ブドウ畑でつかまえて
松本あおい
第一話
私に父はいない。
失踪した。
小学生になったばかりの夏休みのことである。場所はハワイだ。大きな空に、深い緑があって、鳥の声がしている。見るもの、食べるもの、全てが珍しくて楽しかった。中でも父と歩いたコーヒー農園の美しさは忘れられない。もう一つ忘れられないのが最後の朝だ。起きると、隣で寝ているはずの父の姿がない。父は失踪したのだ。
掛け布団を剥ぐと、朝の冷気が体に迫ってくる。布団に戻りたい欲求と戦いつつ、寝床から立ち上がった。
今日は土曜で学校は休み。ワイナリーに行ける日だ。急いで支度をする。
家の中は薄暗かった。母がまだ寝ているのだろう。リビングの食卓には母が残したと思われる缶ビールが置きっぱなしになっていた。何度言っても母は片付けない。カーテンの隙間から漏れてくる光で、食卓の上は埃っぽく見えた。缶ビールを手に台所へ行く。
流しには何もなかった。乱暴に冷蔵庫を開ける。母の為に私が作ったちらし寿司が入ったままだ。冷蔵庫の扉を強く閉める。母は起きてこなかった。忌々しく玄関の扉に当たる。
外は思っている以上に眩しく、自由さに心が浮き立って来た。自転車に乗ると、新しい一日の始まりを祝福したくなる。
自転車で風を切った。冷んやりとした空気が気持ちいい。流行りのドラマの主題歌を口ずさみながら、ワイナリーへ向かう坂道を滑り降りた。
数年前に突然出来たワイナリーは、父と散歩したコーヒー農園に少し似ている。ドイツの城を移築したことが売りで、観光客に人気だ。門から丘の上の城まで、ブドウ畑が続く。朝日に映える城は日本であることを忘れるくらい美しいのだ。空気には緑の匂いに加えて甘さが感じられる。ブドウが放つ香りだ。今頃は朝露にブドウの一粒一粒が濡れて、輝いていることだろう。
入り口に着くと、知らないおじさんに出くわした。泥棒一族のドラマに出てくる、初老の俳優さんに似ている。自転車に乗りながら口ずさんでいた主題歌のドラマだ。大きなナップサックを背負い、足早に立ち去ろうとしている。観光客も来ない時間だ。怪しげに見える。
「何か用ですか」
声をかけるや否や、おじさんが走り出した。おじさんの背中でナップサックが重そうに揺れる。
「ちょっと」
慌てて自転車で追いかける。おじさんは鍛えているのか、思ったより早かった。必死に追いかける。捕まえたと思えばすり抜けられ、考えていたより大変だった。ナップサックの紐くらい掴めそうなのに、悔しい。
「助太刀するわ」
赤いスポーツカーが傍に止まる。美女がひらりと降りて、おじさんに飛び蹴りを加えた。おじさんが宙を舞って、道路に落ちる。私の心も軽い衝撃を食らった。
「痴漢でしょ? 大丈夫だった」
美女は、赤いワンピースが汚れるのも厭わず、私の体を心配してくれた。
「痴漢じゃないんです、不審な動きをしていたから泥棒かと思って」
二人で伸びているおじさんを見下ろした。ナップサックが不自然な程膨らんでいる。
「泥棒かどうかは確かじゃないんです。ワイナリーの入り口で声をかけたら逃げるから」
美女が勢いよくナップサックを開けた。中から財布が転がり落ちる。札束や宝石なんかも裸のまま入っていた。泥棒に違いない。
「でかした」
赤いワンピースの美女が私を抱きしめた。暖かい、優しい香りが私を包む。
「泥棒を捕まえてくれてありがとう」
褒められて嬉しくなる。美女はおじさんと警察に向かった。私は興奮したままワイナリーに戻る。ブドウ畑で吉永さんを捕まえた。
「吉永さん! 聞いて聞いて」
一から吉永さんに報告する。吉永さんは嫌そうな顔一つ見せずに、ウンウンと聞いてくれた。吉永さんが私の父ならいいのにとつい思う。あり得ないことはわかっていた。父は失踪したのだ、私と母を捨てて。
