとんど悪あがきに近かった。観念して、何もかも打ち明けてしまいたかった。

 今ならできる。今なら――

 だけど、そうすることはできなかった。

 この流れで僕の思いを切り出したところで、叶わないことは百も承知だった。

何より、彼女が告白してくれた事実を、煙に巻くようなことだけはしたくなかった。

それではいけない。

それでは――彼女と向かい合う資格はない。

 二杯目のサワーを三分の一ほど飲んでから、僕はようやく息をついた。自分でもわかるぐらい、顔が真っ赤になっている。

「黒崎氏、無理はよくないよ」

「……そうだね」

「お酒、強くないんでしょ?」

「……そうだね」

「黒崎氏」

「……なんだい?」

「四年間、ありがとうね。楽しかった」

「……僕もだ」

 本当に、楽しかった。

 その言葉だけは嘘じゃない。

言えてないことはあるけれど、それは今、言うべき時ではないことを、ようやく僕は理解した。

おそらくこれからも――言うべきではないのだろう。

 けれど最後に、確認しておきたいことがある。

「このみくん」

「はい、なんでしょ?」

「君は前に、僕のことを同類だと言った。その意味が今、やっとわかったような気がするんだ」

「…………」

「僕は最初、それは違うだろうと思っていた。君の周りにはいつも人がいて、僕はそうじゃかった。君はいつも笑顔で人と接していて、僕はそうじゃなかった。そんな僕と君が同類だなんて、君にとっては失礼じゃないかと――本気で、そう思っていたんだ」

「うん」

「でも、今やっとわかったよ。君も……一人なのか?」

「うん、そうだね」

「友達や、彼氏がいても?」

「そうだね。本当の意味で報われたことって、あんまりないかも」

「そうか……」

 だから、僕を選んだのだろうか。

 だから、僕を選ばなかったのだろうか。

 今の関係が成立する、この距離感。危ういバランス。僕自身が一歩でも踏み出せば、あっさりと崩壊してしまう。

 このみくんは既に、それを承知していた。

一歩どころか十歩ほど遅れた形で、僕も理解した。彼女は急かすでもなんでもなく、僕のことを「同類」と称しつつ、僕との関係を維持してくれていた。

 感謝するべきなのは、本当は僕の方だった。

「……全く、君には敵わないよ」

「なんか、どっかで聞いたセリフだね」

 僕らは声を立てずに、笑い合った。

なぜか、肩の荷が下りたような気持ちになれた。


告白するという行為は一般的に言えば、勇気の要ることだ。

しかし、告白しないという選択は勇気のないことかといえば――必ずしもそうではないと思う。

相手の気持ちを慮ることなく自分の気持ちを伝えることは、下手すればエゴに陥りかねない。自分の気持ちを押し込めることで、相手が望む関係に応えることもまた――一種の勇気であると、僕は思う。

人によっては、詭弁に聞こえるだろう。

単純に、僕が怖気づいただけという見方も、あるだろう。今の関係が壊れるのが怖いから、という月並みな理由だって添えられる。

けど、その時の僕はそうすることが正しいと思っていた。

何より、僕たちの関係は僕たちにしか成立できないものだった。

僕自身、そのような関係を築けたことが、今までで一番誇らしかったのだ。


 居酒屋から出る頃には、僕はすっかり酔っていた。膝に手をつけて、重々しい吐息をついている始末だ。このみくんも多少は赤くなっているけど、このまますぐにでも二次会に乗り込みかねないぐらいに、活気にあふれていた。

「いやぁ、楽しかったね。……ていうか黒崎氏、大丈夫?」

「大丈夫、大丈夫……さっき、水飲んだから」

「本当に、酒に弱いんだねぇ」

「だから、そう言ったじゃないか……」

 ごめんごめん、と両手を合わせてくる。

いいんだよ、と軽く手を振った。

 それから駅に向かって、できるだけゆっくり歩く。

その途中僕たちは、なんの変哲もない会話を交わした。音楽の話とか、普段読んでいる本とか、映画とか、とにかくそういうものばかりだ。けど、交わす言葉のひとつひとつが弾んでいて、ただ彼女の声を聞くだけでも本当に楽しかった。

