「大学二年」
10.
僕は焦っていた。
大急ぎで電車に飛び込むや、スマホで路線情報を確認する。わかっていたことだが、大幅に集合時間を過ぎてしまっている。
やってしまった。
まさか、「青海」と「青梅」とを間違えてしまうなんて。ゼミで説明されていたはずなのに、どうやら聞き漏らしてしまったらしい。配布された資料の字面を見て、「青海」に行けばいいんだなと思い込んでいた。
青海行きのモノレールに乗りかけた時、違和感に気づいた。自然あふれる豊かな場所で合宿を行うとのことだったから、未だにコンクリートのビルしか見えないことに、僕は首を傾げ――資料を見て、ようやく己の過ちに気づいた。
とっさに引き返して、何度も乗り換えして、早く着いてくれと、ただただ祈ることしかできなかった。発表のためのレジュメを読み返すゆとりなど、あろうはずもない。
既に森先生、そして前園このみへの連絡は済んでいた。森先生からは、「焦ってもいいことありませんから、ゆったりと構えて来て下さい。道中、くれぐれも気をつけて」とありがたいお言葉を賜った。
彼女からも大体、同じような内容だった。ただ、「やっちゃったねぇ(笑)」という一文があり、途方に暮れる。二人とも責めるどころか、慰めるような言い方だったので、余計に辛い。何をやってんだ僕は、と衝動に任せて怒鳴りたい気分だったが――車内なので、慎むしかない。
夏も中盤に入った時期だから、どっと汗が噴き出している。背中もぐっしょり濡れていて、とても気持ちが悪い。それなのに、体の奥がどんどん冷え込んでいく。今の僕はすっかり、青ざめていることだろう。
やってしまった。
何度も繰り返した言葉を口内でつぶやき、僕はがくりと頭を落とした。
ようやく「青梅」に着いたが、足取りは重かった。キャリーケースを引く感触が、やたらと大きく響く。
改札口の先には、大泉くんがいた。手には雑誌を持っていて、どうやら僕が来るのを待ち受けていたようだ。僕を見るなり彼は、にっと親指を突き出してみせた。怒っているわけでも、呆れているわけでもない。
だからといって、気持ちが楽になるというわけではなかったけど。
「……ごめん」
顔を背けるように、僕は言った。
「気にするなって。誰にでも、そういう失敗はあるからさ」
わざと強めに、僕の肩を叩いてみせる。
大泉くんはゼミの中では比較的、話しかけやすいキャラクターの持ち主だった。彼も当初は他のゼミのメンバーと同じように、僕に対してどこか遠慮があったように思えたのだが、どうも今日の彼は調子が違う。
なんというか、フラットに接してくれている感じがする。
それは多分、僕が大ポカをやらかしてしまったことと、無関係ではない。
大泉くんの先導で、民宿に向かうことにした。駅から出ると、辺り一面が緑に覆われている。その中に小さなお店や民家が埋まっているという具合だ。目と鼻の先に山がそびえ立っていて、都会っ子である僕としては驚くと同時に、新鮮でもあった。
標高の高い橋を渡りつつ、大泉くんが僕を振り返る。
「黒崎さぁ、そんな落ち込むことないって」
「……そうかな」
「お前って普段はクールなのに、時おり抜けたことやるよなぁ」
「ほんとに、そうだね……」
そう言われて、去年のことを思い出した。個々のゼミによる合同発表会があって、そこでも僕は、マイクのスイッチを入れるのを忘れたまま、危うく発表を進めるところだったのだ。あの時、大泉くんが教えてくれなかったらと思うと、ゾッとする。
大泉くんの言う通り、僕はどこか抜けている。
だけど彼は、「別にいいんじゃないか」と励ましてくれた。
「そういうのってギャップがあっていいと思うぜ」
「ギャップ、ねぇ……」
褒められているのだろうが、あまり嬉しくはない。
けれど、大泉くんが精いっぱい気を遣ってくれているのはわかったので、僕は素直に「ありがとう」と告げた。
「わざわざ迎えに来てくれるとは思わなかったよ」
「まぁ、うん。このみちゃんも行くって言ってたんだけど、ほれ、発表の準備とか色々あるだろ? だから、たまたま手の空いていた俺が行くってことにしたんだ。それに……」
「それに?」
「おっと、鳥が飛んでるぞ! 黒崎、あれ、なんだかわかるか?」
「え、いや……鳥とかにはあんまり詳しくないから」
思いっきり話をそらされた。何を言おうとしていたのだろう。
もしかしたら――彼はこう言いたかったのかもしれない。
「このみちゃんにカッコ悪いとこ見られたくないだろ?」と。
もちろんそれは推測でしかない。たまたま手が空いていたというが、方便という可能性もある。
大泉くんはこういう人だったんだな、とようやく気づいた。
一年以上も同じゼミで学んでいたはずなのに、こうして彼と話す機会は、今の今までほとんどなかった。
一体僕は、何をしていたんだろう。
もっと早く、話をすれば良かった。
駅から歩いて十分ほどで、民宿に着いた。三階建ての年季の入った建物で、一階部分がまるまる駐車場となっている。受付は二階にあるとのことで、階段に足を載せると軋んだ音を立てた。
三和土で靴を脱いでいる間、大泉くんに尋ねてみる。
「ねぇ、みんなはもう発表に入ってるの?」
「あー、そうだな。といってもまだ始まったばかりだから、そんな気にしなくてもいいと思うぞ。トリはお前で、このみちゃんはその前」
「あ、そうなんだ」
「実はこのみちゃんとちょっとだけ話したんだけど、だいぶ気合入ってたな。資料集めとか、先生と相談とかほとんど毎日やってたろ? よくやるなぁってみんなで感心してたもんだ。俺も見習いたいけど、あそこまではさすがに無理だ」
「そうだね……僕もだ」
「去年の発表の時も、他のゼミの先生からも褒められてたしな。ああいうのが秀才っていうのかね。どうしてあそこまでやれるんだろうなぁ」
「何か知らない?」と聞いてくる。
「ううん」と僕は首を横に振った。「真面目だからじゃない?」と言ってみたが、自分でも納得はできなかった。
「それだけかなぁ。どうも、違う気がするんだ」
「うん。もっと何か、あるんだろうね」
「何も知らないのか? 俺はてっきり……」
「てっきり、何?」
「……いや、悪い。なんでもない。もうみんな待ってるし、さっさと行こうぜ」
カモン、と大げさに手を振ってくる。
僕は慌てて靴を揃えて、大泉くんの後を追いかけた。
板張りの廊下の先のふすまを開けて、大泉くんがうやうやしい手つきで、先を促してくれた。
横長の和室に足を踏み入れると、一斉にみんなからの注目を浴びた。どこか驚いたような――それでいて、なんともいえない微妙な笑みを浮かべたりしている。僕の失敗を笑った方がいいのか、あるいは同情した方がいいのか、判断がつけられないと見た。
「やぁ、やっと来ましたか」と鷹揚に声をかけたのは、もちろん森先生だ。
僕は深く深く、頭を下げる。
「本当に、申し訳ありません。大幅に遅れてしまいまして……」
「いえ、大丈夫です。まだ始まったばかりですし。ただ、クジの都合で君の発表は最後になっていますが、大丈夫でしょうか?」
「はい、ご心配おかけしました。みんなも、本当にごめん」
ゼミのメンバーにも、頭を下げる。「いいよー」と声をかけてくれたり、大泉くんが「気にするなって」と背中を叩いてくれたりしたので、少なからず安堵した。
この時初めて――なんだか、このゼミの一員になれたような気がしたというのは、大げさかもしれない。
「さ、適当に座って下さい」
先生が空いている席の方へ促す。
僕がうなずきかけたところで、先生の一番近くの席に座る前園このみと目が合った。彼女はにやにやと笑っている。その様子はさながら、不思議の国のアリスのチェシャ猫だ。今回僕がやらかしてしまったことを、いつまでも酒の肴に持っていこう――と企んでいるのが、ありありとわかった。
席についたところで、「さて」と先生がメンバー全員を見回した。
「みなさん揃ったところなので、続きを再開しましょう。次は、田岡くんでしたね。お願いできますか?」
「はい、わかりました」
田岡くんが自らの発表に取りかかる中、僕はリュックサックから発表用のレジュメを取り出した。全員分あることを確認し、ほっと胸をなで下ろす。さすがにここまできて、そんな失敗は許されない。
さて――この場で発表するのは、『自分が生涯をかけて取り組みたいこと』だ。
起案者は森先生ではなく、ゼミのメンバーからだった。他にもいくつか案はあったのだが、最終的に多数決で決まった。無理に心理学に結びつけるのではなく、自分が思いついたことで、そこからどんな風に発展させていくのかという点に、先生はいたく興味を抱いているようだった。
生涯をかけて取り組みたいこと。
シンプルではあるが、自分のこれまでと現在と、そしてこれからを見据えなくては到底取り組めないテーマだ。
まず、取り組みたいことを思い浮かべてみる。
すると、疑問が浮かんでくる。
なぜ、この内容で取り組みたいと思ったか。
それは自分の今までの経験、あるいは環境、もしくは人間関係とどのような関係にあるのか。
追求していくために、どのような段階を踏んでいくことが重要と考えるか。
そういったことを模索した上で、発表していかなくてはならない。だからなのか、みんなどこか慎重だ。自分の過去、現在、未来をつまびらかに披露していくのだから、当然ともいえる。
発表はつつがなく、進行した。途中で何度か先生から、あるいはメンバーから質問が飛び交い、徐々に場が温まっていく。誰もが発言しやすい雰囲気になり、僕も、簡素ではあるけれど、疑問に思ったことを口に出したりした。
僕が到着してから一時間ほど経って、前園このみの番となった。
ようやく、彼女の発表が始まる。
それは僕の番が近づいているという意味でもあったが、緊張するよりも、彼女がどんなことを語るのか、その内容にひどく興味を惹かれていた。
「では、前園さん。お願いします」
「はい、わかりました」
彼女は立ち上がり、全員にレジュメを配る。
発表に臨む彼女の横顔は、今までの誰よりも、凛々しかった。
「それでは私の、生涯をかけて取り組みたいことを発表したいと思います。『幼少期における経験による自我の発達からくる、青年期との結びつきについて』です。ちょっと長くなってしまいましたけども……まず、説明致します。
幼少期ですが……大体、三歳から五歳辺りを想定しています。この時期は自我の発達や言語の獲得、身体機能の向上などが目覚ましい時期です。意思の発露もしやすくなり、人間関係も広がり、衝突もあれば友和もあります。この時期に経験した出来事は、これからの成長――特に青年期において、大きなファクターを占めていると私は考えています。
みなさん、幼い頃に観たテレビ番組とか、覚えていますか? ヒーローものやアニメとか、そんな感じのものです。大きくなっても、そういったものにハマっていた記憶は誰にでもあります。誰々とケンカしたとか、仲良くなったとか、そういうことも覚えているはずです。
幼少期の経験は、大人になっても引き継がれています。親や誰かに愛されたというプラスの経験は、自己の確立に大いに役に立ちます。自分は愛されているという感覚があることで、自信を持てるようになりますが……反対にマイナスの経験――親に叱られた、あるいは愛されなかったという出来事をそのまま引きずってしまうこともあり、そのせいで自信が持てない人もいます。少し言い換えると、幼少期のトラウマがそのまま、のちの人間形成に大きく関わっていると、私は考えています。
青年期と結びつけたのには、理由があります。
もう古いかもしれませんが、アダルトチルドレンという言葉を知っていますか? 平たく言ってしまうと、大人になっても気持ちは子供のまま、という人を指します。自分に自信が持てなかったり、そのせいで人間関係に支障をきたしたり……その要因を探っていくと多くの場合、幼少期での経験に根差していることが散見されます。
例えば、虐待を受けたなど……。
といっても、虐待を受けた人が必ずしも、アダルトチルドレンになるとは限りません。ただ、大人になるにつれ……いえ、大人になってしまう過程で、その経験が無視できないものとなります。
幼少期と青年期とを結びつけたのは、そのためです。自分の受けた痛みや傷を、自覚せずにはいられないのです。そして自分と、他人とを比較せずにはいられなくなる。社会に入ること、大人になること、人と違うことを何よりも強く意識してしまう青年期であるからこそ、幼少期での経験が人生において強烈に響くのです。
何も知らない、無垢で純粋で、一番物事を吸収しやすい幼少期だからこそ、その経験が青年期において活きてきます。大人になってからでも、それは変わりません。幼少期での経験を、青年期においてどう見るかによって、その後の人生が大きく変わるといっても、過言ではありません。
以上が私の、生涯をかけて取り組みたいことです。
長くなりましたが、一旦、私の発表はこれで締めくくりたいと思います。ご清聴ありがとうございました」
言い終えたのち、丁重にお辞儀する。
静まり返った場の中、一拍遅れて拍手が起こった。真っ先に手を叩いていたのは僕だということに気づいた時、森先生も他のメンバーも、それに続いた。
一瞬、彼女と目が合った。
重大なことを打ち明け、それを人に受け入れてもらえるかどうか――不安と、恐怖に揺れる人の目だった。
こんな彼女は、初めて見た。
拍手が鳴り止んだ後で、森先生が「良い課題ですね」とうなずく。
前園このみはスイッチが切り替わったように、ぱぁっと顔を輝かせた。
「お褒め頂き、光栄ですっ」
「幼少期と限定するのは、最初はどうだろうと思いましたが……なかなかどうして。児童期をテーマに含めなかったのはおそらく、周囲とのコミュニケーションや摩擦、環境の変動が最も激しい時期だからですか?」
「そうですね。非常に多くの要素があって、何かと不安定になりやすい時期であると思っているので、あえて幼少期に限定したんです」
先生は「ふぅむ」とあごを撫でた。
「なるほど、実に興味深いですね。ではみなさん、前園さんに何か質問はありますか?」
はい、はい、と手が挙がる。
メンバーからの質問にも、彼女は流暢に答えてみせた。先ほどの表情は気のせいだったのだろうかと思うぐらいに。
僕の目からは、前園このみの発表は成功を収めたように見えた。
けれど彼女にとっては、こんなものは序の口でしかなかった。
僕たちがこの日、この場でやったことといえば、ゼミで出されたテーマを元に、自分なりの考えを発表しただけなのである。そこで成功を収めたかどうかなんて、彼女にとっては大した問題ではなかったのだろう。
前園このみが、自分自身の生涯をかけて取り組みたいこと。
その意味と重さをこの時の僕はまだ、一片も理解できていなかった。
11.