「ユキちゃん、オーナーに会ったんだね。イタリア製の赤いスポーツカーに乗ってるんだよ。かっこいいよね」
素敵な美女がオーナーだと思わなかった。ワイナリーで働きたい気持ちが新たに溢れてくる。ワイナリーというか、私が心惹かれているのはブドウだ。
「ねえ、吉永さん。やっぱりここで働きたいんだけど」
「ユキちゃんの気持ちはわかるけど」
吉永さんには何度も断られている。
「僕の一存では決められないんだよ。ブドウの世話ならいつでも手伝わせてあげるから」
私はブドウの樹を見上げた。棚に沿う枝の間から見える澄んだ空が眩しい。足元の土から強い力が伝わって来た。ブドウ畑が私を待っている。今すぐにも働きたいと思った。
「じゃあ、オーナーに頼む」
まるで呼んだかのように、赤いスポーツカーが畑の横に停止した。
「あら、さっきのお嬢さんじゃない」
以前吉永さんから、チャンスの神様は前髪しかないと教わったことがある。今が捕まえる瞬間だ。
「オーナー、私、ここで働きたいんです。働かせてください」
「やる気がある人は歓迎するわ。ユキちゃん、いくつかしら」
「はい、十六です」
「卒業したらまた来てね」
瞬時に断られた。私を軽くかわしたオーナーは、吉永さんとブドウの生育について話し始めている。私も引き下がるつもりはなかった。
「父が失踪したので、母を助けて、早く自立したいんです」
父の失踪話をすると、大抵の大人は同情してくれる。案の定、オーナーの手も止まった。横で吉永さんが、ブドウの世話に熱心だと加勢してくれる。オーナーは親の了解を得たらいつでも来なさいと言って、赤いスポーツカーで坂を上って行った。車と共に私の希望も小さくなる。絶望的だ。
母は私のことに厳しい。母を喜ばせたことはほとんどなかった。母の了解を得ることはできそうもない。
吉永さんから朝食に誘われた。吉永さんは大抵朝食をご馳走してくれる。
「今日はジャンボンフロマージュ、フランスで大人気のバゲットサンドだ。ジャンボンはハム、フロマージュはチーズ」
「なんだ、ハムチーズサンドじゃん」
食べ物では釣られないと思ってはいても、サンドイッチを前にすると胸が踊る。たっぷりのバターが塗られたサンドイッチを頬張った。ブドウ畑を見ているとフランスにいるようである。
「幸せ」
よかったと吉永さんが笑った。一緒に食事をすれば分かり合えると、吉永さんはよく言う。仕事で忙しい母と一緒に食事をするのは難しかった。ちらし寿司を母が食べてくれなくてがっかりしたことを話す。吉永さんの笑顔は優しい匂いがした。
「ブドウは話せないだろう? だからこちら側がじっくりみて、何が必要で何が必要じゃないか、見極めなくてはならない。そしてそれが合っているかそうでないかも、すぐにはわからない。いつも不安なんだ。ブドウが成っても変わらない。ワインになって、お客様が美味しいねって言ってくださった時に初めて、自分の世話が正しかったこととブドウの樹が頑張ってくれたことがわかる。今、ユキちゃんに出来ることは、お母さんを理解しようと努力することじゃないかな。すぐにわからないだろうけれど、信じて待っていたら、必ず分かり合えると、僕は思うな」
吉永さんはブドウの樹と蜜月を育んでいると思っていた。ブドウと母は違う。父と同じ様に、母もいなくなればいいと思いながらサンドイッチをかじった。
「どこに行ってたの」
帰るなり怒声が飛んだ。
「どこでもいいでしょ」
「良くない。今は私の庇護下にいるんだから」
かちんと来た。
「私、大学行かない。ワイナリーで働く」
「ダメよ、ワインなんて許さない」
母の当たり前な返答が私を煽った。