 駅に近い場所で、彼女はぴたりと足を止めた。僕もつられて立ち止まると、このみくんは口の両端をつり上げて――目元はどこか悲しそうに――こう言った。

「黒崎氏。私ね、卒業したら結婚するんだ」

「そうなんだ。……おめでとう」

「ありがとう。あーでも、もしかしたら五年後ぐらいに、離婚しちゃうかもねぇ」

「縁起でもない、やめなよ」

「あはは。そうしたら黒崎氏は、どうするの?」

「……五年後の話?」

「うん」

「まぁ、お互いにフリーだったらの条件付きだけど――君がまだ一人のようだったら、その時は僕がもらうよ」

 半分、冗談のつもりで言った。

 このみくんも冗談として、受け止めてくれた。

「あはは、五年後が楽しみだね。楽しみがまたひとつ増えちゃった」

「でも、僕としては、そういうことがないことを、心から祈るよ」

「ん、そう思う?」

「ああ。僕としては、君が幸せになってくれるのなら、それが一番だ」

 このみくんははっきりと目を丸くした。

僕はそれに、気を良くした。

 彼女を驚かせることができたのが、愉快でならなかった。

 駅に到着し、改札口から入ったところで、解散することにした。

「じゃあね、黒崎氏。卒業式で会おうね」

「うん」

「今日は、本当にありがとうね」

「僕の方こそ」

「……またね」

「うん、また」

 そして僕たちは別々の方向に歩いていった。

階段を上がり、向かい側のホームにこのみくんの姿を発見し――ちょうどその時に電車が滑り込んできた。

このみくんは電車の窓越しに、手を振っている。

僕も、手を振り返す。

電車が発進して、彼女の姿が見えなくなったところで、僕は手を下ろした。

全身にのしかかる疲労感が、心地よかった。僕の思いは何ひとつ成就していなかったはずなのに、なぜか満足している。

今も相変わらず僕は一人で、隣には誰もいないのに。

それから――これで良かったんだ、と自分に向けてつぶやいた。


     21.


 足元の影が、もう見えなくなっている。

 腕時計を確認する。もうそろそろ帰らないと、明日に支障が出てしまう。

 僕は一人、ベンチに腰かけて、未だにタバコを吹かしている。今日だけでどのぐらい吸ったのか、まるで覚えていない。吸いたくて吸っているわけじゃなくて、そうしないと間が持たないように感じられるのだ。

 僕はいつも、心のどこかで、期待している。

 ここに来れば、何かしらの発見があるのではないかと、期待していた。

 いつもそうだ。勝手に期待して、その度に裏切られたような気分になる。自分自身が本当は何を求めているのか、とっくに気づいているのに。それでいて、絶対に得られないものであることを承知しているのに。

 度し難い、というべきなんだろう。

 森先生、そして伊織さんの言葉通りだった。

僕は今でも彼女の影を追っている。

あの時の決意とはなんだったのか。

 弱くなった、と思う。

 なぜ、ここまで自分が揺らいでしまったのだろうか。

 日々の生活で摩耗して、くたびれてしまったのか。何かにすがりつきたくて、だから求めてしまったのか。

 これではいけないのに。

 どうして、僕はいつもこうなのか。

 ふと、電話をかけてみようかと思いつく。

何も得られなかった自分を慰めるために。

ここを立ち去るきっかけを得るために。

 果たして相手は――すぐに出てきた。

『はい、もしもし』

「ああ、黒崎です」

『あ、黒崎氏? どうしたの? なんかあった?』

「あ、うん……今、大学にいるんだけどね」

『ああ、学祭だっけか』

「そうなんだよ。まぁ、何も得るものはなかったんだけどね」

 僕の声の調子は、落ち込んでいた。

こんなことを話したってしょうがないのに。

『なんだか、元気ないね』

「そう思うかい?」

『私も行きたかったんだけどね。ていうか、黒崎氏と話をしてみたかった』

「うん、僕もだ」

『ねぇ、森先生には会ったの?』

「うん、会ったよ。大泉くんや、他のメンバーにも会ってきた。みんな、相変わらず元気そうだったよ」

『ふーん。サークルの人たちとは?』

「ああ、それももちろん。顔も名前も知らない後輩がたくさんいて、正直戸惑った。それで……僕の居場所はもうどこにもないんだなって、思い知ったんだ。本当に、もう今さらなんだけどね」

 このみくんは、すぐには返事をしなかった。

こんなことを言われて、さぞかし困っていることだろう――自己嫌悪に陥るだけだとわかっているのに、なぜ言ってしまうのか。

理由は簡単だった。

僕の傍には今でも、誰もいない。

一人きりのまま大学に来て、一人きりのまま大学を去る。そのわびしさに、いよいよ勝てなかった。

だから――彼女の声を求めた。

あの時の決意はどこに行った。

僕は緩く、首を横に振った。このみくんはまだ、何も言ってきてない。じっとうつむいていると、「そっか」と声がかかってきた。

『黒崎氏、これからどうするつもりなの?』

「……そうだね。もう、大学には来ないだろうね。森先生も離れるみたいだし、会いたい人も――ほとんどいなくなってしまった」

『うん、そうだね。寂しくなるよね』

「寂しい、か」

 僕はふと、先ほどの――間宮の言葉を思い出した。これからどうするのか、そういったことを聞かれていた。そのことをこのみくんに伝えると、「間宮くんかぁ」と苦笑めいた声を漏らした。

