「大学一年」

     4.


 僕が光和大学に入学したのは、十年前だ。もう、昔の出来事といっても差し支えないだろう。

 中学や高校の時のような『入学式』はなく、『入学登録式』という呼称になっている。どう違うのかと言われても困るのだが、学生自らが名簿にサインすることで光和の学生としての自覚を得る……ということらしい。

 らしい、というのは後で先輩から聞いた話だ。

 光和大学は――学風といっていいのかはわからないが――自由を謳っている大学だ。何を学ぶかは自由、何をするかは自由、あまつさえ寮に泊まるのも部室に泊まるのも自由……なのだそうだ(最後のは少々、自由と無秩序とを履き違えている気もするのだが)。それぞれの学科によって必修科目はあるものの、必要な単位を取得するために学ぶ講義を自分で選択することができる。

要するに、講義のバイキングだ。

例えば学科の違う友達と同じ講義を受けることができるし、講義自体も法律や語学、経済学や情報システム等はもちろんとして、映像関係も取り扱うほどバラエティに富んでいる。

ただし、自分で講義を選ぶのだから、自分で時間割を組み立てる必要がある。単位が必要だから、面白そうだからってあれもこれもと選択しすぎると、後で泣きを見る羽目になる。かといって、必要な単位だけ取ればいいからって最小限の講義しか選ばないでいるのも、それはそれでデメリットはある。

 僕の場合はというと。

入学前に配布される講義の情報誌(通称、シラバスと呼ばれるもの)を参考にして、登録式の前日までにすっかり時間割を作成してしまっていた。そのことを後で人に話したら、たいそう驚かれた。友達と相談して、一緒に受ける講義を選択してもいい、というやり方を教えてもらい、今度は僕が驚く番となった。てっきり、自分(だけ)で考えて時間割を組み立てるものなのだと思い込んでいたから。

 この点だけを鑑みても、当時の僕は相当視野が狭かった。

 僕は人間心理学科という、字面だけで見ると心理学者もしくは、カウンセラーの講義が受けられそうな学科に入っていた。実際、心理学に関する資格を取得できるそうだ。であれば卒業生は先ほど挙げたような職業に就くのだろうかと漠然と考えていたのだが――必ずしもそうではないことを、後に知ることになる。

「ほら、一兎。もう少し、右に寄って」

「ここでいいよ」

「駄目よ、こういうのは一生ものなんだから。写真に妥協したら、後でずっと後悔することになるわよ」

「……わかったよ」

 母の押しに、僕は渋々従った。

僕は今、「入学登録式」と掲げられた看板の脇に立っている。

天候は曇りひとつない青空。日差しもそれなりに強い。体温がにわかに上昇しているのは、慣れないスーツを着ていることと無関係ではないだろう。先の尖った靴に、この日のために新調したネクタイを着けているので、肩がこることこの上ない。そして、スーツをはじめほとんどが母の見立てである。スーツに関しては袖が余っている始末で、そのことが僕を一層げんなりさせた。

もう成長期は過ぎたのだからこれ以上大きくなることはないと言ったのだが、「そんなの、わからないじゃない」と一蹴された。あえて大きめのスーツを買うことにどのようなメリットがあるのか、当時の僕にはまるで見当がつかなかった。

「はい、一兎。笑って笑って」

「…………」

 続けざまに二回、三回とシャッターを切る。一枚で十分なのに、どうして何枚も撮る必要があるのだろう。母の近くには写真待ちと思われる学生とその親が列をなして並んでいて、彼らの視線がいたたまれなく感じられた。

「もういいよ、母さん」

「そう?」

「待っている人いるし、もう行こうよ」

「そうね。……あ、すみません。すみません」

 待機している学生と親に向かって頭を下げつつ、母は僕に歩み寄った。いつになく、上機嫌のように見える。

母とは対照的に、僕の気分は沈みかけていた。

出だしがこれだと、先が思いやられる。

内心でため息をつき、看板の先に続くゆるやかな坂を上っていった。右手に直方体の建物――通称、A棟という名称らしい――を通りすぎ、パレストラへ続く階段を上がる。

パレストラとはざっくり言うと、体育館を含めた複合施設だ。

パンフレットによれば、ちょっとしたトレーニングルームがあり、ガラス張りのダンスルームもある。建物自体が大きいので、ボルダリングの設備もあるそうだ。

 そしてちょっと変わっているのが、パレストラへの入り口だ。

 建物の高さは四階まである。普通は一階から入るものだと思いがちなのだが、そうではない。A棟と地続きになっている広場から、吹き抜けの通路を通って、四階へと入っていくのだ。この変わった構成は、大学自体が高低差のある敷地の上に設立されているためである。

 通路を通り、真新しい雰囲気のパレストラに足を踏み入れる。そこから階段を下りて、一階へ。メインアリーナと呼ばれる広い空間に辿り着くと、既に大勢の学生が席に着いていた。壁際には保護者と思しき人たちがどことなく不安そうに、あるいは誇らしそうに学生たちの後ろ姿を注視している。

「一兎、お母さんはここで待ってるから」

「うん」

「名前を呼ばれたら、ちゃんと返事をするのよ」

「いや、その必要はないんだってば」

「そうなの?」

 首を傾げる母に、大丈夫という意味を込めて軽く手を振った。すると母は嬉しそうに、大げさに応えた。僕が背中を向けても、母はまだ手を振っているような気がして、それが余計に憂鬱だった。

 普段はろくに干渉してこないというのに、なぜ、こういう時に限って当人よりも張り切るのだろうか。

 メインアリーナの最前列には棒付きの看板が、端から端まで並んでいた。所属する学科の名称が記載されているので、迷うこともない。人間心理学科は左端から二番目のところにあった。

 ふと、非常口の近くに、大きめのスクリーンがあった。その手前には、パソコンのキーを叩いている学生の姿がある。彼らの隣に座る学生はモニターを見つめていて――なんだろう、と僕は不思議に思った。

 後でパンフレットを読み返して気づいたことなのだが、光和大学にはノートテイク制度がある。聴覚障害を持つ学生のために、有志の学生がボランティアで講義の内容を書き留めるのだ。パソコンを使ってもいいし、普通に書いてもいい。更には手話通訳者を呼べる制度もあるというのだから、僕としては驚くと同時に、感心もした。講義を自分で選び、その内容を知るための制度もある。この大学はそういった細やかな気配りができるのだろう――と多少楽観的にはなれた。

 さて――人間心理学科の席は、半分以上が埋まっている。これから彼らと共に学んでいくのだろうと感慨に浸ったかといえば、必ずしもそうではなかった。転校生が見知らぬ顔ばかりの教室の中に飛び込むのと、同じような感覚だといえば、わかるだろうか。

 顔も名前も知らない人と隣り合うのは、ストレスだ。それを表面には出さないよう、できる限り慎重な足取りで、空いている席に座った。運よく、誰も両隣にはいなかったのだが、それも時間の問題だ。

 やがて、背後からぞろぞろと人が入ってくる気配がした。肩越しに振り返ると、成人式とでも勘違いしているのか、異様に目立つ格好をしている若者が数名いた。白いスーツを着ていたり、あるいはじゃらじゃらとアクセサリーを着けていたり。髪も染めている者もいて、肩で風を切るようにして、これでもかと自己主張している。

 確かに、入学登録式で服装の指定はなかったが、これはないだろう。

 あるいはこれも、大学デビューの一環なのかもしれない。ただ、あまり関わり合いになりたくないタイプだ。

 見なかったふりをして、僕はひとまず前を向いた。

講壇にはまだ人が立っていない。

ポケットからケータイ(この時はまだ、ガラケーだ)を取り出し、時刻を確認する。式が始まるまで、まだ二、三分ある。

 正直に言えば、この時の僕は緊張していた。先ほどから心臓がどくどくと脈打っているし、肩もこわばっている。周りの話し声も耳に入らなかったぐらいだ。

だが、それでも僕より前の席――最前列――に座っている、ある人の横顔だけは目に入った。

 派手な金髪の女性だった。

隣の席の学生と、何やら話している。見知った顔だろうか、あるいはこの大学で出会ったばかりの人だろうか――いずれにしてもこの状況下で他人と話せるということは、僕にとってはあり得ないことだった。

 何か愉快なことでもあったのか、控えめに笑っている。口の両端を少しつり上げて、くすくすと喉を鳴らしているような――そんな笑い方だ。

僕はちょっとしたギャップを感じていた。てっきり、ああいう見た目の人は、大口を開けて手を叩くなりして笑うものだという認識が、少なからず僕の中にあった。その認識は中学から高校時代にかけて培われていたもので、少なくとも今の彼女のような笑い方をする人は、ほとんど見かけなかった。

 どこかでブザーが鳴る。

 気づけば僕の両隣には、見知らぬ男子が座っていた。どちらも無口そうで、不愛想で、緊張しているようにも見える。

右隣の男子とちらりと目が合ったが、先にそらされてしまった。もう一方の男子は腕を組んで目を閉じているから、取り付く島もない。だからといって、何か会話を交わそうという気は、最初からなかったのだが。

 それでも、どこかいたたまれない気持ちで肩をすぼめ、講壇に視線を注ぐことに集中した。するといかにも教授といった見た目の――高級そうなスーツに加えて、口ひげを生やしている――権威と肩書とをありったけ積んだ顔もちの男性が、講壇に上った。

 おそらく、学長なのだろう。

 講壇に立つ人というものは、両手をつけて前のめりになるものらしい。その場にいる全員を見渡せるように。そして、その場にいる全員の注目が自分に注がれているのだと実感するために。

学長と思しき男性は満足そうにうなずき、マイクをとんとんと叩いた。問題がないことを確認してから、「えー」と第一声を放った。

「入学生の皆さん、おはようございます」

 うやうやしく、頭を下げる。

 僕は周りに合わせるべく、ほとんど肩をすくめるようにして、頭を下げた。

 簡単な自己紹介から始めたその男性は、やはり学長だった。僕から見て左側――先ほどのスクリーンに、白い文字が次々と表示されていく。補聴器をかけている学生は、そのスクリーンをじっと見つめていた。

なるほど、こういう感じなのか――と感心しかけたところで、学長はマイクを手に持った。

「これから皆さんは、光和の学生としての第一歩を踏み出すこととなります。ご存じの方もいらっしゃると思いますが、あえて説明させて頂きます。光和は一言で言えば、自由な大学です。自由というと何物にも縛られずに好き勝手に行動できるというイメージかもしれませんが、実際はまた別です。何を学び、何を得るのか、自らで判断し、その責任を実感していって欲しいと思っています」

 その後も長々と続け、終わる頃にはそれなりに拍手が上がった。僕もそれに合わせて、手を叩く。

 不意に、最前列に座る金髪の女性が、しっかりと拍手していることに気づいた。学長の話に、真摯に耳を傾けていたらしい。意外と真面目な人なのかな――と益体のない感想を持ったところで、会場全体に動きがあった。

 学科の名称が記載された棒付きの看板が、職員と思しき人たちの手によってメインアリーナの脇に移動させられる。先ほどは気づかなかったが、看板があった場所の前には、長机がぴっちりと幅広く設置してある。上には紙の束。おそらくあれに、自分の名を記載していくのだろう。

 職員たちの誘導で、学生たちが列を作る。

僕も、周囲に合わせて動く。

金髪の彼女は先頭から二番、三番手ぐらいだった。何事か書き込んでくるりと身を翻したその時、口元に力強い笑みを浮かべているのがはっきりとわかった。猫を思わせる切れ長の瞳に加えて、颯爽と歩くその姿に、僕以外の学生からも注目を浴びている。

 紛れもなく、美人だった。

 白い面に、桃色の唇。まつ毛がカールしていて、目はぱちりと開いている。細く、しなやかな体つき。背筋を伸ばし、誇らしげに胸を張っている。人目を引くその容貌に、僕は思わず目を背けていた。

苦手なタイプだ、と反射的に思った。

 金髪で、美人で、スタイルも良くて……僕とは一切、縁遠いタイプの人だ。しかも、よりにもよって同じ学科とは。

 僕の横を通りすぎていった彼女は、そのままパレストラから出ていった。僕はその後ろ姿をちらりと見送って――いつの間にか前の人と距離が空いていることに気づき、慌てて歩を進めていった。

 出会いとも呼べない、一瞬の出来事。

 だが、それだけで僕が彼女のことを意識するには十分すぎた。


     5.


