「大学三年」
16.
このみくんから誘われたのは、大学三年生の、秋の終盤だった。
学祭が終わり、ひと息ついた頃である。ゼミでの発表や卒業論文が控えている上に、苛烈な就職活動もあるから、僕と同学年以上の学生はみな、ピリピリしている。構内には就職説明会やセミナーへの案内や看板があふれ返っているから、なおさらだ。
僕はといえば未だに、前向きなアクションを行ってはいなかった。
一応、就職説明会には参加したものの、どうしても自分が社会に入って働くという明確なビジョンを持てずにいたのである。会社一覧のパンフレットを眺めても、講師からの説明を聞いても、他の学生が活動的に動いているのを見ても、僕はなかなか腰を上げようとしなかった。
いわゆる、モラトリアムというやつだろうか。
僕の解釈でいえば、青年期から大人になる過程で、時間的にも体力的にも恵まれた状況に甘んじていることを指す。いい歳をして親のすねをかじって、そうすることに罪悪感を持たないこと。ちなみに、このモラトリアムという言葉は、森先生の講義の中で学んだことである。
大学三年生――当時の僕は、経済的には確かに親に依存していた。将来に明確なビジョンを持てずにいた。文筆業に専念できればと思い、どこかの出版社に自作の小説を投稿してみたりはしたが、見事に落選続き。
書道と文を書くことしか取り柄のない僕は、一体何をどうしたらいいのか、途方に暮れていたのだ。
そうこうしている間に、時間が過ぎ去っていく。
内定が出て喜んでいる学生を尻目に、僕はいたたまれないほどの空虚感を覚えていた。既に「次」が見えている人たちとは異なり、僕にはそれが見えていない。社会の歯車として組み込まれてしまうことへの無暗な反発があったことは否めないし、その道を選ばずに自分のやりたいことを追求していくだけの技術も覚悟もなかったことも否めない。
要するに、ぐずぐずしていたのである。
停滞の空気を全身にまとっていることを自覚していながら、それを振り払うだけの気概を持てていない――そんな時に、このみくんからの誘いが来た。
卒業論文作成に向けた、ゼミ内での討論を終わらせた後だ。教室を出た僕に、後ろから思いきり背中を叩かれた。
驚いて振り向くと、このみくんがいたずらっぽい笑みを浮かべている。今ではすっかり見慣れてしまった、何かを思いついた時の表情だ。その時の彼女は黒のパンツにレザージャケットという服装で、薄く引いた口紅の赤さが白い細面に映えている。
「おっす、黒崎氏!」
「お、おっす」
「どうしたの、元気ないね?」
「そう見える?」
自然に並んで歩く。
この時の僕はもうすっかり――このみくんを始めとした女性から――話しかけられることに慣れていた。緊張して口が回らなくなることもほとんどなくなっていて、肩の力も抜けている。
僕はこのみくんに、紛れもない友情を感じていた。「黒崎氏」などと呼んでくれるのは、この大学では彼女だけだ。最初は戸惑っていたものの、次第に僕も受け入れられるようになっていた。僕も、その時はもう彼女のことを「このみくん」と呼んでいて、いつからそんな風に呼ぶようになっていたのか、もう思い出せない。ゼミのメンバーは大体、彼女のことを「このみちゃん」と呼んでいたから、僕もつられた形になった。
「このみちゃん」と呼ばないのは、単純に気恥ずかしいからだった。
なんだか軽そうだし、それに僕自身のキャラクターにも合っていない。だから妥協する感じで「このみくん」と呼んでいるのだが、彼女はその呼称がいたく気に入っているようだった。
「もしかして、就活がうまくいってないとか?」
「あー……まぁ、そんな感じ」
「とっくに内定もらっている人もいるんだもんね。そりゃ、焦るよねぇ」
「そうだね。そういう君の方こそは?」
「んーん」
彼女が首を横に振ったので、それが意外だった。僕はてっきりこのみくんならば、すぐにでもどこかに入れるだろうと思っていたからだ。
「私、今は就職する気ないんだ」
「そうなの?」
「うん。大学院に進んで、心理学をもっと突き詰めたいと思って」
「ああ……」
それを聞いて、納得したと同時に安心した。
このみくんも既に、「次」が見えている。
普通ならば、僕も頑張らなければと意気込むところだろう。自分もなんらかのアクションを起こして、切磋琢磨するべきなんだろう。
だけど僕はまだ、危機感というものを抱いていなかった。現実味のわかない将来に対して働きかける意思というものを――このみくんからの話を聞いても――持てずにいた。
人によっては、それは怠慢にも責任放棄にも映ることだろう。それを否定するだけの根拠はなかったし、僕自身その通りであるという自覚もあった。
「凄いな」
僕はそれしか言えなかった。
まるで、遠い世界で起こった出来事のような口ぶり。
自分と世界とを切り離した感触と感想に、罪悪感や焦燥感を持つどころか、胸にあるのはただただ漠然とした空虚感と、停滞感。それを恥ずかしいと思うこともなく、今の空気に浸っている。
それこそが罪悪なのだということから、僕は目をそらしていた。
このみくんは僕の横顔をちらりと見て、何事か考えるようにして――それから、「ねぇ」と呼びかけた。
「黒崎氏、お昼は?」
「あ、うん。もう食べたよ」
「じゃあ、森先生のところに行かない?」
「え?」
「先生と約束してるんだ。他に誰か連れてきたい人がいたら、一緒に来ても構わないってさ。せっかくだから黒崎氏も、一緒に行こうよ」
「ええと……いいのかい?」
「うん」
口を半月の形にして微笑む。
その表情は反則である。
このみくんからの誘いを断れるはずもなく、僕は彼女の後をついていくことになった。
構内からA棟に入り、エレベーターで九階へ向かう。行き慣れているのか、このみくんの足取りに迷いはなかった。
エレベーターに乗っている間、適当なやり取りを交わす。
「そういえば、森先生の研究室に入ったことってある?」
「ええと……そういえば、ないな」
「えー、もったいない。先生、面白い話を聞かせてくれるのに」
「君は、よく先生のところに行ってるの?」
「うん、ちょくちょくね。レポートとか卒論作成とかで力になってもらってる。先生って意外なところから指摘が来るから、油断できないんだよね」
「へぇ……」
「黒崎氏は、卒論進んでる?」
「まぁ、そこそこ」
「そこそこなんだ」
このみくんが苦笑しているところで、九階に着いた。
エレベーターホールから左手に曲がってすぐのところに、森先生の研究室があった。
まず、このみくんが控えめにノックすると、「どうぞ」と声が返ってきた。彼女は僕にウィンクし、「失礼します」と扉を開ける。
森先生は柔らかそうなチェアーに腰かけ、マグカップを掲げているところだった。僕を見ても、さほど驚いた様子はない。
「やぁ、来ましたね」
「お邪魔しまーす」
「お邪魔します」
僕はきょろきょろと、どこか落ち着かない様子で、研究室を見回した。
心理学の本がびっしりと敷き詰められた本棚、埃ひとつ落ちてなさそうなデスク、かすかに香るコーヒーの匂い。窓からは陽光が差し込んでいて、研究室というイメージとは裏腹に、爽やかな空気が満ちていた。
「黒崎くんも来ていたんですね。喜ばしいことです」
うんうん、と満足げにうなずいている。
僕は戸惑いながらも、「はぁ」と会釈した。このみくんは僕と先生とを交互に見て、にやにやと笑っている。
彼女はひとまず長机に自分の荷物を置き、それから先生に首を向けた。
「先生、今はお時間大丈夫ですか?」
「ええ、次の講義の準備は既に終わらせてしまいました。君とのランチは前から約束していましたからね」
「あ、それはすみません。気を遣わせちゃって……」
僕より深い角度で、彼女が頭を下げる。
「いえいえ」と先生は空いた手を振って、それから立ち上がった。
「誰であれ、わざわざここまで来てくれることは、嬉しいことですから」
言いながら先生は僕たちの脇を通りすぎ、ラックの上にあるコーヒーメーカーの前に立った。
「ひとまず、何か淹れましょうかね。コーヒーになりますが……何か、リクエストはありますか?」
「あ、私はカフェラテで」
「僕はブラックで」
「わかりました。適当に座って、待ってて下さいね」
先生の言葉に甘えて、僕たちは隣り合うように座った。