『彼のことは、正直苦手だったかな』

「はは、そうかい」

『でも、言っていることはもっともだね。同じ場所に、いつまでもいられるわけじゃないってことは、黒崎氏にだってわかっているよね』

「ああ」

『でも、どこかで期待してしまう』

「よくわかるね」

『そりゃあ、十年ぐらいの付き合いですからね』

 このみくんが胸を張る様が、想像できるようだった。

 こうして彼女の声を聞いていると――無性に会いたくなる。今の僕を見たらどう思うのか、聞きたくてしょうがない。

 でも、それはできない。

 仕事が忙しいとか、日々の生活がとか、そんなんじゃない。会ったら、僕の内でくすぶるものが再燃しかねないから。ほんの少しでも期待してしまうのなら、会うべきではないのだ。

 勝手に期待して、勝手に裏切られる。

 僕はそんな自分自身に、いい加減うんざりしていた。

『黒崎氏』

「うん?」

『大丈夫?』

「……うん。悪かったね、心配かけて」

 ううん、と彼女は柔らかい声で言った。

 これ以上話しても、彼女の時間を奪ってしまうだけだ。ここにいるのも、そろそろ頃合なんだろう。

いつまでも同じ場所にしがみつくことほど――みっともないことはない。

「なんでもないのに、電話かけてごめん」

『そんなことないよ。君から連絡が来た時、嬉しかったんだから』

「そうかい?」

『卒業して、仕事とかにかまけてると、どうしたって友達と会う時間が少なくなるから。連絡も途絶えがちになるし、みんな自分のことで手一杯になる。私だってそうだし。……月並みなことしか言えなくて、ほんと申し訳ないけど』

「……そういうものだと、思うよ」

『大人の言い方だね、それって』

「うん。いつまでも、子供ではいられないからね」

 言いながら、通話を切るタイミングをうかがっていた。

彼女の声はいつまでも聞いていたくなるほど凛としていて――だからこそ離れがたく、すがりつきたくなる自分が情けない。

「このみくん」

『ん、なに?』

「話せてよかった」

『うん、私も』

「そろそろ、切っても大丈夫かな?」

『あ、うん……別に構わないんだけど、大丈夫?』

「何が?」

『黒崎氏、もう少し話したいことがあるように思えるから』

 僕はふっと、口元に笑みを浮かべた。

 やっぱり、彼女には敵わない。

「いや、大丈夫だよ」と僕は努めて、明るく言った――つもりだった。

ほんとに? と尋ねてくる彼女に、「本当に」と返す。

「いきなり電話して、ごめんね」

『ううん、いいよ。何かあったら、いつでも連絡してくれてオーケーだから』

「うん、ありがとう。……じゃあ、切るね」

『うん。じゃあ、またね』

「ああ、またね」

 それきり、通話は途絶えた。

 それから一分ぐらい、その場でじっとしていた。

 伊織さんから言われた言葉が、頭の中で響いている。

幸せになりなさいよ、と彼女は言った。

僕はまだ、そういう境地には至れていない。

 一番そばにいて欲しい人は、一番僕のことをわかっていて、一番遠いところにいる。

 それを実感するためにわざわざここまで来たのだから、愚かという外ない。間宮のことも、とやかく言う権利はないだろう。

 僕はその場を後にした。

 パレストラの脇にある小路から、道路に入る。

そのまま一度も振り返ることなく、駅へと続く道を、ただぼんやりと辿った。


 僕たちの関係は、友情とは一線を画していた――と思う。

 これからもこの関係は、変わることはないだろう。

 変わらぬ関係、秘めた想い――人によってはそれは不幸なことに映るかもしれないし、僕自身それでいいんだと言い切れるだけの強さを持ちあわせていない。

 未練などないと言っても、それは嘘になるだろう。

 邪念の混じった希望的観測を抱くことだって、今もある。彼女がそれを見抜いているかどうかはさておき。

 人に想いを寄せるということは、厄介だ。衝動と呼ぶにも等しい熱情を、持て余してしまう時だってある。反発を食らう時も、報われない時もあるだろう。僕のように、惨めな結末を迎えることも、あるだろう。

 人を好きになることが、面倒にもなってしまう。

 けど、それでも惹かれてしまう。胸の内でくすぶっているだけで、その火は完全には消えていない。

 誰にでも、彼女にも僕にも、それはある。

 熱なくして人は、生きられないのだ。


                                   完

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熱情 寿 丸 @kotobuki222

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