秘密基地へ行こう

 

 ――カーテンの隙間から朝陽が差し込む。

 ゴソゴソと近くで何かが動く物音でわずかに目が覚める。

 薄っすらと目を開けると、テレビの前にちょこんと座る妹の姿があった。

 テレビから流れてくる軽快な音楽に合わせて妹の体も楽しそうに揺れる。

「おはよ、奏」

「あっ、にぃに!っはよー」

 奏は花のような笑顔でオレに抱きついてくる。

「なんだ~。奏は年長さんなのに甘えただなー」

「えへー」

 白い歯を見せてニッコリと笑う奏をギュッと抱きしめ返す。

 妹の小さな体を抱いていると、やわらかな香りと共にこの上ない幸せで胸を満たされていくのを感じる。

「にぃに、きょーはおうちでゴロゴロ?」

 奏からの質問で、今日が日曜だということを思い出す。  

「んー、いろいろやる事が溜まってるからな。ゴロゴロはちょっとだけかな…」

「ちょっとだけ~?」

 奏は不満そうにプクッと頬を膨らませる。

「そう。ちょっとだけゴロゴロ」

「やあ、にゃー」

 二人でクスクスと笑い合い、布団の上をゴロゴロと転げまわる。  

「オイ、朝っぱらから目の前でイチャつくんじゃねえ」

「うわァ!?」

 てっきり眠っているものだとばかり思っていた姉貴はいつの間には起きており、早朝で普段よりも数倍マシに目つきの悪い顔でこっちを睨んできた。

「あっ!ねぇねもはよー」

「おう、おはよ」

「姉貴がこんな早く起きてくるなんて珍しいな。今日はなにかあるのか?」

 詳しくは知らないが、姉貴は夜のお仕事をしているため昼夜逆転の生活を送っていた。なので昼頃まではたいてい起きてこない。

「休みにした。わるいか?」

「いや、べつに悪か…いや悪いだろ!?店クビになったらどうすんだよ!」

「どうもしねえ、別の店で働くだけだ。そんなことより飯」

「…へいへい」

 有無を言わさぬ亭主関白な姉に気圧され、しぶしぶ台所へ向かう。

 

「さあてと、今日は何にすっかな~」

 冷蔵庫を開き、朝の献立を思案する。

「だし巻きにしろ~」

「しろ~」

 居ぐうたら姉妹のリクエストが居間から飛んでくる。

「ちぇっ、面倒くせえな~。わーったよ」

 居間から姉貴と奏の楽し気な話し声が聞こえてくる。

 我が家のごくありふれた日常の光景ではあったが、今はそれが堪らなく愛おしく感じられた。

「なんかさ、オレ、今スッゲー幸せかも」

「いきなりなんじゃ。まるで年寄りのような事を言いおって」

 寝間着の内側に隠してある宝石から辛辣な言葉が返ってくる。

「うるせえ、事実なんだから仕方ないだろ」

「…まァ、あれだけ難儀したのじゃからな。その喜びも一入といったところか」

「ああ、そうだな」


 ――あのジャンボの事件から一週間が過ぎた。

 姉貴と奏を含めた30人近い客が怪人に人質として捕えられていた事件は、オレとその場に偶然居合わせたヒーロー、悠のおかげでなんとか解決できた。

 人質の脱出を見届けた後、オレもジャンボの屋上から脱出したが、ダメージが限界に達していたオレはそこで意識を失ってしまった。

 目が覚めた時にはすでに空は真っ暗で、携帯を開くと姉貴や職場からの数十件にも及ぶ着信履歴が溜まっていた。

 ボロボロの体を引きずってようやくアパートに帰り着くと、当然ながらすでに姉貴たちは帰宅していて、ずっと」音信不通だったオレは言い訳をする間もなく、姉貴から制裁のラリアットを食らった。


