第5話

 書斎のドアを乱暴に開け、机の上に散らばった資料やメモをカレッジバッグに詰め込む。原稿の入ったメモリースティックをポケットに突っ込むとノートパソコンを閉じた。

 パソコンを閉じ、フッと顔を上げると丁度小窓に視線がぶつかった。

 見てはいけない― 直感的にそう思ったが目は果てのない闇と寂々とした森を捉えて離さなかった。

 風一つない森は身動きしない。だが、彼はその林の向こう、家から数十メートル離れた場所に何かが立っているような気がした。木々の間に大きな気配があり、しっかりとこちらを見つめている。家ではなく、小窓を覗く自分をだ。

視線を滑らせれば、樹洞が人の影に、枯れ枝が目に見えた。

口の中が乾き、のどが痛んだ。コーヒーの苦みが舌の奥の方に蘇ってくる。

 神経を突き抜けるように走る恐怖が、彼の筋肉を押さえつけ、硬直させた。

「バンガオオ…………がくる」

 頭の中で作り出すバンガオオの姿。バンガオオとはいったん何なのか、やってくるとどうなるのか。逃げなくては、そう思えば思うほど息が上手く吸えなくなっていた。


「パパッ」

 背後からかけられた息子の呼びかけに、飛び上がるほど驚きそうになったがそのお陰で再び動き出すことが出来た。

 パソコンをバッグに放り込むと、勝手に車を出た息子を叱咤しながら車へ戻った。




 発車した際、上がり切っていなかったシャッターに車体が擦れた。

 車は山道を走り、家はバックミラーでも目視できないほどに遠ざかっていた。家からの距離が離れていくにつれ、心の中にあった恐怖や不安が溶けて行った。

「ねぇ………パパ」

 息子の呼びかけに仁は反応しない。

 運転しながら、仁は思った。自分たちは逃げ切ったとして、家はどうなる? もしそのバンガオオが家を破壊してしまったら? もう二度と家には戻れないのだとしたら? 現に夜逃げした一家は家に戻って来ていない。

 身の危険が過ぎ去ったことで、恐怖は確然とした怒りに変わってくる。

 もとはと言えば、息子がこんなボールを拾ってきたのが間違いだったのだ。この原稿だって、息子がいなければもう少し早く上げられたかもしれない。

「ねぇパパ!」

「黙れッ!」

 度重なる問いかけに、仁は今までにない勢いで怒鳴りつけた。


 バックミラー越しに見えた息子が怯えた顔でこちらを見ている。良心は痛まなかった。これぐらいは当然だと思っていたからだ。

 わざとらしく大きなため息を吐いた仁は再び前方へ視線を戻した。

 その時、



 不気味なたどたどしい電子音が車内に響き渡った。

 仁は思わず、身を乗り出すようにして後部座席を見た。息子の手には家に置いてきたはずのボールが握られている。

 どうして―

 頭を巡らせる仁を遮るようにボールは唸り始めた。

『バンガオオガクル バンガオオガクル バンガオオガクル』

「それをこっちへッ」

 手を伸ばす仁を息子は拒否した。

「いやだッ これは僕のボールッ!」

『バンガオオガクル バンガオオガクル バンガオオガクル』

「かせッ! 裕太ぁッ!」

「僕のボールだもんッ! 僕のッ」

『バンガオオガクル バンガオオガクル バンガオオガクル―』




「事故車は白いシビック。ええ、ええそうです。県道12号線の………はい……はい………了解です」

 無線を切り終えた警官はパトカーから体をだし、もう一度まじまじと目の前の光景を見つめた。

「こりゃあ、派手にやってますね」

 同乗していた後輩も口に手を当てながら呟く。

「急カーブを曲がり切れずにそのまま木に衝突。といったところかな」

 ゆっくり側道から森の中へ歩みを進めながら警官は嫌な予感がした。

「夜、事故の通報は?」

「ありません」

 事故を起こしても通報できなかった。それが意味していることは言うまでもない。

「先輩。俺………」

 後輩の警官は顔をしかめ、立ち止まった。おそらくこういう事態は初めてなのだろう。

「お前は後部座席を調べろ。俺が確認する」

 事故で原型をとどめないほど破壊された人体を見たこともある。だからと言って慣れている訳ではない。想像すれば、足どりは重かった。

 深く呼吸を整え、そっと座席を覗き込んだ。


 無人だった。フロントガラスにぶつかった後も、血痕の跡も無い。何かが妙だった。

 エアバックをつぶすようにして、座席を確認するが私物らしきカレッジバッグがあるだけで他は何もなかった。

「そっちはどうだ?」

 後部座席を確認している後輩に声をかける。

「こっちも何も………ん?」

 疑問符を浮かべ、車体から顔を上げた後輩の手には紫色のボールが握られていた。

「なんすかね、これ。バックシートに落ちてたんですけど」

 空中へ放り投げてキャッチする後輩に首を傾げ

「子供のおもちゃかなにかか?」

「ですかね?」


 ボールが再び宙へ舞う。

 無数に走る黒い模様が回転し、また男の手に戻ってくる。

 瞬間、ボールはそう叫ぶと怪しく光を放った。



   おわり

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バンガオオガクル 諸星モヨヨ @Myoyo_Moroboshi339

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