僕は緊張を紛らわそうと親指をくるくると動かしていたが、このみくんはパイプ椅子の背にぐっともたれて、はぁっと息をついていた。
「やっぱり、ここはなんだか落ち着きますね」
「そうでしょうか?」
「はい、すごく静かなんです。ここ以外だと、落ち着いてお話ができそうな場所ってそんなにないので」
「そうですか。そう言ってくれると、幸いです」
コーヒーを淹れ終え、先生は三人分のコーヒーを盆に載せて、持ってきてくれた。
僕とこのみくんはありがたく受け取り、まずひと口つける。大学内で、しかも先生の淹れてくれたコーヒーの味は、どことなく高級な経験のように思えた。
「どうですか、お味は? といっても、インスタントなのですが」
「あ、そうなんですか? でも、美味しいです」
「ほんと。なんだか、すごく贅沢してる気分」
「それなら何よりです」
先生は気を好くしたように、僕たちを交互に見ている。温和な表情はいつも通りなのだが、今回はより機嫌が良さそうだった。
先生は自分のマグカップをよけて、長机の上で手を組んだ。
「さて、今日はどんなことをお話しましょうか?」
「あ、それなら最近のゼミについてとか、どうですか?」
食い気味に、このみくんが提案する。
先生はうなずき、僕の方に首を向けた。
「黒崎くんはどうですか?」
「そうですね。僕もそれで異論はないです」
「決まりだね。じゃあ黒崎氏、最近のゼミについてどう思う?」
「え、いきなり僕?」
思わぬ事態になり、戸惑いをあらわにするが、彼女は先ほどと同じ笑みを浮かべるだけだ。先生も期待の眼差しを僕に向けている。
僕から話を切り出すことなど、滅多にない。その緊張感はゼミでの発表と同等以上だろうか。
慎重に言葉を選ぶしかない。
「ええと、最近のゼミについて思うこと、ですか」
「うんうん」
「興味ありますね。君がどう思っているのか」
「いや、そんな大した感想なんて持ってないですよ。一年生の頃と比べれば、みんな色んな意見を出し合っているなぁとしか……」
「そうだね。最初の頃はみんな、遠慮してなんも言えてないって感じだったから」
僕はひとまず、このみくんにうなずきかける。
「二年生のゼミ合宿の頃からかな。あの時から、なんだか盛り上がっていたような感触があった……と思います」
「そうですね。私も、そういう風に見ています」
「全体としては、悪くないと思うんです。ただ、なんというか……」
僕はそこで言葉を濁してしまった。この先は言っていいのかどうか、判別がつかなかったから。
けれど二人は――暗に、大丈夫だと言うように――静かに耳を傾けている。
僕は迷いながらも、思ったことを口に出してみた。
「慣れてきたせいだからなのかもしれませんが、あと一歩というところで、テーマを突き詰められていない感じがするんです」
「ほう……具体的には?」
「ええっと、そうですね……こないだ、『ライ麦畑でつかまえて』をテーマに話し合いましたよね。大体みんなは主人公のホールデンの境遇や心境に共感していましたけれど、そうでない人……共感できないという人もいました。男子よりは、女子の方がその傾向が強かったかなって」
「それは、そうでしょうね」
「性差からくる考え方の違いもあるのかもね」
僕はじっくりと記憶を辿り、確かめるように言葉を紡ぎ出した。
「なぜ、主人公に共感できないのか。僕としてはその辺りを、もっと突き詰めてみたかったんです。でも、時間も限られていましたし、共感できないという人も、なぜ共感できないのかという明確な理由を提示することができませんでした」
「なんだか、ぼんやりしていたよね。親が裕福だからって甘えているっていう、表面的な理由はあったんだけど。それだけなのかなぁって私は思ってた」
「うん。何か思うところがあって、共感できなかったのかもしれない。けど、それを掘り下げるとなると、なんだか……自分の深いところをえぐってしまいかねないから、意図的に避けていた気がするんだ」
「ふむ……」
「主人公は客観的に見れば、少なくとも経済的には恵まれています。ただ、反社会的な性格が災いして、いらないトラブルを招いてしまう。黙って大人や周りの人の言う通りにしていればそんなトラブルは避けられるのに、そうできない。そこをどう見るかは人それぞれなんですが、なぜそのような見方をするのかについては、あまり触れられなかった。その辺りが僕には、ちょっと物足りなかったんです」
「なるほどねぇ」
「とまぁ、こんな感じなんですが……どうですかね?」
先生の反応を窺う。
彼は両手の指を合わせて、「うん」と短く嘆息した。
「意図的に避けていた……君からはそう見えましたか」
「そう、ですね」
「そして君自身も、物足りないと思っていながら、それを追求することを避けていた。どうでしょうか?」
「……その通りです」
痛いところを突かれ、僕はつい渋面を作ってしまった。
けれど先生は、気にする素振りを見せなかった。代わりに困ったように、若干眉を寄せている。
「そこが毎回、難しいところなんですよね」
先生はマグカップを手に取り、コーヒーの香りをたっぷりと堪能してから、あおるように飲んだ。
それから長机の上に両肘を立て、手を組む。彼の目は僕とこのみくんとを、交互に捉えていた。
「君の指摘通りです。物事には多様な見方がありますが、なぜそのような見方をするのかについては、あまり触れられません。一応付け加えておくと、このゼミに限った話ではないのです。限られた時間の中で、それも含めて説明するのは非常に難しい。自分自身の生い立ちやそれまでの環境や交友関係にも、大いに関係がありますから」
「『ライ麦畑』を読んで、もしかしたら今までの自分の考え方は間違っていたかもしれないって思ったとしたら、余計にそうなのかも」
このみくんの推察に、僕も先生も同意した。
「誰だって、自分が間違っているかもとは思いたくないものです。だから表面的な感想に留めてしまう。しかし、それでは真の意味で討論はできません。その点に関しては、確かに、大いに反省するべきところだと思います」
「そうですよね……」
うなずきつつも、どこか釈然としない。
先生の言葉をそっくりそのまま鵜呑みにすることはできなかった。胸の内からわき上がる、この、妙な衝動はなんだろう。うずくような、ちりちりするような、咄嗟に口から何かが出てしまいそうな感覚。それはおそらく、対抗心……あるいは、反発と呼ぶに等しいものかもしれない。
ここで反論するのはリスクが高い。
このみくんにどう思われるかも、気になってしまう。
ただ、ここで何も言わずにいたら、それこそ先生の指摘通りだ。
僕の方が間違っているかもしれないという懸念を抱えながら口に出すのは恐れ多かったが、それ以上に――先生やこのみくんが、どんな反応を示すのかという興味の方が大きかった。
「先生も、僕と同じように思っていたんでしょうか?」
「と、いいますと?」
「一年生の時のオリエンテーションで先生が言っていたことと反しますが、先生の方からもっと深くアプローチすることができたのではないか、と思うことがあります。ゼミでの議論の時も、先生は僕たちに深く干渉してくることがありませんでした。学生主体のゼミとはいえ、やはり僕たちで行うことには限界というものがあります。議論の内容が正しいのかどうか、それを確かめる術を僕たちは持っていません」
「それは……そうかも」
にわかに納得しかけているこのみくんと、先生に挑戦的な眼差しを放つ僕。
先生はすぐには答えなかった。柔和な笑みを崩さず、ただ僕を見返している。彼の返答を待つ時間がもどかしく、次第に落ち着かなくなる。手にも肩にも力がこもっている。
ふぅ、と先生は息をついた。
「そうですね」と言って、眼鏡を外す。ハンカチで拭いてからかけ直し、レンズ越しの先生の目が僕を捉えた。
「君の言うことももっともです。確かに、学生主体のゼミには限界があります。知識量もそうですし、議論を進める手腕も、十分とはいえません。全体的に見ればまだまだ未熟といったところでしょう。それでも、それを行うことには意義があるんです」
「意義、ですか?」
「正しいか、正しくないかは二の次なんです。テーマを決めて議論を深めていくことにこそ、意義がある。確かに……深く掘り下げることはできませんでしたが、一人で本を読むよりも多様な見方があることを、君たちはあの場で知ったはずです」