「あの時はホント、ありがとな」

「いいかげん聞き飽きたわ。それで何度目じゃ?」

 言われてみれば最近はほぼ毎日、宝石に礼を言っている気がする。

「べつにいいだろ。こうして平穏な日々を送れてるとどうしても言いたくなるんだ」

「まったく単純な男じゃな、お主は。これでは妾が一人で悩んでおるのが馬鹿らしく思えてくるわ」

「悩み?お前が?…オレでよければ聞くけど?」

「他人事のように言うが、これはお主にこそ関係する事なのじゃぞ。…よもや、あの一件ですべてが解決したとでも思っておるわけではあるまい?」

「……いや、そこまで楽観視はしてないけど。あれだけ大事になったんだ。あとはヒーロー達が出張って来て解決してくれるんじゃないのか?」

「他力本願にも程があるぞ。そもそもヒーロー共は手前勝手な信念を正義としてそれを執行する者たちであって、絶対的な民草の味方というわけではない」

「えっと、言ってる意味がわからないんだけど…」

「――2人の人間と100人を天秤にかければ、ヒーローは間違いなく2人を見捨てると言っておるのじゃ」

「……それトロッコ問題ってやつだろ?でも、それは仕方ないんじゃ」

「――その2人がお主の家族であってもか?」

「っ!?」

 寸前まで出かけた言葉が出てこない。

「妾たちの敵、ボルカノという男は貪欲で執念深く、なにより残酷な男じゃ。己の目的のためならば手段を選ばず、どれほどの犠牲を払おうと意に介さぬ。そんな外道からお主の家族を真に守ることができるのは、お主しかおらん」

「……オレで守れんのかよ」

 あの事件の折、相対した怪人はオレが逆立ちしても敵わないほどの強敵だった。それが偶然に偶然が重なったおかげで、なんとかギリギリで勝つことができた。

「不安もあろう。…そこでじゃ、あれから妾はしばらく考えておったのじゃが――」  

「――オイ、飯はまだかーー!腹減ったゾーー!」

 宝石の言葉を姉貴の声が遮る。

「…あ、その話後でもいいか?」

 暗く沈んだ気持ちがパッと晴れる。

「……はあ、好きにせい」


「おーい、朝ご飯がきたぞ。布団片して、ちゃぶ台出してくれ」

「やぁー!あーくらちゃまがんばってーー!ねぇねもおーえんして!」

「ハイハイ。がんばれ~」

 朝食を載せたお盆を持っていくが、テレビに夢中な姉妹はまるで動じない。 

 仕方がないので、自分で布団を隅に除けて、ちゃぶ台を部屋の真ん中へ移動させる。


『おのれ!シスターズめ!おぼえておれ~~~っ!』


 テレビの画面の中では、カラフルなドレスに身を包んだ少女達が放ったキラキラの光線を食らった悪役が捨て台詞を吐きながら空の彼方へと吹っ飛んでいく。

 ちなみに、奏たちが視ているのは『プリンセスシスターズ』とかいう少女向けアニメで、さきほどから奏が応援しているアークラというのは、けばけばしいメイクに、きわどいボンテージ衣装を身に纏い、オーホッホと高飛車な笑い方をする所謂だ。どういうわけか奏はそのアークラにご執心だった。