 入学登録式は、午前中に終わった。

パレストラを出た後で、僕はサークル棟と呼ばれる場所へ向かうことにした。

 母はついていきたそうな顔をしていたが、できるだけやんわり断った。サークルに入るつもりの学生が親を引き連れて来たら、どんな顔をされるかわかったものではない。

 結果論ではあるが、連れてこなくて正解だった。

「うわ……」

 サークル棟のあるその敷地は、さながらスラム街のごとく雑然としていた。

 ゴミが散らかっているのは当たり前、もはや廃棄対象としか思えない木製ベンチの上には、泥水の溜まっている器がある。縦に長い看板がそこら中に放置されていて、ところどころ塗装が剥げている。屋台にでもするつもりだったのか、細長い木材を組み合わせただけの、中途半端な出来の代物まである始末だ。

先ほどの真新しいパレストラを思い出し、文字通りの雲泥の差に唖然とする。

 とんでもないところに来てしまった。

 その場で引き返したい衝動に駆られそうになったが、すんでのところで堪えた。ここまで来て背を向けてしまったら、何のために来たのか。

 変わるつもりではなかったのか。

 大学に入って、それまでの自分を捨て去るつもりではなかったのか。

 鞄と、シラバス等を入れた紙袋が、やけに重たい。折り目のついたサークル紹介のパンフレットをもう一度確認し、僕はいよいよ腹をくくった。

 横に長い建物が身を寄せ合うようにして、僕の前にそびえ立っている。個々の建物の間にある階段を下り、左手に曲がると、直線の通路に入る。蛍光灯がいくつか灯っているものの、それでも全体的に薄暗いし、おまけに埃っぽい。萎えそうになる自分を必死に奮い立たせ、通路を横切っていく。

十メートルほど歩いた先に、目的の部室はあった。

一見してわかるボロボロの引き戸には小さな木製のプレートが掲げられており、赤字でこう記されていた。

〈総合文芸サークル つづり〉

「ここか……」

 引き戸には他にも部員募集や、新入生歓迎会のチラシ等が乱雑に貼られている。その中には、「盗難注意!」という物騒な文句まである。

 先ほど、さながらスラム街だという印象を抱いたが――それは決して、間違ってはいないようだ。

「…………」

 いよいよ本当に、引き返した方がいいのかもしれない。

 こういう場所は、僕にはそぐわないのかも。

 首を振り、この期に及んでためらっている自分が、途方もなく嫌になった。中学、高校の頃を思い出せば、何もしないでいることは、ほとんど罪のように思えてならなかった。

 一歩踏み出せば、変われるかもしれない。

 意を決して、引き戸の取手に手を伸ばそうとしたところで――あることに気づいた。

妙な匂いがする。

 加えて、引き戸の隙間から、煙が漏れている。

まさか――火事? いや、違う。

この匂いはタバコのものだ。

まさか白昼堂々、大学内でタバコを吸う人がいるのか。高校だったら停学ものだ。

いや、それよりも、空調設備は大丈夫なのだろうか。万が一ここで火事が起こったら、どうするつもりなのか。消火器はあるのか。この大学に来るまでに消防署は見かけなかったはずだから、火事があったら対処が遅れるのではないか――

そのように煩悶している僕は、傍から見れば手を上げかけたまま、呆然と立ち尽くしているようにしか見えなかったことだろう。

入るべきか、入らざるべきか。

 ここで決断しなければ、僕は――また同じことを繰り返す。

「……ええい!」

僕はほとんど勢い任せに、引き戸に手をかけた。ガタッと大きな音がして、そのままガラガラッと横に開けると、三人の男女がこちらに目を向けていた。

僕の真正面――指にタバコを挟んだショートカットの女性が、ぱちくりと目を開いている。

「あー、びっくりした……」

 そう言って、空いた手で胸を押さえていた。

 狭い部室だった。真ん中に長机が置かれていて、それを取り囲むようにしてベンチが配置されている。その内のひとつ――ベンチに横たわっていた男性が、むくりと身を起こした。長髪を後ろで無造作に束ねていて、どことなく黒澤明の映画に出てくるような、風来坊を彷彿とさせた。

「もしかして、新入生?」

「あ、はい……」

「入部希望?」

「は、はい」

「マジか」

 長髪の男性が、いよいよ目を見張った。

「なんと……」

 残る一人――眼鏡の男性が、驚きの声を上げる。

「よりにもよって、ここに来るとは……」

 半ば呆然と、首を振っている。この中で一番穏やかそうな人に見えるのに結構な物言いだ。

「ねぇねぇ君、名前は?」

 ショートカットの女性が前のめりになる。大きな黒目で、まっすぐに僕を射抜く。一段と心臓が跳ねて、そのせいで喉が詰まりそうになった。

「あ、く、くろ……黒崎、です」

「下の名前は?」

「え? あ……い、一兎です」

「イット? どう書くの?」

 タバコを挟んだ指をひらひらと動かす。

「ええと……ひとつの『一』に、ウサギの『兎』です」

「へぇー、一兎ねぇ。オシャレな名前。……あ、あたしは山岸伊織っていうの! 気軽にオリって呼んでね!」

「あ、はい、よろしく……です」

 三人それぞれに、頭を下げる。

伊織さんという女性は興奮を隠しきれない様子で、僕の目をじっと見てきた。

「ねぇねぇなんで、ここに入ろうって思ったの?」

「え?」

「特技は? 趣味は何?」

「えっと、その……」

「あ、入部届! ……って、スミス。そういうの作ってあったっけ?」

「いや、作ってないなぁ」

 眼鏡の男性もとい、スミスさんが答える。なぜ、スミスなのだろう。

 僕が首を傾げていると、見かねたように長髪の男性が伊織さんを手で遮った。

「オリ、そのぐらいにしてやれ。困ってるだろ」

「あ、そっか。ごめん」

 しょんぼりと肩を落とす。

「すまんな」と長髪の男性が、首筋に手をやる。

「新入生が来ると、いつもこうなんだ。大抵はこのテンションについていけなくて、すぐにどっかに行く。悪く思わないでくれ」

「あ、だ、大丈夫です」

「そうか? あまりそうは見えないんだが……」

「大丈夫、ですっ」

 一層力を込めて返事したつもりだったが、三人は怪訝そうに顔を見合わせるばかりだ。

何がいけなかったのか、まるでわからない。

 気を取り直したように、長髪の男性がベンチの上であぐらを組んだ。口の片端をつり上げて笑うその顔は、不敵な風来坊そのものだった。

「ちょうど良かった。さっきまで新入生来るかどうかって話をしていたところでな。いきなりでなんだが、この部は今、ちょっとした存続の危機でな」

「え、存続?」

「今年、部員が増えないと、もしかしたら潰れるかもって話なの」

「え?」

「というわけで君がもし、本当にこの部に入ってくれるっていうんなら、俺たちとしてはありがたい話なんだなぁこれが」

 伊織さん、スミスさんが続けて言う。存続の危機というのなら、なぜこの人たちはこんなにあっけらかんとしているのだろうか。

「えーっとまぁ、黒崎くん、だったか? 俺は三年の富平っていうんだ。とりあえずよろしくな」

 風来坊改め富平さんが、手を差し出してくる。僕はとっさに握り返したが、その力強さに驚いた。文芸サークルなのに、握力が強いとはどういうことだろう。

「俺は澄川。みんなからはスミスって呼ばれてるよ」

 もう一度、握手。

富平さんと比べて線が細いので、こちらの人の方がそれっぽく見える。

「あたしは……もう自己紹介したっけか。んじゃ、握手握手!」

迷いなく手を差し出してきたので、僕は一瞬ためらった。おそるおそる手を伸ばすと、間髪入れずに向こうからぎゅっと掴まれた。富平さんやスミスさんとはまるで違う、柔らかで温かな感触。

 女性と手をつなぐのなんて、小学校以来だ。

 大学に入って、まさかこんなベタな体験をするとは。

 それから〈つづり〉についての簡単な説明を受けた。三人とも、僕が入るのを喜んでくれているようだった。伊織さんから「何が得意なの?」と聞かれて、「習字です」と答えたところ、三人とも微妙な顔つきをしていた。

「習字か……これまた、変わった奴が入ってきたもんだ」

「何か、マズかったですか?」

「いんや、全然。むしろウェルカムって感じ?」

「はぁ……」

「俺たちはこれでも一応文芸サークルで、基本的には短編小説とかを書いて、見せ合ったりしているんだ。でも、今までに習字が得意って奴はいなかったからなぁ」

「まぁいいんじゃないか、スミス? 字が上手いに越したことはないだろ?」

「そうだね。看板を書く時とかに、役に立つと思うな」

「ねぇねぇ、書道の腕前って、ぶっちゃけどのくらい?」

 ストレートに聞かれてしまったので、答えに窮した。中学校の時に銅賞をもらったぐらいで、あまり人に誇れるものでもない。

 ただ、そのことを話したら、「ほぉー」と感心された。

「賞をもらっているだけ、十分すごいよ」

「そ、そうですかね……?」

「そうそう。俺たちの先輩で、何回も新人賞に投稿している人もいるんだけど、見事に落選続きでへこんでばっかりだし」

「こないだなんか俺の内に来て、散々グダ巻いて、そのまま帰っていきやがったしな」

 富平さんが不満げに頬杖をつく。中学校の時の銅賞と、新人賞とを同列に語ってもいいものなのだろうか。

 先ほどスミスさんが言っていた通り、入部届というものはないようだ。口約束だけで入っていいものなのだろうかと多少不安になったが、三人は久々の新入部員ということで、かなり盛り上がっている。

「面白そうなのが入ってきたなぁ」とスミスさん。

「これから面白くなりそう!」と伊織さん。

「まぁ、とりあえず仲良くやっていこうじゃないか」と富平さん。どうやら彼がこのサークルのまとめ役らしい。「気軽に、編集長と呼んでくれていいからな」と、得意げに腕を組んで、思いっきり胸を張る。