結果からいえば、最後の僕の発表はまずまずの形に落ち着いた。
前園このみの発表のおかげでハードルが際限なく高くなってしまったため、僕がどんな風に足掻いたところで、乗り越えられるはずはなかった。そのことは僕自身も含めて、誰もが承知していたことだろう。
事実、大泉くんに、「ありゃあ敵わんな」と慰めの言葉をかけられた。彼のみならず、他のメンバー(主に男子)からも。
「お前じゃなくて、このみちゃんをトリにした方が良かったって思うわ」
「同感」
「ほんとになぁ」
「はは……僕もそう思うよ」
僕たちは一直線に並んで、肩までお湯に浸かっていた。
発表の後は自由時間だったのだが、大泉くんに誘われ、お風呂に入ることにしたのだ。裸の付き合いをすれば仲良くなれるなんて俗説があるけど、こうやって実際に経験してみると、案外当たっているのかもしれない。
僕の隣、大泉くんは背筋をそらせ、「あー……」と声を漏らした。頭をぐるんぐるんと回して、肩をもみほぐしている。
「それにしても、発表ってなんであんなに疲れるんだろうな。変なところに力が入ったりしねぇ?」
「わかるわかる」
「先生がいると、余計にな」
「僕も、ずっと緊張しっぱなしだったよ」
苦笑しつつ言うと、大泉くん含め、男子三人が怪訝な顔をしていた。
「そうか? いつも通りの仏頂面で、淡々とやってた感じなんだが」
「そう見える?」
「そうそう。とても、『青海』と『青梅』を間違えたような奴には見えなかった」
「それを言うなって」
軽く肘で小突く。
ぐえー、と体をくの字に曲げて、大泉くんは愉快そうに笑った。
「さぁーて、そろそろ出ようぜ。腹も減ったことだしな!」
「バーベキューの買い出し、終わったかな?」
「多分な」
「バーベキューかぁ。やるのは小学校以来かも」
すると三人は一斉に僕の方を見て――それから、ひそひそとささやき合った。どうも僕が何かを言う度に、かわいそうなものを見る目になるのは気のせいだろうか。
適当に着替えを済ませ、浴場から出る。
するとタイミングを計ったかのように、女子も出てきた。僕たちと同じ四人組で、中には前園このみもいる。髪がしっとりと濡れていて、頬も上気しているが――何より目を引くのは、彼女の足だ。
ここで、謝っておかなくてはならないことがある。
僕たち男子組は女子四人組を、ほとんど無意識に見比べていた。何を、というのは言わずもがなだろう。Tシャツにホットパンツというラフな服装の前園このみを前に、僕たちはぐっと息を呑んでいた。その気配を、女子組も感じ取ったことだろう。
この、微妙な気まずさ――それを打ち破るのに一番適していたのは、やはり大泉くんだった。
「おー、女子―ズも今、お風呂上りで?」
「見ればわかるっしょー」
「男子、あんまりジロジロ見ないでよね」
タオルで体を隠したりしているが、残念ながら誰も見ていない。男子組の意識は完全に、前園このみだけに向けられている。
非常に酷な話である。
しかし――あえて自己弁護させて頂くとすれば、こればかりはタイミングが悪かったと言うしかないのだ。鉢合わせにならなければ、このような事態に陥ることはなかった。更に言うならば、彼女の服装も問題なのである。もっと露出の少ない格好にしておけば――いや、夏だからしょうがないのだが――とにかく、彼女がもっと自分の外見に自覚的でいれば、僕たち男子からの好奇の視線を向けられることは、なかったのである。多分、としか言いようがないが。
ひとまず、立ち話もそこそこに、女子組は去っていった。
僕たち男子組は別に何をするでもなく、その場でぼんやりと立ち尽くし――やがて、誰かがぽつりと言った。
「やべぇな」
「ああ、あれはやばい」
「理性が吹っ飛ぶわ、あんなもん。俺、彼女いるのに」
「大泉くん、彼女いたんだね……」
ぼそりと僕が言ったが、もちろん誰も聞いちゃいない。
それほどまでに彼女の足は細く白く、滑らかで、優雅な曲線を有していた。
僕はこの時、顔も名前も知らない前園このみの彼氏を、はじめて憎んだ。これでもかというぐらいに、憎んだ。
ただ、その感情はほとんど羨望に近かったけれど。
バーベキューは民宿から徒歩五分の、キャンプ場で行われた。
屋根と流し台のあるところで、トングや金網などの必要な道具も借りることができるので、材料さえあればすぐにでも始められる。
四方を山に囲まれており、夕方から夜に差しかかるタイミングであったため、風が心地よい。近くには川原もあり、足を水につけてはしゃいでいるメンバーもいる。大泉くんが率先して思いきり川原に飛び込み、足を取られて危うく流されそうになったのは、なかなかの笑い話だった。
僕は調理班に任命されていた。
といっても野菜や肉を切って、串に突き刺すだけだ。料理というには、少々物足りなくは感じられる。前園このみも(今はホットパンツではなく、ジーンズだ)調理班だったので、ここぞとばかりに手際の良さをアピールしてみようかと目論んではいたのだが――どうも、そういう雰囲気ではなかった。
というのも、彼女に話しかけるメンバーがやたら多かったのと、彼女自身も準備の終えた串を運んだりと、せわしなかったからだ。
串を並べ、コンロに火を点ける。
いよいよ本格的なバーベキューが始まった。
その時気づいたことだが、買い出し班が買ってきたものの中には、ビールや果汁入りのサワーがあった。まだ未成年の人もいるはずだが、森先生は何も言ってこなかった。
その先生といえば――どこで見つけてきたのか――キャンプ用の折り畳み椅子に腰かけ、僕たちの動向を見守っている。動かざること山の如し、という形容がぴったりの様子である。
僕たちはコンロを取り囲むようにして、めいめいに紙コップと缶ビールを手に持っていた。
今ではすっかりリーダーが板についた今田くんが、咳払いする。
「えー、では、僭越ながら、乾杯の音頭を取りたいと思います」
「いいぞー!」
「入学してから一年半。思えば、色々なことがあったと思います。同じ時間を過ごすメンバーと共にこういう機会を持てることは……えっと、こういうの言うのはちょっと恥ずかしいんだけど、とっても幸福なことです」
「いぇーい!」
大泉くんが仲間と共に、はやし立てる。
こういうノリに便乗してみたくはあったが、僕のキャラクターにはそぐわないので、周りに合わせて手を叩くだけに留めた。
「では、話が長くなるのもアレなので、さっさと始めてしまいましょ。みんな、飲み物は行き渡った? ……よーし、では乾杯!」
「かんぱーい!」
コップと、そして缶ビールをかち合わせる。
最初に「うめぇ!」と声を上げたのは、大泉くんだ。乾杯の直後に、肉と野菜にがぶりついている。「塩とコショウが効いてんなぁ!」と満足げだ。
「ほんとだ」「美味しいねぇ」と次々と声が上がり、なんだか嬉しくなる。
僕もウーロン茶をひと口つけてから、程よく焼けた野菜にかじりついた。素材の味をふんだんに引き出したシンプルな味わいに、食欲が一層そそられる。
ふと、メンバーの輪から外れて、森先生に歩み寄る影があった。
前園このみは、先生に皿を手渡し、一言二言話している。ここからでは何を話しているのかわからないけれど、あえて気にすることでもないだろう。
「よっ、黒崎! 楽しんでるか?」
ほとんど不意打ちで、大泉くんが僕の首に腕を回してきた。まだ始まったばかりだというのに、既に顔が赤くなっている。
「まぁまぁね」と僕は答えた。
「これ、黒崎が用意してくれたんだろ? ありがとな」
「調理班は僕だけじゃないし、礼を言われるほどでもないよ。肉と野菜を適当に切って、塩コショウをふりかけただけ。それに、焼いたのは僕じゃないし」
「謙遜するなよー。ろくに料理のできない奴とかもいるんだし」
「そうなの?」
「そうよ。黒崎って、普段から料理とかしてんの?」
「えーとまぁ、週に三日ぐらいは。うち、共働きだから、自分で料理をすることが多くってさ」
へぇー、と感嘆の吐息を漏らす。
人からこんな風に驚かれることなど、今までほとんどなかった。その嬉しさで、思わず口がほころんでしまう。
「大したことじゃないよ」と僕は言った。
「いやいや、十分大したことあるって。お婿さんに行く時も困らないじゃん」
「はは、そうかもしれないね」
すると大泉くんは、急に真面目くさった顔つきになった。首に回した腕に若干力を込めて、声を落として聞いてくる。
「ところで黒崎。彼女はいるのか?」
「え? いないけど?」
「今までは?」
「いや、一人もいないな」
「……告白の経験は?」
「……一応、あるにはあるかな」
大泉くんは察したように、「そうか」とアルコール交じりのため息をついた。
「お前も、色々あるんだな」
「まぁ、それはみんな同じなんじゃない? 僕はほら、こんな性格だから、なかなか人と打ち解けるのが難しくって」
「そうか?」と大泉くんは眉をしかめた。
「確かに最初の頃はとっつきにくかったけどさ、こうして話してみると、意外と話せる奴だってわかるんだけどな」
「そうかなぁ……でも、そこまでいくのが難しいんだ」
「なるほどなぁ」
大げさに天を仰ぐ。
ふと、ゼミのメンバーが大泉くんの名前を呼んだ。「おー、今行く!」と快く応じ、彼の腕が僕から離れる。
「悪いな、黒崎。後でまた話そう!」
「うん。後でね」
大泉くんはスキップしながら、他の仲間の輪に入った。
あんな風になれたら、人生が少しは明るくなるのかもしれない。
ふと、周りを見てみると、既に同じような輪が出来上がっているのに気づいた。三人もしくは四人でグループを作って、食事しながらお喋りしている。田岡くんすらも、輪の中に入っている。
僕はといえば、一人でぽつんと立っている状態だ。
こういうのは慣れているはずのに、なぜだか落ち着かなくなる。
疎外感、とでもいうのだろうか。
ここにいるのに、ここにいない。誰も僕のことを意識していない。さながら透明人間になった気分――そんなのは、大学に入る前からずっと持っていた感覚だというのに。
僕は首筋をさすった。
一人なんだと自覚すること、そんな風に思われることは、なんだか嫌だった。
居場所を求めるかのように、視線をあちこちに巡らした。運よく、森先生も一人でいるのを見かけ、僕はひとまず近づいてみた。
缶ビールを片手に、先生はくつろいでいる。僕の接近に気づくと、「やぁ」とうなずきかけてくれた。
「どうです、楽しんでいますか?」
「はい。先生はいかがですか?」
「ご覧の通りですよ。どうです、君も一杯?」