「ワインじゃなくてブドウ。こんな家なんか嫌いだ」
吉永さんごめんなさい。心の中でつぶやく。良い子になれない私は家を出た。
父も、母と言い合いになって失踪したのかもしれない。
自転車で行けるところは限られていた。川や海をさまよう。夕方ワイナリーに向かった。安全で広くて、隠れるのに適しているといえば、勝手知ったるワイナリーである。
ワイナリーは観光客でごった返していた。大きなバスが止まっているから、ツアーかもしれない。観光客に紛れて中に入った。ブドウ畑に吉永さんの姿を発見する。見つかりませんようにと心の中で祈った。
誰にも不審に思われずに城に到着して、一安心する。あとは誰も居なくなるまでトイレに隠れるだけだ。自転車を駐輪場に置いて、城の中に入る。スタッフにみつからないよう、観光客に隠れてトイレにたどり着いた。一番奥の個室の便器の上に座って待つ。しばらくすると人の出入りが終わった。時間が止まったように静かになる。
「君さあ、こんなとこで何やってるの。早く出て来なさい」
声と光に起こされた。眠ってしまっていたらしい。
「ユキちゃん、自転車があったから探したよ」
吉永さんの声だ。習慣で自転車を駐輪場に置いた自分に呆れる。渋々トイレから出ると目を三角にした、警備員さんと吉永さんが立っていた。言い訳する間もなく走ってくる靴音がする。オーナーだった。こんなことをしてはいけないと叱られる。親と話せと言うから話したのだ。理不尽すぎる。
「なんでいけないの。居場所がないんだからここに居させてよ」
「ユキちゃん、ちゃんとお母さんと話したらどうかな」
「した結果なの。責任とってお母さんと話してよ。泥棒捕まえてあげたんだから」
絶対に引き下がらない。母には負けたけど、オーナーには不思議と勝てそうな気がした。オーナーはあっさりいいでしょうと頷く。思っていたより簡単だ。拍子抜けして、吉永さんからもらった紅茶に口をつける。とても温かかった。
「ユキちゃん、苗字はなんて言うの」
橘ですと名乗ると、オーナーは途端に顔色を変えた。
「あなたは雇わないから、もう家に帰りなさい」
私に背を向け、取りつく島もない。母と同じだと感じた。理由のない押し付けは暴力と変わらない。信用できると思ったのに失望した。私も暴力で返してやる。
「じゃあ、吉永さんにセクハラされたって警察に言います」
急に振られた吉永さんは目を白黒させている。ブドウ畑で過ごした時の吉永さんの笑顔が浮かんだ。心の中で謝る。
吉永さんがオーナーに泣きついたけれども、オーナーは頑なだった。
オーナーは何故拒むのだろうか。態度が変わったのは、私の苗字を知ってからだ。オーナーは母を知っているのかもしれない。
「私の家に行けない理由でもあるんですか」
オーナーは動転しているように見えた。崩せそうな気がする。最後まで粘り抜こうと覚悟を決めた。オーナーの車に勝手に乗り込む。
「家まで送って」
何が功を奏したのか、オーナーは黙って車を運転して家まで送ってくれた。成功したも同然だろう。少し興奮した。
オーナーを見て母の顔が曇った。
「祥子さん」
「うちには入れない。帰って」
オーナーは母の名前を知っている。二人は絶対に知り合いだ。私は帰ろうとするオーナーを引き止める。
「ここに居てください。約束でしょう? ママ、私はこの人のワイナリーで働くから。大学は行かない」
母の驚く顔が気持ちいい。全て母の思い通りにいくと思ったら大きな間違いだ。
二人はどのような関係なのだろうか。喧嘩別れした友達にしては、二人の表情に深い悲しみが感じられる気がした。女同士の揉め事といえば恋愛がある。泥棒一家のドラマも主人公の娘の恋がテーマだ。泥棒をやめたのに、恋人を盗まれて、取り戻すために泥棒に戻る。
