熱情
寿 丸
プロローグ
1.
起き抜けに、タバコに火を点ける。
吐き出した煙がキッチンの換気扇に吸い込まれていく。
吸う度に頭がぼやけて、足裏に血が溜まる。より空気を取り入れるべく、心臓が脈打っているのがはっきりとわかった。
吸い終わった後、火を念入りにもみ消し、最後のひと息を吐き出す。煙が完全に消えるまで、僕はフィルターぎりぎりの吸い殻をじっと見つめていた。
十月初旬、連絡があった。
大学時代のサークルの先輩からで、内容は以下の通りだ。
『お久しぶりです。総合文芸サークル〈つづり〉八代目部長の富平です。
そろそろ肌寒くなってきましたが、皆さんお変わりなくお過ごしですか?
ご存じの方もいると思いますが、十一月初旬に我が母校にて学祭が行われます。現役の後輩たちが準備を行ってます。もしもお時間があれば、足を運んでみてはいかがでしょうか?
なお、学祭の日程は下記の通りです。
十一月〇日~●日 いずれも朝十時~夕方十七時まで
もしも来れそうだという人は、富平までご一報下さい。富平は暇なので、両日とも学祭にいます(笑)。
八代目 富平』
その連絡を受けた時、もうそんな時期かと小さなため息をついた。
お誘いが来ることが憂鬱なのではない。むしろそれは喜ばしいことのはずだ。
だが、今ではどことなく負担のように感じられる。
ごお、と耳の奥で風が鳴った。僕はそれを、リビングに設置してある空気清浄機が作動している音だと思うようにした。
日ごとに寒さが増している。
テレビを点けると、ニュースキャスターが既にコートを着込んでいた。髪が風になびいているのを見て、洗濯物がよく乾きそうだと思った。
調理に入る前に、洗濯機のスイッチを入れる。
フライパンを温め、油を引き、かき混ぜた卵を流し込む。
梅干を乗せたご飯に、インスタントのみそ汁。
そしてグリルからは焼き鮭。
食卓に並べた料理からはどれも、湯気が立っていた。この瞬間がたまらない。
両手を合わせ、「いただきます」と一人つぶやく。
一人暮らしを始めてから、約半年。今ではすっかり、お馴染みになった光景だ。黙々と食事を済ませた後は、食器をキッチンに運び、水に浸す。
テレビは点けっぱなしだが、ろくに観ていない。電力の無駄なのだし、消してもいいのだが、画面が黒くなるのが苦手なので、出かける前に切ることにしている。
鏡を見るのは苦手だ。だが、見ないわけにはいかない。
洗面所に赴くと、はねた髪に、若干充血したつり目の男がぬっと出てきた。
猫背になっていることに気づき、ぐっと背筋を伸ばす。
それからおもむろに洗顔を始めた。毎朝の髭剃りが欠かせなくなったのは、いつ頃からだろう。
返事はまだしていない。
とはいえ、無視するわけにもいかない。行くにしても行かないにしても、きちんと意思表明だけはしておきたい。
ただ、それさえもどこか億劫だった。
2.