「あぅ…あーくらちゃままけちゃった」

 奏はしょんぼりと肩を落とす。

「奏はどうしてそいつを応援してるんだ?」

「うゅ?どうして?……どうして?」

「…うん、いや、それオレが訊いてるんだけどな…」

「んーと…くろいとこ!」

 ニッコリとお日様のような笑顔で奏は言う。

「…あれ、奏って黒い色が好きだったっけ?」

「いいや、つい最近になって好きになったんだ」

 黙々と箸を進めていた姉貴がポツリと呟く。

「へえ、最近…?」

「どうでもいいだろ、そんな事。それより飯が冷めるぞ。奏もはやく食べな」

「は~い」


 穏やかな日曜の朝、家族三人揃って朝餉を頂く。

 絵に描いたような幸せな一家団欒の時間がゆっくりと過ぎていく。


「ねぇね、あーくらちゃま、つぎはかてるかな?」

 奏はスプーンでゴハンを口に運びながら姉貴に訊ねた。

「さあ?どうだろうな」

「ね、あーくらちゃまキレーだったね」

「ん…まあまあ、かな」 

「ね、でもまりあちゃまもっとキレーだったね」

「ブフォッ!ゴホッゴホッ」

 あまりに予想外な奏の言葉に、ゴハンが喉に詰まってむせてしまう。

「喧しい。あと汚ねぇ」

「にぃに、だいじょーぶ?トントンする?」

「…ゴメッ、ああ、大丈夫。大丈夫だから、ありがとな奏」

 奏は「トントン」という掛け声とともに腰をさすってくれる。

「奏、その名前はお外で言っちゃダメって言われたろ?」

「ねぇね、ここおうちだよ?」

「…そうだけどそれでも言っちゃダメだ」

「だめなの?どうして?」

「……さあ、どうしてかな。今度、あのエラそうなオッサンに会ったら訊いとくよ」

「偉そうなオッサンって?」

 姉貴の聞き慣れない言葉がすこし引っ掛かった。

「あのね、おじ――」

「――かーなーで!」

 喋りかけた奏を姉貴が遮った。

「べつにお前が気にするコトじゃねえ。些細なコトだ」

「…なんだよ。家族の間でオレだけ秘密とかやめてくれよ。あんな事があった後なんだし、余計に気になるだろー」

 わずかな罪悪感が胸にチクリと刺さる。

「つまんねえ理由だ。…あの後、人質として救出された時に、色々言われたんだ。…緘口令だかなんだかしらねえがエラっそうに。テメーらが何してくれたってんだ」

 事件当時を思い出したのか、あからさまに不機嫌そうに姉貴は愚痴る。

「緘口令…口止めされたってことか」

「(ふむ、なるほどのぅ)」

 オレと宝石は揃って合点がいった。


 あの事件の翌日、テレビ局は挙ってあの事件を取り上げた。

 報道された内容はどこも似たり寄ったりで、事件の当事者であるオレ達からすればとくに目新しい情報もなかったが、気になったことがひとつだけあった。

 それは事件を解決したのが、偶々そこに居合わせた一人のヒーローだということだった。あの場に居合わせたヒーロー、つまり悠がひとりで事件を解決したと世間では報道され、ブラックマリアの名前はどのテレビ局でも一切報道される事がなかった。

 その事実にとくに憤りを感じたりなどはしなかったが、ただ不思議ではあった。

 そして今の姉貴の話を聞いて謎がひとつ解けた。どうやらそのエラそうなオッサンとやらがマリアの情報を隠蔽した事に関わっているらしい。



『――近隣地域では警戒が続いており、ヒーロー協会と捜査当局は連携して、最近の事件との関連性も含めた捜査を行っているとのことですか…〇〇さん、如何でしょう?』

『あのストリーキング紛いの泥棒が裏で糸を引いてるんじゃないのかね』

『…ああ、あの最近若者の間で人気を集めているという女性ですが?』

『まったく嘆かわしい!そんなに目立ちたいのなら、最近流行りのチックなんとかとやらに水着姿でも投稿すればいい。それならワシだってみてやるとも、ガハハ』

 

 食事も終わり、とくに急ぐ用事もないので家族とまったりテレビを視ていた。

 テレビ画面では、日曜の朝に似つかわしくない仏頂面のニュースキャスターと偏屈顔のコメンテーターが下品なトークに花を咲かせて、スタジオ内に引き攣った笑いを起こしていた。