まだ開けてない缶ビールを僕に渡そうとする。ただ、僕はアルコールが得意ではないので、「未成年ですから」と丁重に断った。「そうですか」と残念そうだったので、ちくりと胸が痛む。
気を取り直したように、先生はゼミのメンバーを一瞥した。和気藹々と盛り上がっていて、青春真っ盛りという具合だ。
「やはりいいですね、学生というものは。多感で、繊細で、時に無謀なこともやらかしますけど、ひたむきなまっすぐさがある」
「そうですね。僕も、そう感じます」
僕の言葉に先生は、くいとあごを上げた。
「時に黒崎くん。君から見て、私のやっていることは悪趣味に見えますか?」
「悪趣味? 何がですか?」
「君を含め、彼らを観察していることですよ」
事もなげに、先生は言う。
観察、という言い方は確かにあまり良い意味ではない。だけど、僕は先生が本当にそれだけしかやってないとは思えなかった。
「そんなことはないんじゃないでしょうか。先生は、僕たちが誤った方向に行かないように、導いてくれているじゃないですか」
「いえいえ、それは買いかぶりというものですよ。最初の頃に言ったかと思いますが、私は助言はできても、先導して旗を振ることはできません。今日までの成果は、君たちの実力で掴み取ったものです。これからですよ」
「これから……」
「ところで、黒崎くん」
先生は膝の上に皿を置き、缶ビールをひと口あおった。目に理知の光が灯っているのを見て、僕は自然に背筋を伸ばしていた。
「先ほどの君の発表ですが、なかなか良かったと思います。『青年期におけるコンプレックスの理解と克服』でしたね。テーマ自体は一見ありきたりのようですが、個々人の持つコンプレックスに焦点を当てただけに留まらず、その克服の方法もまた、個々人によって異なる……という着眼点はいい。自己のみならず、他者にも目を向けていくことは、コンプレックスという概念そのものへの理解と、克服にもつながるはずです」
「そ、そうですか」
まさか褒められるとは思っていなかったため、僕は思いきり面食らった。けれど、素直に喜ばしくもある。
ただ、懸念がひとつあった。
「あの、森先生」
「なんでしょうか?」
「先生にもあるのでしょうか? その……生涯をかけて取り組みたいことが」
「ええ、あります」
にっこりとうなずく。
「でなければ、今の仕事をやっていないでしょうね。いくつになっても、どんなに知識や経験を積んだつもりでも、君たち学生と交流することで、全く新しい世界が広がることがある。それが面白くって、やめられないのです」
「そうなんですか……」
先生は僕を横目で見、それから両手で空になった缶ビールをもてあそんだ。ついと顔を僕の方に向けて、「黒崎くん」
「君には何かしら、迷いがありますね?」
「わかりますか?」
「ええ。君は意外と、顔に出やすいんですよ。知りませんでしたか?」
「…………」
「良かったらその迷いについて、教えて頂けませんか?」
僕はうつむくように、砂利だらけの地面を見下ろした。
「わからなかったんです」
「……と、いいますと?」
「僕が生涯をかけて、取り組みたいことが。確かに、テーマを挙げることはできましたが……それが本当の意味でやりたいことなのかというと、わからないんです。僕の一生を捧げるに値する、内容なのかどうか」
「ふむ」
「前園さんの発表を聞いた後で、僕は自分がとても恥ずかしくなったんです。一生懸命に取り組んでいる彼女の姿が、僕には眩しかった。彼女はどんなことにも、全力で向き合おうとする姿勢があります。僕には……僕にはそれが、まだないんです」
「それが言えるのなら、君は大丈夫ですよ」
え、と顔を上げる。
先生は僕をまっすぐに捉えている。
海に映る、星の光のような瞳だった。
「前園さんのような姿勢が自分にはまだないと、君は言いました。まだ、と言っている内は大丈夫です。内省しすぎるきらいはありますが、君は自分のことを客観視できていますし、そのような自分を乗り越えたいとも思っている。今はまだ、そのやり方がわからないだけですよ」
「やり方……」
「もがいて、あがくことです」
確信を込めて、先生は言った。
「抽象的ではありますが、とにかく、なんでもやってみるしかない。目の前のことを全力で取り組むしかない。やりたいことがあれば、やってみる。やらねばならないことがあるのなら、妥協してはいけない。そうする内に、自分というものがわかってきますよ。……以前の講義で、自転車で北海道や四国を旅してきた学生の話をしましたね?」
「ええ」
「彼には克服しがたいコンプレックスがあった。そんな自分を変えるために、旅に出たのだと」
「よく覚えています。あれが、今回のテーマのきっかけでしたから」
森先生はうなずき、「あれには続きがあるんです」
「続き?」
「裏話みたいなものですね。その学生は『自分探し』と称して旅に出たと言っていましたが、どれだけ走っても、自分なんかどこにも見つからなかったそうです。自分を見つけるために旅に出る必要は、本当はないんだと、がっかりしたような言い方でした」
「そうなんですか……」
「でもね、彼はその経験を無駄にしなかった。旅先で出会った人々とのやり取りが何よりも心に残っていて、今でも交流しているんだそうです。今は確か、愛媛の民宿でアルバイトをしているとか」
「はぁ……凄いですね」
ちょっと現実離れした話だ。
先生は僕の反応を確かめた後で、缶ビールを少し、へこませた。
「彼も、君と同じですよ」
「え?」
「彼も悩み、迷っていた。自分にコンプレックスを持っていた。その点だけでいえば君と同じ……いや、誰とも同じなんですよ」
「でも、さすがに自転車で旅をしようなんて思いませんよ」
「そうかもしれませんね。彼には物事を最後までやり遂げるバイタリティーがあった。でもね、人とは……自分とは違うと言ってしまえば、それで終わりです。君の、前園さんに対する感情も、それに近いのではありませんか?」
「……え?」
「君は彼女を自分の中で、自分よりも高い位置に置いていませんか? 自分とは違う、と最初から思い込んでいませんか? それは彼女に酷な話ですよ」
「…………」
「彼女にもありますよ。君と同じように悩み、迷うことが。それがわかれば、一歩前進です。悩み、迷うこと大いに結構。ですが、それで目の前の人間も見えなくなってしまっては、本末転倒です」
見誤ってはいけませんよ、と忠告した。
「さて」と、先生はおもむろに立ち上がった。
「私からの話は以上です。君からは、何かありますか?」
「いえ……大丈夫です。すみません、お時間を取らせて」
「いえいえ」と先生は首を振った。
「説教がましい上に、昔の教え子をネタにするなんて、真っ当な教育者とはいえませんね。でも、今の話が何らかの役に立ってくれれば、それに越したことはありません」
では、と先生はみんなの方に歩いていった。
僕は彼の背中を見送り――ふと、落ち着かなさそうに首筋をさすっている自分に気がついた。どうもすっかり、癖になっているようだ。
無性に、タバコが吸いたくなってきた。
適当なところに皿を置き、みんなに気づかれないようひっそりと、僕は喫煙所を探すことにした。
12.
キャンプ地から徒歩五分、国道沿いの小さな駄菓子屋の隣に、喫煙所があった。
ベニヤ板で四方を囲んで、真ん中に灰皿スタンドを設置しただけの、そっけない作りではあった。それでもこうして気兼ねなく、タバコを吸えるというのはありがたい。更に運のいいことに、誰もいなかったのだが――すぐ近くの自動販売機には様々な種類の虫が集まっていて、ぎょっとしてしまった。
とっくに陽は暮れている。
風も涼しいというよりは、肌寒い。
ジーンズのポケットからタバコを取り出し、手早く火を点ける。長々と煙を吐き出し、文字通りひと息つけられた。
宙を漂う煙は、すぐに闇に溶け込んだ。
いくら煙を吐き出しても、結果は同じだ。この煙がどこに行くのかなんて、考えたところで意味はない。
人も、同じだろうか。
卒業したら、みんなどうするのだろうか。
入学して一年半。僕自身、卒業した後のことなんて何も考えていない。就きたい仕事があるわけでもないし、将来の夢なんて大層なものもない。
なぜ、と言われてもわからない。
いや――わからないふりをしている。
考えるのが怖いのだろう。
向き合うことを恐れているのだろう。
大学に入って、少しは変われるだろうかと思った。それまでの自分を変えられるだろうかと、それなりに希望を抱いてはいた。
しかし一年半経った今、自分は何も変わっていないことを思い知らされる。
彼女は既に、はるか先を見据えているというのに。
「タバコは体に悪いよ」
突如降りかかった声に、僕ははっと面を上げた。
周囲に人影はない――
いや、あった。ベニヤ板の向こう側、外灯に照らされている人影。それが彼女であることは、影の形でわかった。
僕はとっさに火を消そうとして――寸前で思いとどまった。喫煙所で吸っているのだから、別に咎められることはないはずだ。彼女もそんなつもりはなくて、ただ、僕の身を案じて言っているのだろうということは、わかっていた。
彼女に背を向ける形で、僕は言った。
「わかってるんだけどね、やめられないんだ」
「ヘビースモーカーの常套句だよ、それ」
はは、と短く笑う。
二本目に火を点けて、僕は再び煙をくゆらせた。
ベニヤ板が、少し軋む。
前園このみも僕と同じように、ベニヤ板に背を預けていることがわかった。
「タバコ、吸うんだね」
「うん」
「いつから?」
「一年生の頃から」
先輩の影響で、とは言わなかった。
鈴を転がすような声音で、「悪い子だなぁ」
「でも、黒崎氏がタバコ吸ってるのってなんか意外」
「そうかな?」
「そうだよ。酒もタバコもギャンブルも、やりそうにないってイメージ」
「まぁ、酒もギャンブルもやらないけどね。タバコだけは別」
「どうして?」
「好きなんだ。吐き出した煙を見るのがね」
「ふーん。変わった理由だね」
風が少し、強くなっている。
彼女が薄着だったことを思い出し、「あのさ、寒くない?」
「んーん。心配してくれてるの?」
「そりゃあ、心配するよ。風邪でも引いたら困るし」
「どうして?」
「どうしてって。そりゃ……」
友達だから、と言いかけた。自分からこういうことを言い出すなんて、記憶にある限り一度もない。その気恥ずかしさもあったのだが、そういう言葉で誤魔化そうとしている自分が、みっともないように感じられた。