「あなたの好きなようにさせたじゃない。これ以上関わらないで」
オーナーのウェーブした髪に玄関の灯りが反射して輝いている。母は化粧っ気もなく毛玉のついたニットを着ていた。二人の顔を交互に見ていて閃く。父はオーナーと浮気して失踪したのだ。母の怒りも理解できる。私も父の失踪で傷ついた。オーナーは私に対して償う必要がある。
「オーナー、ちゃんと援護してください。約束したじゃないですか。嘘つかないでよ」
母の小鼻が蠢いた。嫌な予感がする。
「あなた、ユキに話してないの」
「何の話」
「祥子さん、お願いだから、言わないで」
「ユキ、この人はあなたのお父さんよ」
雷が落ちたような音がした。実際には雷ではなく、オーナーが倒れた音だった。
気を失っているオーナーの顔は美女のそれではなく、年齢を重ねて生き抜く男のそれに見えた。私の記憶にある父の顔よりも老けており、父だと言われても到底信じ難い。父は失踪したはずだ。赤いワンピースの美女が父だなんて信じたくない。
「パパは失踪したじゃん」
「失踪? 何言ってるの」
「ハワイでいなくなったじゃん」
母がああと笑った。
「あれは迷子になっただけ。一緒に日本に帰国して離婚した。覚えてないの」
「信じられない。ママはよく失踪したって言ってたのに」
母は失踪したと思いたかったのかもしれない。
呑気に寝ているオーナーが腹立たしくて、蹴りを入れて起こした。オーナーは目を覚ますと男から美女に戻る。妙に器用で気に入らなかった。
「パパならなんですぐ名乗らないの。失踪したと思ってた時間を返してよ」
悲し気なオーナーを見ると、責めている自分が子供に感じる。気持ちのやり場に困った。想像していた父との再会とはまるで違う。
「人生なんて思った通りにはいかないの。学校へ行きなさい」
母の言葉には重みがあり、言い返せない。絶体絶命だ。思わずオーナーのワンピースを掴む。オーナーが咳払いした。
「アタシはそう思わない。少なくともアタシは学校以外で学んだことの方が大切だと思ってる。結婚して家庭を持てたことは一番大切な経験よ」
「捨てたくせに。ユキ、悪いことは言わない、お母さんの言う通りにしなさい」
二人の意見の食い違いからは結婚生活の破綻理由が透けて見える気がした。私はどうしたいんだろう。改めてオーナーを見た。女優といっても通用するかもしれない。私にも同じ血が流れているのだ。冒険してみたい。
「私やっぱりブドウを作ってみたい」
言葉がじんわりと体に染み込む。運の歯車の音が聞こえた。体の奥から力が湧いてくる。余計なことをしてと怒る母の肩をオーナーが叩いた。
「吉永さんも褒めていたから、ユキちゃんをブドウ畑のバイトとして雇うわ。代わりに学校には通うこと。アタシのことは内緒で」
父親的振る舞いだと感じた。
「逃げたくせに。雇うのは当たり前」
本当は嬉しかった。百万倍の力を得た気がする。
照れ臭くて、呆れている母に缶ビールの文句を言った。飲んでいないと言う母の顔に嘘はない。三人で顔を見合わせた。私ではなく母ではないのなら誰が飲んだのか。
「泥棒」
「あの財布」
捕まえた泥棒のナップサックに入っていた財布が母の財布かもしれない。泥棒は我が家から財布と缶ビールを盗んだ。怖さより笑える。笑いが家に戻ってきた。失ったものはいずれ笑いとともに返ってくる。オーナーと母の笑い顔を見ながら考えたりした。
私に父はいない。
失踪した。
そして、美女のワイナリーオーナーとして帰ってきた。
ブドウ畑でつかまえて 松本あおい @aoim20
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