第3話

 大岡と別れた仁はわざと遠回りして帰った。家に戻りたくない気分だった。帰り着けば、原稿を書かなければならない。その事実から少しでも逃げるための行動だった。

 しかし、こんな日に限って中古のシビックは嫌に快走する。いつもは軋みを上げて途中で停止する、ビルトインガレージのシャッターもすんなり開き、閉まった。


 子供に買ってきたマクドナルドを食べさせ、ネットフリックスを見るように諭すと、いよいよその時がやってきた。

 机に座り、パソコンを起動させれば現実と向き合わなければならない。もし、これが完成しなければ自分はどうなるのだろうか。漠然とした不安が胸に詰まる。

 仁の頭の中にふと、件の廃墟がよぎった。

 人がいなければ家はあっという間に朽ちていく― ろくな仕事にありつけなければ、30年ローンで買ったこの自宅も……


 頭を振ってその考えを消す。


 仁は原稿のファイルを立ち上げ、ラジオをクラシック専門の波数へ合わせる。ファイヤーキングのマグカップに並々と注いだ安いインスタントコーヒーを口の中で転がすと、緩慢なスピードでキーを打ち始めた。



 小説のテーマはなんて事のないものだった。

 仁の住む、ゐ尾市山間部の名産品はミカンである。しかし、その歴史は浅い。というのも、ゐ尾市の山間部は元々、果実が育つような土壌ではなかったからだ。土中の有機物の含有量が極めて低く、野山はその殆どが放置林となっていた。

 それが約三十年前、突然起こった山火事の後、たまたま土に埋まった果実の種が芽を出したことで一気にミカンの栽培が始まったのだ。


 この一見奇妙な事態に仁は食指を動かされた。山火事が起り、炭化した木々が土壌を肥やしたというのが通説だが、そう簡単に事が起こるものなのだろうか。加えて、燃えたのは約八ヘクタールほど。それ以外の土まで肥沃化するのはあまりに無茶だ。

 仁はこの謎の取っ掛かりになるかもしれない一つのカギを持っていた。


 昔、父に聞いた火球の話だ。

 自分が生まれる五年ほど前、父と母は庭先で山間部を横切る三つの大きな火球を見ていた。その日の新聞を辿ると、記事は小さかったが確かに火球の目撃があったことを伝える文面がある。

 二面には山火事の記事。

 その瞬間、仁には一つのつながりが見えた。山火事の正体が火球、つまりは隕石だというのはすぐに分かる。重要なのは落下したのが隕石だということだ。

 ペルーでは実際に落下した隕石に含まれていた大量のカリウムが土の中に溶けだし、砂漠に花が咲いたという事例もある。

 三十年前、ゐ尾市に落ちた隕石にも同じことが起きていたとしたら。

 はっきりとした結論は出ていなかった。地道な資料収集や聞き取りで、隕石が自分の家からそう遠くない場所に落下したらしいということまでは突き止めた。だが、肝心の隕石そのものは見つけられず、土壌への調査でも決定的なものは出てこなかった。

 それでも本の内容としては十分だ。何も自分は学術論文を出している訳ではない。



 滑るように動いていたキータイプが次第に衰え、耳元へクラシックがはっきりと聞こえてくるようになったのは五時間ほど作業をしたところだった。

 大きく伸びをして、冷めきったコーヒーを飲み干した。

 残り二章。ページで言えば、あと一〇〇は欲しい。時計を見るとまだ日付は超えていない。ここからが山場であったが、切迫はしていなかった。


 筆が留まったのは、疲労による集中の遮断の所為だ。

 モニターから目を離し、一服するとふと例のボールを思い出した。バッグに入れたままになっていたそれを取り出すと、なんとなく机の上に置く。

 細見すればするほど奇妙なおもちゃだった。いつどんな時代に作られた物なのか、どうやって遊ぶものなのか、全くわからない。

 手に取って強く握ると、物質が凝固するように固くなる。仁はゆっくり指を押し込むようにしてボールに食い込ませた。程よい力であればボールはぐんぐんと凹んでいく。そしてついに、反対側に食い込ませた指が触れ合った。

 中には何も詰まっていないのか― 内側には例の言葉と光を放つ機械が詰め込まれているはずだ。しかし、それがない。

 仁は好奇心とその不思議さに眉が動いた。



 ボールが唸った。一言告げると、ボールの表面に走る黒い模様がフッ、フッ、フッ、フッ、フッ、と規則的に点滅し、また黙り込んだ。

 流れていたクラシックにノイズが混ざり、途切れ途切れになり、そして止まった。

 部屋に残ったのは不気味な静寂。仁の背筋に冷たい氷が滑っていくような感覚が走る。つたないあの電子音『バンガオオガクル』の言葉が頭の中で無意識に反芻している。

 浅く、早い呼吸を整えようとボールから指を離した。

 書斎の小窓から覗く夜の森はどっしりと思い闇を抱えている。


 どんどんッと部屋の扉をたたく音に、仁は心臓がひっくり返りそうになった。

 続けて聞こえた

「パパッ」っという息子の眠そうな声に仁は安堵し、軽く舌打ちをした。

 空返事を返した彼はメモ帳へ筆を走らせ、乱雑な字で「おもちゃ、ボール、謎」と書き留める。次の取材対象が決まった。まるでそれが未来への希望に向かう一路に見え、彼は一人口元をほころばせた。

 

空っぽになったマグを片手に部屋を出ると目がうつろになった裕太が立っていた。

「まだ寝てなかったのか」

 息子に白い目を向け、背中を押しながら寝室へ送る。

「ねぇパパ。ボールは?」

「ボール?」

「トトロの家で見つけたやつだよ」

「ああ。あれは………パパがトトロに返したよ」


 ベッドへもぐりこんだ息子はそれを聞いて、一瞬顔を曇らせた。

「じゃあ、僕のボールは?」

 目をつむり、大きく鼻から息を吐いた仁は息子の頭を撫で

「もう寝なさい」と促した。

「やだよ。僕のボールはどこへ行ったの? ねぇ、ねぇ」

 息子の頭をもう一度ポンポンと叩く。

「明日、パパが見つけてくるから。今日はもう寝なさい」

「ほんと?ほんと? 僕の、僕のボール―」

 仁はサイドランプを無理矢理消し、闇の中へ息子を閉じ込めるとおやすみを言って部屋を出た。




つづく

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