 ちなみに、ストリーキングの泥棒猫というのは、言わずもがなマリア《オレ》である。若者に人気というのは初耳だが…。


「朝っぱらから不愉快な糞ジジィ共だな」

 まだ怒りが収まらない姉貴は、今度はテレビに向かって悪態をつく。

「まあ、でもこんな田舎で立て続けに物騒な大事件が起きたら、なにか関係あるだろって考えるのは普通だと思うぞ」

「あぁん!!」

「なんでもないですごめんなさい」

 ドスの利いた姉貴の眼光に思わず気圧されてしまう。

「にぃに。あのね、ってしってる?」

 テレビの音など我関せずと、熱心にクレヨンでなにか描いていた奏が手を止めて訊ねてくる。

「…え?ひみちゅち?…なんだ、それ?」

 奏は「これ」と、さっきまで描いていた画用紙をオレに差し出す。

 紙の真ん中には大きく『ありがとつ』という誤字と、その周りにたくさんのニッコリマークの笑顔が描かれていた。

「お~上手だな奏」

「これね、おれーのおてがみなの」

「お礼?…誰かにあげるんだ?それは貰った人きっと喜ぶぞ」

「にぃにほんと?!やった!これね、まりあちゃまにあげるの!!」

 姉貴が「ハァ~」と深いため息をつく。

「……ああ、マリア、ね。…なるほど……なるほど」

「あのね、まりあちゃまね、ひみちゅちきにいるの」

「さっきも聞いたけど、そのひみちゅちきってなんだ?」

だ」

 ややイライラした調子で、姉貴が奏の代わりに答える。

「(ほう、秘密基地とな!?)」

 なにか思うところがあるのか、宝石が頭の中で興奮気味に呟く。

「…へえ、秘密基地なんて言葉よく知ってたな奏」

「あーくらちゃまもね、そこにいたの…」

「アークラって…ああ、さっきのアニメに出てた悪役か」

 なるほど、奏があの悪役にハマっている理由がなんとなく分かってきた。

「そういや、お前、ガキの頃からそういうの好きだったよな?」

「いつの話だよ、それ!」

 たしかに小学生の頃は、友だちと一緒にお菓子やマンガを持ち寄り、近所の廃屋に忍び込んで秘密基地ごっこをした記憶はある。もちろん、中学に上がる頃にはとっくに卒業したが。 

「にぃにしらない?」

「ん~そもそも、こんな辺鄙なところに秘密基地なんてないと思うぞ」

「(――いや、あるぞ)」

「っはァ?!」

 あまりに予想外な言葉が頭に響いたため、素っ頓狂な声を上げてしまう。

「(まあ、厳密には妾の隠れ家なのじゃが、似たようなものじゃろ。…にしても、よもやお主の家の者から先にその話を切り出されるとはのう。なんとも奇縁というか、僥倖というか)」

 宝石は愉快そうに「クククッ」と笑う。

「にぃに?どしたの?」

「え…いや…な、なんでもないぞ」

 奏が不思議そうに小首を傾げる。

「(なにを呆けておるか。ほれ、今朝の話の続きじゃ。妾は常々考えておったのじゃ。そろそろ妾たちもなにかしら行動を起こすべきだとな)」

「…はあ?」 

 寝耳に水とはまさにこのことだった。

「(なんじゃ、その間の抜けた返事は。なにも難しい話はしておらん。現状を顧みた上で、正確な情報の入手と戦力の増強が急務と判断したのじゃ。このまま手をこまねいていれば、遠からず、またボルカノめが良からぬ謀を仕掛けてくるぞ?)」

「………」

「(…それとも、またあの時のように後になって妾に泣きついてくるつもりか?)」

「うぅっ!?」

 姉貴と奏が人質だと知らされた時の、あの絶望感が脳裏に蘇る。

「オイ、新、どうかしたのか?」

 よほどヒドイ顔をしていたのか、奏と姉貴が心配そうにオレの顔を覗き込む。

「……えっと、ゴメン。なんのはなしだっけ?」

「お前大丈夫か?なんか顔色悪いぞ?」

「いや、全然大丈夫…でもないかな。なんか急に調子が…。わるい、ちょっと横になるわ――」

「(ちなみにお主に拒否権はないぞ)」

「――ッと思ったけど、やっぱ出掛けてくる」

 家族の前でなければ、こみ上げる感情を爆発させていたことだろう。

「出掛けるって、お前も今日はバイト休みだろ?」

「…ちょっと…色々買い出し。ほら、足りない物とかあるから」

「かなも!かなもいくーー!」

「ダーメ、外は物騒だから奏はあたしと一緒にお留守番だ!」

 今にも飛び出して行きそうな奏を姉貴が両手でガッチリ捕まえる。

「やぁ~~やぁぁ~~」

「奏、いい子にしてたら帰りにケーキ買って来てやるから、な?」

「むぅ~……にぃに、はやくかえってきてね」


 