つい、黙り込んでしまった。彼女は先を促そうとはせずに、ただ、僕の言葉を待っている。
どうやら、逃がしてはくれないらしい。
半ば諦めの心境で、結局、誤魔化すことにした。
「まぁ、同じゼミの仲間だし」
「へぇー、仲間ねぇ。黒崎氏からそんな言葉を聞くなんて、もっと意外」
「君は普段、僕に対してどんなイメージを持ってるのさ?」
苦笑しながら、僕は言った。
すると、「聞きたい?」と返ってきた。
待ってましたと言わんばかりの、弾んだ口調。
「えーっとまずね、無口で、不愛想で、無表情でしょ? あと、不器用。クールに見えるんだけど、案外そうでもないよね」
「……否定はしないよ」
「それと、何気に熱いところあるよね。黒崎氏って」
「熱い? 僕が?」
どこが、という風に顔をしかめた。
熱いだなんて――自分とは不釣り合いな言葉で評されると、落ち着かないのを通り越して、不愉快にすら感じられてしまう。
それでも、彼女は続けた。
「去年のゼミの発表の時、覚えてる? 発表っていうか……その前の、準備の段階のことなんだけど」
「ああ……発表までに色々あったよね。みんなでどんなことをやるのか何回も話し合ったけど、ろくに進まなかった」
「黒崎氏の言葉がきっかけで、前進したんだよね」
「そうだっけ?」
「そうだよ。『なんでもいいから、とにかくやってみよう』って。二つ、三つぐらいだったかな。黒崎氏がやってみたいと思ってることを色々挙げてくれて、それでみんなもやっと意見を出すようになった。その時は私ね、黒崎氏も内心でイラついてたのかなぁって思ってたんだ」
「まぁ、話が一向に進まないのはね。確かに意見を出した覚えはあるけど、採用されたのは僕のじゃなかったし」
ううん、と彼女はやんわり否定した。
「採用されたかどうかなんて、二の次だと思うよ。大切なのは、あの時あの場で何をしたかってこと」
「…………」
「先生がいるから、みんな遠慮して、何も言えなかった。今田くんもなんとか引っ張ろうとしてたし、私もちらほら意見を出したりはしたけど、なんかね……すぐに話が止まっちゃう。それでどうするの? みたいな感じで。本当は私も色々言いたかったことあったんだけど、それをやったら反感食らうかなぁって」
「君でもそういうのは、怖いんだね」
「怖いよ、そりゃ」
人から嫌われるのって、怖いよ。
実感の滲んだ言葉が、僕の中で強く響く。
過去、彼女も嫌われたことがあるのだろうと、漠然と察した。
人と関わりを持ってしまえば、そんなのは当たり前のことだ。だけど、僕は――人から好かれることも、嫌われることも避けていた。人と関わりを持つことから、逃げていた。この大学に入るまで、僕は――さながら海の中の魚を見下ろす鳥のように――そんな風にしか過ごせなかった。
嫌な奴だった。
そこにいるのに、そこにいない。
人の輪の中に入らず、無為に時を過ごすだけ。人と関わることを避けて、逃げて、自分の世界に閉じこもっている。
そうして熟成された自分は、とても醜いものに思えてならなかった。
彼女は違うと思っていた。
少なくとも、僕と比べれば。
「さっき、森先生と話していたでしょ?」
「あ? ああ、うん……」
「どんなことを話してたのかなって。でも、これって聞いていいことなのかな?」
「いや、そんな大したことじゃないよ。さっきの僕の発表についてとか」
「そうなんだ。けっこう、深い話をしてるのかなってみんなで話してた」
「深い話、ね」
苦笑せざるを得ない。
「そうと言われるとそうかもしれないし、そうじゃないのかもしれない」
「煮え切らないねぇ。でも、そこらへんが黒崎氏らしいのかも」
「かもしれないね」
タバコの火をもみ消し、彼女の方を振り返る。
ベニヤ板越しでもわかるほど、線が細い。背も、僕より一段と低い。普段は踵の高い靴を履いているのだが、今はサンダルのはずだ。
僕はそんなことにも気づけなかった。
先生の言う通りだった。
前園このみは自分よりも高い位置にいると、そう思い込んでいた。
違う世界にいるのだと、思いたかった。
だって、そうとも思わないと僕は――
「黒崎氏」
「うん?」
「私の発表、聞いてどう思った?」
いつもの冗談交じりではなく、真剣な問いだった。
僕は先ほどの発表を思い返し、「素晴らしいかったよ」
「心底、そう思った。堂々としていて、みんなからの質問にも怯んだりしなかった。あれだけの内容を練り込むのは、相当時間かかったんじゃない?」
「それなりにね。資料集めるだけでもひと苦労だったし。だけど、私が聞きたいのは、そういうことじゃないんだ」
「……内容について?」
「うん。どう思う?」
「どうとも言えない、ってのが本音かな。なぜ君があのテーマでやろうと思ったのか、興味はある。おそらく過去に何かあったんだろうな、ということしかわからない。けれど、簡単に聞いていいことではないと思う」
「黒崎氏になら、教えてもいいよ」
「なぜ?」
「そりゃまぁ、友達だから?」
「…………」
ほんのわずかな間の後、堪えきれないといった具合で、僕たちはお互いに笑い合った。
こういうところが、敵わない。
僕のつまらない躊躇いなど、彼女はいともたやすく吹き飛ばしてしまう。
「友達、ね」
「心外?」
「いや、光栄だよ。そんな風に思ってくれるなんてありがたい。本当にね」
「黒崎氏、友達少なそうだもんね。私と同じで」
え、と思わず聞き返した。
だってあんなに、色んな人と仲良くなっているじゃないかと、そう聞かざるを得なかった。
ベニヤ板越しに彼女が、首を横に振ったのが見えた。
「黒崎氏からしたら、そう見えるのかもね。でも、そんな簡単じゃないよ。今みたいな話が落ち着いてできるのって、ゼミの中だと黒崎氏ぐらいだもん」
「……他には?」
「二人……いや、一人だけかな?」
「それでも、十分じゃないの?」
「そうだよね。私は、ないものねだりしてるんだよね。相手がそこまでの人じゃないってわかっちゃうと、もうシャットアウトしちゃう。表面だけの付き合いになっちゃう。それはね、とても疲れるんだ」
「全く人と関わりがないよりは、ましだと思うんだけど」
そうかもね、と彼女は言った。
どこか寂しげに。
僕は彼女にかける言葉を探しあぐねていた。聞きたいことではなく、彼女が必要としている言葉を。それは浜辺から海の中の魚を見つけ出すぐらいに困難なことで、ようやく見つけたところで――それが今の状況に適当であるという確証もない。
もどかしくて、しょうがなかった。
なぜ僕はこんな時に、気の利いた言葉ひとつ、彼女にかけてあげられないのだろう。
不意に、ベニヤ板の隙間から、そっと彼女の手が伸びてきた。
チケットらしきものを指で挟んでいる。
「黒崎氏、ライブとかって興味ある?」
「ライブ? ええっと……行ったことはないかな」
「今度のライブでね、私が歌うの。でね、良かったら黒崎氏もどうかなって」
「行ってもいいの?」
「うん」
「それじゃあ、ありがたく……」
彼女の手から、毒々しい柄のチケットを受け取る。バンド名が記載されているものの、どの名前もまるで知らない。おそらく、アマチュアバンドだろうか。
不思議そうに眺めて、それから面を上げると――彼女がくるりと、身を翻したのがわかった。
「黒崎氏」
「うん?」
「私ね、君に色々言いたいことがあるんだ」
「なんだよ、怖いな」
茶化すような言い方になってしまったが、そういう雰囲気ではないことを悟り、僕はぐっと息を呑んだ。
慎重に慎重を重ねるように、僕は尋ねた。
「言いたいことって、何?」
「もしかしたら君と私は、同類なのかもってこと」
「……同類?」
「ちょっと口を滑らせちゃったかな。まぁ、いいか」
ベニヤ板から離れ、彼女の影がみるみる小さくなっていく。
追いかけるように喫煙所から出ると、彼女はいつものいたずらっぽい笑みを浮かべ、肩越しに振り返っていた。
「なんでもないよ。今のは忘れて」
「忘れてって……」
「友達としてのお願い。ほんと、気にしなくていいから」
そう言って彼女は、僕の前から立ち去った。
僕は――何か、取り返しのつかないことをしてしまったのでは。
言葉の選択を、誤ってしまったのではないか。
一瞬でも彼女と同じ目線に立てたなんて、勘違いに過ぎなかった。
考えてみてもわからない。何を根拠に彼女は、あんなことを言ったんだろう。
同類だなんて――そんなわけがないのに。
一泊二日のゼミ合宿は、その後大きなトラブルもなく、無事終了した。
帰宅した後も僕は、前園このみの言葉を頭の中で繰り返していた。
あれはどういう意味なのか、今すぐ彼女に聞きたくてたまらなかった。スマホの画面を見ては放り出して、しばらくするとまた手に取って、それでも踏ん切りがつかなくて、結局放り出す。
一日にそんなことを何度も繰り返しているのだから、合宿の終わり頃に森先生から言い渡された課題についても、なかなか手につかなかった。
同類、と彼女は言った。
僕と同じ、という意味で言っているのなら、それはお門違いだとしか思えない。僕と彼女とでは、何から何まで違う。
共通点なんてあるはずもない。
その一方で、なぜか、しっくりくる感触があった。
前園このみという人物――彼女は僕の中に、何かを見出した。それはおそらく愉快なことではなくて、だからこそ「忘れて」なんて言ったのだろう。
同類という言葉自体、人に向けて用いることはあまりない。友達だとか仲間だとかに比べると、イメージもあまり良くない。同族嫌悪という言葉がある通り、同じであるということは時として、違うことよりもはるかに悪感情を引き起こす。
彼女はどういうつもりで、僕にそんな言葉を使ったのか。
明かりのない迷路に迷い込んで、僕はすっかり途方に暮れている。人一人の言葉がこんなにも響くなんて、どうかしているとしか思えない。
意識するのを止めよう――と一度は決心した。
なんの根拠も確証もない状況で、あれこれと考えても意味がない。深い意図があって言ったわけではない可能性だってある。そうと断じてしまえば――思い込んでしまえば――一応、気持ちが楽にはなった。
夏の間はできるだけ、彼女のことを考えないようにした。〈つづり〉における学祭に向けての準備もあったし、課題だって山積みだ。それを片づけている間に、刻一刻と、彼女の言っていたライブの日が近づいて来ている。
前園このみがライブで歌う。
それはとても興味の惹かれることだったし、当然行くつもりでもあった。
意識しないと決めた矢先にこうなのだから、僕の決心などたかが知れていた。
13.
富平さんと別れ、ぶらぶらと当てもなく、構内を歩いていたところだった。
どこかから騒々しい音楽が聞こえてくる。太鼓の音だともっと腹に響くはずだから、ギターなどを用いたライブだろう。
僕は音楽に、あまり関心を寄せてはいなかった。このような騒がしいだけの音楽は、苦手通り越して不愉快に思うことすらある。それなのに足が向いてしまったのは、かつての記憶を呼び起こされるからだ。
前園このみがステージに立ち、マイクを手に歌っている――
かつての光景を頭に思い描き、僕は構内を横切った。建物に囲まれたところにある中庭では、鉄パイプ等で組み合わせたステージがあり、それなりに人だかりができている。数は少ないものの、音楽に合わせて手を叩いている人もいる。
野外のため、音は広がりやすい。昔、ライブハウスで聞いた時とは、まるで異なる。それでもステージに立つ人が、思いの丈をマイクに叩き込む衝動とは――そう違いを感じられなかった。
素人の歌うものだったとしても、彼らが愚直で、一生懸命であることに変わりはない。
先のことなどまるで考えず、今この瞬間に全力で打ち込んでいる。未熟で、荒々しさだけが際立っていて、やたらと音程を外していたけれど――その歌が終わる頃には、僕は拍手を送っていた。
ステージに立つ学生は満足げだ。額を汗で濡らしていて、肩で息をしている。生きているとはこういうことなのだと訴えかけるような、ぎらついた目だった。
ひとしきり拍手してから、僕は身を翻した。
彼らには悪いけれど、こういうのは一回で十分だ。何度も聞くようなものではない。
中庭の近くには喫煙所があったのだが、僕はそこを外して、ライブの音が届かないような場所を選ぶことにした。
学生寮と古びた体育館が眼前にある、ほとんど空き地と言ってもいいような場所だ。木製のベンチとテーブルがあって、その他には名前も知らない木と、自動販売機があるぐらい。右手側には講堂を収めたJ棟がそびえ立ち、左手側の敷地外にはいくつかの民家の屋根が見える。
僕はひとまずベンチに腰を落ち着けて、加熱式タバコを吸い始めた。
誰もいないところで吸うのは、気持ちが良い。だけど、不意に人影が視界の端でちらついて、内心で嘆息せざるを得なかった。
どうせ学生だろうと思い、この時は特に関心を向けなかった。だが、その人影は違ったらしい。空いている場所はいくらでもあるというのに、まっすぐ僕に向かってきた。靴先が見えた時に、ようやく僕は面を上げた。
どこかで見たような顔に、怪訝そうに眉を寄せる。突然と言わんばかりに記憶の引き出しが勢いよく開け放たれ、僕はくわっと目を開いた。
「間宮……」
「久しぶりだな、黒崎」
間宮という男は僕よりもひと回り体格が大きく、髪をワックスで逆立てている。派手な柄のジャンパーを肩で羽織り、ジーンズのポケットに両手を突っ込んでいる。僕を見下ろすその目は、嫌悪と好奇心とがないまぜになっていた。
ちょうど、加熱式タバコを吸い終えたところだ。
僕はあえて紙巻きタバコを取り出し、すぐさま火を点けた。すると間宮は渋面を作り、更に嫌悪をあらわにする。
「相変わらず、タバコか?」
「そっちこそ相変わらずだね」
「ふん。お前から見たら、そう見えるのかもな」
煙を吐き出してから、僕はこめかみを押さえた。今までそんな気配はまるでなかったのに、突然頭痛になってしまったようだ。
「お前、仕事は?」
唐突に切り出される。間宮はいつも、そういう男だ。
「それなりだよ。普通の会社で、普通にサラリーマンをやってる」
君は? とは聞かなかった。
聞かなくたって、どうせこの男は自分から喋るに決まっている。
へぇー、と間宮は社交辞令で聞いたんだと言わんばかりに、淡白な感想を漏らした。未だに彼は、ポケットから手を取り出す気配がない。
「俺はな、海の近くの店でバイトやってんだ。サーファー御用達の店でな。夏になると、いつも混雑するんだ」
「ふぅん」
「まぁ、お前に話したところでしょうがないんだけどな」
じゃあ、話さなくてもいいだろうに。
僕はその言葉を、今吐き出したばかりの紫煙に溶け込ませた。
余計なことを言わないコツは、飲み物でもタバコでも何でもいいから、何かを口に含むことだ。これは意外と効果がある。
僕はなぜ、間宮がここに来たのかを考えた。
おそらくどこかで僕の姿を見かけ、わざわざ追いかけてきたのだろう。彼に喫煙の趣味はないから、よっぽど話をしたかったとみえる。その相手にわざわざ僕を選ぶのだから、彼も酔狂な男である。
フィルターぎりぎりまで吸ったタバコをもみ消して、三本目を取り出す。続けて吸いたい気分ではなかったのだが、相手が間宮となれば、話は別だ。
「また吸うのか?」
「そういう気分なんだよ」
「健康に悪いぞ」
「知ってるよ」
「知ってて吸うのかよ。全く……」
彼は風下に立たないよう、注意深く立ち位置を変えた。さっさと立ち去ればいいものをと、たまらない不快感を覚える。
会いたくもない人との会話を避けるには、相手からの関心を持たれないようにするか、自分から遠ざかるかだ。僕としては後者を取りたかったが、既に三本目に火を点けてしまった以上、そうするのはやや不自然に思えた。
何かしら適当な言い訳をつけてこの場から立ち去る光景を、僕は空想した。人と会う用事があるとでも言えばいい。もし、誰と会うんだと聞かれたら、〈つづり〉のメンバーにとでも言ってしまえばいい。会話を打ち切るために彼らの名前を出すのは気が引けるが、これも立派な処世術だ。
僕は急いで――表面上は落ち着いているふりをして――タバコを吸いきろうとした。しかし、またも間宮から話題を投げかけられる。
「黒崎。お前、なんでここに来たんだ?」
「なんでって。先輩や後輩に会いに来たんだよ」
「サークルのか?」
「そうだね」
「俺はちょっくら、ダチと会う用事があってよ。といっても、すぐに終わったけどな。どうするかって考えていたところに、お前を見かけたんだ。さっきのバンド、俺も見ていたんだよ」
そうなんだと生返事をする。
僕が間宮に興味を抱いていないことは、さすがの彼でも気づくはずだ。
ただ、間宮は沈黙を嫌う男である。黙って相手の話に耳を傾けるということができない男である。雄弁さこそが男らしさであると勘違いしている彼は、僕との間に横たわる沈黙の空気をためらいなく打ち破った。
「ライブの時にもいたもんな、お前」
「なんの話?」
「何年前だったかな。このみちゃんがステージに立った時のあれだよ。俺もあの場所にいたんだ。覚えてるだろ」
覚えてはいるが、どうでもよかった。
確かに、あの時あの場所で間宮と一言二言交わした記憶はある。しかしそれ以上に、彼女の歌っているところの方がはるかに印象深い。
その記憶は、かけがえのないものだ。
だからこそ間宮の口から、その話が出るのは不愉快だった。
間宮は別の学科を専攻していて、僕やこのみくんとは全く別のゼミに所属していた。ただ、選択している講義がかぶっているということで、何度も面識がある。自分から彼女に近づき、他愛のない会話を繰り返している光景を、僕は何度も見てきた。彼女はやや困った様子で、だけどもうまくあしらっていた。
しかし、間宮は僕と比較して、相手の表情や動作から感情を読み取るということに長けてはいない。頻繁に話しかければ、相手と親密になれるだろうと思っている。在学時からこのみくんに彼氏がいることなど、間宮も知っていただろうに。
僕はかすかな侮蔑を込めるようにして、間宮を見返した。
彼は一瞬鼻を膨らませ、不満げに唇を尖らせる。
「もういいかい?」と僕は聞いた。
「何がだよ」と彼は聞き返した。
「僕には、他にも用事があるんだ。何もないならもう行きたいんだけど」
「ああ、そうかよ。俺とは話したくないってことか?」
「どうとでも好きに取ってくれて構わないよ」
「その言い方、変わらないな」
僕はそれに応えないで立ち上がり、間宮に背を向けた。続けて吸ったせいか、どことなく気分が悪い。
吸い過ぎたな、と反省する間もなく、背後から声がかかった。
「今も、このみちゃんと会ったりとかしているのか?」
「……いや、最近は会ってないかな」
「今や人妻だもんな。会いに行きたくても、なかなかそういうわけにはいかないよな」
人妻という言い方に、僕は目元がひくつくのを自覚した。わかりきっていることを、ことさら口に出すことの不毛さに気づかないのだろうか。
間宮はなおも続ける。
「黒崎。お前さぁ、今でもこのみちゃんのこと好きなの?」
「……その質問に答える必要ある?」
「必要とかどうとかじゃなくて、ただの好奇心だよ。でもさ、お前が今でもこのみちゃんのことが好きだったとしたら――」
「だとしたら、どうするの?」
僕は肩越しに振り返った。
僕が反応してくれたことに、間宮は幾分か気を好くしたようだった。相手にしてくれないということが、彼にとって一番堪えることなのだと、僕はこの時まで失念していた。
だが――間宮はにやにやと笑うでもなく、僕と同じように、侮蔑の感情を目に込めている。
お互いに不毛で、不愉快で、不満足な結果しかもたらさないことは明白なのに、彼は一体何をしたいのか。
間宮はそこらの小石を、軽く蹴った。
「別に。未練たらしいなと思っただけだよ」
「それが言いたくて、僕のところまで来たの?」
「俺だって、そんなに暇じゃねぇよ。他にもあるさ……他にもな。お前には、ずっと前から言いたかったことが山ほどあるんだよ。このみちゃんのことだけじゃなくてな。例えばそうだな……」
「ねぇ、その話は後にしてくれない? 僕には用事があって――」
「もう少し付き合えよ。せっかく、数年ぶりに会ったんだ。お前にとってはどうでもいいんだろうが、俺としてはそれじゃあ済まないんだよ」
「ずいぶんと、暇なんだね」
わざと揶揄するように言ってやった。
「お互い様だろ」と彼も言い返した。
間宮とは別に、これといった事情があって対立しているわけではない。
ただ、虫が好かないだけだ。
少なくとも僕はそう思っているし、間宮も同じ心境だろう。このみくんの友人という共通点以外に、通じ合うものはない。
いや――彼女に惹かれているという点こそはあるが、それを表立って共有するつもりは少なくとも僕の方にはなかった。
なぜ、今になって蒸し返すのか。
僕はそれを彼の短慮と無神経さからくるものと見なしていた。
「黒崎。お前さぁ、俺のこと嫌いだろ」
「…………」
「俺もお前が嫌いなんだよ。特に目立っているわけでもないくせに、このみちゃんと仲がいいじゃないか。彼氏がいるってわかってるくせに、友人面して付き合える神経がさ、理解できないんだよ」
「それはそのまま、君にも当てはまると思うんだけど?」
「俺は最初から、このみちゃんを狙っていたんだ。お前とは違ってな」
いよいよもって、気が滅入る。
それを聞かされて、一体僕はなんと答えたらいいのか。
間宮はようやく片手をポケットから取り出して、その手を腰に当て、片足に体重をかけた。困った奴だと言わんばかりの、相手を咎める姿勢。
「このみちゃんが結婚したって聞いて、ようやく踏ん切りついたんだよ俺は。今じゃあフツーに彼女もいるし、結婚の話だって出ている。だってのに、お前ときたらどうだ? 彼女の一人ぐらいいるだろ?」
「それは、君に言わなくちゃならないことなのかな?」
「言わなくたっていい。俺にゃわかってるんだ。お前はいつまでもこのみちゃんのことを引きずっている。そうだろ?」
「…………」
「お前を見ているとさ、無性にイラつくんだ」
「奇遇だね、僕もだ」
深々とため息をつく。
腹の中に怒りや不快感といった感情がどくろを巻いていて、気持ちが悪くなる。心なしか、胃も痛い。
ただの挑発だ。
早々に切り上げなくてはいけないとわかっているが、ひとつでも何か、彼をやり込めずにはいられなかった。
「僕も、君には言っておきたいことがあるんだ」
「なんだよ」
「このみくんは……彼女は、僕のことも君のことも、男として眼中になかった。それだけは確実だといえるよ」
「……ふん」
「彼女がいる? 結婚の予定がある? 結構なことじゃないか。おめでとうと言わせてもらうよ。けど、今になってこのみくんのことを持ち出す必要があるのかな? 未練たらしいのは君の方じゃないの?」
自分でもわかるほど、冷徹な声だった。
間宮と話していて嫌なのは、こういう自分がいるということを、まざまざと思い知らされることだ。人に見られたくない部分があることを、直視してしまうことだ。
このみくんと向かい合う時に――そんなものを抱えたくはない。
「黒崎。お前はさ、何か勘違いしていないか?」
「勘違い?」
「俺は確かに、このみちゃんのことが好きだったよ。告白するとこまで行ったよ。でも、お前と来たら何もしていないじゃないか。踏ん切りつけられていないじゃないか。だからここに来てるんだろ?」
「…………」
「俺のダチの大半はさ、もう結婚とかして子供を産んだりとかしているわけよ。ここに来れる余裕なんてない。いつまで経ってもここに来ている奴は、ここに何かを置き忘れた奴だけだ。俺はそれを回収したけどな、お前はどうだ?」
「回収、ね……」
「俺はもう、ここには来ない。これが最後だ。お前に会うことも、もうないだろうな。だから今の内に、色々言っておきたかったんだ」
「それで、満足した?」
「一応はな。俺とお前はダチじゃない。お前を見かけるまで、本当ならこんなことを言うつもりはなかった。俺からすりゃ、小石を蹴っ飛ばしたようなもんだ。蹴っ飛ばされたお前としてはムカつくかもしれねぇけどよ、それこそ、お互い様だ」
「…………」
「くだらねぇ話をしちまった。俺はもう帰るぜ。黒崎、お前はまだ……ここにいるのか?」
「……まだ、他に用事があるからね」
「そうかよ。邪魔したな」
間宮は僕の脇を通りすぎ、角を曲がったところで、ようやく見えなくなった。
タバコを吸おうか――と一瞬考えた。
けど、やめた。
間宮の言葉は――悔しいけど――的を得ている。
彼は直情的な男ではあるが、感情を挟むことのない事柄に対しては、割とドライに接することができる。わざわざ僕を捕まえて延々と講釈ぶったのはどうかとは思うが、頑として否定することもできなかった。
僕と間宮はお互いに、鏡を見ているようなものだろう。
だから気分がささくれ立つし、鏡そのものを割りたくもなる。
不意に、間宮がうらやましくなった。
予期せぬ感情を引き起こされたことに、僕は戸惑った。
彼女がいる、結婚の予定もある――その表面的な事柄もそうだが、置き忘れたものを回収できたのが。もはやこの場所に未練がないことが。ここに来なくてもいい、と考えられるようになったのが。
僕もここに来るまでは、そういう心境に近かった。大学に行くのは、これが最後にするつもりだった。
けれど一方で――心のどこかで――未だに彼女の影を追いかけている自分がいるということを、直視してしまった。
他でもない間宮にそれを指摘されたのが、悔しくてたまらなかった。
14.
彼女がステージに立つという、そのライブハウスは四ツ谷にあった。
大通りに面した雑居ビルの入り口手前に、ボードが立てかけられている。白や赤、黄色のチョークをふんだんに使い、今日出演するらしいバンドグループの名前が並んでいた。
やはり、まるで聞いたことのない名前だ。
スマホやチケットで場所を確かめる。果たして僕のような人間でも楽しめるだろうか――と一抹の不安を抱きながら、地下に潜った。暗い上に急な階段なので、転んでしまわないよう細心の注意を払いながら。
真っ赤な扉を開け放つと、急に騒々しくなった。
既にもう始まっているのか――いや、まだそんな時間ではないはずだと腕時計を確認する。そんな僕を怪訝そうに見ている人がいることに、遅まきながら気づいた。
モヒカンで、レザージャケットを着ている、いかにもな風体の人だ。胸までの高さのあるカウンターに肘をつけている――おそらく、受付の人なのだろう――彼はその見た目とは裏腹に、落ち着いた声音で話しかけてきた。
「お客さんっすか?」
「あ、はい」
「チケットとか持ってます?」
「はい、こちらに」
チケットを手渡すと、カウンター上のリストと見比べ、ふんふんとうなずきながら黄色のマーカーで線を引いた。手元をがさがさと動かし、小さな紙片を指に挟んで、僕に伸ばしてくる。
「これ、ドリンクチケットなんで。一枚につき、一杯っす。追加で飲むと別料金になるんで、気をつけた方がいいっす」
「あ、ありがとうございます」
深く一礼する。
いかにもな風体のお兄さんは、ちょっとだけ驚いたように目を丸くして、それから「ここは初めてっすか?」と聞いてきた。そうです、と答えると、「へぇー」とますますどんぐり眼になる。意外と、愛嬌のある人だ。
「友達に誘われたとかっすか?」
「ああ、そうですね」
「ふーん。初めては誰でも、戸惑うっすよね」
「そうですね。実は、ちょっと緊張しています」
「そうっすね」
ふと、お兄さんが少し前のめりになった。僕の手に提げている紙袋に気づいたようだ。お兄さんは何かを察したらしく、ちょいちょいと指で誘う仕草をした。つられて顔を寄せると、こっそりと耳打ちしてくる。
「プレゼントする時は、勢いで渡した方がいいっすよ」
「そうなんですか?」
「人気のあるバンドだと、終わった後に人だかりができて、全然近づけないってことがザラっすから」
「なるほど……」
どうもご親切に、と僕は再び頭を下げた。
お兄さんはごゆっくり、と軽く手を振った。いい人だ。
ライブハウスの通路はL字を逆にしたような構成になっていて、奥には控え室、左手の先には会場と続いているらしかった。
ひとまずここの空気に慣れようと考えた僕は、初めて上京した人の如く、きょろきょろと周囲を見回す。
ビビッドな色使いのチラシが壁という壁に貼られている。かと思えば、額縁つきの写真もある。きゃいきゃいと盛り上がっている女性が数人、僕の脇を通りすぎて、会場に向かっていく。派手な赤色のベンチには、先ほどのお兄さんと同じようにパンクな衣装の女性が足を組んでいて、スマホをじっと眺めている。ところどころ、タバコやアルコールの匂いも漂っている上に、スピーカーから絶えずに音楽も流れていて、はっきり言って、神経が休まる暇がない。
前園このみの姿は見当たらない。控え室で準備しているのだろう。
花は終わった時にでも渡せばいいかと考え、ひとまず会場に入った。
さほど広くはない、正方形の空間。室内はうす暗く、まだ無人のステージ上だけが煌々と照らされている。若い男女がひしめき合い、めいめいに雑談を楽しんでいた。
入ってすぐ右側に、ドリンクバーがあった。そこでウーロン茶を注文し、片手に持ちながら適当な居場所を探すが、椅子やテーブルは満席だ。
立ち見するしかないのだろうと考えたところで。
「あれ、黒崎じゃね?」
聞き覚えのある声に、振り返る。間宮だ。
「なんだ、お前もここに来ていたのか」
「あ、ああ……」
彼がここにいる理由は、なんとなく察せられた。おそらく僕と同じように、彼女からチケットを譲り受けたのだろう。よくよく見れば間宮の他にも、大学内で見かけた顔がちらほらいる。
「お前も、このみちゃん目当てか?」
「まぁ、そんなところ」
「お前、こういう場所に来るイメージないもんな。まぁ、俺もそんなには来ないんだけどよ。……一人で来たのか?」
「うん、そうだね」
「へぇ。……ふーん」
なるほどと言いたげに、首を二度動かす。
僕が常日頃一人で動いていることが多いのは自他共に認めるところなので、間宮の言いたいことも、なんとなくわかる。一緒に来る友達の一人ぐらいいないのか――と、彼の表情はそう語っていた。
あまり、会いたくない顔だった。
これ以上話を広げるのは難しいと判断したらしく、間宮は言葉を探すように口をへの字に曲げたりしていた。
「まっ、楽しんでいけよ」
「そうだね、そうするよ」
適当に手を振り、間宮に背を向ける。自分が歌うわけじゃないだろうに、なぜ我が物顔で振る舞えるのか、不思議でならなかった。
このみくんの所属バンド名は聞いてあったので、チケットを見て確認する。名前の並び順がそのままステージに出る順番なのだとすれば、彼女が出てくるのは中盤ぐらいということになる。
ブザーがけたたましく鳴り、扉が閉まる。
いよいよライブが始まる。
先に出てきたのは男の三人組。一人はギターを肩から下げていて、一人はベース、もう一人はドラム。僕がおおよそバンドというものに対して持っている貧相なイメージと、そう変わりない。
ただ、音楽が流れ出してからは別だった。
耳をつんざく大音響。けたたましく鳴り響く楽器。にわかに興奮の色を帯びてきた観客たちの歓声。それらの音の集合体は床を通して、僕の体をも震わせた。想像以上の迫力を前に、ひたすら面食らう。
そのおかげで、歌の内容はろくに頭に入ってこなかった。
嵐のような最初のグループが終わると、次は凪のようにしとやかな音楽に変わる。かと思えば荒波のごとく、激しい音の奔流が会場全体を震わせる。
その中では僕は、ただ流されるだけの小枝に過ぎなかった。ほとんど立ち尽くすようにして、適当と思われる合いの手を入れるだけ。他の観客のように思いきり体を揺らし、歓声を上げ、大げさに手を振るような真似は、とてもできなかった。
ふと、いたたまれない気持ちになった。
これだけ周りに人がいるにも関わらず、僕は一人でしかなかった。間宮の言葉が頭の中で響いていて、余計なお世話だと頭の中で打ち払うが――その後には、何も残ってはいなかった。
暗闇の中で、ぽつんと立っている僕。
その状況を遠い場所から見ている僕。
何をやっているんだろう、と思った。
場違いとしか思えなかった。
確かに、生で感じるライブの迫力はテレビで見るものよりも、数段上だった。けれどそれが僕の強い関心を呼び寄せるかといえば――必ずしも、そうではなかったのだ。
僕の関心は、最初から前園このみだけだった。
彼女がこの場所でどんな歌を歌うのか気になったから、来ただけだ。
だから今、この空気に馴染めていないのだろう。
最初は生のライブというものを新鮮に感じていたが、次第に慣れてしまった。元来、僕の性質はこういう場所をあまり好まない。周りの客がどんどん温まっていくのに反比例して、僕自身の体温がみるみるうちに下がっていく。
手を打つなり、体を揺らすなりしているが、別に楽しいからやっているわけじゃない。ただ、周りに合わせているだけだ。
そうしないと、不自然だから。
こんな場所でも浮いてしまうのだけは、避けたかった。
そうやって取り繕っている僕を――他でもない僕自身が、冷めた目で見ている。
ライブが始まってから三十分ほど経って、ようやく――本当にようやく、彼女がステージに現れた。その瞬間まで呼吸を忘れていたというように、僕は胸の内から息の塊を吐き出した。
前園このみの衣装は、黒のドレスにピンヒールというもので、シルバーの腕輪を着けている。スポットライトが彼女の髪に当たって、どこか眩しい。彼女の表情は硬く、けれどステージを見回した時に、ほんの少し頬が緩むのを僕は見た。僕以外にも見知った顔がいるはずだから、その人たちを見て、安心したのかもしれない。
まかり間違っても――僕を見て安心したということは、ないだろう。
彼女の他にもステージに立っている人はいるはずだが、申し訳ないほどに、僕の視界には一切入らなかった。
彼女が深く一礼する――おもむろにマイクを手に握る――そして音楽が流れ始める。
薄く開かれた彼女の口から、声が迸る。清流に乗るように僕の耳に届いた瞬間、我知らず息を呑んだ。
夢がいつか叶う時、
そこにあなたはいますか?
遠い記憶の中で輝く、
あなたはどこにいますか?
忘れたい出来事も、
あの日交わした言葉も、
全て偽りというならせめて、
ここにいて欲しい――
失うものを嘆くよりも、
持ちえたものに目を向けて、
これからに意味を持てるよう、
永遠に今を生きよう――
あなたがそこにいなくても、
私はここにいるから、
どんなに時が流れても、
どんなに色が変わっても、
二人で交わした言葉に、
偽りはないから――
繊細な歌声だった。
間奏に入り、前園このみがマイクを握り直す。彼女の頬には朱が差して、肩がわずかに上下している。息遣いすら、間近で聞こえるようだった。
音楽のことはからっきしだが、彼女の歌が上手いことはわかる。けれど、どこか自分を抑えているようでもある。もっと声を絞り出して歌うことも可能なはずなのに、それができない。
まるで、何者かに抑圧されているみたいに。
前園このみの頭上に見えない何かがいて、そいつが抑え込んでいる。だから彼女はどこか窮屈そうだ。
歌――というよりは、叫びに近かった。
けれどその声すらも、満足に出せない。
気づけば、彼女の歌は終わっていた。
それなりに拍手が彼女に送られ、彼女は仲間と共に一礼した。ステージの去り際にひらひらと手を振っていたのだが――誰に向けたものなのかは、わからない。
拍手することを忘れていた。
一拍遅れてそのことに気づき、後悔した。
それから人混みをかき分け、会場を後にする。もう、ここにいる理由はない。
通路を通り、左手に曲がったところで、人だかりができていた。大学で見た顔が何人かいて、ゼミのメンバーもいる。
その中心には彼女がいた。
満足げで、時おり笑って、それから――僕を見つけた。驚いたように目を見張って、口を「あ」の形に開いたのが、離れた距離からでもわかった。
僕はすっと手を上げかけ――彼女も、身を乗り出しかける。しかし、別の誰かが声をかけたらしく、彼女は即座に首をそちらの方に向けた。彼女はすっかり囲まれていて、当分その場から抜け出せそうもない。
僕はプレゼントするつもりだった花を、後ろ手に回した。もう声をかけられる状況じゃないし、人をかき分けて花を贈れるほど、そこまで面も厚くない。
その場で足の向きを変える。
そのまま入り口まで突き進む。
受付のお兄さんがちらりと視線をよこしてきたが、僕は無言で会釈するだけに留めた。
扉を閉めると、騒々しい音楽が聞こえなくなる。
深々と息を吐き、地上へと続く階段を踏みしめた。近くのコンビニに適当なゴミ箱があったので、手に提げていた紙袋を、中身ごと無造作に突っ込んだ。
それから誰にも知られることなく、帰路についた。
その夜――僕はスマホを片手に、文章を打ち込んでいた。
前園このみ宛に、今日のライブの感想を書き綴っている。素晴らしかったとか、君の声に打ち震えたとか、誰にでも書けそうな感想ばかりだ。
文章を見直して、もっと書けそうな気がした。あの時あの場所で感じたものを、そのまま彼女に伝えたかった。
けれど、それをするのはためらわれた。
ステージに立った彼女の熱気に、水を差すことになるのではないか――その懸念を頭から振り払うことは困難を極めており、だからこそ、ありきたりな感想しか書けなかった。
ひとまず、送信。
スマホを放り出し、僕は適当に寝転がった。自分でも説明のつきにくい感情がじっくりと、それでいて確実に僕の胸中を蝕んでいく。
花なんか買うんじゃなかった。
何を恰好つけようとしていたのか。
しばらく横になって、不意に、僕の中に潜む感情の正体に気づいた。自己嫌悪と呼ぶべきもので、しばらく味わっていなかったものだ。
ステージで輝く彼女を前にして、僕自身の影が際立ってしまったのだろう。
それに気づいた時、これまでの記憶が次々と掘り起こされる。中学、高校と――僕は何も為せていないことを、今さら思い知る。
僕はこれまで、何をしてきただろうか。
大学に入って、何かを達成したと、そんな錯覚に陥っていなかったか。
自信を持って為したことなど、今までにひとつもない。中学の時も高校の時も、ただ集団の中にいて、ぼんやりと人を観察していただけ。何かを為そうとしている人間を傍目で見て、頭の中であれこれ評論しているだけの、何もしていない人間。
それが僕。
彼女の知らない僕。
そんな僕が彼女に恋焦がれるなど、最初から間違っていた。彼女に恋する資格など、最初からありはしなかったのだ。
着信音が鳴り、無造作にスマホを取り上げる。
画面に「前園このみ」の名が表示されている。一瞬面食らったが、すぐに気を取り直して、横になったままの体勢でスマホを耳に当てた。
「はい、黒崎です」
『あ、黒崎氏。こんばんはー!』
彼女の声は弾んでいた。
それはそうだろう、と内心で納得する。ひいき目に見ても今日のステージは、成功といえるから。歌を歌い、拍手をもらい、人に囲まれている彼女は、今まで見たどんな人間よりも、輝いていた。
だからこそ――気分が沈む。
けれど、それを悟られてしまってはいけない。
『連絡、ありがとうね! まさか黒崎氏が来てくれるなんて、思わなかったよ』
「そうかな?」
『そうだよ。黒崎氏って、ライブとかあんまり行かなそうなタイプに見えるから。でね、もしかしたらなんだけど、無理してたんじゃないかなぁって』
一瞬、心臓が跳ねた。
彼女とは今日この時まで、一言も交わしてはいなかったはずだ。先ほど送った感想だって、それらしいことを匂わせたりしていない。
「……無理なんて、してないよ」
『そう? その割には言葉に詰まった感じがあったけど』
「気のせい、気のせい」
そう? と重ねて聞いてくる。
そうだよ、と半ば語気を強めて返した。
『それならいいんだけど……ほら黒崎氏ってああいう、騒がしいところとか好きじゃないでしょ?』
「まぁ、ちょっとはね。でも、ライブには興味あったし」
『そっかぁ。でね、どうだった?』
「何が? ライブの感想なら……」
『あ、違う違う。……うーん。私としてはね、黒崎氏ならもう少し突っ込んだ感想をもらえるかなぁって期待してたんだ』
「僕なら? それはまた……随分と買いかぶられたもんだね」
『そう? じゃあ、率直に聞くけど。私の歌、どうだった?』
「…………」
『うまく歌えてたとかじゃないの。黒崎氏にはどんな風に感じたのかなって』
「……なんで、それを僕に聞くの?」
感想を言い合える人、共感できる人なら、いくらでもいるだろうに。それこそ彼氏とかでもいいはずなのに。
なぜ僕なのか、不可解でならなかった。
彼女は僕に、どのような言葉を求めているのか。
そして――どのように接してくれることを、望んでいるのか。
『んー、そうだねぇ。……前に言ったこと、覚えてる?』
「どんなこと?」
『合宿の時。私と君が、同類かもって』
「ああ……」
もちろん、忘れるはずがない。今それを持ち出すということは、今日のライブとなんらかの関係があるのだろうか。
『君にとっては失礼な話かもしれないけど……君と私は、似通っているところがあるなぁって気がしてるんだ』
「僕が、君と?」
『心外?』
「……どうだろう」
正直、戸惑いの方が強かった。僕をつかまえて自分と似ているなんて、それこそ買いかぶりだ。
かといって、一概に彼女の言葉を否定するだけの根拠も度胸も、僕にはない。
「わからないよ」とかぶりを振った。
そうかな、と彼女は言った。首を傾げているのが、目に見えるようだ。
『私の考えすぎなら、それはそれで別にいいんだ。でもね、さっきもらった黒崎氏の感想なんだけど……どうも、らしくないなぁって』
「らしくない?」
『もっと言いたいことがあるんじゃないかなって。黒崎氏にはもっと、手加減なしでぶつかってきて欲しいかなって』
いよいよ、僕は黙りこくってしまった。
このみくんの言葉を、どんな風に受け止めればいいのかわからない。いや、友人としてということは頭ではわかっている。わかってはいるが――もしかしたら、というかすかな希望を抱いてしまいかねない自分がいる。
それではいけない。
期待なんか、してはいけないのだ。
『黒崎氏? おーい』
「…………」
『ごめん。なんか、悪いこと言っちゃった?』
「……いや」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
スマホを耳から離して、虚空を見上げる。鼻から思いきり息を吸い込んで、口から細く長く吐き出した。
勘違いするな、と何度も頭で繰り返す。
再びスマホを耳に当てて、「いいのかい?」と聞いてみた。
『えっと、何が?』
「手加減なしで、と言ったね。本当にいいのかい?」
今度は相手が無言になった。ほんの数秒でしかなかったが、その沈黙は言外に、様々なことを匂わせてくる。
いいよ、と彼女は言った。
『君がどんなことを思っているのか、興味あるの。黒崎氏は、本当は面白い人なのに、本人も周りも気づいてないのがもったいないなぁって思ってるんだ』
「面白い人?」
思わず苦笑を漏らした。
彼女の、僕に対する認識については大いに疑問の余地がある。いずれ腰を据えて話し合う必要があるだろう。
その上で、僕は彼女にこう言ってやらなければいけない。
それは買いかぶりだよ、と。
「わかったよ、君には降参だ。じゃあ、正直に言うよ」
『うん。どーんと来い!』
「まず、そうだね……君の歌についてなんだけど、綺麗だった。音楽には詳しくないけど、お世辞抜きに上手いと思ったよ」
『ふむふむ』
「ただ、なんていうか、自分を抑え込んでいるように見えた。あの会場では少し、異質な感じがしたんだ」
『と、いうと?』
「目の前にいるお客さんのための歌じゃなかった」
『…………』
「僕にも経験があるから、わかるんだ。人を意識しているかどうかによって、自分の生み出せるものが大きく左右されるって。僕は書道をやっているんだけど、人から上手いと思ってもらいたくて書こうとすると、その通りにしか書けないんだ。自分が書きたくて書いたものじゃなくなるんだ。それはひどく窮屈なもので……書道だけじゃなくて、歌でもなんでも共通しているんだと思う。君はあの時、誰かのためにじゃなくて、自分に向けて歌っているように見えた」
『自分に……』
「……とまぁ、これが僕の率直な感想だ。どうかな?」
僕の声音は、挑戦的な響きを帯びていた。
彼女がどう答えるのかはわからない。僕としては、ほとんどやけくそ気味に言ったつもりだった。
手加減なしでぶつかってこいと言ったのは彼女の方だ。だから、その通りにした。けれど、次第に、自分の言ったことがあまりにも馬鹿らしくて、急きょ取り消したい衝動に駆られた。
不意に訪れた沈黙が、怖くてしょうがなかった。
その恐怖を振り払うように口を開いた瞬間、「そっか」と情感の滲んだ返答が来た。今聞いたことがすとんと胸に落ちて、思わず口から漏れたという具合に。
『黒崎氏には、そう見えたんだね。そうなんだ』
「……えっと、気を悪くしたなら、ごめん」
ううん、と僕の声にかぶせてきた。
『率直に言ってくれて、むしろありがとうって感じ。歌っている時は夢中でいられるんだけど、時間が経った後って怖いんだよね』
「怖い?」
『そう。冷静になっちゃうと、どんどん怖くなるの。歌い終わった後はみんな、良かったよって言ってくれるけど、誰もそんなことしか言ってくれないの。もちろん、私に気を遣ってくれていることはわかっているんだけど、その後がちょっとね。わざわざ連絡してくれる人もいるんだけど、そういう人も同じような感想ばかり。これがダメだとかあれがダメだとか、そんな風には言ってくれない。それって、ある意味辛いことなんだよね』
「…………」
『私ね、歌を歌う時は自由でいられる気がするんだ』
僕は無言でうなずいた。
『けど、黒崎氏の言う通りかも。お客さんから拍手をもらえたのは嬉しいんだけど、もっとやれたのかもって思わなくもないんだ。でも、それができるほど図太くないんだ』
「そうかな? 君は割と、図太い神経の持ち主かと思っていた」
『あはは、言うようになったね』
軽快に笑う。
僕もつられて、口元がほころんでしまう。
でも、その笑いが止むと、再び沈黙が訪れた。けれど、先ほどのものとはまるで質が異なる。
お互いがお互いの言葉を、じっくりと吟味している。僕にはまだ経験がないけど――初めて飲むワインを、香りから丁寧に味わうかのような。
その沈黙は、心地良かった。
『……ねぇ、黒崎氏』
「なんだい?」
『今日はね、来てくれてありがとう。本当に嬉しかった』
「ううん、こちらこそ。良いステージだった」
『夏休みだから、しばらく会えなくなるよね』
「そうだね」
『次に会う時は、大学でだね』
「そうなるね」
『体調崩さないように、気をつけてね』
「うん、君も気をつけてね」
『うん。それじゃあ……ほんとに、ありがと』
「……どういたしまして」
そこで、通話は切れた。
僕は起き上がり、スマホの画面をじっと見つめていた。ゆっくりと首を後ろに傾けて、レポートを書き上げた時とは比較にならない充実感を、堪能した。
厄介な人だ。
どこまで僕を惑わせるのだろう。
同時に――そこまで僕を買ってくれていることに、喜びを感じている。情愛とは全く違う、人から信用をもらっているという実感。それは今までに味わったことのない感覚で、だからこそ――情愛と友情の間で揺れている自分が、嫌になる。
だけど、それでもいいと思えた。
そんな風に思えた自分に驚き、しばらくその場から動けなかった。
15.
間宮との退屈で、不愉快な会話を交わした後、僕は当てもなく構内をぶらついていた。
太陽は傾き始め、風も冷気を帯びている。枯れ葉が転がっていくのを尻目に、僕はふと空虚感を覚え始めた。
僕はここに何をしに来たのだろうか。
間宮は、置き忘れたものを回収しに来たと言っていた。僕もそのつもりだったのかもしれないが、今となってはわからない。
ここに来る理由も、もうここに来ない理由も、見失いかけている。
前園このみに会いたかった。
会って、色々なことを話したかった。
けれどそれは叶うべくもないことだ。もはやお互いに立場も環境も違うし、共有できる時間を持てるほどの余裕もない。大学に行きさえすれば、簡単に会えたあの頃とは――もはや違うのだ。
間宮と会ったこと、そして今のように物思いにふけていたことで、僕はすっかり、あることを失念していた。それを思い出したのは単純で、それでいて偶然という外ないきっかけだった。
「黒崎くんじゃないですか」
聞き覚えのある声に、僕は振り向いた。
きっちり分けた髪型に、フレームレスの眼鏡、そして記憶と寸分変わらない温和な笑み――誰であろう、森先生だった。
「どうしたんですか? 幽霊でも見たような顔をして」
「あ……いえ、ちょっとビックリしてしまって」
実際、その通りだった。大泉くんを始めとしたゼミのメンバーから先生のことを聞かされていたはずで、顔を出しに行こうと決めていたはずなのに、すっかり忘れていた自分が情けなかった。
「えーっと、その……」
誤魔化すように頬を掻く。先生は怪訝そうな顔で、僕を見返している。片手にはホットドッグ、もう一方の手には缶コーヒーが握られていて、どうやら先生なりにこの学祭を楽しんでいるようだった。
先生は僕の顔を見て、思案気に目を左右に揺らした。腕時計を確認し、僕に向けて微笑みかける。
「まぁ、こんなところで立ち話もなんですから、私の研究室に来ませんか?」
「え、いいんですか?」
「ええ。しかし、いいところに会えましたね。本当にいいタイミングです」
先生は足の向きを変え、僕についてくるよう促した。
ここはついていくしかない。
森先生の研究室は、A棟の九階にある。エレベーターを待つ間、お互いの健康などについて尋ね合った。
先生は最近、人間ドッグで引っかかってしまったのだと、屈託なく笑った。どうやら内臓に疾患があるらしくて、大丈夫なんですかと尋ねると、大丈夫じゃなかったらこんなところにはいませんと返ってきた。こういうところがいかにも先生らしくて、僕は苦笑してしまった。
僕はといえば、毎日タバコを吹かしているもんだから、まるっきり健康体ではないということを伝えると、先生は苦笑するでもなんでもなく、「そうなんですか」と驚いたように言った。
「タバコを吸うようには見えませんけどね」
「はぁ、よく言われます」
ほどほどにするんですよ、と軽めに忠告を頂く。以前と変わらない調子で接してくれていることに、途方もない安堵を覚える。
九階に上がり、エレベーターホールから左手に曲がって先生の研究室へ。在学時に訪ねた時の雰囲気はそのままで、ほのかに香るコーヒーの匂いも、どこか懐かしかった。
「適当に淹れますので、少し待ってて下さい。砂糖は要りますか?」
「いえ、大丈夫です。ブラックで」
「以前に来た時と同じですね」
「覚えているんですか?」
「ええ。君と前園さんが、二人揃ってここに来た時でしょう? よく覚えていますよ」
はぁーと嘆息し、僕は先生に勧められるまま、来客用のパイプ椅子に腰かけた。
天井の高さまである本棚に、心理学の本がずらっと並んでいる。窓際にある先生のデスクの位置もそのままだ。扉の近くには、決して安物ではないおしゃれなラックの上に、コーヒーメーカー。
何もかも、前と同じだった。
今の〈つづり〉よりも――数段落ち着く。
胸にちくりとした罪悪感を抱きつつも、僕は先生に尋ねてみた。
「ええと、大泉くんとかには会ったんですよね?」
「ああ、そうですね。みんなには会えましたか?」
「はい」
「元気そうで、何よりでした。近頃は卒業生がやって来る気配がとんとないので、少々物足りなく思っていたんですよ」
コーヒーを淹れてもらい、僕は軽く一礼する。
先生は僕と向かい合うようにしてパイプ椅子を引き、腰を落ち着けてから、「さて」と長机の上で手を組んだ。
「お仕事の方は順調ですか?」
「はぁ、まぁまぁです」
「ちなみに、今は何をしているのでしょうか?」
「しがないサラリーマンですよ」
頬をひきつらせるようにして、僕は言った。
先生はうんうんと頷くも、口を開く気配がない。どうやらもっと話を聞きたいらしいと見えて、僕は慎重に言葉を紡いだ。
「ええと、そうですね……今は総務の仕事をやっているんですが、これが色々とやることがありまして。電球の交換から資料の作成まで、とにかく幅広い業務に手をつけないといけなくて」
「なるほど、総務ですか」
「まだまだ新米当然ですが。今でもしょっちゅう、叱られることありますし」
「それも経験ですよ。それに、叱ってくれる人がいてくれることは、ありがたいことでもあります」
「そうですかね……」
腕を組み、僕は宙を仰いだ。
社会に入るまで、叱られるという経験をしてきたことがあまりなかったから、最初の頃はひどく傷ついたものだ。それが自分の不手際であればあるほど、なおさら。
僕の心中を察してか、先生は柔らかい口調で言った。
「若い内の苦労は買ってでもしろといいますが、好む好まざると関わらず、どのような職業でもそういった苦労はつきまとうものなのですよ」
「そうなんでしょうね……僕は、在学時にはそういった苦労とは無縁でいたいと思っていたんですが、いざ社会に入ってみると、どうもそういうわけにはいかなくて」
「そうでしょうね」
先生は眼鏡の位置を直して、コーヒーにひと口つけた。
落ち着いた様子の彼を前に、僕はできるだけ、背筋を伸ばすよう意識する。
こうして先生と向かい合っていると、姿勢を正して、きちんと順序立てて話をしなければいけないように思えてくるのだ。先生自身がそれを求めてきたわけではないけれど、そうすることが彼への敬意を示すことになると信じているから。
「あの、先生」
「なんでしょう?」
「今でこそはうまくいっているように見えますけど、卒業してから一、二年ぐらいは色々とありまして」
「ほう。例えば?」
「まぁ、簡単に言えば、職を転々としてまして。いわゆるフリーターでして」
「ふむ」
「お恥ずかしい話ではあるのですが、一日で職場を逃げ出したこともあります。色んな人に迷惑をかけてしまったと、今では反省するしきりです」
「ふむ……」
「そんなだから、今の職場で続いているのが奇跡のように思えてきて。けれど……このままでいいんだろうか、と思う時が何度もあります。定年まで働ける保証なんて、どこにもありませんし」
「君は今の職場で、定年まで続けるつもりなんでしょうか?」
「……それが、わからないんです」
僕は膝の上で組んだ手の隙間を、じっと見つめた。
「これが僕のやりたいことかといえば、正直言って、答えはノーです。でも、今の仕事もそれなりに充実しています。スキルや経験を積んでいる実感はありますし、周りの人ともなんとかうまくやれています。給料は決して高くはないんですけど、他にはこれといった不満もないですし」
「けれど、不安を感じている。そうなんですね?」
「はい」
「このままでいいんだろうか、と君は言いました。定年まで働ける保証はないし、そこまで続けられるかはわからないとも。であれば、やりたいことをやってみるというのも、ひとつの手ではありますが」
「僕のやりたいこと、ですか」
「君は以前から、文章を書くことに長けていた。書道もやっていたんですよね。その道を究めていく、という考えはあるのでしょうか?」
「……それも、わからないんです」
コーヒーから立ち上る湯気を、ぼんやりと見つめる。
「先生の言うように、その道を究めてみたいと思ったことは、何度かあります。けれどそれで食っていける保証も……覚悟もありません。一年後、もしくは五年後に自分が何をしているのか、それさえも想像できないんです」
「そうですか……」
「何より辛いのは、僕自身のことさえままならないことです。周りの人たちはみんな、結婚とか出産とかして、人生のステップを着実に踏んでいっています。ただ、僕はずっと変わっていない。恋人もいませんし」
「そこは、焦らなくてもいいと思いますが」
「焦って……いるように見えますか?」
「少なくとも、私の目からは」
「……そうなんでしょうね」
椅子の背にもたれかかり、僕はふぅっと息をついた。
「焦っている自覚はあるんです。僕自身何も変わってなくて、周りからはどんどん置いていかれて。進みたい道も見えなくて、ただただ目の前のことをこなすだけの存在になり果てているような……途方に暮れている感じです」
「…………」
「すみません。こんなこと、話すつもりじゃなかったのに」
いいえ、と先生は緩く首を横に振った。
「正直に話してくれて、ありがたく思っています。君の持つ悩みは、青年期から大人になる過程での一種の課題のようなものです。よくあることといえばよくあることで……君と同じように考えている人は少なからず他にもいるでしょうし、順風満帆に見える人たちもまた、その人たちにしかわからない悩みも抱えているはずです。とはいえ、ここまでは一般論です。そしてここからは、私個人の意見を言わせて頂きたいと考えてますが、大丈夫でしょうか?」
念を押すような言い方だった。
僕は息を呑み、それから「大丈夫です」と身構えた。
先生は、事もなげに言った。
「それでいいんですよ」
「……は?」
「悩んだっていいし、道が見つからなくてもいい。目の前のことばっかりにかまけていたっていいじゃないですか。もちろん、何事も限度というものはありますが、目の前のことにすら真剣に取り組めないようでは、この先何をやっても、長続きはしませんというのが私の考えです。……君は自分がサラリーマンをやっていると言った時、ちょっと言葉を濁していましたね」
「は、はぁ」
「それはサラリーマンという職業に、誇りを持ててないということでしょうか?」
「誇り……いや、そんな、大層なものでは……」
僕は慌てて、首を振った。つい、首筋に手が伸びてしまう。
先生の言葉を、そして僕自身の言葉をひとつひとつ吟味する。何を言うのが適当なのかは全く読めない。
けれど、先生に急かす素振りはない。
焦らなくていいんですよ、と背中を叩かれたような気持ちだった。
手を下ろして、先生を見つめ返す。この場に適当であるとかどうとか、そんな小賢しい考えは、一旦横に置いておく。
「でも、そうですね。少なくとも……自分に任された仕事をこなしてきた実感だけは、あると思います」
先生は、深くうなずいた。
「それが誇りですよ。自負ともいいます。それは自信を持つことにもつながります。在学時からそうでしたが、君はもう少し、自信を持っていいと思いますよ」
「…………」
「多少失敗したとしても、一日で職場から逃げ出した経験があるとしても、君は今の職場で自分に課せられた役割を全うしようとしている。それでいいのだろうかと悩む気持ちもわかりますが、それでもいいのですよ、と私は言いたいです。といっても、今の場所に甘んじることとは、全く別の話ですが」
「甘んじる……?」
「まぁ、簡単に言えば、向上心がないってことですね。安定した職業、安定した収入があれば一応、生きていく分には困りません。人間というものはある程度満足すると、それ以上のレベルを求めない傾向にあります。今が幸せならそれでいいじゃないか、と。けれどそれでは物足りないような気持ちになる人もいる。今の君がそうですね」
「……そうかもしれません」
「それが向上心と呼ぶものです。けれど、踏ん切りがつかなくて、その場でぐずぐずしてしまうこともある」
「そう、そんな感じです。今」
「私に言われなくても、君は既にそのことを自覚していますよね。だったら後は何をすればいいのか、君にはもうわかっているんじゃないですか?」
「…………」
「差し出がましいことを言いましたね。申し訳ありません」
「そんな、いいんです」
深々と頭を下げられてしまう。講師にしては腰が低いことで有名な森先生だが、こんなんで大丈夫なのだろうかと、不安になってしまう時がある。
僕はあえて、話題を変えた。
「僕のことはともかくとして、先生の方こそ、どうなんですか? 大泉くんから聞いたところによると、この大学を去るとか……」
「ああ、そのことですか」
先生は尖ったあごを柔らかく撫でた。
「そろそろ、潮時かと思いましてね」
「と、いいますと?」
「この大学で教鞭を執って、かれこれ十年以上になります。私もいい歳ですし、体にも不具合が出てきている。それに……これはオフレコでお願いしたいのですが、大学としては後進の人を育てたいという考えがあるのです。なので、丁度いいと思いまして、私から退職を願い出たのですよ」
「そんな。先生はまだ若いじゃないですか。先生より年上の人はいくらでも……」
「いえいえ、そういうことじゃないのです」
その時初めて、先生は困り顔になった。
僕にどんな風に言葉をかけてあげれば、納得してもらえるだろうか――そう考えている顔だ。おそらくではあるが、僕がどのようなことを言ったとしても、先生の決断は変わらないのだろう。
それを悟った僕は、膝の上で手を握りしめた。
先生は僕の益体のない話を聞いてくれた。これからこの場所で会うことは、もうないだろうから。
だとすれば、僕にできることはひとつしかない。
「先生。差し支えなければ、僕に聞かせてくれませんか? 先生が……どのような思いでこの大学を去るのかを」
「聞いても、あまり面白くないですよ?」
「面白くないかどうかは、聞いた人が決めることではありませんか? 少なくとも僕はそう思っていますし、先生の話をもっと聞きたいと考えています」
「…………」
「このみくん……前園さんがここにいたら、きっと僕と同じことを言うと思います。彼女ならきっと、先生の話に興味を持つはずです」
「……それを言われると、弱いですねぇ」
先生は苦笑しながら、こめかみを掻いた。それから姿勢を正して、「ありがとう」と言った。
「では、私のことを話す前に、ひとつ条件を呑んでくれませんか?」
「なんでしょうか?」
「君と、前園さんとのことです」
僕は一瞬、言葉に詰まった。
いつかは来る問いだと覚悟していたのに、いざこうして切り出されると、崖際に追い込まれたような心境になる。
先生は僕の目をじっと見据えた。
「言いたくなかったら、答えなくても構わないのです。……君は、前園さんに好意を抱いていましたね?」
「……はい」
「それは女性として? それとも、人間として?」
「両方です」
「そうですか……」
先生は、「いや、失礼」とかぶりを振った。
「教え子同士の関係に口を突っ込むなど、野暮以上の何物でもないですね。ただ、君と前園さんとの関係は、非常に興味深かったので」
「興味深い? なぜですか?」
「単なる男女の親愛であれば、私も突っ込んで聞くことはありませんでした。しかし君たちは男女の関係を通り越した何かがあったと、私は見ています。もっともこれは、私の邪推なのかもしれませんが」
「…………」
「君と前園さんとは、どこか深いところで通じ合っていた。違いますか?」
「……いえ、その通りです。でも、なぜそんなことがわかるんですか?」
先生ははっきりと、こう答えた。
「きっかけでいえば、君と前園さんが私の研究室に来たことです。そこから、君たちの関係が少し変わったように見えましたので」
「そうでしょうか……?」
僕は疑問を口にしながらも、先生の言うことは当たっていると確信していた。
かつて、このみくんと共に先生の研究室に訪れたこと。それから共に、帰り道を歩いていったこと。
そして――帰り際に、彼女が僕に話したこと。
忘れようがない。
今でもあの時のことは、はっきりと思い出せる。
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