結婚を前提に付き合ってください

黒羽カラス

第1話 突然の二択

 六月に入った。わたしは早々とYシャツを半袖に変えた。上から紺色のブレザーを着るので見た目は以前と変わらない。

 通学路を歩いている本人にだけ、違いがわかる。ほんの少し、涼しさの恩恵を受けた。

 今はどうでもいい。考えなければいけない問題は真横にいる。ちらりと目をやる。紺色のブレザーを着た木島貴志きじまたかしが背筋を伸ばして歩いている。

 外見は悪くない。ナチュラルに流した髪が好ましい。眉は弄っていないようで、そこそこ太い。目付きは鋭いが二重で上手く調和が取れている。鼻はすっきり伸びて割と高い。ハーフを想像する者もいるだろう。少し前に本人に聞いた時は、ぼそりと日本人を主張した。

 その横に並ぶわたしはロングの黒髪で生来の色白でもある。整った切れ長の目に、すっとした鼻筋。薄い唇は冷ややかでクールという評価を友人から受けていた。木島と釣り合いが取れていると思う、自惚れではなくて。

 しかし、この状態には納得しがたいものがある。視線を相手の手に向けた。握れるくらいに近い。今日は晴天に恵まれた。六月もあってほんのりと暖かい。手の冷たさを理由に握るのは少し苦しい。

 どうすればいいのか。思案を巡らすが何も思い浮かばない。そもそも手を握る必要がないのでは、という答えに行き着いた。

 わたしは前を向いて歩いた。同じような状態で木島も学校を目指す。身長差はニ十センチくらいあるが、不思議と肩を並べることができた。背の低い自分に合わせてくれているのだろうか。

 露骨に顔を横に向ける。同じように木島も反応して目が合った。一瞬のことで何事もなかったような横顔を見せる。

 手どころか、声を掛けるタイミングも掴めない。わたしも前方を意識して黙々と歩いた。これで一緒に通学していると言えるのだろうか。

 深く考える前に正門が見えてきた。二人で通り抜けて校舎に向かう。

 下駄箱では揃って上履きに履き替えた。一階の廊下を並んで歩き、一年二組の教室に入った。

 わたしは背負っていた鞄を下ろし、窓側の机に置いて席に着く。廊下側に目をやると木島が鞄から教科書を取り出して机の中に入れていた。

 くじ引きで決まった席ではあったが、ここでも隣同士。最初は幸運を胸の中で喜んだ。偶然が続き過ぎると神様の嫌がらせなのかな、とも思う。


 授業は真面目に受けた。進学を希望しているので手は抜けない。

 木島は四限目の英語で空欄を埋める問題を当てられた。詰まることはなくて正解の単語を口にした。向こうも集中しているようだ。今日、初めての肉声に自然と頬が緩む。

 軽やかなチャイムが鳴った。授業が終わった直後に数人の男子が教室を飛び出した。購買部での争奪戦が目に浮かぶ。残った者達は机を寄せて持参したお弁当を取り出した。

 木島が机を寄せてきた。わたしと同じお弁当だった。一緒に食べるのはいいが、位置に少々の不満を覚える。またしても横に並んだ状態になった。

 やんわりと会話を拒絶されたような気分になる。木島は早速、弁当箱の蓋を開けた。どうしても中身に目がいく。

 艶やかな白さの中に鮮やかな赤色が彩りを添えた。配分が素晴らしく完璧な美に美味しさが宿る、などと心の中で絶賛しても日の丸弁当に変わりはない。三日連続であった。

 わたしはいつもより、大きめの弁当箱を持参した。ご飯よりもおかずの方が多い。早起きして作った成果と言える。

「おかずを少しあげる」

 一口サイズの卵焼き、アスパラガスのベーコン巻き、カニさんウインナーを箸で蓋の上に載せた。木島の目が優しくなる。

「ありがとう。タコ、いいね」

 カニさんウインナーを頭が爆ぜたタコにしないで貰いたい。不満は喉元で止めてお弁当を食べ始める。木島の豪快な食べっぷりで報われた。

 放課後は別行動となった。木島はボストンバッグを肩に引っ掛けて剣道場に走っていく。わたしは俗にいう下校部なので、のんびり歩いて帰った。

 駄菓子屋の誘惑を振り切って和風の家の前に差し掛かる。長らく売り家になっていた。そこに新しい家族が引っ越してきた。門柱にある表札には達筆な文字で『木島』と彫られていた。四日が経っても心はどこかふわふわしている。一目惚れは初めての経験で対処が難しい。