 ――「次は〇〇駅、〇〇駅」

 隣駅到着を告げるアナウンスが車内に流れる。

「すぅ~ハァ…」 

 何度目かの深いため息をつく。

 周囲の情報をなるべくシャットアウト出来るよう目を閉じていたが、それでも周りの様子が手に取るように分かってしまった。

 電車が停まり、扉が開くと同時にホームに降り立ち、脇目もふらずに改札を通り抜けて、逃げるように駅から飛び出した。

「ふぅ…」

「美しい華には誰もが足を止め、目を奪われてしまうものじゃ」

 宝石がどこか満足気に呟いた。

「この服、わざわざ姉貴の目を盗んで拝借してきたのに、まるで効果ねえじゃねえか」

 駅へ向かう道中、車内にいる間、常に周りからの視線に晒された。

「フフン、妾のあふれ出る美貌が、その程度で隠し通せるはずなかろう」

「威張るな!あと、そういうことは先に言え」

「ところで、その野暮ったい帽子はいつ脱ぐのじゃ?」

「絶対に脱がねえっ!!」

 

 ――(半ば強制的に)秘密基地に向かう羽目になったオレは、宝石が以前に造ったという秘密基地のある隣町に来ていた。

 出掛ける際に、宝石から有事に備えてブラックマリアに変身するよう言われたのを軽い気持ちで応じたのがいけなかった。

 マリアは怪人としてはお世辞にも強いとは言えなかったが、見た目はお世辞抜きで掛け値なしのとびっきりの美人だ。そしてオレはその事を完全に失念していた。…だって、自分じゃ見れないし。  

 そんなわけで、道行く人は誰もがマリアを振り返って凝視し、特に逃げ場のない車内ではヒドイもので、あからさまにスマホのカメラをこちらに向ける者までいた。

 ちなみに、現在の服装は帽子以外姉貴の私物で、上下に黒のレザージャケットにショートパンツ、ドクロ柄のTシャツ、あとはシルバーのアクセサリーを数点、すべて宝石の命令で着ていた。


 

 駅を出てすこし進むと、駅からほど近くにあるジャンボが見えてくる。

 先週、あれだけの騒ぎがあったため、建物の周囲には進入禁止のテープが張られ、厳めしい顔つきの警官が出入口を塞いでいた。

「――ん?」

 その様子を横目に通り過ぎようとした瞬間、じっとりとした絡みつくような視線を感じる。

「どうかしたのか?」

 辺りを振り返るが、付近を歩く幾人かの視線はこちらに注がれてはいるものの、どれもその不快の正体とは違うように思えた。

「いや、なんかヌメッとした嫌な感じがして」

「ふむ。肉体を失った妾では感じられぬが、今のお主であればなにかしら感じ取れるものもあるのやもしれぬ。努々用心するがいい」

「なんだか先行きが不安だな…」

 