「黒崎くん、どうしたのさ。君らしくもない。こんなミスをするなんて」
「はい、申し訳ありません」
「小さなことでも積み重なれば、君への信頼が損なわれる。そこのところ、気をつけて欲しい」
「はい、全くその通りです。以後、気をつけます」
上司に深く一礼し、席に戻る。
ため息が漏れそうになるが、すんでのところで堪えた。
フロアにいる社員の半数以上がランチに出かけているため、今のやり取りを聞いている者は少ない。それでもやはり気になる人は気になるらしく、ちらちらと視線を寄こしてくる者が数人いた。
僕の席の向かいに座る、柳沢さんも同様だった。僕より干支がひと回りほど上で、何かとお姉さんぶるところのある、えくぼが可愛らしい女性だ。「やれやれ……」と上司が席を立ったのを見計らって、こっそり話しかけてきた。
「大丈夫?」
「ええ、大丈夫です。ちょっと、へこみますけど」
「発注、間違えたんだって?」
「ええ、サイズの合わない電球を。一応、他のところでも使えますけど、切れている箇所には使えなくて」
「ネットで注文するのに慣れてると、そういうことあるよねぇ。やっぱり、実際に見て確かめた方が一番なんだけども」
「そうですよね。確認を怠った、僕が悪いんです」
声を出さずに、苦笑する。
柳沢さんもほんの少しだけ眉を寄せて、笑みをこぼす。それから思いついたように、「ねぇ」と顔を寄せてくる。
「良かったら、これからランチに行かない?」
「ランチですか? はい、大丈夫です」
「あと、どのくらいで行けそう?」
「三十……いや、二十分もあれば」
「じゃあ、きりのいいところまでやったら、一緒に行こう。最近、なんだか悩んでいるように見えるし」
「そうですか?」
「うん」
はぁ、と緩く口元を押さえる。
そんなに顔に出ていただろうか。
それからきっかり二十分後に、僕と柳沢さんはランチに出た。すれ違い様、僕のミスを叱責した上司はタバコの匂いをまき散らしつつ、満足そうに席に戻った。彼にとっては部下を叱ることなど、よくあることなのだろう。
僕の勤める会社においては、社員食堂などというものはない。
なので、ランチをする時は基本的にデスクの前で食事するか、外食するか、あとは近くの公民館にて持参したものを食べるかだ。
僕も柳沢さんも手製のお弁当を持ってきているので、公民館で食事することはほぼ暗黙の了解となっていた。
会社から徒歩五分の距離にあるそこは、地元の住民から憩いの場として親しまれている。
三階の高さまで吹き抜けとなっているホールの一画に食事スペースが設けられているのだが、座れる人数に限りがあるのがネックだ。ただ、他の社員の目を気にせずにいられる点は大きいので、僕は毎日のように活用している。
五つ並んだ円形のテーブルの内のひとつを陣取り、僕と柳沢さんは向かい合わせに座った。鞄からお弁当を取り出す傍ら、柳沢さんの左手に目がいく。薬指にはまっている指輪は、だいぶ年季が入っているように見えた。
二人とも手を合わせ、「いただきます」と小さくつぶやく。
僕のお弁当はごくシンプルなものだ。電子レンジで温めるだけで済む唐揚げ、オーソドックスな卵焼き、適当なもので作った野菜炒め。自分で作ったものだから、味はたかが知れている。
けれど誰かと食事をするという機会に恵まれると、あり合わせのもので作ったお弁当がどことなく新鮮に感じられるのだから、不思議なものだ。
ひと通り食事が進んだ後で、僕から口を開いた。
「先ほどの話なんですけど」
「うん、なぁに?」
「僕が悩んでいるように見えましたか?」
「うーん……表面上はいつも通りに見えるんだけど、なんだか別のことを考えてるって感じ。上の空、っていう意味じゃなくてね」
「勘ですか?」
「平たく言うと、そうだね。実際のところはどうなの?」
「まぁ、当たらずとも遠からず、ですね」
「どんなことで悩んでるの?」
僕は箸を止め、ふと考え込んだ。
別に隠しておく理由はないのだが、自分の内情を打ち明けることに関して、僕はそういう癖を持っている。打ち明けても大丈夫なのか、他人に言いふらしたりしないか――と勘繰ってしまう。
最初から話すつもりはあったのに、自分から切り出すのをもったいぶっているのだから、度し難い癖であると自分でも思う。
「そうですね。近く、母校で学祭がありまして」
「学祭って、大学の?」
「はい。先輩から誘われていまして。今は……行こうかどうか、ちょっと悩んでいるところなんです」
「どうして悩んでるの?」
「そうですねぇ……知っている人がどんどんいなくなっていく、ってのももちろんあるんですけど。あそこはもう僕の居場所ではないとわかっているので、わざわざ足を運ぶだけのメリットがないと、そう考えてしまうんです」
「ふぅん……」
柳沢さんも箸を止め、瞳を左右に揺らして考え込む。
「うーん……気負いすぎなんじゃない?」
「そうですかね?」
「そうかも。そこまで深く考えなくても、誘われているんなら行ってみればって私は思うな。どんな形であっても、声をかけてくれる人がいてくれるって、やっぱりありがたいことだよ。この歳になってくると、なおさらね」
「声をかけてくれる人……」
「あ、でも嫌な思い出とかがあって、行きたくないっていうんなら、それはそれでいいと思うの。ただ、黒崎くんの話を聞いた感じ、別にそういうことではないんでしょう?」
「……まぁ、そうですね。嫌な記憶もあるにはありますが、全体通して見れば、いい思い出ばかりでした」
「だったら、いいんじゃない?」
はにかみながら、小首を傾げる。
僕はこの時――失礼であると感じつつも――柳沢さんの言葉に、釈然としなかった。胃の辺りで、消化不良の塊が残っているような感覚。その感覚は不安に近くて、どこか落ち着きを失わせる類いのものだった。
「柳沢さんは、不安に思うことはないんですか?」
「と、言うと?」
「昔の友達や仲間に会ったりするのが。もしくは恋人とか、そういう近しい人に会ったりするのが」
「ううん……あるにはある、かな」
頬に手を添えて、柳沢さんは言った。
僕は続けて、問いを重ねてみた。
「自分の状況と比較したりします?」
「嫌なことを聞くねぇ」
困ったように眉を寄せる。
「そりゃ、もちろんあるよ。同年代の人と比べて自分は遅れてるかも、とか考えちゃうことって、いくらでもある。でも、それは仕方ないかな。誰だって、人と自分とを比べずにはいられないんだから」
「……僕もそうです」
「黒崎くんは、昔の友達や仲間と会うのが、怖い?」
「…………」
柳沢さんは椅子の背にもたれかかり、それから労わるように言った。
「やっぱり、気負いすぎなんじゃない?」
「そう思いますか?」
「うん。黒崎くんは、入社した時から人に気を遣いすぎるところがあるから。もちろんそれは悪いことではないんだけど、疲れちゃわない?」
「……仰る通りです」
「まぁ、かくいう私だって、人のこととやかく言える立場にないんだけど」
多少誤魔化すような感じで、箸を手に取る。僕もつられる形で、お互いに食事を再開した。
それからしばらく、無言だった。
けれど時たま、お互いに相手の反応を窺う視線を送っている。
お弁当を食べ終え、簡単な片づけを済ませた後、柳沢さんと目が合った。このタイミングでスマホをいじるのは失礼だし、かといって無言のままでいるのも辛い。これからどう話を展開していこうかと考えていた時、ありがたいことに柳沢さんの方から切り出してくれた。
「ねぇ。誘いたい人っている?」
「学祭にですか?」
「うん。友達でも恋人でもなんでもいいから、とにかく一緒に学祭を楽しんでくれそうな人を探してみるの。いる? そういう人」
「……いるには、います」
「どんな人?」
僕は眉を寄せて腕を組み、口をへの字に曲げた。
「一言で言えば……芯のある人、でしょうか」
「女性?」
「はい」
「好きな人?」
「……ええ。でも、彼女は既婚者なので」
「ああ……そりゃ、難しいね」
悪いことを聞いたと言わんばかりに、柳沢さんは眉をしかめた。それから緩く腕を組んで、僕をじっと見つめてくる。
「聞いていいことなのかどうか、わかんないんだけど……」
「答えられる範囲でなら答えますよ」
「今でも好き、とかそういうこと?」
「……どうなんでしょう」
言った後で、少し後悔した。このようなもったいぶった言い方など、いい加減改めたいのに。
しかし、柳沢さんは一人で納得したようにうなずいている。「既婚者かぁ……」と瞑目しつつ、つぶやいた。頬に添えられた左手に、どこかの照明が当たって、指輪が鈍い輝きを放っている。
「他にはいないの? 誘いたい人」
「いたら、とっくに誘っています」
「そっか。そうだよね。なんだかごめんね」
「いえ、大丈夫です」
僕はできるだけ、はにかむよう心がけた。相談に乗ってもらっている身で、必要以上に相手に心配をかけてしまうのは、僕としても望むところではないから。
柳沢さんは腕時計を見て、「もうこんな時間」
「そろそろ戻ろうか?」
「そうですね。すみません、なんだか益体のないことばかり話してしまって」
「ううん、いいの。それよりも黒崎くん……」
「なんでしょうか?」
「……あ、なんでもない。ごめん、いらないお節介焼くところだった」
「いいですよ、言ってみて下さい」
柳沢さんは口をきゅっと結び、声の調子を一段落として言った。
「せめて連絡を取ってみるだけでも、いいんじゃないかなって」
「…………」
「相手が既婚者だとやっぱり色々難しいけれど、それでもやっぱり、昔からの仲間から連絡をくれるのってありがたいし、嬉しいもんだよ。ええと、例えばなんだけど……黒崎くんは学祭についての連絡が来た時、どう思った?」
「嬉しかったですよ、それは」
「そうだよね。自分のことを覚えていてくれているのって、やっぱり嬉しいから。もしかしたら黒崎くんの言うその人も、君からの連絡を待ってるのかも」
「それはないですよ」
僕は即座に否定した。
柳沢さんは目をしばたたかせ、「どうして、そう思うの?」
「忙しいんです、彼女。資格を取ったり、仕事しつつ家事をやったり、色々と。僕のことを気にかけている余裕なんて、ありませんよ」
「それは、ちょっと自分を卑下しすぎじゃない?」
「はぁ……」
なんと答えていいかわからず、頬を掻いた。
柳沢さんはおもむろに、「ごめん」と両手を合わせた。
「やっぱり、余計なお世話だったね」
「いえ、大変参考になりました。……そろそろ、行きませんか?」
「……うん、そうだね」
柳沢さんはまだ何か言いたそうだったが、僕は気に留めないふりをして、鞄を持って席を立った。
休憩時間が終わるまで、あと六、七分程度。
会社まで戻る途中は、柳沢さんと取るに足りない、短いやり取りを交わした。もちろん先程の話題には触れなかった。
いや、触れさせなかったという言い方が正しかったのかもしれない。
3.
その日の夜、母から電話がかかってきた。
一週間前に連絡したばかりである。聞いてくることといえば、やれ元気かだの、体調崩してないかだの、栄養の偏った食事をしていないかだの、そういうことばかりだ。何か食べ物を送るかと言い出した時には、内心焦りつつも、断った。「送ってこなくてもいいよ。本当に、送ってこなくていいから」と、二度も念を押す始末だ。
半年前に実家を出た時も、やたらと心配していたようだった。
ようだった――というのは、妹からこっそり連絡をもらっていたからである。
父や母は、一人暮らしすることに反対もしなければ賛成もしなかった。「家を出るなら好きにすれば?」というようなスタンスに見えていたのだけれど、内心では複雑だったのかもしれない。
「あれで、寂しがってるんだよ」と妹は忠告するように言った。
いつか親の立場になれば、わかる時が来るのだろうか。
布団に寝転がり、スマホの画面をスクロールする。今ではどこか懐かしく感じられる、彼女の名前が表示された。
「前園このみ」――それが、彼女の名前。
いや、今は「長塚このみ」だったか。
しばらく彼女の声を聞いていない。何度か連絡を取ろうとしたことはあったが、その度に尻込みしてしまい、結局しなかった。彼女が結婚してからは、なおさらだ。同性の友人なら問題ないけれど、異性の、しかも既婚者に連絡を取るということは、好ましいことだとは思えなかった。
連絡を取り合うぐらいはいいのではないか、何もそんなに堅苦しく考えなくてもいいのではないか――と自分に言い聞かせてみるが、やはりできなかった。そうこうしている内に時間だけが過ぎ去っていく。最後に連絡したのは半年ぐらい前、一人暮らしを始めたことを報告した時だ。お互いの近況を尋ね合うだけで、直接会って話そうという段階には至らなかった。
日々の生活、そして仕事に追われて、連絡しようという暇と余裕がない、というのは言い訳でしかないことは、僕自身理解していた。
柳沢さんの言う通り、やはり気負いすぎなのだろうか。友人として連絡する――そうしたいのにできないのは、僕の胸の内でくすぶるものを、否定しきれなかったから。
彼女の声を聞いたら、顔を見たら――再燃しかねない。
何度もスマホを点けては消して、次第に馬鹿馬鹿しくなって、適当に放った。友達に連絡するべきかどうかで迷っている自分が、みっともなくて仕方なかった。
ひとまず、風呂に入ることにした。
思考が行き詰った時は、気分転換するに限る。
湯船に浸かっている間、いつの間にか彼女に連絡する時の文面を考えていた。彼女の凛々しい横顔を、ありありと思い浮かべていた。
声が聞きたい、話がしたい、彼女の言葉が欲しい。
今の僕をどう思うか。
年齢だけは着実に重ねている僕たちは、これからどうするべきなのか――意見を交わしたい。そういうことを臆面もなく話し合うことができるのは、残念ながら僕にとっては、彼女――前園このみだけなのだ。
約十分後、僕は結局、スマホに向かって文章を打ち込んでいた。タオルで髪を拭いつつ、何度も文面を読み返しては、細かな言葉遣いを確認する。そうして文面を添削し終えた後も、僕はこの期に及んで、送信するのをためらっていた。そのためらいを振り切るため、加熱式タバコで一服せざるを得なかった。
ひとしきり悩んでから、送信した。
すると、送ってしまったという感慨と後悔とが、一気に押し寄せる。彼女は読んでくれるだろうか――読んでくれたとして、反応してもらえるだろうか。
よしんば返信をもらえたとしても、一緒に学祭に行くことは難しいかもしれない。このみくんは既婚者だし、何かと忙しい身だし、僕以外にも大勢友達がいるし――と益体のないことばかり考えていたところで、着信があった。
このみくんからだった。
僕は一も二もなく、すぐさまスマホを耳に当てた。
『もしもし?』
「はい、黒崎です」
『あ、黒崎氏。久しぶりだねー。どう、元気にしてた?』
「うん、まぁまぁ」
『あはは、相変わらずだね。いつ聞いてもそればっかり』
「あ、うん。そうかもしれないね……」
『そうだ、学祭のことなんだけど。早いねー、もうそんな時期なんだ』
「うん、本当に早いよね」
『黒崎氏は行くつもりなの?』
僕はぐっと息を呑んだ。
「……それがね、まだわからないんだ」
『ふぅん? 何かあったの?』
「いや、そういうわけでもないんだけどね」
僕は困り顔で、空いている手を首の後ろに添えた。電話口から彼女の息づかいが聞こえてくる。
弾んだような彼女の口調は相変わらずだった。とてもあの時、あのようなことを告げた人と同一人物とは思えないぐらいに。今でも彼女に惹かれているのは、そのようなギャップがあるからなのかもしれない。
「そういう君こそはどうなのさ? しばらく行ってないんじゃない?」
『そうだね。仕事とか色々と励んでるところだし……卒業してから、もうずっと行ってないなぁ』
「そっか」
『サークルの面々も代替わりしているだろうしね。今さら私が行っても、なんだこいつって思われるだけだろうし』
「そっか。そりゃ、そうか」
『友達も誘ってはくれているんだけどね』
「友達って……ゼミの?」
『いや、サークルの。私が行くなら、みんな行くよって言われちゃったけど、そんな風に誘われると、なんだか責任感じない?』
「まぁ、君は人気があるから」
『そんなことないって』
ほぼ、断言するような言い方だった。
眉を寄せて苦笑する姿が、目に浮かぶようだ。僕と比べればという意味で言ったつもりだったのだが、彼女はそう受け取らなかったらしい。
そんなところも、相変わらずだ。
『ねぇ、黒崎氏は今でも、サークルの人たちと交流があるの? 例えば、現役の後輩たちとかは?』
「いや、先輩たちや同輩とかはともかく、今の子たちとはほとんど面識はないよ。年を追う毎に、知っている人たちが次々といなくなっていくし」
『寂しいねぇ。でも、森先生は今でも光和にいるんでしょ?』
懐かしい名前を聞いて、口元がふっと緩む。
「そうみたいだね。でも前に、いつまでもここにいられるわけではないみたいなことを言っていたよ」
『はぁー、そっか。できればもう一度、会いに行きたいんだけどね』
ため息交じりに彼女は言った。
声の調子で、僕は彼女がもう、気軽に行ける立場ではないことを察した。
「忙しい?」
『うん、それなりに』
「学祭に行くのは……やっぱり、無理?」
『うん、残念だけどね。無理やり行けば、行けなくもないかもしれないんだけど……でも今の歳でそんなことしたら、次の日にはダウンしちゃうかもだし』
「無理はできないよね、お互いに」
しみじみと言うと、このみくんはぷっと吹き出した。
『やだなぁ、黒崎氏。そんなことを言うのって、おじさん化の証拠だよ』
「実際、もうおじさんって歳に差しかかっているし」
『じゃ、私はもうおばさん?』
「ご謙遜を」
あはは、と彼女は軽快に笑った。鈴を転がすような、それでいてどこか甘い声音。できればその声をいつまでも聞いていたかったけれど――それさえも、難しい。
ごめんね、と彼女は前置きした。
『できれば行きたいし、黒崎氏にも森先生にも会いたいんだけど、どうしてもね』
「ううん、気にしないで」
『昔と比べてなんだか、難しくなっちゃってきてるよね。色々と』
「そうだね、色々とあるもんね。お互いに」
『それじゃあ私、もう切るけど……大丈夫?』
「うん、大丈夫。忙しいところ、ごめんね」
『ううん。むしろ、連絡くれて嬉しかった。ありがとうね、黒崎氏。そうだ、体には気をつけてね。この時期、風邪を引きやすいからね』
「お気遣いどうも。君も、気をつけてね」
『それじゃあね』
「うん」
通話が切れる。
スマホをじっと見下ろして――僕は短く吐息をついた。
それから、空気清浄機のスイッチをオンにして、換気扇の下でタバコに火を点けた。煙がすぐさま吸い込まれていくのを見、僕は肩を落とした。
「まぁ、そりゃそうだよな」
わかりきっていたことのはずだ。
もしかしたら、会えるかも――という淡い期待があっさり打ち砕かれてしまって、けれどほんの少しだけ、安堵している自分がいた。
これでもう、何も期待しなくて済む。
ひと通り吸い終わった後で、僕は部屋の隅のデスクに向かった。一人暮らしを始める際に新調した黒のデスクは、まだ新品同様の輝きを保っている。椅子にもたれかけ、しばらくその場でぼんやりとして――不意に、あるものを思い出した。
デスクの引き出しに指をかける。雑多に詰め込まれた文房具などを適当によけて、奥にある写真を引っ張り出した。古いデジカメで撮ったものだからか、輪郭がややぼやけている。学祭の時のもの、ゼミ合宿のもの、そして――卒業式に撮ったもの。
前園このみと並んで撮った写真は、一枚しかない。
スーツ姿の僕と、キャミソールに白のジャケットを羽織った彼女。後ろには何人もの卒業生が背景となって重なっている。誰が撮ったものなのかは、もう覚えていない。
彼女は笑顔だった。
にんまりと口の両端をつり上げていて、この瞬間を心の底から楽しんでいるようだった。僕の方はといえば、やや頬が引きつっているものの、笑顔としてはまぁ及第点といったところだろうか。どことなく――僕のキャラにはそぐわない感じの――晴れやかな表情だ。彼女と並んで写真を撮れたことに、舞い上がっていたことだけはよく覚えている。
僕はしばらくその写真を眺め、それから元の位置に戻した。引き出しをしまい、再びぼんやりと、宙を見上げてみる。
「気負わず行ってみるといいよ、か……」
つぶやき、僕はノートパソコンの隣にある卓上カレンダーをめくった。学祭は十一月初旬の土日で、特に予定は入れていない。そんなことはカレンダーを見るまでもなくわかっていたことのはずだった。
カレンダーには、やけに空白が目立つ。
仕事以外に、予定らしい予定はあまりない。といっても――在学時からカレンダーが埋まった試しなどないのだが。
このみくんのカレンダーは今も、様々な予定で埋まっていることだろう。在学時からそうだった。彼女の手帳は分厚く、手が空いたらしきりに何事か書き込んでいた。
たまたま目にする機会があって、僕はこう尋ねてみた。
「たくさん、予定が入ってるんだね」
「そうなんだよ」
彼女は困り顔で返した。それから手帳をじっと見つめて、はぁー、とため息をついたものだ。
「私はできるだけ、家でのんびりしていたいタイプなんだけども、次から次へと予定が入っちゃって……参るよね、もう」
「でも、いたずらに時間を持て余すよりはいいんじゃない?」
「そうかなぁ?」
「充実してるってことなんじゃないかな」
僕はその時は深く考えず、口にしていた。このみくんはどこか釈然としない顔つきで、僕と手帳とを交互に見ている。
それから、彼女はこう尋ねてきた。
「予定があるのって、幸せなことなのかな?」
「それは、ケースバイケースなんじゃない?」
「うーん、そっか……」
あの時の彼女は手帳を通して、何かを見つめているようだった。僕はその横顔に見とれているばかりで、彼女の内情に思いを巡らせられていなかった。
今でも、そうなのかもしれない。
彼女のことを慮ることが、できてないのかもしれない。
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