第4話

 台所でコーヒーを飲みながら、気分転換に散歩に行こうと思った。

 新月の空は異様なほどに暗く、肌寒かった。頭の中には、残った文章の大まかな構成とその書き出しが浮かんでいたが、森の中へ歩みを進めるうちに興味は例のボールへ移っていく。いつの間にか彼の足は枯草と乾ききったイシクラゲの生えた地面を踏みしめ、廃墟の前に立っていた。


 誰だこれを味がある建物なんていったのは― そう自分でも言いたくなるほどに、夜の廃墟は全く違った雰囲気を醸し出していた。

 昼間感じていたノスタルジーや哀愁は消え去り、家という一つの生き物の死骸を見ている気分になった。額ににじんだ嫌な汗をぬぐうと、仁は廃墟の中に入る。


 家の中はさらに暗く、スマホで照らさなければ何一つ見えない。

 家の外では秋の虫がガチャガチャ、シャーシャーと鳴いている。

 息子がボールを拾った部屋は廊下を進んだ突き当りにあった。以前、ちらと見えた室内の様子から書斎だと思っていたのは間違いなかったらしい。

 壁を埋めるガラス戸の付いた書棚。

部屋の中央には固い木で作られた立派なデスクがあり、朽ちた革張りの椅子が収まっている。

仁は椅子を引いてそれに腰かけ、ここに座っていたのはどんな人だったのだろう。なぜ、夜逃げをしたのだろうかと沈思した。

椅子を回転させて書棚を見る。株や経済の本が多く見えた。

 なるほど― なんとなく、夜逃げした理由が見えた気がした。仁は机に向かうと肘をついてぼぅっと部屋を眺めた。登山が趣味だったのか、部屋の隅には土の付いた登山靴とピッケルが転がっていた。

 この部屋のどのあたりで、あのボールを拾ったのだろうか。息子に聞いておけばよかったと、詮索するつもりで開いた上段の引き出しには、ボールペンと鉛筆、そして一枚の紙切れが入っていた。


「バンガオオ?」紙切れに記された五文字の単語。仁はすぐさま、机の上にそれを取り出し、埃を払った。腕を払う手が机上のマグカップにぶつかり、仁は反射的に落ちないよう抑えた。

 マグカップを机の隅へ追いやると、再び視線を走らせる。

「バンガオオ?」の下には「何が来るのか? 逃げな―」の文字。そしてかすれた文字で「モールス信号」と書き記されてあった。下には点と線を組み合わせた図形と数字も書かれている。

 上からモールス信号は5、4、3、と0に向かってカウントしてある。


 呼吸が荒くなってくるのを感じて仁はマグカップを掴み、中を見る。スヌーピーがプリントされたマグカップの中には、水分が蒸発して黒い塊になったコーヒーと虫の死骸が入っていた。

 もし経済的な理由による夜逃げではないのだとしたら? 仁の直感が動悸を早める。残った家の家財、飲みかけのコーヒー。まるでこの一家は突然何かから逃げるようにしていなくなっている?

 一体なにから……

「バンガオオだ」

 椅子から立ち上がった仁はメモをもう一度にらんだ。

 光の点滅、あれはモールス信号だったのだ。バンガオオという得体の知れない“何か”が自分たちの元へやってくる、それを伝えるカウンターだったのだ。

 震える手で、モールス信号の一番下の表を辿った。

 0を示す、信号は点滅が等間隔で五回。自分の書斎で先ほど見た点滅と同じ。それが見間違いだと何度も自分を説得しようとしたが、無駄だった。

 脳裏に焼き付いたその光景は確かに0を示すメッセージだったのだ。

 裕太は―


 廃墟を飛び出し、一目散に家へ向かって突っ走った。

 自室の電気が消えているのを見て、仁ははたと足を止めた。電気は確かにつけたままここへ来たはず。ねっとりとした汗が首の後ろを流れて行った。

 その時、彼は初めて自分が恐ろしいほどの無音の中にいることを知った。先程まで聞こえていた虫のざわめきや木々が風に揺れる音が全て消え、水を打ったように静まり返っている。

 再び歩み始めた仁は、背後で一斉に飛び立ったカラスにびくりと肩を震わせ、また立ち止まった。

 小窓から覗き込んだ自室はやはり、電気が消えている。ライトをかざしてみると机の上に置いてあったはずのボールが無くなっているのが目についた。

 玄関へ回り込み、扉を開くとリビングの方から微かな音が響いて来る。あのボールが発する電子音だ。仁は急いで、リビングの戸を開いた。

 

「裕太………」

 気の抜けるような声で仁はそう呟くと、その場に崩れるようにして座った。

「パパ。トトロのボールあったよ!」

 息子は紫色の明滅しているボールを片手に持って、笑っている。ほんの数十分前まではなんでもなかった点滅が、今は死刑宣告のように仁の網膜に焼き付く。

 点滅が等間隔に五回。

 ゼロを示す、信号。

我慢できなくなった息子は自ら起き出し、仁の部屋を探したのだろう。そしていつもの癖で部屋の電気を消したに違いない。

 安堵する気持ちは同時に軽い苛立ちに変わった。

 仁は立ち上がり、そのボールをむしり取ってソファに投げた。

「ああ!」呻きを上げる息子を叱責する。

「裕太ッ、あのボールは忘れろッ! すぐにここから出るからなッ」

 彼を抱き上げ、ビルトインガレージに走った。車のキーを何度も取り落とし、ドアを開けた時、あることに気づいた。


 原稿を置いたままだ― 息子を後部座席に乗せ、暴れるのを押さえつけながらも仁の頭は異常なまでの冷静さでそのことを思い出していた。根拠のない、ある意味では妄想的な恐怖がほんの寸秒、彼の頭から消え、原稿を落としてしまうという現実的な恐怖が顔を覗かせた。

 ドアの縁を掴み、下唇を強く噛んだ仁は

「すぐに戻ってくるから、ここにいるんだぞッ」




つづく

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