「……そう、ですね」
「私が主導する形で行うことはできます。けれどそれでは、私の言うことにみなが右往左往してしまいかねない。あくまでも学生主体でないと、このゼミを設立した意味がなくなってしまうのです。議論する場を用意することはできますが、それ以上はできませんし、したくありません。……このやり方は講師としてどうなのかという意見や、責任放棄ではないのかという意見も、よく頂いています。しかし、私はこのやり方で、学生たちが自身で何かを見出すことができるという感触を持てています。少なくとも君はこれまでのゼミで、自ら考え、意思を発することができている。それだけでも、十分意義があると見ていますよ」
「…………」
「異論はあるでしょう。学生主体という形式にこだわらなくてもいいし、限界だってあると私自身も感じています。ですが、私は限界に行き当たった君たちがどんなアクションを起こすのか、そのことに強い興味を持っています。壁を乗り越えるのか、避けるのか、あるいは壁自体を見なかったことにするのか……まぁ、自分で言うのもなんですが、私のやっていることは君たちからすれば悪趣味なんでしょうね。やっていることは、ただの観察ですから」
「観察、ですか」
「ええ」と先生は屈託なく微笑んだ。
僕はどう反応するべきか、迷った。
先生の考えは理解できる。そもそもそういったゼミを選んだのは僕たち自身で、先生の口からそのことは説明されていた。
けれども――まだ、引っかかる。
僕たちが何もしなかった時、何もできなかった時も、先生は学生主体だからという理由で、僕たちに責任を担わせるつもりなのだろうか。
「すみません、ちょっといいですか?」
このみくんが控えめに手を上げた。
僕と先生は、異存を挟まなかった。
彼女はまず、両膝に手をつけるようにして、やや前のめりになった。何かに臨む時の、僕よりもはるかに確固とした意思を宿した瞳。
それに見とれる間もなく、彼女の口が開かれた。
「私はこのゼミの、学生主体という形式が気に入っています。そりゃあ、自分たちで話し合って決めていくというのは大変だし、しんどいし、まとまらないこともしょっちゅうありますけど……だからこそ、代え難い経験になるんだと考えています。色々な立場の人がひとつの場所に集まって、主体的に何かを行っていくというのは、非常に珍しいことだと思うんです。高校までだったら、教師が議論をリードする形であるということがほとんどだと思うので、だからこそ今のゼミでの経験は、私にとっては新鮮でした」
「そうですか……」
次にこのみくんは、僕の方に首を向けた。
「でも、黒崎くんの言うこともわかります。もしも私たちが何もしなかったり、できなかったりしたら、その時はどうなるんでしょうか?」
「その時は、その時ですよ」
森先生の返答に、僕たちは呆気に取られた。
足を組み、マグカップに口をつける。最後まで飲み干してから、丁重にカップを元の位置に戻した。
思案気にあごを撫で、虚空を見つめる様は、過去と未来とを同時に見渡す――賢者のような佇まいのそれだった。
にっこり、と先生は微笑んでみせる。
「幸い、学生主体形式のゼミを打ち立ててから、今までそういったケースには巡り合っていません。今回もそうですよ」
「でも、それは結果論ですよね?」
「ええ。そのことで、しばしば批判を受けています」
「でも、やり方を変えるつもりはない、と」
「よくわかりますね。ええ、前園さんの仰る通りですよ」
「そうなんですか……」
脱力といった具合で、このみくんは椅子の背にもたれかかった。
僕は口を固く結んでいた。言いたいことはいくらでもあるはずなのに、うまくまとまらない。いくつもの言葉――というよりは文句に近い――が頭の中でぐるぐると螺旋を描いていて、どれを拾えばいいのかわからない。
「冷めてしまいましたね」
唐突に言われ、なんのことだか一瞬理解が遅れた。コーヒーのことを言っているのだとわかった時、「ああ……」と思わず声が漏れた。
「淹れ直しましょうか。おかわりは要りますか?」
「いえ、大丈夫です……」
「私もです」
「そうですか。喉が渇いたら、遠慮なく言って下さいね」
それから先生は、コーヒーメーカーのところまで歩いていった。
僕とこのみくんとは互いに目配せをしたものの、口を開くまでには至らなかった。
「どう思う?」と彼女の目が問いかけてきている。
「わからないよ」と、僕の目は答えている。
先ほどの先生の言葉が頭をよぎる。
正しいか、正しくないかは二の次なのだ――と。
「そうそう、ひとつ思い出したことがあるのですが」
先生は僕たちのすぐ後ろを通りすぎ、自分のデスクまで向かった。積み重なっている資料の山の上から、手のひら程度の小さな用紙を掲げてみせる。講義で感想を書く時などに使われる、コメントペーパーだ。
「君たちが私のゼミを受講する時に書いたものです。覚えていますか?」
長机の上に置かれたそれを、僕たちはそれぞれ取り上げてみせた。ペーパーの下の欄には、僕の名前がある。確かに書いた覚えのあるものだ。
「あの時挙げたテーマは、『人生で一番影響を受けた作品』でした。私のゼミを受講するためのテストみたいなものですが、もう二年と半年ぐらい前になりますね」
「まだ、取っていたんですか?」
「ええ。私は物持ちがいい方なので。そのおかげで家にも資料が山ほどあって、妻からしきりに怒られていますよ」
僕とこのみくんは、それぞれ自分が書いたものを裏面までじっくりと読んだ。
僕が挙げた作品はダニエル・キイス著の、『アルジャーノンに花束を』。内容のざっくりした説明、読んでみての感想、どのように感銘を受けたかを事細かに書いてある。今見るとどうも、肩肘が張っているような、固い文章だった。丁寧ではあるのだが、真面目すぎる。自分で書いたものなのに、自分で読んでいて疲れてしまう。
「ねぇ、黒崎氏はどんなの書いたの?」
このみくんがペーパーを差し出してきたので、ひとまず交換した。
このみくんが影響を受けた作品は、『風と共に去りぬ』。ずいぶん昔の映画だ。彼女も僕と同じように内容と感想と感銘を受けた点を挙げているが、僕よりもずっと洗練された文章だった。
「なるほど、アルジャーノンかぁ。いかにも黒崎氏らしいね」
「そういう君こそ。若いのにこの映画を挙げるなんて、尋常じゃないよ」
「あ、そこまで言う? それに、名作を観るのに年齢なんて関係ないよ」
「まぁ、そうだけど」
他愛ない感想を交わし合う傍ら、先生は無言でコーヒーをすすっていた。
このみくんのペーパーを読み終えた後で、僕は先生に尋ねてみた。
「あの、先生。なぜ今、これを持ち出してきたんでしょうか?」
「まぁ、そうですね。これが出てきたのはほんの偶然だったんです。それに、今なら説明してもいいだろうと思いまして」
「何をですか?」
「君たちが私のゼミを受講するようになった経緯について、です」
僕とこのみくんは、自然に居ずまいを正した。
先生は記憶を辿るように瞑目する。
「私のゼミを受講しようとした学生の多くは、誰でも知っているような作品を挙げたりしていました。もちろんそれは、悪いことではありません。ただ、その作品にどのように影響を受けたかについては、あまり触れられていないことが散見されました。一応、触れているものもありましたが、表面的な事実……例えば、外見などですね。作品から影響を受けて、何かしらに共感してそのような格好をしているというわけではなく、格好いいからそうしているだけ、という具合に。
私としては、そうですね……なぜ格好いいと思ったのか、そこを掘り下げて欲しかったと多少は残念な気持ちになりました。実際、君たちの中でも、未だに表面的な事柄しか取り上げていない学生もいます。それ自体が悪いのではなくて、ただもったいないと私は思うのです。
そういうわけで、君たちは提示されたテーマに、真剣に向き合おうとしてくれた。その点を大いに評価して、君たちを私のゼミに引っ張り込みました」
「……なるほど」
「初めて聞きました。そうだったんだ……」
このみくんが驚いたように嘆息する。彼女にしては珍しい反応だった。
先生はすっと、口に人差し指を当てた。