 しかし、仲間の突っ込みは容赦なかった。

「そんなの、テキトーでいいよ。『トミー』って呼んじゃってもいいし」

「そうそう。なんならそっちで、適当なあだ名をつけてもいいと思うなぁ、俺は。ちなみに俺のオススメは、『落ち武者』」

「お前ら、好き勝手なことを言いやがって」

 軽口を叩き合う三人。僕はその会話についていけず、ただ不器用な愛想笑いを浮かべることしかできなかった。

 いつ来ても大丈夫ということだったので、ひとまず安堵する。部室でタバコを吸っているのはどうかと思うけども、いい人たちのようなので、それなりに不安は和らいだ。

 明日また来ることを告げ、部室を後にする。

 通路を数歩歩いたところで、僕ははぁっと胸から息を吐き出した。

 緊張した。

 受験で面接した時よりも、体がこわばっている。

 手には先ほどの感触が残っていた。富平さんの力強い手、スミスさんの線の細い手、そして伊織さんの柔らかな手。

人と手をつなぐこと自体に慣れていない僕は、その感触をどう受け止めていいのか、わからなかった。

 でも、悪い気はしなかった。

 受け入れてくれた――のだろうか。

 不思議な感覚を抱えつつ、僕は建物から出た。やるべきことはやったので、今日はこのまま帰ってしまおう。

とりあえず、来た道を辿ろうとして――先ほどの、金髪の女性と出会った。

「あれ?」

「あ……」

 サークル棟の敷地から、構内へと続く階段を上がったところだった。あまりに突然の出来事だったので、頭が真っ白になる。

 なぜ、こんなところに。

ほとんど不意打ちだ。

 僕の動揺をよそに、彼女はおずおずと尋ねてきた。

「もしかして、人間心理学科の人?」

「あ、う、うん……」

 彼女も僕を前に、戸惑っているようだ。不審なものを見る目つきではない。

「さっき、ちょっと見かけて、気になってたんだ」

「僕を?」

「ん」と彼女は自信ありげにうなずいた。

さっきちょっとすれ違っただけなのに、僕のことを覚えていたのだろうか。だとしたらなんという記憶力だろう。

「そうだ、自己紹介がまだだったよね。私、前園このみっていうんだ」

「ぼ、僕は……黒崎、一兎」

「イット? もしかして……ひとつの『一』に、ウサギの『兎』?」

 僕はいよいよ面食らった。名前を聞いただけで漢字を当てた人には、今まで出会ったことがない。

 彼女はちょっとだけ、僕の方に顔を寄せてきた。

「当たってる?」

「う、うん。すごいね、君」

「いやぁ、それほどでも」

 にんまりと笑う。なぜこんなにも自信たっぷりに、人に笑いかけることができるのだろうか。否応なしに胸が高鳴り、僕はその動揺を悟られないよう、できるだけ無表情であることを努めた。

 彼女は緩く腕を組んで考え込み、「黒崎、一兎くんかぁ……」とつぶやいた。そして何かを思いついたように、ぴんと指を立てる。

「じゃあ、あだ名は黒ウサギくんだね!」

「え?」

「決まり、決まり! 私のことはなんでも呼んでくれて構わないから!」

「ちょ、ちょっと待って……」

 思わず両手を上げて、押さえる仕草をする。ほぼ初対面なのに、いきなりあだ名をつけられるのも初めてだ。

 彼女――前園このみは小首を傾げた。それからはっと気づいたように、素早く両手を合わせる。

「ごめん、気に入らなかった?」

「い、いや、そういうわけじゃないんだけど」

「いきなりあだ名をつけるのは良くなかったね、反省反省」

 いやー、と困り顔になった。さっきからずっと彼女のペースで、僕は翻弄されっぱなしだ。

前園このみは僕の頭からつま先を、じぃっと眺めてくる。どこか、おかしなところがあるだろうかと、今さら服装や髪形が気になって仕方なくなった。

彼女は柔らかそうな唇に、人差し指を当てた。そんな何気ない仕草でさえも、人を惑わすようなところがある。

「ええと、じゃあ……黒崎氏っていうのはどう?」

「え、氏? あ、あの……それは一体、どういう?」

「ん? なんか君、それっぽいし」

「…………」

「嫌?」

「いや、そんなことは」

 僕は慌てて、首を横に振る。

すると前園このみは、ほっと胸をなで下ろした。

「じゃあ、同じ学科ということで、これからよろしくね! 黒崎氏!」

 迷いなく、手を差し出される。

いいのだろうか。

 かといって、何もしないでいるのは失礼だ。僕は彼女の手を、できるだけ緩く握り返した。今日だけで二回目だ。

「僕の方こそ、よろしく……」

「じゃあ、私。他にも用事があるから行くね! またね、黒崎氏!」

 嵐のように現れて、嵐のように去っていく。

僕はただ呆然と、走り去っていく彼女の後ろ姿を見送る外なかった。

 これが、彼女――前園このみとの、初めての接触であった。


 当時の僕は挙動不審だった。

 過剰なほど周りを気にしているくせに、それを表情には出さないように取り繕っているつもりだった。だけどそんなもの、先輩たちからすればバレバレだった。もちろん前園このみも早い段階で――いや、初めて話した時からとっくに見抜かれていた。

 それにしても彼女はなぜ、入学登録式で一瞬すれ違っただけの僕を覚えていたのだろうか。見た目だけでいえば、僕よりも派手な人はいくらでもいただろうに。

 その理由は、しばらく後に知ることになる。


      6.


 最寄り駅から光和大学までは、徒歩十五分の距離にある。

 専用の学バスはあるのだが、僕はあえてそれを使わず、歩いていくことにした。体に馴染んだ風景と空気とを堪能したいというのもあるが、それは一応の建て前だ。

 おそらく母校に行くのは、これが最後になる。

 そのことは誰にも伝えていない。それに、伝える必要もないことだ。仕事で忙しいんだろうと、周りは勝手に思ってくれる。強制されているわけではないし、行く行かないは個人の自由だ。

 大それた理由なんてない。わざわざ足を運ぶだけの理由が、見当たらなくなってしまったからだ。

知っている人が卒業を機に、次々といなくなっていく。

恩師の森先生だって、いつまでも光和大学にいられるわけではないだろう。先生も忙しい身だし、僕に構っていられる余裕があるかはわからない。

〈つづり〉のメンバーとも、最近はご無沙汰だ。今さら何を話せばいいのか。昔話に花を咲かせたくても少々苦い過去もあることだし、僕自身、そういうことができるキャラクターでもない。

 要するに、母校に顔を出すのはこれが最後だから、安っぽいセンチメンタリズムに浸るために、わざわざ徒歩で行くのである。

 酔狂という外ない。

 駅を出て、にぎやかなアーケードを左手に進み、踏切を越える。

 一軒家の並び立つ小道を通り抜けると、広く開けた場所に差しかかる。堤防のある川を見下ろしながら道沿いに歩くと、川の真ん中に架かっている橋が見える。「光和橋」という名の、ごくごく小さな橋だ。それを渡ってそのまままっすぐに行くと、車道にぶつかる。右手に折れ、そのまま坂を上っていけば、光和大学に着く。

 何度も通ってきた道ではあるけれど、歳のせいか、あるいはタバコのせいか、光和大学に着く頃には、すっかり息が上がっていた。昔は買い出しのために大学から駅前のスーパーを往復していたものだが、今では無理だろう。

 A棟へ続く急な勾配を、一歩一歩踏みしめていく。両側のフェンスにはペンキで塗りたくった鮮やかな看板が並んでいる。その中には、〈つづり〉のものもあった。どうやら今年はホットドッグを販売しているらしい。

 なぜ、ホットドッグなのかを考えても栓はない。僕が現役だった頃は個々による短編小説をまとめた同人誌の販売を行っていたのだが、まるっきり、不振に終わってしまった。そのため、翌年には豚汁などを販売して、部費を稼ぐ方向にシフトしていった。それと同時に懲りずに同人誌も合わせて販売していたのだが――これに限ってだけは、やはり不振に終わった。

 それでも、食品と同時に同人誌とを合わせて販売するというやり方は、年ごとに功を奏していった。後輩たちがSNS等を駆使して、『同人誌を販売している』ということを内外にアピールしていったためだ。

今でもおそらく、そのやり方は定着していることだろう。

右手側にA棟を眺めつつ、構内へ続く吹きさらしの階段を上がっていく。バルーンで作った入り口が設けられていて、それをくぐると、運動会で見かけるような、白い屋根のテントがあった。

その下ではスタッフと思しき学生たちが、何かを配っている。遠目からでも目立つようにするためか、蛍光グリーンのジャケットを羽織っている。僕に気づいたらしい学生が、威勢のいい声で「いらっしゃいませ!」と声をかけてきた。

ひとまずテントに向かう。どうやらここでパンフレットを受け取れるらしい。受付してくれたのは、まだ幼さの残る顔立ちの女子だった。

「ええと、在学生でしょうか?」

「いえ、卒業生です」

「そうなんですか。光和祭にようこそ! こちら、パンフレットになります」

「どうも、ありがとう」

「楽しんでいって下さいね!」

 僕は快く応じるように、片手を挙げた。

 B5サイズでカバーのあるパンフレットを手に、テントから離れる。光沢もあるなんて贅沢だなぁと思いつつ、ページをめくる。

 まず、大学内の簡単な見取り図。屋外のステージで行われるショーのスケジュールなども記載されている。次のページからは個々のサークルの出し物についての詳細が載ってあり、イラストも文字も、手書きがほとんどだ。最後の方には協力者や団体、お店の名が記されていて、ご丁寧に地図までついている。

パンフレットは――外見こそはお金がかかっていそうだが――中身自体は昔とほぼ変わらない。見慣れた名前のサークルが屋台をやっているところも、屋外のステージでライブが行われているということも、ほとんど昔の使い回しなのではないかと思うぐらいに、既視感がある。

 けれど、それがいいのだ。

 構内には木材で組み合わせた屋台が立ち並んでいて、既に多数の学生であふれ返っていた。そこかしこから主にソースの匂いが立ち上っているが、別段食欲はそそられない。学生主体のイベントであり、学生が作ったもので、何度も経験しているから、味の程度はもはや知れている。

 変わらないな、と思う。

 この空気、この雰囲気。

日常と非日常との境目にあるこの空間。今だけしか感じることのできないもの。かつての僕はこの空気と共に生きてきた。構内を歩く、かつての僕の姿が目に見えるようだ。誰かと一緒に食べ物をつまみながら、他愛のない会話を交わす――その姿が、今ではもう手の届かない場所にある。

 早く来すぎてしまっただろうか、と腕時計を確認する。ちょうど、正午に差しかかったところだ。〈つづり〉に行けばおそらく誰かしらに会えるだろうが、どうも今はそういう気分にはなれなかった。かといって構内で鉢合わせになるのも、できれば避けたい。

 どうしたものかと思案していたところで――

「黒崎くんじゃない?」

 どこかで聞いたような声に、僕は振り向いた。

 四人の男女が構内の一画で固まって、僕を見て驚いている。

彼らはかつてのゼミのメンバーで、記憶にある姿とほとんど変わらない。どこか遠慮がちに、顔を見合わせている。ここで無視をするのもどうかと思い、僕の方から話しかけてみることにした。

「やぁ、久しぶりだね」

「うん、久しぶり。元気にしてた?」

「まぁまぁね。みんなは?」

 それぞれ、「元気だよ」とか「絶好調!」とか返してくれる。四人の中に一人、ノリのいい性格である大泉くんがいたことで、随分と気が軽くなる。背が高くて、赤いフレームの眼鏡をかけていて、全体的に細身なので、一見するとモデルっぽく見える。加えて、雰囲気も明るいから、ゼミ内ではかなりの人気者だった。

「黒崎、お前も来てたんだ? なんか意外だなぁ」

「そうかな? そういう君たちだって」

「俺たちはまぁ、プチ同窓会みたいな感じで。森先生にも挨拶しておこうかなって思っててさ」

「そうなんだ。先生にはもう会ったの?」

「ああ。なんか、来年の春にいなくなるっぽいよ」

「え。……そうか」

「残念だよなぁ」

 はぁー、と大げさなほどにため息をつく。昔からこうだったけれど、反応がわかりやすい人というのは、僕は嫌いじゃない。

「でも、いなくなる前に会えて良かったわね」

「そだなー」

「森先生、元気そうにしてたよ。前より、痩せちゃったけど」

 それぞれが森先生の詳細について語ってくれたので、僕はしきりにうなずいた。

 大泉くんがついつい、と肘で小突いてくる。

「なぁ、黒崎は森先生にもう会ったんか?」

「いや、まだかな」

「なるべく早い方がいいと思うぞ。先生、夕方には帰っちゃうみたいだから」

「そうなんだ、ありがと」

「いいってことよ」

 ぐっと親指を立てる。

大泉くんの、相変わらずなムードメーカーっぷりに苦笑すると同時に、安心した。一緒に遊びに行くほど親密な仲ではないけれど、実際に顔を合わせれば、こんな風に屈託なく会話してくれる。