 隣の洋風の我が家に帰ると二階の自室に急ぐ。部屋に入るなり、ベッドに飛び乗って窓のレースを開けた。

 ガラス越しに隣の家が見える。和風の庭を挟んでいる為、やや遠くに感じられた。二階の右端の部屋を木島が使っているという。

 レースを閉じたわたしは制服のまま、ベッドに俯せになる。顔を横に向けて溜息を吐いた。

「……いつ、部屋に呼んでくれるのだろう」

 想像すると耳たぶが熱くなる。いつか訪れる、その日に期待が膨らむ。植田うえだの姓が変わって木島優香里ゆかりになることも。

 耳たぶが溶けそうな程に熱い。頭の近くの枕を引っ掴み、深く顔を埋めた。


 夕飯を終えると、すぐに自室に引き返した。部屋着からパジャマに着替えて上からカーディガンを羽織る。スマホを手にしてベッドにぺたんと座り、そろそろと窓のレースを開けた。隙間から二階の右端の部屋を見ると明かりが点いていた。スマホを傍らに置いて連絡を待つ。

 三十分が経った。スマホは何のメロディーも奏でない。一時間が過ぎたところでベッドを下りた。脱いだカーディガンは床に叩きつけた。

 部屋の明かりを消して布団に潜り込む。手にはスマホを握っていた。暗がりの中、明るい画面をじっと見つめた。

 暗いと頭に過った瞬間、瞼を開けた。いつの間にか寝てしまったらしい。近くにあったスマホで時間を確かめる。画面に午前六時三分と表示された。いつもと比べて一時間くらい早い起床となった。

 上体を起こす。肩に掛かる髪を何げなく見た。かなり乱れていた。指を差し込んでも滑るように通らない。悪夢のせいで暴れたのだろうか。

 決断は早かった。わたしは新しい下着と制服を持ってバスルームに直行した。香りの良いシャンプーと艶やかな光沢を与えるリンスを新しく開ける。身体は肌触りの良い手袋タオルを選んだ。時間を惜しまず、全体を丁寧に洗って最後にシャワーで流す。

 濡れた髪が最後の試練となった。吸水力に秀でたバスタオルを何枚も使った。僅かに残った湿り気はドライヤーで吹き飛ばした。

 制服を着て髪を整える。洗面台の鏡に映る自分に向かって笑みを浮かべた。


「いってきます」

 茶色のローファーを履いた状態で控え目に言うと、わたしは胸を張って一歩を踏み出した。

 よく晴れていた。下ろした髪を揺らす程度の風が吹いている。香りの拡散に貢献してくれそうで期待が持てた。

 学校に向かって歩き出す。和風の家の前には木島が立っていた。おはよう、と挨拶をすると同じ言葉を返す。

 横に並んだ状態で学校に向かう。黙々と歩いている間に強い風が吹きつけた。横目でこっそりと窺っていたが木島は何の反応も示さない。

 わたしは髪を手で払う。香りが隣にいる木島に届くようにさりげない努力を続けた。しかし、一言の感想もなかった。

 諦めかけた時、隣から何かを吸うような音がした。横目で見ると欠伸をしていた。わたしは右の拳をギュっと固めて、間もなく緩めた。

 学校の正門が見えてきた。無言で通り抜けて校舎に入る。下駄箱で靴を履き替えて廊下を共に進んだ。教室に入ると自分の席で授業の用意を始める。

 一息のあと、目は窓の方に向いた。青い空に白い飛行機雲が彼方を目指し、のんびりと伸びてゆく。

 四時限目が終わると木島は机を寄せてきた。横並びで弁当を開く。

「今日は日の丸弁当ではないのね」

「普通に戻った」

 木島のお弁当には鮭の切り身や昆布締めが入っていた。卵焼きもある。緑はブロッコリーで見た目も悪くない。

 わたしのお弁当は母親に作って貰った。箸で摘まんだタコさんウインナーは隣の蓋に載せないで自分で食べた。

 ふつふつと湧き上がるものを感じる。原因と正体もわかっていたが止められない。

「付き合って、とわたしから言いました」

「そうだが」

「これが、その結果?」

「違うのか?」

 木島は質問で返した。剥き出しの言葉をぶつけるしかない。

「この関係は恋人に思えない」

「な、なんの話だ!?」

 最初にイスが軋んだ。木島が目を丸くしてこちらを見た。唇が微かに震えている。おそらく自分も相当に驚いた顔を曝け出しているとは思う。

 落ち着いて考えると驚きは笑いに変わる。木島はわたしの言葉の通りに行動した。可能な限り、確かに付き合ってくれた。トイレの時はさすがに断ったが。

 わたしは立ち上がった。木島の前に立つと本人よりも周囲がざわついた。

「はっきり言わないとわからないみたいなので」

 一度、深呼吸の間を取った。

「結婚を前提に付き合ってください」

 本気の声は周囲を黙らせた。静まり返った教室に木島の息遣いがやけに大きく聞こえる。

「まだ、その、学生だし。大学進学もあるわけで」

「将来の話です。『はい、いいえ』の二択で答えてください」

「十分、いや、五分待って欲しい」

「わかりました」

 自然な笑みが浮かぶ。木島の耳たぶは真っ赤に染まっていた。その状態をわたしは知っている。今も自分の耳たぶが少し熱い。


 想いが通じる五分前。わたしはクラスの誰よりも幸せな時間を噛み締めた。

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