「まぁ、今言ったことはオフレコでお願いします。他の学生が聞いたら、あまりいい気持ちはしないでしょうから」
「それは、そうでしょうね」
要するに僕たちは、ふるいにかけられたということだ。もちろんそれは珍しいことじゃないし、それ以前の――例えば受験などの――そういった、ふるいにかけられることと比べれば、森先生のそれはまだ易しい方だ。
ただ、今の話を聞いてもなお、釈然としなかった。
いや――先生の話にというよりは、彼個人の考え方や姿勢にというべきだろうか。今それが明らかになったのはいいが、だからといって共感できるかどうかは別だ。
僕はもしかしたら、先生のやり方に賛同できないのかもしれない。
「どうやら黒崎くんは、納得がいかないようですね」
「わかりますか?」
「ええ。君は意外と顔に出るんですよ。知りませんでしたか?」
「……初耳です」
「そーなんだ。私はてっきり……」
言いかけ、このみくんは「んっ」と口を閉じた。何を言おうとしたかはわからないが、おおよそあまり愉快なことではないだろう。
「納得……」
ぽつり、と僕はつぶやいた。
確かに先生の言う通りだ。納得できていないということは確かだが、それがなぜなのかは説明がつけられない。今ここで言葉にできないということは、僕自身がまだ、自分の気持ちの正体を見極められてないからだろう。
それが歯がゆくて、悔しかった。
モラトリアムに浸っている自分よりも、そのことが恥ずかしかった。
「無理に、何か言うことはありませんよ」
森先生の言葉に、はっと面を上げる。
「今、言葉にできなくても構いません。それは君の今後の課題ということにしておいて下さい。君がその課題にどのように取り組み、どのような答えを出すのか――私はそれを楽しみにしています」
「…………」
「おっと、もうこんな時間になってしまいましたね」
壁にかかった時計を見、先生が目を見張る。
僕たちも一拍遅れて気づき、とっさにこのみくんが腰を浮かしかけた。
「すみません、長々とお話ししちゃって」
「あ、ぼ、僕も……」
「いえいえ、いいんですよ」
先生はなおも、鷹揚に構えている。
「今日は有意義な話ができました。やはりいいものですね、人との会話というものは。書物を読むよりも、映画を一人で観るよりも、はるかに刺激を得られます。君たちのように若く、見ているものが違う人とは、なおさらです」
「…………」
「そう言ってくれるなら、嬉しいです」
このみくんが椅子を引き、立ち上がる。そして先生に、深々と頭を下げた。
「私も、いい刺激を受けました。本当に、ありがとうございます」
僕も、無言でこのみくんに続く。
胸の内で何かがくすぶっている感覚こそはあるものの、それが別段不愉快というわけではなくて、僕自身、それが不思議だった。
先生は自ら扉を開け、僕たちを促してくれた。
「また、いつでも来て下さいね」
「はい。その時はまた、たくさんお話したいです」
「僕もです」
「楽しみにしていますよ。……ああ、そうだ黒崎くん。少し、残ってくれますか?」
「え? ああ、はい……」
「じゃあ私は、エレベーターで待ってるね」
一旦扉が閉まり、このみくんの姿が見えなくなったのを確認してから、先生は僕に向き直った。
「君の卒論……『生きることに対する、青年期における葛藤について』について、なのですが」
「ああ、はい。何か問題でもありましたか?」
「いえいえ、実にいいテーマだと思っているんです。生きることそのものに真剣に向き合おうとする姿勢は、得がたいものなのです。これからも精進して下さいね」
「あ、それはどうも……」
てっきり何かダメ出しされると思っていただけに、若干拍子抜けした。
先生は僕をまっすぐに見つめ――先生の言葉を用いるなら、観察の眼差しを向けて――まだ何か言いたそうにあごをさすっている。
僕は怪訝そうに、首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「いえ。危うく、余計なことを口走るところでした。ここまでにしておきましょう」
「はぁ……」
すっと、先生が手を差し伸べてくる。
僕はつられる形で、先生の手を握り返した。細い体格からは予想できないほどの、力強さと熱のこもった手だ。
「私にできることは、たかが知れています」
「…………」
「でも、話を聞くことぐらいはできます。困ったことがあったら、いつでもどうぞ」
「はい、ありがとうございます」
僕は先生に負けないぐらいに、手に力を込めた。
去り際に一礼し、研究室を後にする。
エレベーターホールにはこのみくんが待っていた。両手を後ろに回して、つま先で床を叩いている。
「やぁ、お待たせ」
「うん。先生、何か言ってた?」
「卒論についてかな。なんか、褒められたっぽい」
「そうなんだ。いいなぁ」
言いつつ、エレベーターのスイッチを押す。
「私、先生から褒められたことってあんまりないかな」
「そうなの?」
「うん。先生って物腰は柔らかいんだけど、叩いて伸ばすってわけでもなければ、褒めて伸ばすってタイプでもないんだよね。なんていうか、独特。でも、同じ目線に立って色々とアドバイスしてくれてる」
「そうなんだ」
エレベーターに乗り、僕は多少落ち着かない気分で、宙を見上げていた。一階に着いたところで、先に降りたこのみくんが振り返る。
「ねぇ黒崎氏。これからどうするの? 帰る?」
「ああ、そうだね。もう予定はないし……」
「私もなんだ。じゃあ、駅まで一緒に行こっか?」
「いいね。あ、でも……」
「ん?」
「あ……いや、なんでもない。じゃあ、帰ろうか」
危うく、大丈夫なのかと言いかけるところだった。せっかくのチャンスなのに、ここで水を差してしまうことは避けたい。
それに――僕自身、まだまだ話したいことがあった。
「ちょっと図書館に野暮用があるから、ロビーで待っててくれる?」
「うん、わかった」
「先に帰ったりするなよ~?」
彼女特有のいたずらっぽい笑み。
僕は苦笑しつつ、肩をすくめる外なかった。
17.
太陽が沈みかけている。
吹き抜く風が身に染みる。
コートの前をきつく閉じて、その上から腕を組むようにして歩く。吐息はまだ白くなっていないが、それも時間の問題だろう。
このみくんはマフラーを何重も巻いて、ぶるりと肩を震わせた。
「寒いね」
「うん」
「もうすぐ冬なんだね」
「そうだね」
「冬が終わって春が来たら、私たちもう四年生なんだね」
「早いよね」
「ほんと、そうだよね。一年生の頃って時間は無尽蔵にあるように思えたのに、あっという間だったね」
「本当にその通りだ。四年間は長いなって思っていたのに」
「歳を取ったってことなのかな?」
「まだまだ、君は若いでしょ」
「あはは、そういう黒崎氏だって」
取り留めのない会話を交わしつつ、駅までの帰路を辿る。
こんな風に友達と肩を並べて帰ることなど、入学したての僕にはおおよそ想像もつかなかった。ましてや相手がこのみくんとなれば、なおさらだ。
「ねぇ、さっきの森先生とのことなんだけど」
「うん」
「ゼミに限ってなんだけど、先生って自分から動くわけじゃないよね。そこらへんが黒崎氏にとっては、不満なのかなぁって思った」
「不満、か」
「違う?」
「いや、半分は当たってると思う。確かに僕は先生にもっとリードして欲しいと思う時があった。話し合いが進まない時とか、特にね」
「うん」
「だけどそれは同時に、僕たちが不甲斐ないのを証明することにもつながる。学生主体のゼミだって最初から言われていたんだし、僕たちもそれを承知で入ったはずなんだ。後になって先生に『こうして欲しかった』と要求するのは、それは違うような気がする」
「……うん、私もそう思う」
「こんなはずじゃなかったって思ってるメンバーもいるのかもね。実際、二年生に上がってから別のゼミに行った人もいるし。自分で考えて自分で行動を起こしていくっていうやり方が合わない人は、少なからずいたと思う」
「そう言われれば、そうかもね。でも、それは今だから言えることなんじゃないかな」
「そう?」
「そうだよ。これこれこういう内容のゼミですって言われても、実際に受けてみるまではわからないことがたくさんあるじゃない? 何事も実践っていうか……森先生の場合は、その特徴がより顕著なのかも」