そういう人間がいてくれることが、どれだけありがたいことか。

 ふと、四人の内の一人、宮松という女性が僕を怪訝そうに見ていることに気づいた。

「黒崎くん、一人なの?」

「え? まぁ、そうだね。これからサークル仲間に会いに行くつもりだけど」

「そうなの。私てっきり、誰かと来ているもんだと思ってた」

「あはは……なかなか予定が合わなくってね。残念だけど、今は一人なんだ」

 ふーん、とやや唇を尖らせる。

「予定が合わないって、このみちゃんと?」

 僕は一瞬言葉に詰まった。

そして、宮松さんが何を言いたいのかを漠然と察した。

困り顔を作って、「ううん……」と首筋に手をやった。

「前園さんには声をかけてないんだ。だって彼女、忙しいし」

「でも、連絡ぐらいは取り合ってるんでしょ?」

「まぁ、そうだね」

「ゼミの時から、仲良かったもんね」

 どこか含みのある言葉だった。

そういえばこの宮松さんは、彼女のことをあまり好いてはいなかった――と記憶している。在学時からあまり目立つタイプの人ではなかったし、僕自身、顔を見るまで宮松さんのことを忘れかけていた。

 だからこそ――なのだろうか。

宮松さんが彼女のことを、幾分か気にしているのは。

「おいおい、なんか突っかかるな」

 すかさず大泉くんがフォローしてくれた。

 内心で彼に感謝しつつ、「大丈夫」とうなずきかける。

「前園さん……いや、今は長塚さんだったか。彼女とはここ数年会ってなくて。連絡だって、数か月に一回あるかないかってぐらいなんだ。そこでなんだけど……君たちの方で、会ってる人とかいない?」

「いや、俺たちの中にはいないと思うぜ」

「小百合ちゃんとか? あ、でも、小百合ちゃんも忙しいか。今は子育てに励んでるみたいだし」

「忙しいとか言ったら、みんなそうでしょ」

「なーんか、大人になっちゃったって気になるよねぇ」

「じゃあ、ここ最近で会っている人って、いないのかな?」

「うーん……」

 大泉くんが腕を組んで唸る。この四人の中で、一番真面目に記憶を辿ってくれているようだった。

「このみちゃんと仲良かった奴は覚えているんだけど、俺はそいつとはあまり親しくないし。彼女自身もなんつうか、自分から声をかけていくってタイプじゃないし」

「そうだよね、孤高の人って感じで」

「…………」

 宮松さんの言葉には、少なからず棘があった。

「まぁ、ここにいない人のことを話してもしょうがないだろ」

 大泉くんが半ば強引にまとめに入ってくれたので、「そうだね」と僕も応じる。

「黒崎、これからどうすんだ?」

「とりあえず、サークル仲間に会いに行こうかなって考えてる。その後は、森先生に挨拶していくと思う」

「そっか。じゃあ、俺たちは好きにぶらついてるから。またいつか、機会があったら飲みに行こうぜ」

「いいね。じゃあその時は、僕が幹事をやろうかな」

「おっ、言うようになったじゃないか」

 大泉くんが肩を叩いてきたので、苦笑交じりに「まぁ、僕もそれなりに経験してきたから」と返した。

「へぇー。そこんとこ、もっと詳しく……と言いたいところなんだが、もう行かなくちゃなんだ」

「うん、時間を取らせてごめんね」

「いいよいいよ別に。なんにせよ、会えて良かった。そんじゃあな!」

「黒崎くん、元気でね」

「元気でなー」

「じゃあねー」

 四人が立ち去る。

その後ろ姿が人混みに紛れて見えなくなるのを確認してから、僕は身を翻した。

構内を横切り、角を曲がったところで、肩に手を伸ばした。やや強めにもみほぐし、ひと仕事を終えたようなため息をつく。

「うーん……」

 大泉くんとは割とフラットに話せたものの、他の三人とはあまり話せていない。

前からこんな調子だった。大泉くんがいなかったら、多分今のような会話を交わすことはできなかったことだろう。

 それにしても、宮松さんの態度が気にかかる。

女性というのは大抵、他者の交友・交際関係をしきりに気にするものらしい。

僕と彼女――このみくんとはそういう関係ではないのだが、そんな風に見ている人がいるということは、大学にいた時から認識していた。いつまでも進展する様子がないので、もはや興味をなくしているのではと考えていたのだが、どうやらそうでもないようだ。

 他人の恋愛事情なんて、放っておけばいいのに。

とはいえ、宮松さんが彼女のことを気にしているのは、宮松さん自身の問題だ。僕ごときが気にしたところで、どうなるわけでもない。

 それにしても――大泉くんをはじめ、ゼミのメンバーに会えて良かったのかどうか、わからない。

 大学から離れ、年月が経てば、大泉くんと同じようにフラットに話せるかもしれないと思っていたのだが、やはり昔からの――『無口で不器用で不愛想な黒崎くん』というイメージが、彼らの中ですっかり定着しているのだろう。

 僕に対して苦手意識を持っている。

 そしてそれは、お互い様でもある。

 それもまた、仕方のないことだった。


     7.


 森先生のゼミに入ったきっかけは、取るに足りないものだった。

 誰かから勧められたわけでも、これといった理由があったわけでもない。入学前から彼のゼミに入ろうと時間割に組み込んではいたけれど、それはシラバスのゼミ一覧をざっと読んで、これなら簡単に単位を取れそうだ、と思ったことが大きい。

 今でも、オリエンテーションの時の、森先生の説明は覚えている。

 どこにでもいそうな、ごく普通の男性。年齢は五十代。フレームレスの眼鏡をかけていて、なで肩で、髪を半分に分けていて、温和そうな人に見えた。口調もごく落ち着いていて、知性のある、はっきりとした喋り方だった。

「私のゼミは、学生主体のゼミです」

 マイクを持った森先生の声は、さほど広くないホールに響き渡った。

僕たち学生は円形のテーブルについていて、しきりにメモを取る者もいれば、シラバスと先生とを見比べている者もいる。

「学生主体というと、今ひとつピンと来ない人もいるかもしれません。人間心理学科のゼミではありますが、基本的に、どのようなことをしても構わないのです。誤解のないよう最初に申し上げておきますが、ゼミの内容の起案から実行まで、何もかも学生に任せるというわけではありません。ただ、最終的にはそのようになって欲しいと期待しています。過去にはカードを使ったゼミメンバー同士での交流もありましたし、聴覚障害を持つ学生によるプレゼン……音のない映画を鑑賞し、意見を交わし合ったこともあります。繰り返しになりますが、このゼミで何をするかは基本的に君たちの自由ですので、学科に縛られず、どんどん自分たちのやりたいことをやってみて下さい。もちろん、私もできる限り協力しますので」

 この説明を聞いて、真の意味で内容を理解できた学生はそういないだろう。学生主体ということだから、何をしてもいい――とはいえ、本当にその言葉をそっくりそのまま鵜呑みにできるはずがない。学生たちはやや戸惑ったような素振りを見せていたし、僕もそうだった。

 だけど、彼女だけは違っていた。

 前園このみは僕のいる席からだいぶ離れたところに――壇上の一番近くに座っていて、どの先生の説明も熱心に聞いていた。だけど森先生の時は、一言一句聞き漏らさないとでもいうように、メモも取らず、じっと耳を傾けていた。

 もしかしたら彼女も、入学前から森先生のゼミに入ることを決めていたのだろうか。

 初回のゼミが始まった時、教室は満員だった。立ち見の者もいるぐらいで、面食らってしまったほどだ。

前園このみはこの時も、最前列の席に座っていた。もしかすると、昼休みの時から席を取っていたのかもしれない。

よくもまぁ、そこまで熱心になれるものだと驚嘆していた。

 森先生が顔を出した時、彼は別段、驚きはしなかった。オリエンテーションの時と同じように、平然とした佇まいである。この事態を予測していたのか、あるいは毎年こんな感じだから慣れているのだろうか。

 教壇の前に立ち、先生は僕らを見回した。

「えー……皆さん、こんにちは。オリエンテーションの時にも名乗りましたが、改めて自己紹介をしたいと思います。森と申します。基本的に青年心理学というものを研究しており、この大学には八年ほど籍を置いています」

 それから先生は、このゼミについての説明に入った。前に聞いたものとほとんど内容は変わらないので、メモを取る人も少ない。

 定員は二十名とのことなので、抽選になると先生は説明した。そこで、簡単なテストを受けてもらうとも。

コメントペーパーと呼ばれる、手首から指先ほどの大きさの用紙が配布される。光和大学の名前が小さく隅に書かれていて、一番下には学籍番号と氏名の欄が設けられている。

このゼミの志望理由などを書くのだろうかと考えていたところで、先生はこう言い放った。

「では、テーマを発表します。『私が人生において、一番影響を受けた作品』です。映画、文学など、ジャンルは問いません。漫画でも大丈夫です。書き終わったら提出して、そのまま退室しても構いません」

 僕のみならず、ほとんどの学生が――オリエンテーションと同じように――戸惑ったことだろう。「何を書いてもいいの?」「漫画でもオッケーって、どうなんだろ……」などの声が上がる。

その声をまるで聞いてなかったかのように、先生が続けた。

「なお、これに関しては質問は受け付けませんので、悪しからず。何を書くかはみなさんの自由ですので」

 そう言って、先生は教壇のすぐ近くの、革張りのチェアーに腰かけた。腹の上で手を組んで、ゆっくりとくつろいでいる。

 本当に、何を書いても自由なのだろうか。

 ひとまず僕はペーパーを見つめ、それから人生で一番影響を受けたという作品をいくつか思い浮かべてみた。映画、文学……漫画やゲームも。

ただ、先生が知らないものを挙げたとしても、受けは良くないかもしれない。

かといって、誰もが読んでいるような作品だと、興味を引きにくいだろう。

 いざ考えてみると、なかなか難しい。

 けれど、僕は迷わなかった。先生の説明がシンプルだったし、ジャンルは問わないとのことだったので、真っ先に思いついた小説を挙げてみることにした。誰でも知っているかどうかはわからないけども、その筋では有名な作品だ。

 作品の内容と、それについての感想、そしてどのように影響を受けたのかをすらすらと書き並べていく。スペースが余ったので、作者を含めた作品そのものに対する考察も添えておいた。裏面にも書けたので、読んでいて物足りないということは、ないだろう。

 結果だけを言えば――僕は無事、森先生のゼミに入ることができた。もちろんというべきか、前園このみもだ。

彼女と同じゼミというのは気が引けたものの、どことなく人間心理学科に地味なイメージを抱いていた僕としては、彼女がいることで多少華やかになったように思えた。

しかし、本格的にゼミが始まってからは別だった。

最初は、メンバー同士での単純な自己紹介から。

その次は自ら手本を見せるということで、森先生の主導で進めることとなった。心理学に関する特別な講義をやるのだとてっきり思い込んでいたのだが、実際はそうではなかった。隣に座る人とテーマをひとつ決めて、議論を交わし合うというものだった。

テーマは自由。

 天気や社会、最近の政治といった世間話から始めてもいい。最初からテーマありきで話を進めてもいい。その間、先生は内容に積極的に関与はしない。学生同士でわからないことがあれば、聞いてくれていいと言っただけだった。チェアーに座り、僕たちの様子を見守っている。

 いや、観察しているといった方が正確だろうか。

 前園このみは早速という具合で、隣の人――この教室に入った時から一緒の女学生と、何やら話し込んでいる。彼女は前と同じ最前列の席で、僕はといえば後ろの、端っこの方に座っていたから、内容はまるで聞こえてこない。