 気を取り直して立ち去ろうとすると、誰かがこちらに近づいてくる。

「ねえ、そこのキミ――」

 気にせず立ち去ろうとするオレを、馴れ馴れしい口調の男が呼び止める。

「…?」

「――ああ、やっぱりキミだ。ひさしぶりー!」

 振り返ると、二十代半ばくらいの男が愛想笑いを浮かべて立っていた。

「(誰じゃ、この軽薄そうな男は?お主の知り合いか?)」

「(…いや知らない)」

 目の前の男にまるで見覚えはなかったが、男の方は如何にも顔見知りといった調子だった。

「あの、どちらさま?」

「えっ!?もしかして俺のこと忘れちゃった?」

「……誰かと勘違いしてません?」

「うわ、マジかよ。その反応凹むな~。ほら、先週そこのジャンボでデカい事件があって、そん時に俺が親切に色々と教えてあげたの憶えてない?」

「……?」

 男に言われて、あの時の事を思い出そうとするが、いくら頭を捻っても家族のことで頭が一杯で、それ以外の些末な出来事は記憶に残ってなかった。

「(ああ、そういえば確かにおったのう。煩くすり寄ってくる蠅のような男が)」

「…はえ?」

「もしかして思い出してくれた?でさでさ、あの時、別れ際に今度一緒に遊ぶって約束しただろ?」

「(はて?そのような約束したかのう?)」

「知らない」

「いやいや、絶対にしたから。…まっ、忘れちゃったならしょうがないけど」

 男はやれやれと大袈裟に肩を竦めたが、その表情には微塵も諦めた様子はなかった。

「悪いけど急ぐから」

「――じゃあさ、お詫びの印ってことで、これから俺と一緒に遊びに行こうぜ」

 うんざりして話を切り上げようとしたところ、男は急にオレの腕を掴んで身勝手な要求をしてくる。

「は、はなせよ!」

「ね、いいじゃん!ちょっとだけ、な?一時間でいいからさ」

 言葉とは裏腹に、男はガッチリとオレの腕を掴んで離そうとしない。

「(…こ奴、妾たちをかどわかす気じゃぞ)」

「ほら、ちょうどそこに俺の車が止めてあるからさ――」

 男は近くに停めてある一台のミニバンを指差しながら言う。

「あれで一緒にドライブに行こうぜ」

 その車は全身が黒で塗装され、窓にスモークが張られた一見普通の車のようだった。しかし、どういうわけか、無機物であるはずのその車から、まるで腹を空かせた野犬のような強烈なイメージが頭に流れ込んできた。

?」

「え?…ああ、もちろん俺だけだよ、あったりまえじゃん」

「(――嘘だ)」

 オレではなく、マリアの直感が男の言葉は嘘だと告げた。

「なあ、いいだろ?」

 しびれを切らしたのか、男の顔から次第に笑みが消え、掴んだ手に力がこもる。

「(新よ、妾はこの手の輩が心底好かん。…好かんが、この身体の主はお主じゃ。だからお主の好きにすればよい。立ち去るもよし、灸を据えてやるもよし。…ま、こ奴らを放置すれば他の誰ぞが犠牲になるじゃろうが――)」