「確かに。実際にゼミでの活動が始まるまで、僕も学生主体という意味を完全に把握してはいなかった。頭ではわかっていたつもりだったんだけど、いざ実感すると、ね」
「それが面白いところでもあり、難しいところでもあるよね」
いやはや、と首を振る。
その反応がなんだかおかしかった。
ちょうど、光和橋に差しかかったところだ。ここからだと、駅前のスーパーの看板がよく見える。
ふと、空を見上げれば、ほんのわずかな光点がぽつりぽつりと灯っていた。光和橋の周辺には高い建物や強い明かりがないので、空が広く、星が見えやすい。
このみくんも、顔を上げていた。
同じものを見ているという、確かな感覚。
それは僕の胸を温かくしてくれた。
「ねぇ、黒崎氏」
「うん?」
「黒崎氏って、クールそうに見えるけども、案外そうでもないよね」
「藪から棒に、何を言うのさ」
「私が黒崎氏に対して、どう思ってるか。そろそろ言ってもいいかなぁって思ったの」
「…………」
このみくんは両手を腰の後ろに回し、僕を上目遣いで見た。
「私から見た黒崎氏はね、クールそうに見えて、実は熱い人」
「えー……?」
「ふふ。それでね、とっても頭のいい人。不器用で、臆病な人。人付き合いが苦手なんだけど、決して人が嫌いなわけではない」
「…………」
「当たってる?」
「……どうだろうね」
僕はわざと、そっぽを向いた。口元が緩んでいるのを自覚していたからだ。
彼女の言うことは、半分当たっていた。不器用で、臆病。人付き合いは確かに苦手なのだが、だからといって人が嫌いなわけではない。ただ、クールそうに見えて実は熱く、頭がいいというのは、異論の余地があるが。
このみくんは僕の様子をじっと見つめている。森先生とはまた違った意味で、落ち着かなくなる眼差しだ。
降参するしかなくて、僕は仕方なく吐息をついた。
「確かに、君の言う通りかもね」
「でしょ、でしょ?」
「でも、熱い人とか、頭がいいとか、そういうのは違う気がするな」
「じゃあ黒崎氏は、自分のことをどう思ってるの?」
言われて、言葉に窮した。
自分のことは自分が一番よくわかっている――はずなのに、いざ問い詰められるとわからなくなってしまう。自分のマイナス面だけならいくらでも挙げられるのだが、それを言ったところで、みっともないだけだ。
何より、このみくんはそんなことを望まないだろうから。
「ええっと、無口で……不器用で、不愛想」
「それは、表面的な事柄でしょ? 他のみんなが思ってることと、大体おんなじじゃないかな?」
「……読書が好きで、書道をたしなんでる」
「いや、それは趣味の話だよね?」
「……あとは、ええっと。自分のこと、か……」
うんうん唸ったところで、ひねり出せるはずもなかった。
愕然とした。僕は僕自身のことすら、何もわかっていない。なのに、あの時先生に噛みつこうとしたなんて、身の程知らずにも程がある。
体の奥が熱くなって、それなのに背筋が冷たい。
言葉に詰まった僕は、ぎこちなく首をこのみくんに向けた。真っ先に口をついて出た言葉は「ごめん」だった。
「なんで、謝るの?」
困ったように眉を寄せる。
そういえばこんな風に、彼女の顔を間近に見るのはほとんど初めてだ。まつ毛が長く、目がぱちりと開いている。遠目からだとわからないぐらい、薄い化粧。僕よりもひと回り背が低くて、華奢で、触れれば壊れてしまいそうなほど。
僕は彼女の何を見ていたのだろう。
そして僕は彼女の前で、どんな自分を演じていたのだろうか。
僕はつい、かぶりを振った。
「君にはっきりと聞かれるまで、僕は僕自身のことをわかっていなかったようだ。自分ではわきまえていたつもりだったんだけど……どうやら思い込みに過ぎなかったらしい」
「ふぅん。まぁ黒崎氏って、思い詰めやすいタイプに見えるしね」
「そう、かな」
「繊細なんだろうね。でも、あれこれ考えすぎない方がいいと思うよ」
「……それは、難しい話だね」
「そうかもね。でも、そこが黒崎氏のいいところなんじゃない?」
僕は再び、黙りこくった。
過去や自分の短所について思い巡らすことはあっても、未来や長所について真剣に向かい合うことは避けていた。
このみくんは――意図してかどうかは別として――それを指摘した。全くの自然体ではっきりと言うのだから、ますます肩身が狭くなる。
こうして欲しいと求めてくるのではなく、ただありのままを伝えてくれている。
短所も含めてそれでもいいんだと、肯定してくれている。
嬉しい話だ。
だからこそ、難しい。
だからこそ、悲しい。
僕のことをわかってくれている人にこそ、一番そばにいて欲しいのに。
「君にはいつも、驚かされるよ」
「なに、唐突に?」
「いや、本当に。初めて会った時からずっと、君には驚かされている。僕も君に負けないように励んできたつもりだけど、君と比べれば……」
「ストップ、ストップ、黒崎氏」
ぽん、ぽん、と肩を叩いてくる。
彼女の困り顔に、やや険がこもっていた。
「そうやって卑下するところは良くないよ、はっきり言って。それに、人と比べてもしょうがないでしょう? 私は私なんだし、君は君なんだから。一概にひとくくりにするのはまた違うんじゃないかな?」
「…………」
「黒崎氏は自分が思っているよりも、ずっとできる人だよ。ただ、自信がないだけ」
「自信、か……」
「そう。それがあればきっと、今よりももっと色んなことができる。どんなことがあっても、くじけないでいられる……きっとね。私が保証するよ」
ぐっと親指を立てる。
僕はしみじみと、「敵わないな」とつぶやいた。
「君には全く、敵わない」
「あはは、何それ? 私、黒崎氏のライバルみたいなものなの?」
「……そう、かもしれないね。ある意味では」
「ふーん……」
駅の明かりが目前となり、電車の通過音もより大きくなる。
このみくんの住まいは、確か僕とは反対側の方向だ。
それはつまり、この時間もあとわずかということ。
それがわかっていながら、僕は口を開けなかった。
このみくんも同様だった。
踏切の手前で右手に折れ、改札口を通り、プラットホームの中ほどで立ち止まる。
僕とこのみくんは向かい合った。彼女は力の抜けた笑みを浮かべていて、きっと僕も、似たような表情をしていたことだろう。
「ここで、さよならだね」
「うん」
「話せて良かった」
「僕もだ」
「いずれ、しっかり腰を据えて、もう一回お喋りしたいね。飲みに行くなりして」
「いいね、それ。でも、色々忙しいんでしょ?」
「まぁ、卒論とかあるしね。でも、それが終わったら一緒に行こうよ」
「サシで?」
「サシで」
にんまりと笑う。いつもの彼女だ。
アナウンスが鳴り、後方から二つの明かりがこちらに向かってくる。もう少し、ゆっくりでもいいのに――なんて、益体のないことを考えてしまった。
「あっという間だったね」
「うん」
電車が到着し、風が彼女の髪をなびかせる。
ドアが開き、乗客がぞろぞろと出てくる。
このみくんが電車に乗り込む。
僕を振り返り、「じゃ、またね」と手を振った。
僕も、手を振り返した。
ドアが閉まり、電車が発進する。彼女の目は、僕をずっと捉えている。僕も彼女を、その姿が見えなくなるまで、見送っていた。
風が一旦止んだ後――僕は吐息をついた。
それから反対側のホームに向かい、電車に乗り込み、ドアにもたれかかった。
今日のやり取りは、いつになく濃密だった。
好きだなぁ、とふと思った。
改めて考えるまでもないことだ。僕は彼女のことが好きだ。そして彼女は僕のことを、理解してくれている。
でも、その逆は?
彼女のことを、僕はどれだけ知っているだろう。表面的な事柄ばかり、見てはいなかっただろうか。あの時――ゼミの合宿の時に僕に向かって言った、「同類」という言葉が、ふと頭に浮かんだ。
あの言葉の真意を、はっきり理解しているかといえば、答えはノーだ。
彼女に聞いてみなくてはいけない。なぜ、僕と君が同類なのかを。なんとなくという言葉で、片づけてしまってはいけない。
僕はこのみくんのことを理解したい。彼女のことが知りたい。
君に誇れる、自分でいたい。
もっと言葉を交わす必要がある。彼女の言う通り、腰を据えて話し合う必要がある。
けど――その機会は卒業間近まで、訪れることがなかった。
18.