彼女につられてかどうかはわからないけれど、他の学生もめいめいに話を始めた。

 ただ、それはあくまでも話し合いといった範疇内のもので、議論と呼ぶにはあまりにかけ離れすぎていた。どこか遠慮がちで、ぎこちなくて、堅苦しい。ゼミという形式に加えて、入学したばかりだから、ほぼ初対面の人と議論をするなんて、荷が重いと言わざるを得ない。

 それはおそらく、森先生も承知の上のはずだ。

 さて、僕はといえば。

 隣の学生――田岡くんという名だ――と、話を始めた。改めて自己紹介し、それからゼミに入ったきっかけなどに触れる。さすがに「単位が簡単に取れそうだから」だなんて言えるわけがないので、それらしく答えることにした。

「ええと、学生主体のゼミっていうのに惹かれたんだ。というのも僕はそれまで自分からあまり行動することがなくて、そういう自分が好きじゃなかった。だから主体的に行動できるこのゼミを選んだんだ」

 すると田岡くんは感銘を受けた様子で、「へぇ」と目を丸くした。

 田岡くんは? と尋ねると、彼はこう答えた。

「僕は、人の気持ちというものがわかるようになりたいと思ったんだ。心理学を学べればわかるようになるかもってさ。でもさ……シラバス見た? どれも専門用語ばっかりで、とても難しそうで……それで、見た感じ一番簡単そうな、森先生のゼミに入ろうって思ったんだよ。大した理由じゃなくて、ほんと恥ずかしいんだけどね」

 僕はぎこちなく、うなずいた。田岡くんとほぼ同じ理由なので、素直に打ち明けなかった自分がいたたまれなくなる。

 田岡くんは、「実はね、人間心理学科に入ったこと、ちょっとだけ後悔してるんだ」と言った。

「後悔? どうして?」

「テキスト見た? ほら、心理統計学の。あれを見たら自信をなくすよ。内容がちんぷんかんぷんで、何ひとつ頭に入ってこなかった。ほら、僕、どう見たって文系ってタイプじゃない? きっちり計算しなきゃだし、しかも必修科目だし、試験もあるっていうじゃないか。正直もうこの時点で、逃げ出したくなるよ」

「うん、わかる」

「あ、ところでさ、サークルとかにはもう入ってる?」

 いきなり話が飛んだので、僕は戸惑いつつも、「まぁね」と答えた。田岡くんはまたしても目を丸くして、「いつ?」と聞いてきた。

「ええと、入学登録式の日に」

「早いね! 僕はまだ、なんも決められてないのに」

「こういうのって、勢いだと思うから」

「勢いか……そうだよね。何事もスタートダッシュが肝心だしね。僕もサークルとかに入って大学デビューするんだって思ってたんだけど、出だしからつまずいちゃって」

「つまずいた?」

「漫画を描くサークルの部室に行ってみようとしたんだけど、ほら……あんな感じじゃん? うわ、ヤバいと思って引き返しちゃった。さすがにあんなところで、四年間も過ごす勇気はないよ」

「……そう、なんだ」

「あ、ねぇねぇ。得意なことって何かある?」

「得意なこと? ええと、習字だけど……」

 僕はそれらしく答えつつも、森先生の提示したテーマからどんどんかけ離れていくことを自覚していた。議論どころか、これじゃあただの談話だ。田岡くんがそれに気づいているかどうかはともかくとして、話を戻さないといけない。

 ただ、先生が用意した時間はわずか三十分。

僕と田岡くんがとりとめのない会話を繰り返している内に、その時間はあっという間に過ぎ去ってしまった。

「はい、そこまでです」

 森先生が立ち上がり、手を叩く。

先生の顔色を気にしながら、話を三十分持たせるのは難しかったようで、誰も彼も消化不良な顔つきだ。

 しかし先生の柔和な笑みは、テーマを提示した時からそのままだった。

「みなさん、お疲れ様です。手応えとしては、どうでしょうか? 特に評価したりはしませんので、安心して下さい。リラックスしながら、徐々にやっていきましょう」

 安心して、と言われても。

 僕と同じような心境に陥ったメンバーは、他にもいたことだろう。

 前園このみは、時おり見た感じでは、隣の学生と盛り上がっていた。議論という形で話を深められたかどうかは不明だけど、みんなが彼女を気にしていることは、視線や様子で察せられた。

この中でいえば間違いなく――話し声が大きいという意味ではなく――彼女が一番目立っていた。

残りの時間は、ゼミ内における担当役割の分担に充てられた。リーダーが一人、副リーダー二人、書記三人に、企画四人といった具合に。

すかさず、前園このみをリーダーに推そうとする声が上がったのだが、彼女はそれを固辞した。

彼女はわざわざ立ち上がり、ゼミのメンバー全員を視界に捉えるようにして、体の向きを変えた。

「私は人を引っ張っていくとか、そういうことは得意じゃないので。リーダーなら、そうだね……今田くんがいいと思います」

「ええ、俺ぇ?」

 名指しされた今田くんは背が高くて、肩幅ががっしりとしている。白をベースにした赤いラインの入ったジャケットを着ていて、髪も茶色に染めていて、遠目からでも目立つ方だ。自己紹介の時に「得意なことはバレーです!」と臆面もなく言ってのけたことから、彼のキャラクターについてはゼミのメンバー全員が知るところとなっている。

ただ、リーダーとして適任かどうかというと、僕には判断がつかない。

 そもそも、まだ知り合って間もない段階で、こんな風に役割を決めていってもいいのだろうか。

 今田くんは「参ったなぁ」と言いつつも、まんざらでもなさそうだった。

「このみちゃんからそう言われたら、断れないよ」

「じゃ、引き受けてくれる?」

「しょうがねぇなぁ。責任重大だよ、ほんと」

渋々といった具合で、今田くんはリーダーを引き受けた。

前園このみは「せっかく推薦してもらったから」ということで、副リーダーに落ち着いた。誰も異論はない。

 しかし、そこからが問題だった。

 リーダーに任命された今田くんは、ひとまず壇上に上がった。「ええと……」と言いながら、がしがしと後頭部をかいている。これからどうするべきか、途方に暮れているのがありありとわかった。

 森先生は再びチェアーに腰かけ、今田くんにうなずきかけた。

「では、今田くん。リーダーらしく、みんなに役割を振ってみて下さい」

「え、先生はどうするんですか?」

 すると先生は、緩く弧を描いた笑みを作った。

「私が決めてしまったら、このゼミの存在意義がないでしょう? 助言はできますが、みなさんのために旗を振ることはしませんし、できませんし、あまりしたくないのです」

「はぁ、そうなんすか……」

「なに、大丈夫ですよ。そう難しく構えることはありません。まずはそうですね……希望者を募ってみる、というのはいかがでしょうか?」

「先生がそう言うんであれば……」

 今田くんはゼミのメンバーを見回して、「困ったなぁ」とつぶやいた。先ほどまでの陽気さが、消えかけている。

 助け舟を出したのは、前園このみだった。

 彼女は今田くんの隣に立ち、ひとまずチョークを手にした。

「今田くん。とりあえず私、担当と名前を書いていくね」

「あ、よろしく」

 手慣れた様子で、黒板に書き込んでいく。彼女の字はまっすぐで、教室の後方に座る僕の目にも、はっきりとわかる。

 今田くんは前園このみと、ゼミのメンバーとを交互に見て、「どうしよっか……」と腕を組んでしまった。

 今からでも遅くないから、前園このみをリーダーにするべきではないだろうか――

 そんな風に考えたりはしたが、無論おくびにも出さない。そもそも僕に、この場で発言をする度胸などあるはずもなかった。

「とりあえず、担当を決めなくちゃね」

「あー、そうね……」

 咳払いした今田くんは、教壇に手をつけた。

「えー……では、後は副リーダーが一人、書記が三人に、企画が四人っと。えーっと……この中で、誰かやってみたい人とかいますかね?」

 今田くんにとっては残念なことに、誰も手を挙げなかった。

ほぼ全員が、できるだけ彼と顔を合わさないようにしている。今田くんはまたしても「困ったな」と苦い顔を浮かべ、そのままうなだれてしまった。ちらっと先生の顔を窺ったのち、半ばやけくそのように、面を上げる。

「んじゃあ、推薦でもいいんで、こういうのに向いてる人っていうのを挙げてもらえますかね? 担当はなんでもいいんで」

 数秒立ち、一人、また一人と手が挙がった。「宮松さんとかどう?」とか、「大泉くんは企画に向いてるんじゃない?」という具合に。

 なんとも、現金である。

自分が立候補するよりも、誰かを立てる方が気楽だし、責任も薄い。推薦される方も、自ら声を上げるよりは、期待に応えて立ち上がる方がやりやすいものだ。

書記、企画は二人ずつ埋まったが、まだまだ空きはある。

「他に、誰かいませんかー?」

 今田くんがほとんど悲痛なぐらいに、声を張り上げる。

僕の隣にいる田岡くんも、聞こえているはずである。ただ彼は、できるだけ顔を合わすまいと、窓の向こうを見つめたりしている。やはりというべきだろうか、自ら立候補する気はないようだ。

 その後に続く声は、上がらなかった。

いよいよ無言の気配が漂い始める。このまま時間が過ぎ去ると、一体どうなってしまうのだろう。

ゼミのメンバーが何人か、森先生の方をちらちらと見ている。もしかしたら先生が助け船を出してくれるのではないかという期待をあらわにして。

それでも先生は腕を組んだまま、口を真一文字に結んでいる。どうやら、先ほどの言葉を撤回するつもりはないようだ。

学生主体、という意味をにわかに実感する。

 この、なんともいえない空気を生み出したのは僕たち学生なのだから、それを打破するのもまた、僕たちということか。

「うーん……」

 今田くんが腕を組みつつ、助けを求めるように、前園このみに首を向ける。彼の視線を受け止めた彼女も、「うーん」とやや眉を寄せている。

「困ったな……どうする、このみちゃん。誰か推薦したい人とかって、いる?」

「うん、いるよ」

 あっさりと、彼女は答える。

ゼミのメンバーがにわかに色めき立つ。

今田くんはぱぁっと、顔を輝かせた。

「おっ! 誰、誰よ?」

「えーと……」

 細いあごに指を当てながら、メンバーの顔を見回した。

なんだか嫌な予感がする。

彼女の目がまっすぐに僕を捉えた時、その予感は見事的中した。

「黒崎氏……じゃなくて、黒崎くん。彼を副リーダーに推したいんだけど、どうかな?」

「ええっ!?」

 今田くんのみならず、メンバーのほぼ全員が驚きの声を上げた。

 教室中の視線が一斉に、僕に注がれる。田岡くんに至っては先ほどよりも大きく目を見開いている始末だ。

なぜ、よりにもよって僕を。

しかも書記でも企画でもなく、なぜ副リーダーに抜擢するのか。

一種の嫌がらせだろうか。

指名された勢いで、つい立ち上がってしまう。前園このみはにやにやと、それでいて期待を込めた眼差しをぶつけてくる。

「ええと、なんで僕を……?」

「黒崎くんなら、バックアップとか得意そうって思って」

 魔法の杖の如く、軽やかに指を振る。

満面の笑顔でそれを言われてしまって、その場で断れる人間がいたとしたら、是非ともお目にかかりたいものだ――この時の僕は心底、そう思った。

「あ、えーっと……」

 今田くんは不安げに、僕と彼女とを交互に見ている。

僕も同じ気持ちだ。副リーダーなんて今までやったことがないし、どうやればいいのかも見当がつかない。役割があるということは、責任が伴うということで、そのプレッシャーは僕には荷が重すぎた。