「……」

 嫌な言い回しだったが、おそらくそれは事実だった。目の前の男の手慣れた様子から、もしかしたらオレ以外にもすでに被害にあった女性がいるかもしれない。

「(――或いは、お主の見知った者かもな)」

「!?」

 宝石の言葉に身の毛のよだつような想像が一瞬頭を過ぎり、直後に轟々と燃える炎ような決意が心に宿る。

「いいよ」

「お、マジで?やったー!」

 オレの一言に、男の野卑な瞳が爛々と輝く。

 男は意気揚々と戦利品であるオレの手を引いて車へと向かう。

「――失礼」

 突然、オレの手を引く男の腕を、横合いから別の腕が掴む。

「…あ?!」

 一瞬呆気に取られた男だったが、すぐに呼び止めた男に対して敵意を剥き出しにする。

「すいませんが、彼女の手を放してもらえませんか?」

「は、はあ?!何言ってんだ!テメ―には関係ねーだろうがッ」

「…手を放して下さい」

 後から現れた男はナンパ男の威嚇にまるで怯む様子もなく、落ち着いた調子で告げる。

「(…アレ、この声)」

 どこか聞き覚えのあるその声に、男の顔を確認しようと顔を上げたオレは驚愕する。そこにいたのはうちの高校のクラスメイトであり、友人でもある白木亮だった。

「――白木?!」

「えっ?」

 思わず名前を呼んでしまったオレを、白木はやや驚いた表情で見つめる。

「(ヤバッ!)」

 オレは慌てて帽子を目深く被りなおして顔を隠した。

「オイ、コイツはオレのツレだぞ!色目使ってんじゃ――」

 誰がお前の女だ!と怒鳴りつけたい気持ちをグッと堪える。

「――この子、俺の後輩です」

「…はあ?」

「だから、俺の後輩なんです。ほら、さっき俺の名前知ってたでしょ?なんなら生徒証見せましょうか?」

「…あ、いや、でも、えっと…」

「彼女の手を離ししてくれませんか?」

「……チッ」

 未練がましくオレと白木を交互に見ていた男だったが、騒ぎを知って次第に野次馬が集まり出すと、最後には舌打ちをして、すごすごとその場を去っていく。


「…ふぅ、やれやれ」

「……」

「キミ、危ないところだったね」

 男が乗り込んだ車が走り去るのを見届けた白木は、こちらに向き直り窘めるような調子で話しかけてくる。

「…そう?」

「ああいう手合に軽々しく着いて行っちゃ駄目だよ。もしも、それでキミが心や体に傷を負ったら、それを悲しむのはきっとキミ一人じゃないんだから」

「…べつに頼んでない」

 助けてくれた事に礼を言うべきなのは分かっていた。しかし、同年代の友人に諭される状況があまりに情けなく、素直な言葉が出てこない。

「確かにそうだね。突然現れてこんなことを言って、何様だって思われるのは当然だ。けどね、目の前で不幸になるかもしれない人を放っておけなかったんだ」

「……じゃあ、ありがと。…これでいい?」

 どこまでも真っ直ぐな白木と話す内、自分がどんどん惨めな気分になってくる。

「いや、べつに感謝して欲しかったわけじゃないんだ。ただ、これからはもうちょっとキミ自身を大事にしてほしい。俺が言いたいことはそれだけ」

「…わかった。それじゃ」

「あっ、ちょっと待って!」

「なに?」

「その…、以前どこかで会った事がなかったかな?」

「…今度はキミがナンパ?」

「え?!いやいや、そんなつもりじゃ――」

 慌てて否定する白木の顔が赤くなる。


「――オイオイ、すすむ見ろよ。あの亮が女の子口説いてるぞ」

「まさか、亮に限ってそれはないだろう」

「バフッワフッ」

 そうこうしていると、二人の若者と一匹の犬がこちらに近づいてくる。

「あっ忘れてた。すまない二人とも」

 二人の存在に気がついた白木は慌てて二人に謝る。

 二人は如何にも白木の友人といった感じで、一人は金髪頭でカラフルなシャツにハーフパンツというラフな出で立ちの軽そうな男で、もう一人は対照的に、カジュアルなスーツに身を包んだ眼鏡の男でインテリチックな見た目をしていた。