「どうかしましたか、黒崎くん」
先生の言葉に、はっと我に返る。どうやら物思いにふけていたらしい。
窓からの陽光が、研究室を明るく照らしている。コーヒーの香りもこの部屋の空気もそのままであるため、一瞬、自分が過去に戻ってしまったかのような錯覚に陥っていた。
「前園さんのことを思い出していましたか?」
「……ええ、そうです」
「彼女は今、何をしているんでしょうか?」
「……すみません、ちょっとわかりかねます。近頃はあまり連絡を取っていなかったので……でも、元気にしていると思います」
「そうですか」
丁重な手つきでコーヒーを飲み、先生は緩く息を吐いた。
「黒崎くん」
「はい」
「申し訳ありません。私は、君をいじめるつもりはなかったんです。ただ、今の君の気持ちを確認しておきたかった」
「……いえ、大丈夫です」
僕はカップの水面に映る、自分の姿を見つめていた。迷い、物思いにふける男の顔だ。未だに過去への未練を断ち切れず、未来への見通しが立っていない人間の顔だ。
それが不愉快なものに感じられて、僕はコーヒーを一気に飲み干してしまった。
先生はそんな僕に、注意深く眼差しを向けている。その視線を受け止め、僕は「それよりも」と語気を強めて言った。
「僕にはその、気になることがあるんです」
「なんでしょうか?」
「先生はなぜそこまで、僕や前園さんのことが気になるんですか?」
「……そうですね」
先生はマグカップをデスクに置き、緩く腕を組んだ。柔和な笑みがいつの間にか消え、口を結び、相手を射ぬかんばかりの輝きを目に宿している。
好奇心などで聞いているのではない、と僕は遅まきながら気づいた。
これは邪推なのですが、と先生は前置きした。
「君は未だに彼女の影を追っている気がしたからです」
「…………」
「それが悪いとは言いません。感情とは難しいものですから。私から言われて、はいそうですかと割り切ってこれからの人生を生きていくのも、それはそれで物足りないかもしれませんから。それに……そんな簡単に割り切ることができるのなら、君はここまで悩んではいないでしょう?」
「悩んでいるように、見えましたか?」
「ええ、少なからず。……私から見てですが、君の顔つきは以前とだいぶ変わりました。ただ、それでも、どこか影がある。何かを引きずっている人間の顔というものは、一見しただけでわかるものなのですよ」
「それはおそらく、先生だけだと思いますが」
「そうですね」
先生はあっさりと肯定した。
「妻からも注意されているんです。私の悪い癖ですね。職業柄、どうしても人の顔色を見ることに注意を向けてしまう」
「僕も、そうかもしれません。ただ……」
「ええ。君のそれと私とでは、根本的に質が異なります。君の方は――悪く言えば、人の顔色を窺っている。観察しているというよりは、警戒している」
「その通りです。これはもう、ほとんど性分ですね」
「前園さんはおそらく、そのことに気づいていたでしょう」
「ええ。彼女は聡明ですから」
自然に、口から出た言葉だった。
彼女は僕よりもはるかに賢い。人の感情を敏感に察知することも、その上で器用に立ち回ることもできる。
だが――それは思い込みに過ぎなかったことを、かつて僕は思い知ったはずだった。それでもなお、僕は彼女のことを高く評価している。
「聡明、ですか」
先生はつぶやき、二度うなずいた。
「確かに、彼女の成績は優秀でした。卒論も見事な内容でした。過去と向き合い、今を見つめ、未来を見通す……そんなことができる人は、ごく稀です。ただ、彼女にとってはそのような評価はあまり喜ばしいことではないでしょう」
「ええ。このみくんは別に人からの称賛を求めてはいませんでしたから。あくまでも、ついでだったと思います」
「では、君は前園さんが一番求めているものを承知だったのでしょうか?」
「……どうでしょう」
わかりません、と首を振った。
人が一番求めているものなんて、その人にしかわからない。推測することはできても、その推測が当たっているかどうかを本人に聞くのなんて、野暮だろう。
「でも、なんとなくはわかります」
「なるほど、なんとなくですか」
「抽象的ですみません」
「いえいえ。それでいいんだと思いますよ。人のことを理解していると臆面もなく言ってのけるよりはね。君はそういう面では慎ましいので、前園さんとも絶妙な距離を保っていられたのでしょう」
「距離……」
「人からしたら、きわどいバランスだったのかもしれません。一歩間違えれば、破綻を招きかねない関係だった……違いますか?」
「いえ、合っています。僕は、最後の一線を超えてしまわないように、気をつけていたつもりなんですが……それすらも、彼女には見抜かれていたかもしれません」
「前園さんは承知の上で、君との関係を築いていたと?」
「……そう、なりますね」
「なるほど……」
先生は両手を窓際につけて、沈痛な顔つきで息を吐いた。
「決して、楽な関係ではなかったでしょうね」
「そうですね、大変でした。自分の気持ちを抑えなくてはいけなかったというのもあるのですが、それ以上に彼女の期待に応えるのも。……でも、僕はそれが嫌ではなかったんです」
「ほう?」
「僕はずっと、前園さんのことを意識していました。彼女は僕のことを買いかぶっている節があって、でもそれが決して、不愉快ではなかったんです。彼女の思い描く僕の姿に少しでも近づけるように、精いっぱい背伸びをしていたところはありました。滑稽に思われるかもしれませんが……」
「いいえ、滑稽だとは思いません。むしろ、立派な行為だと思います」
「そうでしょうか?」
「ええ。先ほどの言葉を取り消します。君が未だに彼女の影を追っているだなんて、失礼な言い方でした。謝ります」
両膝に手をつけて、深く頭を下げる。
「やめて下さい」と言うのは簡単だったのだが、僕はあえて、先生の謝罪を受け止めた。先生がそうしたくてしているのなら、下手に拒むような真似をするのは、それこそ先生の顔に泥を塗る行為だ。
先生の目には――今の僕はどう映るのだろうか。
ようやく面を上げた先生に、「あの……」と尋ねてみる。
「これは先生に聞くべきことではないと思うのですが……僕がもし、未だに彼女の影を追っているのだとしたら、一体どうすればいいんでしょうか」
先生は首を横に振った。
それから、はっきりと断言した。
「その答えはわかりきっていますよ、黒崎くん。そして君が言った通り、それは私に聞くべきことではありません」
「……そう、ですか」
僕の声は沈んでいた。
先生の言葉にショックを受けたわけではない。
そうだよな、という諦念の混じった実感が口から出ただけということだ。
「……長くなってしまいましたね」
前と同じ位置にある壁の時計を見、先生が言った。
一拍遅れて気づき、「ああ……」とため息を漏らす。
「すみません。長々と付き合わせてしまいまして」
「いえいえ、いいのです。久しぶりに昔の教え子と有意義な会話を交わすことができて、私は楽しめました。……ただ、君の方はどうなのか、少々不安になりますが」
「いえ、こちらこそ楽しかった……いや、有意義な話ができて良かったです。やはり一人で考えると行き詰りやすくなりますから、こうして人と――先生と話せて、本当に良かったと思っています」
「そう言ってくれると、幸いです」
そこで先生はようやく、いつもの柔和な笑みに戻った。
先生なりに僕たちのことを気遣ってくれていたことがわかり、なんだか申し訳ないような――それでいてどこか後味の悪いものが、ほんの少し胸を刺す。
それはおそらく、ここまで深入りされたことに対する本能的な拒絶反応だろう。
相手が森先生であっても、例外ではなかったのだ。
そして僕が心の底から、本当に気を許せるのは――
「時に黒崎くん。君はこれからどうしますか?」
「ああ、はい。もう帰ろうかと思います。学祭の雰囲気は大体楽しんできたので」
「そうですか。……そうですね、私も楽しみました。おそらくこれが最後になると思いますのでね」
「そうでしたね。先生はこの大学を去るんでしたね」
「ええ」
「どんな気分ですか?」
「ふむ」と先生はあごを撫でた。
「名残惜しいというのはあります。ただ、悔いはないと思います。この場所でやるべきことも、やりたいことも、十分やり尽くしましたから」
「そうなんですか?」
「ええ。後々のことは、これからゆっくり考えていくつもりです。妻から体の心配もされていますし、長らくサボっていた分、家族サービスをしてやらないといけませんしね」
「先生が家族サービス、ですか?」
「意外ですか?」
「いえ、いいと思います。何もしないより、その方がはるかに」
「……そうですか」
先生の目にかすかな好奇心が浮かぶのを、僕は察した。だが、彼はこれ以上口を開くまいと、何気なく手で口を覆う仕草をした。
これ以上は深入りになると、自分でもわかっていたのかもしれない。
先生がかつてと同じように、自ら扉を開けて僕を促す。
そして、「黒崎くん」と呼びかけた。
「君は面白い人です。そのまま、今の君を大事にしてやって下さい」
「は、はぁ……」
「堅苦しく考えなくても大丈夫ですよ。一歩踏み出してみたら、案外簡単なことって実は意外と多いんです。ですが、一歩踏み出すまでが大変で、君もそれはわかっていると思います」
「……はい」
「無理に変わろうとしなくても、いいんですよ」
「はい、ありがとうございました」
一礼し、研究室から出る。
そのまま振り返ることなく、エレベーターホールへ。
ホールには大枠の窓があり、太陽が遠い町の果てに沈もうとしている。空に浮かぶ雲が色鮮やかに照らされていて――単純な感想だけど――絵になる光景だった。
でも、それだけだった。
エレベーターが来て、すぐに乗り込む。
一階に着くと、辺りには誰もいなかった。学バスはあるだろうかと思い、エントランスに足を踏み入れる。すぐ左手側にある警備室に、あくびをかましている警備員が一人いるだけだった。
いや――もう一人いた。
エントランスの柱の陰にいて、気づかなかっただけだった。
壁際に設置されている横長のソファーに、女性が腰かけている。どうやら小説を読んでいて、僕に気づいたらしく顔を上げる。すると口を「あ」の形にして、とっさに立ち上がった。
「一兎……!」
「伊織、さん……」
黒髪のショートカットに、すらりと伸びた長身。黒のジャケットに緩く首に巻いただけのネクタイ、ジーンズにスニーカーという組み合わせはどことなくボーイッシュで、昔の印象そのままだった。
総合文芸サークル〈つづり〉の先輩――山岸伊織さん。
今はスミス……もとい、澄川さんと結婚しているはずだ。左手の薬指にはきっちりと指輪がはめられているのを、僕は見逃さなかった。
「……久しぶり」
「はい……久しぶりです」
まるで不意打ちだった。こんなところで伊織さんに会ってしまうとは。
今さらどんな顔をして、話せばいいのだろうか。
伊織さんは神妙な顔つきで――それから、ずかずかと向かってきた。面食らった僕に構わず、ばし、と肩を叩いてくる。
「なーに、驚いた顔してるのっ」
「は、はぁ……」
「久しぶりなんだから、もっと嬉しそうな顔しなさいって。君が来るまで、ずっと待っていたんだから」
「僕を?」
「うん。……山ほど、話したいことあったから」
「…………」
「ちょっとだけ、付き合ってくれるよね?」
断れるはずもなかった。それに――良い機会でもあった。
僕たちは適当なテーブルを選び、向かい合うようにして座った。
19.