 前園このみが、更に畳みかける。

「私もいるから大丈夫だよ。一人より二人の方が心強いし、私も助かるんだけどなぁ」

「う……」

「どうかな、黒崎くん?」

 得体の知れない感覚が、足元から這い上がってくる。

手のひらに汗が滲む。

 僕には無理だ、と喉まで出かかる。いっそのこと、他の誰かを推薦したっていいはず。

 しかし――残念ながら、僕はゼミのメンバーの名前をろくに覚えていなかった。僕の隣には田岡くんがいるが、彼を副リーダーに推すことはできない。

 諦める外なかった。

 ほとんど観念するように、僕は言った。

「わかった……じゃあ、引き受けるよ」

「さっすが! よろしくね! 今田くんもいいよね?」

「あ、ああ……うん」

「他のみんなはどう?」

 意見など、あろうはずもなかった。

誰もが完全に、彼女のペースに呑み込まれてしまっている。

 それから残った役割の担当者が決まり、今回のゼミはそれで終わった。

 時おり、「大丈夫かなぁ」という声が上がったが、聞いてないふりをする。それを言いたいのは、僕の方である。

 なぜ、こんなことになってしまったのだろう。

 遅めの昼食を取るべく、僕は食堂にとぼとぼと向かった。

 食堂は、F棟と呼ばれる建物の二階部分を丸々使っている。ちなみに一階は学生御用達の生協で、テキストなどを取り扱っている。ちょっとしたコンビニといえるのだが、営業時間が夕方五時までと、店じまいが早いのが玉に瑕だ。

食堂はテーブルや椅子も含めて、白を基調とした広々とした空間だ。初めて足を踏み入れた時には、学生たちが集うその独特の雰囲気に驚いたものだ。にぎやかで、騒がしくて、活気がある。それまで食堂というものをほぼ経験したことがなかったから、僕もここの一員になったのだという感慨を持ったものだ。

 適当な一画の隅に座り、リュックサックから三角巾に包まれたお弁当を取り出す。蓋を取り、箸を持ちかけたところで――「ねぇ」と声をかけられた。

 面を上げると向かい斜めに、前園このみがいた。普段、肩から下げているはずのバッグは見当たらなくて、手ぶらの状態だ。

 僕が疑問に思ったところで、彼女は向かい側の椅子の背に手をかけた。

「黒崎氏も、これからお昼?」

「あ、まぁ、うん……」

「ちょうど良かった。あのね、ちょっと話したいことがあったの。それでなんだけど、相席しても大丈夫かな?」

「うん、いいけど……」

 僕の周りは空席ばかりだから、特に問題はない。

しいて言えば、別の方角から、同じゼミのメンバーからの視線を感じることぐらいだろうか。おそらくではあるが、前園このみはついさっきまで彼らと相席していて、僕に気づいてわざわざ声をかけたのだろう。

「でも、いいの?」と僕は尋ねた。

「何が?」

「ほら……」

 僕は空いた手で、ゼミのメンバーの方を示した。

彼女は肩越しに振り返り、それから「大丈夫、大丈夫」と手を振った。

「みんなとは講義かぶってるところ多いから、いつでも話せるし」

「そう、なんだ……」

「黒崎氏とはあんまりかぶってないよね。だから話しかけるチャンスがないなぁって思ってたんだ。今日みたいなことがあると、なおさらね」

「今日? ゼミのこと?」

 うん、と彼女はうなずいた。

 僕はとりあえず、前園このみを席に促した。

彼女は音を立てないように椅子を引き、ちょこんと腰かける。肩幅が狭い――いや、体が細いのだというべきだろうか。胸元からは、小ぶりのネックレスが見える。

アクセサリーひとつとっても、お洒落な人だ。

 変なところで変な感慨を持った僕は、誤魔化すように咳払いした。

「えーっと……お昼はもう食べたの?」

「うん。今はおやつタイム。五限の講義が始まるまで、ちょっと暇なんだ」

「ああ、そうなの」

「黒崎氏も、この時間は空いてるの?」

「そうだね。取りたいと思う講義がなかったから」

「そうなんだ。……あ、ねぇ、時間割とか作ってる?」

「あ、うん」

リュックサックからA4サイズのファイルを取り出し、手書きの時間割を彼女に渡した。定規で架け線を引いて、マスの中に講義の名前を書き記したものだ。時間割の下には、今年一年で取得できる(予定の)単位数を書いてある。

ざっと見て、彼女は「ふぅん」とうなずいた。

「単位は五十二かぁ。全部取れる自信はいかほど?」

「いや、ないかな。心理統計学とか、とても取れそうには思えない」

「あー、私も。あれって難しいよねぇ。ちゃんと数学とか勉強してくれば良かったって、後悔してるところ」

「僕もだ。他の講義だって、高校までとは比較にならない」

「ひとコマ九十分もあるから、どうしても集中力切れちゃうよね。できるだけ多くの講義を選んだつもりだけど、やっぱりぶっ続けはきつい」

「君の時間割って、どんな感じなの?」

 すると、にやりと彼女は口の片端をつり上げた。シャツの胸ポケットから、丁寧に折り畳まれた紙片を取り出す。

いつも持ち歩いているのだろうか。

 ひとまず受け取り、紙片を開いた瞬間、僕はぎょっとした。エクセルで作ったと思しきその時間割は、一限から五限まで、講義が埋まっている日が三つもあった。土曜日にもしっかり入れている。

ひとつの講義につき、単位は大体二から四ぐらいだ。年間で取得できる総単位数は六十までと決まっているのだが、この時間割を見る限り、どう見ても超えている。仮に、全部取れたとして、七十から八十はいくのではないだろうか。

 卒業までに必要な単位数は、卒業論文を含めて百二十四。彼女は一年の内に、必要な単位数のほぼ半分をもぎ取ろうというのか。

「すごいね……」と唖然する外なかった。

「そう?」と彼女は得意げに笑った。

「全部、取るつもりなの?」

「できるだけね。他にも取りたい講義はあるんだけど、二年、もしくは三年からじゃないとっていうのが多いし。だったら今の内に、面白そうなものをチョイスしつつ、二年以降からは必修科目を取ろうって感じで作ったの」

「もう、先のことを考えてるんだ?」

 すると彼女はちょっと考え込むように、目を横にずらした。それから口に手を添えて、少しだけ顔を寄せてくる。

「これは、オフレコでお願いしたいんだけど」

 小声で言ってきたので、僕も耳を傾けた。

「私ね、心理関係の資格を取ろうって思ってるの」

「えっ?」

「でも、それも二年生からじゃないと、講義が受けられないの。私、何がなんでも資格を取りたいからさ、今からできることは全部やっておきたいの」

 そう言って、椅子の背にもたれかかり、テーブルの上で手を組む。爪にマニキュアが塗ってある、とその時初めて気づいた。

「そうなんだ……」

時間割を元通りに畳み、それを彼女に返す。改めて「すごいな……」とつぶやき、そんな言葉しか出てこない自分が、たまらなく嫌になる。

「僕は、そんな風に考えたことがない」

「そうなの? てっきり黒崎氏は、常に先のことを見据えてるように見えた」

「買いかぶりだよ、それは。僕は……今のことしか、自分のことしか見えていない。誰かのことだって、見えてないんだ」

「それはちょっと、卑下しすぎなんじゃないかなぁ」

「そうかい?」

「そうだよ。もっと自信を持ってもいいんじゃない?」

 なんと返せばいいのかわからなかった。

 なんで、彼女はこんな言い方ができるのだろう。

 僕のことを何も知らないのに。

 すっかり黙り込んでしまった僕に、彼女ははっとしたように目を見開き――それから「ごめん」と頭を下げた。

「まだ会ったばかりなのに、色々言っちゃってるね、私。気を悪くしたんなら、本当にごめん」

「い、いや……大丈夫だよ」

「本当に?」

「大丈夫だって」

 前園このみは僕の言葉に、納得していない様子だった。うつむき加減になった彼女は、それから僕をじっと見つめてくる。まっすぐなその目つきに、否応なしに落ち着かなくなってしまう。

「でも、自分に自信のない人って、私からしたらもったいないなって思う」

「もったいない……?」

「本当はもっと、色んなことができるはずなのに。例え失敗したとしても、いくらでもやり直せるはずなのに。そう思っちゃう。さっきのゼミだって……ね。みんな、自分で手を上げようとしないじゃない? それなのに、人を推薦する時は普通に手を上げるじゃない? そういうのに、私ちょっとだけイラついてたんだ」

 僕は最後の言葉に面食らった。

イラつくという言葉が彼女の口から出てきたこと。そんな風に思っていたこと。実感の伴った口ぶりに、僕は尋ねずにはいられなかった。

「だから僕を指名したの? バックアップしてほしいのなら、君と仲のいい人に頼んでも良かったのに」

「うーん……そういうわけには、いかなかったんだよね」

 言葉の意図がわからず、僕は首を傾げた。

「確かに今のところ、仲良くしてる人は何人かいるよ。でも、その人たちがちゃんと自分の役目を全うしてくれるかどうかってなると、話は別なんだよね。私はね、やるなら徹底的にやりたいの。だからそういうことができそうな、君を推したんだ」

「根拠は?」

「うーん。言葉は悪いけど、なんとなく、かな」

「なんとなく、ね……」

 肩から力が抜ける。

なんだか、身構えていた自分が馬鹿みたいだ。

 なんにせよ、前園このみは僕のことを買ってくれているらしい。その根拠はまるで不透明だが、人から期待されているというのは、そう悪い気分ではない。ここまで言われているのだから、期待に応えたいという気持ちすら芽生えてくる。

「あ、あのさ……」

「あ、ごめん!」

 いきなり両手を合わせてくる。何か、謝るようなことをしただろうかと面食らっていると、彼女が僕の弁当箱に視線を落としていることに気づいた。

「食事のお邪魔しちゃったね。私、もう行くから!」

「いや、あの、だ、だい……」

 大丈夫、と言いかけたのだが、彼女はすでに腰を上げているところだった。ポケットからスマホを取り出して――「あっ」と何かを思いつく。

「そうだ、連絡先の交換しとかない?」

「え? ああ……」

「これからお世話になるかもだからね。こういうのって、始めが肝心だから」

 どこかで聞いたような言葉に傾げつつも、僕も携帯電話を取り出した。高校の時から使っているもので、ガラケーである。今までそういうのを気にしたこともなかったのに、なぜだか恥ずかしくなってしまった。

 けれど、彼女は意に介した風もなく、「アドレス、教えて」とスマホを操作している。僕のアドレスを確認し、逐一打ち込んでいるその間、スマホに変えた方がいいんだろうな、と真剣に考えていた。

 登録が完了する。早速メールが送られてきたので、僕も登録する。

「ありがとう!」と彼女はスマホを軽く振った。

「じゃあ、改めてこれからよろしくね! 黒崎氏」

「うん、こちらこそ、よろしく」

「じゃあ、また!」

 そう言い残し、彼女は僕の前から立ち去った。長らく待たせているゼミのメンバーのところに戻り、片手を顔の前に上げている。「ごめんごめん」と謝っているのだろうと、声を聞かずともわかった。

 携帯電話をじっと見る。画面はもう消えている。もう一度表示し、彼女の連絡先があることをしっかりと確認した。

 既に、〈つづり〉の先輩たちと連絡先は交換している。ただ、同学年の女性と交換するのはこれが初めてだった。

 ふと、お弁当が目に入る。そういえば、先ほどからまるで箸が進んでいない。腹を空かしていたことを思い出し、ようやく昼食を再開した。

 人とここまで話したのは、とても久しぶりだ。

加えて彼女の言葉、将来への展望、学ぶことへの意思と姿勢――そういったもの全てに圧倒されていた。

 敵わない、と思った。

 今の僕では、彼女の足元にも及ばない。同じ目線に立てていない。あんな風に期待を寄せてくれているのに、僕ときたら何をしているのだろう。

 あんな風に考えたことはなかった。

自分自身の将来については、半ばどうでもよかった。そんな姿勢を糾弾されたみたいで、落ち着かなくなってしまう。前園このみにそんなつもりはないとわかっているけれど、それでも僕は――自分が、とてつもなくつまらない、取るに足りない人間であると、痛感せざるを得なかった。

 どうしたら、同じ目線に立てる。

 どうしたら、あんな風に考えられる。

 どうしたら、自分に自信を持てる。

 そんな風に考えるようになったのは――今までの人生で、これが初めてだった。


     8.


 学祭の喧騒から離れ、〈つづり〉の部室に寄ってみることにした。

 スラム街のごとき風景や、雰囲気はまるで変わっていない。色あせた看板も、古びたベンチも、そっくりそのままだ。こういうものに懐かしさを覚えてしまうのは、ここの空気がすっかり体に馴染んでいるということか。

 爽やかな風が頬を撫でていく。

 サークル棟のすぐそばにはグラウンドがあって、今は芝生だ。昔はろくに整備されていなくて、土埃が風に舞うこともざらだった。強風の日は誰も外に出たがらない。雨の日の後はすっかり湿っていて、ちょっとでも靴をつけると、泥にまみれてしまう。そういうわけで、今のグラウンドを見ると、ちょっとした隔世の感がある。

 更に言えばここからでも、構内からでもよく見える建物の存在もそうだ。今ではE棟と呼ばれていて、上から見るとほぼ円形の形をしている。かつてのF棟は取り壊されてしまい、食堂はE棟に吸収されていた。コンピュータールームもあるし、広いホールもあるし、エレベーターやスロープも設置されていて、バリアフリー仕様にもなっている。

 よっぽど金をかけたとみえる。

 僕が卒業してから建設された建物なので、実際に利用したのは、ほぼ食堂のみだ。ここで講義を受ける学生はおそらく――いや、確実にF棟があったことなど知らないだろう。

 しっかり整備されたグラウンドと、新設のE棟。

これだけでも僕の年代から上の卒業生を驚かせるには、十分すぎる。

ただ、中身は何も変わっていない。

箱の外観がどれだけ新しくなろうとも、そこに収まるのは無垢な学生がほとんどだ。若さゆえに過ちを犯すことだってあるし、夜中に馬鹿騒ぎをして近隣から苦情が出ることだってある。

なぜそんなことを知っているのかといえば、僕自身が、構内の掲示板をチェックしていたからだ。お知らせの中に、「人に迷惑をかけるような行為は慎むこと」という一文で締めくくられたものがあるのだが、無理な相談だろうなと一人苦笑してしまった。

 サークル棟に入り、通路を横切っていく。

〈つづり〉の部室の前には、見慣れない学生たちが集まっていた。その中に、顔馴染みの先輩がいた。

富平さんだ。

髪を切った上に、あごひげも丁寧に切り揃えているので、昔と比べて幾分かさっぱりしている。風来坊から宿屋の店主に格上げ――といったところだろうか。

彼も僕に気づいたようで、「おっ」と気さくに手を上げた。

「一兎、お前さんも来ていたのか」

「お久しぶりです、旦那」

 旦那こと、富平さんはへへへっと肩を揺すった。彼を「旦那」呼ばわりしているのは僕だけなので、その呼称に苦笑いしつつも、まんざらでもないようだった。

なぜ「旦那」なのかといえば、かつて、風来坊のごとき外見だったから。そして僕自身も、そういう呼び方がしっくりくるからだった。

「相変わらずだなぁ。どうよ、元気にしてた?」

「ええ、おかげさまで。旦那の方は?」

「ぼちぼちよ。ところで、伊織には会ったか?」

「え、伊織さんも来ているんですか?」

「ああ、珍しいことにな」

 腕を組んで、思案気にあごひげをいじる。

「あいつ……スミスと結婚したんだよ。知ってるだろ?」

「ええ、もちろん」

「スミスは今日は野暮用で来れないってことで、じゃあ伊織も無理だろうなって思っていたんだ。だが……どういう風の吹き回しか、来たんだよ。今まで声をかけても、行かない行けないって言ってたあいつが。といっても、ちょっと挨拶したぐらいで、すぐにどっかに行ってしまったが」

「どんなことを話したんですか?」

「ん? ああ、まぁ、そんな大したことでもない話ばっかりだな。仕事が順調かどうか、友達が結婚したとか、子供ができたとか、そんなところだ。でもひとつだけ、ビッグニュースがあったな」

「なんですか?」

「……いや、それは本人の方から直接聞いた方がいいな。とてもじゃないが、俺の口からは言えねぇ。悪ぃな」

「はぁ……」

 軽く息を漏らしたところで、視線を感じた。

先ほどから〈つづり〉の後輩たちが興味深そうに見てきていることに、遅まきながら気づいた。顔ぶれが随分と新しくなっていて、名前もすぐには出てこない。

とはいえ、ここまで来て挨拶しないわけにもいかない。

「旦那、ちょっとすみません」

「ああ、いいってことよ」

 富平さんの脇を通り、後輩たちに「やぁ」と手を振ってみせる。

すると彼らは身を正し、深々とお辞儀した。まだ一年生と思われる後輩たちも、一拍遅れて後に続く。

「どうもお久しぶりです、一兎先輩」

 長身の後輩が頭を下げた。しかし、名前が出てこない。

残念なことに、僕は現役の後輩たちとそれほど親しいわけではなかった。年に一回、学祭の時ぐらいにしか顔を合わさないから、当然ともいえる。

だけど僕はそんなことを表面上には出さず、できるだけ愛想よく見えるよう振る舞うことを心がけた。

「元気にしてた?」

「ええ。一兎先輩も、お変わりなさそうで安心しました」

「そんなにかしこまらなくても大丈夫だよ。いちいち先輩ってつけなくてもいいし、それに、呼びにくくない?」

「それは、まぁ……」

 後輩たちが目配せし合う。「そんなこと言われても」と言いたげだ。

やはりというべきだろうか、ここでも僕は敬遠される存在であるらしい。キャラクター的に考えてみても、僕よりも富平さんの方が付き合いやすいことだろう。

そんなことはここに来る前から承知の上だったので、僕は立ち話もそこそこに、適当に切り上げた。

「お待たせしました」と富平さんのところに戻ると、彼はしげしげと、不思議そうに僕を眺めている。

「なんですか?」

「いや、お前さん、だいぶ変わったなぁと思ってな」

「さっきは、相変わらずだって言ったじゃないですか」

「そうなんだが。なんというか、丸くなったな」

「はぁ、よく言われます」

「あの頃とは大違いだ」

「はは……」

苦笑交じりに、顔をしかめる。といっても、富平さんの言葉が不愉快だったわけじゃない。そう言われてしまうのも仕方ないほど、あの頃の僕は自意識過剰で、周りが見えていなかった。

 思い返すだけでも恥ずかしくなる過去があると、どうしたって悶絶するような疼きを覚えてしまう。

 僕は誤魔化すように、富平さんの胸に突っ込みの手を入れた。

「昔のことを持ち出さないで下さいよ。僕にだって色々あって、それなりに経験も積みましたから」

「そりゃそうだ。悪かったな。でも……」

「でも、なんです?」

「人って、こんなにも変わるんだなぁっていう実例を見るとな。どうにも自分が、何も変わってないんじゃないかって気になってくるんだ」

 僕は怪訝そうに、眉を寄せた。

 富平さんがこんなことを言い出すなんて珍しい。何か悪いものでも食ったのだろうか。

「思い過ごしでしょう?」

「だといいんだがな。よく言うだろ? 自分の変化は自分じゃあ気づけないって」

「それは、そうですが……」

 富平さんは頬を掻き、「つまらんことを言ったな」

「まぁ、水に流せ。それよりどうよ、彼女とかできたの?」

「いえ、さっぱり」

「……そこらへんは、相変わらずなんだな」

 ははは、とわざとらしく誤魔化す。こんな風に笑えるのは、とても久しぶりだ。

気の置けない間柄というのは、こうやって、何の変哲もないやり取りができることを指すのだと、今さらながら実感する。

 富平さんとひとしきり軽口を叩き合ったところで、ふと彼が黙り込んだ。真剣な顔つきで、ほとんど睨むように――僕を見据えてくる。

「どうしましたか?」

「いや、大丈夫なのかなと思ってな」

「何がです?」

「お前さんが、伊織に会うこと。色々あったろ?」

「…………」

「伊織も、お前さんも、もういい歳だ。昔は昔と割り切れるかもしれないが、俺はちょっと不安なんだよ」

「僕がですか?」

「いや、両方だ。しいて言えば、伊織の方かもしれん」

「伊織さん、何かあったんですか?」

 何もねぇさ、とうそぶく。

「お前さんも来るって聞いた時、あいつは喜んでたよ。その顔を見て、もう大丈夫なんじゃないかって俺は思った。だけど、人の心ってのは複雑なもんだ。お前さんなら、わかるだろ?」

「はぁ」

「前にあったじゃないか。お前さんが、俺に相談を持ちかけてきたこと。その時は、俺はなんの力にもなってやれなかった。今だから正直に言うが……面倒事に巻き込まれたくなかったんだ。スミスは伊織の肩を持つしかないから、お前さんに味方してくれる奴っていたのかなって思ってた」

「…………」

「突然、悪かったな。こんな話をして」

「いえ、大丈夫です」

 そう言いつつも、僕の目は富平さんから離れ、宙をさまよっていた。

彼の言葉に少なからず動揺しているのは確かだった。だけど、それを聞いたところで何が変わるというわけでもない。

 僕は意識して肩の力を抜き、「大丈夫ですよ」と繰り返した。

「僕の方こそ、旦那には悪いことしたって思ってますから。僕の過失でトラブルになってしまったんですし」

「うーん……」

「それに、過去にこだわるなんて旦那らしくないですよ。今までずっと、どうにかなるさの精神でやってきてたんじゃないですか?」

「ん……」

「旦那が気に病む必要なんて、ないんですよ。あれは僕と伊織さんとの問題だった。その問題を外に広めてしまったのは、他ならぬ僕の過失だった。振り返って僕はそういう風に見られていますし、もし、もしも……伊織さんに会ったところで、過去のことを持ち出すつもりは、毛頭ありません」

「そうなのか?」

「ええ、今さらですから」

 そう言い切ると、富平さんは眉を上げて、口をつぐんだ。それから額に手をやって、「そうだよな」とつぶやいた。

「今さらだもんな。そんな風に言えるなんて、本当にお前さん変わったんだな」

「そうですかね?」

「伊織は……どうなんだろうな。お前さんのことをどう見てるのか。わかっていると思うが、あいつは……」

「ストップ、そのぐらいにしときましょう」

 富平さんを手で制する。

 僕は周囲を探る素振りをしてから、真面目くさった口調で言った。

「もしも伊織さんが聞いていたら、殴られるかもしれませんよ」

「……そうだな、そりゃそうだ」

 はっはっは、と快活に笑う。

いつもの調子に戻ったようで、僕は安心した。

 僕たちのことを必要以上に気遣うなんて、本当に彼らしくもない。

 だけどそんな風に気遣わせてしまうぐらいの過去があったのは事実で、それを思うと錨が食い込んだように、胸の辺りが重くなる。

 それを紛らわすために、今度は僕から話題を振った。

「旦那、最近はどうですか? 何か変わったことはありませんか?」

「ん? ああ……一応、去年に籍を入れたりはしたが、それ以外は別段、変わったところはないなぁ」

「ご家庭は順調なんですね。では、お仕事は?」

「まぁ、ぼちぼちよ」

「その返しも、相変わらずですね」

 僕たちは何度も、相変わらずという言葉を使っている。

変わらないことに呆れつつも、変わってないことに安堵する。卒業してから数年経ち、昇進や転職した人もいれば、結婚した人もいる。既に子供をもうけている人もいるからこそだろう。

 みんな、何かしらの形で変化を迎えている。

だけどその変化を易々と受け入れられているのかといえば、人によるところが大きい。環境、人間関係、そして自分自身……その変化に戸惑うことだって、あるだろう。

 誰でもそうだし、僕だってそうだ。

 だけど、この大学は――この場所は変わらない。

ここで築いた関係は、過去と共に刻一刻と熟成されていく。既に通りすぎた今だからこそ、その微妙な差異を味わえる。

僕が今持っている感慨は、僕だけのもの。

そして、それを目の前の相手と共有するかどうかは、僕の自由だ。少なくとも僕はこれ以上、富平さんと過去について言及するつもりはなかった。

そういう気分じゃなかったから、というのもある。

だけど、それは建て前に過ぎないことを、僕はよく自覚している。

「なぁ。〈つづり〉のメンバーとは会っているのか?」

「いえ、最近は全くですね。なかなか会う機会を作れてはいません」

「ふーん。じゃあ、同学年の友達とかはどうよ?」

「それも、なかなか。みんな忙しいみたいで」

「難しいよなぁ。街に出て遊んでいた頃が、嘘みたいだ」

「僕もそう思います。一度だけ、友達とオールしたことあるんですが、今ではもう無理ですね。朝になった時、すごく目がシパシパになっていたこと、よく覚えています」

「オールか。懐かしいな。俺も多分、無理だわ」

 お互いに、遠いものを見るように目を細める。

自然と笑みがこぼれ、僕はゆっくりと面を上げた。

「旦那、そろそろ僕はこの辺で」

「うん? 帰るのか?」

「いえ、もう少しぶらつくつもりです。もしかしたら途中で、伊織さんに会えるかもしれませんしね」

「だったら、まだここにいた方がいいんじゃないか?」

「うーん……」

 なんともいえない声を漏らす。本当に、伊織さんに会いたいのかどうか、自分でも判別がつかない。

 その正直な本音については、吐露してもいいだろう。

「伊織さんとは微妙なんですよね。会いたくないってわけではないんですが、積極的に会いたいというわけでもなくて。今となっては何を話していいのかわからないので、だからまぁ……会えても会えなくても、その時はその時と思うことにしてるんです」

「そうか。それがいいのかもな。無理して顔を合わせても、いいことがあるとは限らないもんな」

「そんな感じです。えーっと……では」

 僕が片手を上げると、富平さんもつられたように応じた。

 そのまま通路を通りすぎ、サークル棟から出る。構内へ戻る階段を上がる途中で、僕はふと立ち止まった。

 富平さんにはああ言ったが、僕は今でも過去に囚われている。

そうでなくてはわざわざここに足を運んだりはしないし、そもそも学祭に行くか行かないかで迷ったりしないだろう。誰かと会えるかもなんて淡い期待を抱いて、意味もなく構内をうろついたりもしないはずだ。

 立ち止まった場所はちょうど、階段の踊り場だった。正面には吹きさらしの通路があって、今にも向こうから、このみくんが現れてきそうだ。

 おそらく……いや確実に、僕は最初から彼女に惹かれていた。その思いを振り切るために、みっともない経験もしてきた。〈つづり〉での――伊織さんとの出来事は、彼女にとってはあずかり知らぬことだろう。

 今となってはそれが救いに感じられる。

 人に想いを寄せる行為ほど、他人に言いふらすべきでないものはない。


     9.


 母親から映画のチケットを、二枚ぶん手渡された。

 なんでも仕事の関係でもらったらしい。洋画のアクションもので、母の趣味ではなかった。そういうわけで僕に譲ることにしたのである。

「誘いたい人がいるなら、誘ってみたら?」

「そんな人いないって」

「気になる人、一人もいないの?」

「…………」

「いるなら、誘ってみなさいよ。あなたは奥手だから、何かしらきっかけがないと話しかけることもできないんでしょう? 映画なら誘いやすいし、定番じゃない。私だって若い頃は、お父さんとよく一緒に出かけたものよ」

「……そんな簡単にはいかないよ」

 ひとまずチケットを受け取り、一旦自室にこもった。

二枚のチケットをひらひらと動かし、意味もなく裏面を確認する。どうというところはない、ただの映画のチケットだ。主演俳優もよく知らないし、映画そのものにもあまり興味はない。

ただ、こう考えずにはいられなかった。

 もし――もし、前園このみを映画に誘ってみたらどうなるか。

どんな顔をするだろう。驚くだろうか。あるいは、喜ぶだろうか。僕と一緒に行っても大丈夫か。迷惑に感じたりしないか。

 そのような煩悶を、延々と繰り返す。

 連絡してみようと決行に至ったのは、母からチケットを受け取って一時間ほど経ってからである。

 電話するのは、なんとなく気が引けた。彼女は忙しそうだから、時間を取らせてしまうのは申し訳ない。後でいくらでも確認できるメールの方がいいだろうと思い、文章を練ってみることにする。

 最初は、以下の通りである。

『やぁ、こんばんは。唐突なんだけど、映画に行かない? 母からチケットをもらっていて……』

 すぐに消した。いくらなんでも性急すぎる。

 もう少し、落ち着いた感じにしたい。がっついているように思われるのは嫌だからだ。

 まずは、世間話から切り出すのがいいだろう。

『やぁ、こんばんは。本格的に講義が始まったけども、調子はどうかな? 色んなテキストを買わなくちゃいけないから、金銭的にきついよね。そういえば、音楽系のサークルに入ったんだっけ? それで……』

 これも消した。前置きがくどい。

 書いては消してを繰り返す。時おり母が部屋越しに、僕の様子を窺ってきたのだが、この時ばかりは本当にうっとうしかった。携帯電話とにらめっこして、何をしているのかなんて、親は知らなくてもいいことだ。

 チケットを手にして二時間弱。

結局、以下の文章に収まった。

『やぁ、こんばんは。入学してからもう一か月経つけど、そちらは慣れた? 僕はまだまだという感じ。

 実は母から映画のチケットを二枚もらったんだけど、僕はあまり興味がなくて。ゼミの自己紹介の時に、映画鑑賞が趣味だって言ってたじゃない? だから君に譲りたいなと思っているんだけど、どうかな?』

 じーっと画面を注視して、散々悩んだ末にこんな文章にしかならなかったことが、恨めしかった。「一緒に映画を観に行かない?」と書くだけでいいのに。「チケットを譲る」なんて言い方、あまりに回りくどい。

 しかし、当時の僕はこれが限界だった。

 メールを送信し、しばらく反応を待つ。

五分ほど経った後で、なんだか自分が馬鹿馬鹿しく感じられてしまった。ため息をつきながら机から離れようとした瞬間、返信が来た。反射的に飛びついてメールを開いたところで、僕は固まってしまった。

『こんばんはー。もう一か月だなんて、早いよね! サークルとか講義とか、色々やることあって目が回りそう。

 映画のチケットくれるの? だったら嬉しいな♪ ちょうど、彼氏と一緒に観に行きたいって思ってたところなんだ! 黒崎氏が構わないのなら、是非とも譲って頂けるとありがたいです!』

 どのくらい、画面を注視していたかわからない。

 やがて携帯電話を机に置いて、ゆっくりとうつむき、それからつぶやいた。

「彼氏、いるんだ……」

 そりゃそうだ、と内心では納得していた。

あれだけ綺麗な女性を、放っておける男性なんてそうはいない。大学に入って一か月程度で、交友関係を蜘蛛の巣のように広げている彼女なら、彼氏の一人や二人いたって、別におかしくない。

 そう、全然おかしくないことなのだ。

 むしろ、そういう可能性を考慮していなかった僕の方こそが間抜けなのだ。

 かろうじて、返信はした。適当な待ち合わせ場所と時間を指定し終わったところで、僕はどかっと椅子に腰を下ろした。

 彼氏がいるんだ。

 もう一度つぶやいて、その日はもう、何もする気になれなかった。

 そして――翌日。

講義が終わった後で、僕は指定の場所に向かった。構内からサークル棟へと向かい、階段の踊り場に差しかかったところで、前園このみとばったり出会った。僕を見るなり顔を輝かせて、足早に駆けてくる。

「こんちは、黒崎氏!」

「こんにちは……」

「あれ、なんだか元気ないね。どうかしたの?」

「いや、ちょっと疲れてるだけ。さっきの講義が難しくてさ……」

「そうなんだ。どんな講義だったの?」

 え、と言葉に詰まる。

先ほどの講義の内容など、さっぱり覚えていない。「そ、それよりも!」と慌てつつ、リュックサックから封筒を取り出す。

「これ、映画のチケット。二枚あるから」

「あ、本当にくれるんだ。いいの?」

「うん、いいんだ。ほら……僕はあんまり、映画に詳しくないから」

「えー、もったいない。映画を楽しまないのって、人生損してるよ。そういえば黒崎氏って、どういうジャンルが好きとかある?」

「ジャンル? えーっと……」

 とても言えない。まさか、この歳になって未だに特撮ヒーローものを観ているなど。

かといって、もはや誤魔化せる雰囲気でもない。

「えっと、ま、マトリックスとか……そういう」

「へぇ、ちょっと古いね。アクションと、SF寄りなのかな?」

「そ、そうなんだ。子供の頃は……ええっと、ターミネーターとかよく観てた」

「最初の? それとも2?」

「2だったね。敵が格子からぬーっと出てくるところが、すごくよく覚えてる」

「あー、わかるわかる。あれ、どうやって撮ったんだろうってなるよね! なるほど、黒崎氏はSFとアクションかぁ」

 そこで、「あれ?」と首を傾げる。封筒の中のチケットを確認し、「これもアクションだよね?」と聞いてくる。

「う、うん。でも、あんまり好みじゃなくて」

「そうなんだ。もったいないなぁ。もしかしたら思っていたよりも、面白かったってこともあるかもしれないのに」

「いいんだよ。ほんとに、いいんだ」

 うーんと口をすぼめて、何事か考え込んでいる。「ほんとにいいのかなぁ……」と申し訳なさそうだ。

「でも、黒崎氏がそこまで言うんなら。じゃあ、ありがたく受け取りますね!」

「う、うん。彼氏さんにもよろしく」

「伝えとく! じゃあ私、次の講義があるから、またね!」

 颯爽と僕の横を駆け抜け、ぶんぶんと手を振る。

小さく手を振り返すが――僕の頬は引きつっていた。彼女が視界から消えたのを確認してから、何をやってんだろう、と深くうなだれる。

そのままとぼとぼと、〈つづり〉の部室に向かった。

その後、諸先輩たちにグダを巻いていたことは言うまでもない。


 今にして思えば、あれは彼女なりの牽制だったのかもしれない。

 前園このみは鋭い人だ。人が自分に寄せる感情をしっかりと把握し、分析し、受け止めることも受け流すこともできる。

そういったスキルは単純に大学で学ぶだけでは、到底身に着かないものだ。経験、そして対人スキルにおいても、彼女は僕よりはるかに上手だった。というか、僕が彼女よりも優れているところなんて、今でもまるで思い当たらないのだが。

前園このみは僕からの好意など、早い段階で見抜いていた。

見抜いた上で彼女は、僕と向き合ってくれていた。僕自身も映画のチケットの件を除けば、彼女に対する好意をあらわにすることはほとんどなかった――と思う。彼氏がいる人にアプローチをかけたって、不毛この上ないからだ。

それでも――それでも、人の感情というものはどれだけ蓋をしたつもりでも、ふとしたきっかけで漏れてしまう。

それを実感したのは大学二年生の、ある夏の日のことだ。

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