「いやいや~まさか亮がナンパとはな!ようやく亮にも遅い春がきたか」

「ワフッ」

 金髪頭の男に同意するように、傍らに寄り添うシェパードが吠える。

「ち、ちがうから!」

「どこが~お前顔赤いぞ~」

「オイ、俊矢いいかげんにしろ。そちらのお嬢さんが困ってるだろ」

「いえ、お気になさらず…もう行くんで」

「お!そうだそうだ、俺としたことが…。チッス、俺、青葉俊矢って言います!職業は…まだ秘密なんだけど、これからどんどん有名になるんで…よろし……」

 いきなり自己紹介を始めた青葉俊矢と名乗った男は、オレの顔を覗き込んだ途端にピタリと動きを止める。

「な、なに?」

「け――」

「け?」

「――結婚を前提にお付き合いして下さい!」

「は、ハァ?!」

 まるで意味がわからない。白木たちに助けを求めるが、白木と隣の眼鏡の男も同じく呆気にとられていた。

「一目惚れです!ずっと好きでした!!俺パン派だけど、毎日俺のためにみそ汁作って下さい!」

「…俊矢お前突然なに言いだしてるんだ?!」

「お前さっきから言ってる事メチャクチャだぞ。ちょっと落ち着け」

 暴走する青葉を二人が制止しようとするが、二人の声はまるで届いていない様子だった。

「あの――」

 さきほどからの騒ぎを聞きつけてか、遠巻きにだんだん人だかりが出来てくる。

「――ナンパは結構ですので!それじゃ」

 これ以上、衆目を集めるわけにもいかず、きつめの叱咤で一方的に別れを告げた。そのまま唖然としている三人をその場に残し、回れ右して足早に立ち去る。

「キミ、その…すまなかった」

 白木が申し訳なさそうに謝罪の言葉を投げる。

「…あれ、え、ァ…あああーーーご、ごめんよーー!違うんだよォォーー!!」

 遅れて我に返った青葉がなにか言ってるが、一体なにが違うというのか。

「ど、どうかお嬢さん、せめてお名前だけでも!どうかお願いだからァーーー!!」

「(よいのか?あの男、人目も憚らず大泣きしておるぞ――おお、今度は土下座まで始めおったぞ)」

「はぁ~…えっと、マ、マ……マリ……です」

「ま…り……マリさん。なんて、なんて素敵な響きなんだ……」

 背中越しに投げられるむず痒い称賛の言葉に振り返らずに手を振って応えた。

 


 駅前の通りを抜けてしばらく進むと、辺りに立ち並んでいたマンションやビルの類は次第に疎らになり、代わりに古びた民家と草の生い茂る田んぼが現れる。  

 そこからさらに歩くと目的地である商店街が見えてくる。

「まったく、妙な男共じゃったのう」

「…そうだな。いきなり告白された時はどうしようかと思ったぜ。…そういやあの二人、白木の友人みたいだったけど、学校では見た事ない顔だったな」

「むっ、そうじゃ!あの白木とかいう小僧。あとすこしというところで余計な真似をしおって」

 さきほどのやりとりを思い出した宝石は悔しそうに歯噛みする。

「まあ、たしかに惜しかったよな」

「…何を他人事のように言っておるか。お主は悔しくはないのか?」

「んー悔しい…のかな?あの瞬間は確かに色々とモヤモヤしたけど、時間を置いて考えてみると、白木の言ってた事も尤もだなって思えてきて…」

「あっさり説得されるでないわ。貴様それでも怪人かっ!」

「なりたくてなったわけじゃねえから。なあ、それよりも――」

 商店街の中に足を踏む入れる。

 日曜の昼だというのに通りを歩く人の姿はなく、おまけに店舗の半数以上が閉まっており、ほぼシャッター通りと化していた。わずかに開いている店の中を覗いてみても、店内に客の姿はなく、奥で店主らしき人物がうたた寝している始末だ。

「マジでここ?」

「うむ、ここじゃ」

「ホントに?ホントにここなのか?」

「うむ?なぜ何度も問う?さっきからそうだと言うておろう」

「だってさ…もっと、こう…薄暗い地下への階段とか、怪しげな廃ビルとか、人が寄り付かないような場所を想像してたからさ」

 秘密基地と言われて想像していた物とあまりにかけ離れていた。

「人?人ならおらんではないか」

「いや、そうだけど…なんか違わないか?」

 人気がないのと閑古鳥で人がいないのとでは意味が違うように思うのだが…。

「ほれ、目的地はもそっと先じゃ」

「あ…ああ」

 秘密基地に向かうと知り、不安と期待が入り混じった複雑な心持ちでここまでやって来たのだが、今現在その感情は完全に消え失せていた。

「着いたぞ、ここじゃ」

「……ハァ~」

 シャッターの閉まった店舗のひとつで足を止める。

 どうやら案内されたここが宝石の言う秘密基地らしかった。

 ところどころ錆びたシャッターには「布団のヨシダ」と印字されていた。








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悪の女幹部になりまして… @west8129

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