伊織さんに告白したのは、大学二年の――確か、春から夏へと移行していく狭間の時期だった。
ゼミの合宿から、一、二か月ほど前の出来事だろうか。
僕はその時は当然、伊織さんがスミスさんと付き合っていることは知っていた。知っていてなお、僕は恋焦がれる感情を抑えきれずにいた。
伊織さんの前では挙動不審になっていて、伊織さんもそのことを不思議に思っていたらしい。しきりに僕に「何かあった?」と聞いてはくれるけど、僕の感情には一ミリも気づいていなかった。
結論から言えば――僕の恋は玉砕に終わった。
部室の近く、サークル棟の階段で、僕は人生初めての告白をした。
伊織さんははっと目を見開いて、それから――たっぷり間を空けてから、「ごめんね」と言い放った。
気づいてあげられなくてごめん、とも。
その時の伊織さんの言葉に、僕は確かに、かすかな失望を覚えていた。
いいんです、と僕は言った。
そう言うのが精いっぱいだった。
それからはただの先輩と後輩に戻った――つもりだった。
「ほんとに、久しぶり。ええと、あたしが卒業して以来だから……もう六年だか、八年だかになるのかな」
「ええ、そのぐらいになりますね」
「一兎は今、どうしてるの?」
「なんの変哲もないサラリーマンですよ。そういう、伊織さんこそは?」
「あたし? うん、今はバーで働いてる。カクテルとか作ったりしてるよ」
「へぇ……」
「一人ひとりのお客さんの好みに合わせて作らないといけないから、そういう意味では大変かな。でもやりがいあるよ」
「いいですね。僕は今、総務部に配属されているんですが、これが色々と大変でして。資料作成から電球の交換まで、とにかく幅広くやっています」
「そうなんだ。変わったねぇ。昔は『サラリーマンなんてなりたくない』なんて、言っていたのに」
「昔の話ですよ」
苦笑を漏らすと、伊織さんはふふっと笑った。
僕はこの時まで、伊織さんと再会したらどんな話をするべきなのか、頭の中で何度も繰り返してきていた。
だけど今交わされている会話は、肩の力の抜けた、自然なものだった。
言いたいことは山ほどある。尋ねたいことも。けれど、それは伊織さんも同じはずで、お互いに、手札を晒すタイミングを窺っている。多少のじれったさを覚えつつも、今はとにかく合わせるしかなかった。
「ええと、スミスさんはどうしていますか?」
「ああ、スミスね。今日はお仕事。学祭に来れなくて、とっても残念そうだったよ」
「ええ、僕も残念です。スミスさんとも最近はご無沙汰ですから」
「トミーには会った?」
「旦那ですか? はい、会いました。伊織さんやスミスさんのことも、少しだけ。でも詳しくは本人に聞いてくれと」
「ああ、そっか。まぁ、そんなもんだよね……」
テーブルに両肘を立てて、緩く手を重ねる。照明が当たって、指輪がきらりと輝いている。無論、それは無意識にやった行為だろう。
伊織さんはそういう計算ができる人ではないし――だからこそ、時たま苛立たしい気持ちにもなった。
僕の視線に気づいたのだろう――伊織さんは左手を見下ろし、「これが気になる?」とひらひらと振った。
「トミーから聞いてると思うんだけど、あたし、スミスと結婚したんだ」
「はい、聞いています。おめでとうございます」
「ありがと。……一兎は今、付き合ってる人とかいないの?」
「残念ながら。未だに独身ですよ」
「一兎、モテそうなのに。でも、性格がめんどくさいから、しょうがないのかな」
僕は二度目の苦笑をした。
こういう、率直な物言いは相変わらずだ。
「あ、ごめん。今のは失礼だったね」
「いえいえ、事実ですから。それに……」
「それに、何?」
僕は続く言葉を口に出すべきか、少し迷った。
僕の逡巡を見て取った伊織さんは、「ん?」と首を傾げてみせる。昔と変わらない仕草に、危うく心が揺れそうになる。
僕は半ば諦め、半ば意を決して――心もち、息を抜いた。
「伊織さん……いや、伊織さんだけじゃないか。スミスさんにも旦那にも、迷惑をかけてしまいました。今だから言えることなのですが、当時の僕は先輩たちからしたら、相当手を焼かされたことでしょうから」
「うん、まぁね」
あっさりと肯定されてしまった。
「一兎はさ、一見すると物静かで、あんまり手のかからない子供っぽく思えたんだけど、実はそうじゃないんだよね。心の中で、色んな葛藤を抱えてる。だから――だから、あたしも含めてなんだけどみんな、そんな一兎にびっくりしてしまったんだと思う。あの時一兎がどんな気持ちでいたのか、誰にもわからなかったんだと思う」
「…………」
「一兎が告白してくれた時、あたし本当に嬉しかった。でも、その後が大変だった。君との関係がギクシャクして、スミスもトミーもそのことは知っていて、お互いに普通に振る舞おうとしていたつもりだったんだけど、やっぱり隠し切れなかったよね」
「はい」
「子供だったよね。あたしも、君も」
「……はい」
「恨んでる?」
僕はその言葉に面食らった。だけどすぐに落ち着きを取り戻し、「恨んでるわけ、ないじゃないですか」と言い返す。
「なぜ、そんなことを言うんですか」
「あたし、一兎の気持ちに全然気づいてなかったから。あたしとしては告白されて、君をフって、いつも通りの関係に戻ったつもりでいたんだけど……実際はそうじゃなかったから。一兎の気持ちがわからなくて、スミスとかに相談もしたんだけど、一兎にはそういう人っていなかったのかなって」
「…………」
「あの時、人の気持ちがわかってないって君に言われた時、すごく傷ついた。そんであたしも、君を傷つけた。今だから言えることなんだけれど……あたしは君のことを、相当恨んでいたよ」
「そう、ですか」
「告白なんかしてこなければよかったのに、って思った。先輩と後輩のままでいられたらどれだけ楽だったかって。けど、それはあたしの独りよがりなんだよね」
スミスにも怒られちゃった、と小さく舌を出す。
伊織さんは僕から少し距離を取るようにして、椅子に背を預けた。まっすぐに見つめてくるところは、昔と変わらない。その目がどれだけ僕を捉えて離さなかったか、おそらく伊織さんにはわからないだろう。
僕は伊織さんの目に惹かれていた。人の目をまっすぐ射抜いてくるその目が、時には恐ろしくて、それでいて離れがたかった。深く、黒く輝く瞳が僕を捉え、僕自身の姿が映っている。いたたまれなくて、顔を伏せてしまうこともしょっちゅうだった。
そんな僕を伊織さんは毎回不思議そうに、首を傾げていたものだ。
だけど、今は――
「繰り返しますけど、恨んでなんかいませんよ」
「本当?」
「そりゃあ、一時期は恨みたい気持ちもありました。でも、それこそ僕の独りよがりでしかありません。告白したことを後悔してはいませんが……あなたにひどいことを言ったことは、よく覚えています」
「…………」
「謝ろうとしたけれど、あなたは取り合ってくれなかった。僕から逃げるようにして、顔も合わしてくれなかった。そんなあなたを恨みそうになったことは、確かにあります。でも……もう昔のことですから。それこそ、本当に今さらです」
「今さら、か」
「どんな言葉を取り繕ったことで、あなたを傷つけた事実は変わらない。そして、あなたが僕を傷つけた事実も。お互い様なんだと思うんです。これも、今だから言えることなのかもしれませんが」
「……そう、だよね」
天井を仰ぎ、ふぅーと息をつく。
伊織さんは、僕の目を見据えてきた。
僕も見つめ返す。
今、伊織さんの目には僕の姿が映っていて、だけどそれで逃げ出したくなる衝動は、もう芽生えてこなかった。
「変わったね、一兎」
「そうですか?」
「うん。なんだか、大人になった気がする」
「はは……そう見えますか」
「うん。あたしは全然駄目だな。いつまで経っても子供のままなのかも。仕事したり、スミスと結婚したりして、自分では変わったつもりでいたんだけど、君を前にするとなんだか、自分がちっとも成長していないように思えてくる」
「……気のせいですよ」
「ううん、気のせいなんかじゃないよ」
悲しげに、首を振る。
「君に言われるまで、あたしは君のことをなんも気にかけてなかったから。自分のことだけで精いっぱいだったから。あたしにはスミスがいたからまだマシだったのかもしれないけれど、君はそうじゃなかったんでしょう?」
