第2話

「で、それがこれってわけか?」


 仁の友人、大岡おおおか とおるは手に取ったボールを見つめながら、紫煙を吐き出した。


「なんだと思う?」


 尋ねながら、仁はウェイターへコーヒーのおかわりを頼む。


「おもちゃだろ」

「だから、なんておもちゃだと思うって聞いてるんだよ」

「さぁなぁ………見たこともないし、お前の話を聞く限りだとどうやって遊ぶものかもわからないしな。なんだっけ? その、名前?」

 仁はボールを催促し、受け取るとそのままグイっと強く握った。

「こうやって握れば………」

『バンガオオガクル』―ボールは掠れた金属音で鳴り、規則的に柔らかい光を放つ。

 結局、無くしたボールは見つからず、仁と裕太は拾ったその奇妙なボールを持って廃墟を出た。無断で物を拝借するのは幾分気が引けたが、唯一と言っていい玩具を無くした息子がこれ以上をぐずるとたまらない。


「聞いたことねぇな。バンガオオってやつが主人公で、そいつが来る、って感じか?」

 バンガオオガクル、その言葉を仁はすっかり覚えてしまっていた。拾ってから四日、握れば鳴るだけだと思っていた紫色のボールは毎晩、12時きっかりにそう叫んで、妙な光を放つのだ。

 気味が悪い声と不思議な明滅。おもちゃのタイマー機能が働いているのだと仁は思っていたが、おもちゃの正体はおろか操作の方法も検討が付かず、切ることが出来ない。物知りの大岡ならば何か知っているかと思って見せたのだ。

「お前でも知らないか………」


 大岡はタバコを口に運び、大きく吸った。彼の目は窓の外、ファミレスの駐車場を見ている。その目つきが先ほどとは打って変わっているのを見て、仁は身構えた。

「で、原稿は出来たのかよ」

 少し黙って、仁はコーヒーカップをソーサーの上に置いた。

「それなんだが―」

 言いかけた仁を遮るように大岡が口を開く。

「悪いが、もう待てない」

 はっきりと、静かに低い声で亨は言う。


「最初の締切期限、覚えてるか?」

「………半年前だ」

 きまり悪そうに仁は言った。

「あの時伸ばしたのは、お前が離婚調停後のゴタゴタで忙しそうにしていたし、心の整理だって必要だっただろう。それに、うちで作家デビューして再起を図ろうとしているお前の気持ちを最大限汲んでやったからだ。…………半年、待ったぞ」

 何か言い訳を考えようとする仁の頭に、何故かこの一年間の様々なことが去来していた。


別れを切り出したのは妻の方だった。関係が芳しくないのは今に始まったことではない。大学で出会い、卒業と共に結婚。仁の実家がある田舎へ戻り、妻と二人で空き家物件の仲介業を始めた。働き出して少しすると二人の愛は若さが生んだ一時的な高揚に過ぎないと気づき始めた。

 日々の小さな衝突や価値観の不一致が、少しづつだが確実に二人の溝を深くしていった。

 それでも、仕事上のパートナーという関係は崩れなかった。お互いがお互いを支え合っているという関係は皮肉にも夫婦よりも固く、二人を結束させていた。

 しかし、それもいつの間にか仁は妻の後ろをついて回る金魚の糞になっていた。口も達者で人当たりのいい妻が仕事のほとんどを受け持ち、仁は雑務に追われる日々。

 あなたとやっていくメリットがない― 別れの切り出しはそんな文句だった。

 順風満帆な夫婦関係だけを無くしたのならばまだいい。妻と別れるということは仕事を失うということでもあったのだ。


 仁は大岡を頼った。

 地元の出版社で働く彼を訪ね、ライターにしてほしいと頼み込んだ。数本の雑多な記事を書いた後、ノンフィクション作家としてデビューしないかと持ち掛けられたのである。


「なんか言えよ」

 黙って唇を噛む仁に大岡が言う。

「あと、あと一週間待ってくれ。今、丁度息子が家にいるんだ。あいつ(妻)が出張で俺が面倒見てるんだよ。週明けにはアイツも帰ってくる。だから………だから」

「ダメだ。いくら友達のよしみでも、これ以上は取り繕えない。明日の朝一番。それ以降原稿は受け取らない。上はそう言ってる」


「もし落としたらどうなる」

 帰り際、会計をする大岡の後ろで仁は尋ねた。彼はレジ脇に並べられたおもちゃの陳列棚を見ていた。端の方にぶら下げられた赤いゴムボール、120円。仁はそれを手に取る。

「……こういうこと、言いたくないが、上は今後一切、お前に記事は頼まないそうだ」

 大きく息を吐くと、仁はそのゴムボールを棚へ戻した。




つづく

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