「…………」
「だから、トミーとかに相談してたんでしょ?」
「そう、ですね」
「色んなところに飛び火しちゃって、そこであたしもようやく、事の重大さがわかってきたんだ。その時にはもうほとんど手遅れだった」
「ええ。僕もあなたも、お互いに歩み寄ろうとはしていなかった」
「元はといえば、あたしが悪いのにね」
「いえ……僕の方こそ」
お互いにうつむく。
次に伊織さんが口を開くまで、数十秒はかかった。
「あたしね、一兎に会ったら、ちゃんと聞きたいことがあったんだ」
「なんでしょうか?」
「一兎は……あの時、ちゃんと相談できる人っていたの?」
不安げに僕の目を、覗き込んでくる。
普段は大人っぽく振る舞っているくせに、こういう時は子供っぽい。
そのギャップが魅力的だった――けど、それも昔の話だ。
「いませんでした」
僕は小さく首を振った。
「あなたでいうスミスさんみたいな人は、僕の周りにはいなかった」
「……辛かった?」
「ええ。そりゃもう」
「……そっか」
テーブルの上で組まれた伊織さんの手が、小さく震えた。
僕は伊織さんが何を言おうとしているのかを、察した。
「一兎、あたしね――」
「謝ってくれなくても、いいんです」
はっと目を大きく見開く。
僕は今までこんな風に、人にやり返したことがなかった。それが少しだけ愉快で――そう思う自分が、悲しかった。
「本当に……もう、今さらですから」
「……そっか」
「その代わり、僕も謝りません。水に流せとも言いません。一人だけ楽になるつもりはありませんから」
「……そう」
「でも、唯一謝ることがあるのだとしたら……」
「なに?」
「こんな後輩で申し訳ありませんでした、ってことでしょうか」
伊織さんは目をしばたたかせ――それから顔を見られまいとするように、顔を背けた。
肩を震わせ、しばらく経ってから、「ばか」と呟いた。
「本当に、ばかだね、君は……」
「ええ、愚かでした」
「でも、本当にばかなのは……」
続く声は、言葉にならなかった。
僕は別段、促そうともしなかった。目の前にいるこの人はか弱く、誰かが守ってやらないと、すぐに壊れてしまいそうに見えた。
スミスさんがいてくれたことで、この人は自分を保っていられたのだ。
僕はどうなのだろう。
伊織さんから見た僕は、どんな人間なのだろうと、ふと思った。
けど、それを確かめるつもりはもうなかった。
エントランスから外に出ると、肌寒い風が頬をなぶった。
僕は伊織さんの顔を、あえて見ない素振りをしていた。おそらく伊織さんは今、目元を赤くしているだろうから。
A棟の入り口付近で、二人とも、立ち尽くしている。
やがて伊織さんが、口を開いた。
「一兎、あたしね、妊娠したんだ」
「そうなんですか? それは、おめでとうございます」
「ありがと。……もう、タバコは吸えないんだよね」
「そりゃ、そうですよ」
お互いに、短い笑い声を立てる。
それから伊織さんは、はぁっと息を吐き出した。
何か吹っ切れたような表情だった。
「これからはもっと忙しくなると思うから、もうここには来れないんだ」
「そうでしょうね」
「一兎。……君はこれからどうするの?」
今日のことを尋ねているのか、それとも今後のことを尋ねているのか――おそらく、後者だろう。
僕は「さぁ……」と肩をすくめてみせた。
「何も決めていません。ただ、思い残すことはないので、僕も……おそらくですが、ここにはもう来ないと思います」
「そっか。……寂しいね」
「ええ。でも、生きていればいつでも会えますので」
「あはは、何それ」
ひとしきり笑った後で、「ねぇ、一兎」
「なんでしょうか」
「君ね、あたしの他にも好きな人いたでしょ?」
「…………」
「君はあたしじゃなくて、他の人のことをずっと想っていた。でも、それを振り切ろうとしていた。女ってね、そういうことにはとても鋭いものなのよ」
得意げに、指を立てる。
僕は真面目くさった顔つきで、「なるほど」
「肝に銘じておきます」
「そうしてね。……ねぇ、一兎」
「はい」
「君も、幸せになれるよう、頑張りなさいよ」
僕は一瞬だけ息を呑んだ。
それから肩の力を抜いて――口を笑みの形に作った。「善処します」と言うと、伊織さんは「んんー」としかめ面を作った。
二人とも、お互いに向き合っていた。
でも、見ているものはまるで違っていた。
「それじゃあね、一兎。元気でね」
「はい、伊織さんもお元気で」
じゃあね、と伊織さんは僕に背を向けた。
そのまま坂を下っていくのを見送ることはせず、僕もその場で足の向きを変えた。
別に、当てがあったわけではない。
ただ、タバコが吸いたくなっただけだ。
間宮と遭遇した場所へ向かう。この時間ならもう、彼はとっくに帰っていることだろうから。
構内から離れた場所なので、人影はまばらだった。昼間の喧騒も、昼間と比べて落ち着いている。ただ、学生にとっては夜からが本番のはずなので、この静寂も一時のものだろう。
再び、古びた体育館の脇の喫煙所にて、僕は適当なベンチに腰かけた。
もう人の姿は見当たらない。
心おきなく吸えると見て、僕は紙巻きタバコを取り出し、火を点けた。
たっぷりと吸い込み、たっぷりと吐き出す。
二度三度それを行ってから、口からタバコを離した。
やるべきことは済ませた。
会うべき人にも会った。
だけど、このやりきれなさはなんだろうか。
目的らしい目的があって、母校に訪れたわけではない。このみくん――彼女に会えるとか、そういう期待も持っていなかった。〈つづり〉の現役の後輩たちとはほとんど面識がないから、盛り上がるはずもない。
森先生と話した時もそうだ。自分の気持ちを見直すきっかけを得られたとはいえ、劇的な変化が訪れるはずもない。いくら自分の過去に踏ん切りをつけられたとしても、これからの見通しが立たなければ、今途方に暮れるだけだ。
途方に暮れている。
正に、僕は今、そういう状態なのだろう。
みんな、着実に人生のステップを踏んでいっている。結婚だったり、出産だったり、あるいは仕事だったり。
少しずつ、でも確実に変わっていっている。
僕だけが変わらない。
僕だけ、取り残されたままだ。
だからここに来てしまったのだろう。いくつになっても僕は、まだ何かを置き忘れたような感覚に陥っている。どこにも心置きはないはずなのに。
来るのではなかった。
やはり、僕のいるべき場所は、もうここではない。
いつの間にかフィルターいっぱいまで吸い終えて、唇が熱くなりかける。とっさにタバコを口から離して、火をもみ消した。すると段々、風が身に染みてくる。体温が下がってゆく。
どこにもなかった。
どこにもいなかった。
そんな当たり前の事実を直視するために、わざわざここまで来たのだろうか。
「……はぁ」
ため息をつくと、ますます自分が惨めになった。
もう夜が近づいている。
なのに、僕はその場でじっと座ったままだ。
ふと、右手側――少し離れたところにある、パレストラを視野に捉えた。あそこでは毎年、卒業生の祝賀会を行っている。きっと来年も同じようにやるのだろう。スーツ、あるいは振袖に身を包んだ学生が入り乱れて、しきりに記念写真を撮り合う。
僕はスマホを取り出し、画像ファイルを開いた。
卒業式の時に撮った写真は、今もあった。友達、ゼミのメンバー、もしくは森先生とのツーショット。
そして――このみくんと並んで撮った写真。
このみくんは笑顔でピースサインを決めているが、僕は微妙にはにかんでいて、どうにも様になっていない。こうして二人で並んでいるのを見ると、いかにも不釣り合いに思えてならなかった。
実は、彼女と二人で写真を撮ったのは、これが最初で最後だった。
かつて――卒業式を一週間後に控えた僕たちは、初めて二人で飲みに行った。これが最後のチャンスになるかもしれない、と僕は覚悟を決めていたものだ。
だけどその覚悟は、もしかしたらという期待から来る、生温いものでしかなかった。
そして――僕はようやくあの場で、前園このみという人間を、改めて知ることとなったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます