バンガオオガクル

諸星モヨヨ

第1話

「「あッ………」」

 息子と声が重なった。

 雑木林を超えへ、遥か彼方へ飛んで行ったゴムボールを見つめていた草壁くさかべ じんは握ったバットを芝生へ下ろした。ぼりぼりと頭を掻きながら、口をあんぐりと開いた息子の裕太ゆうたへ視線をやる。

「探しに行く………か?」



 住宅街から離れた場所に住む、というのは仁の夢だった。結婚を期に買ったこの自宅も中心市街地からは相当離れている。都会の人間からすれば不便でしかないのだろうが、木々に囲まれ騒音にも悩まされないのは素晴らしい。

 空気の良し悪しは分からないが、以前よりも喘息に悩まされなくなったのはきっとこの土地のおかげだろう。

 欠点を上げるならば、息子の投げたボールを思いきり打ち返しすぎ、林の中に打ち込んでしまうということぐらいか。


 枝を踏みしめ、頭上に鳥の鳴き声を聞きながら歩いていた仁の裾を、裕太が掴んだ。

 どこかに転がっているであろうボールを探すため落としていた視線をフッと上げると、それがあった。

 廃墟。そう言えば聞こえは悪いが、仁はそれをなかなか味があっていい建物だと思っていた。妻もトトロの家みたいね、と言っていたように家の裏手に佇んでいる洋風の建物は趣があって画になる。

「トトロの家に入ったのかな」

 裕太の頭をなでながら窓を見ると、所々が風雨や劣化で割れている。ゴムボールの衝突程度で割れるわけではないが、その中にボールが入った可能性がないわけではない。


 好奇心もあった。朽ちた壁や壊れた窓から侵入が可能なことは知っていたが、入ったことはない。だが、今日はなぜか口実を手に入れた気分で、仁の足が動いていた。

 割れた窓ガラスに手を突っ込み、さび付いた錠を力業で開くとそこから中へ入った。戸口を中から開くと、息子も中へ入ってきた。


 怖がりもせず、好き勝手に室内を散策する息子に

「おい、気をつけろよ」

と声をかけておく。怪我でもされれば堪ったものではない。

 今は自分の息子ではないのだ―


 息子の背中を見送って、部屋を見回す。すえた木と埃のカビの混じった匂いが鼻孔を掠めた。壁をたった一枚隔てただけにもかかわらずやけに静かだ。

 長年、人が立ち入った形跡もなくフローリングには埃の層が出来ていた。部屋の隅には蝙蝠の糞が山を作っていた。しかしそれでも、どこかに人の生活感がるのは住人の家具や生活雑貨がそのままにされているからだろう。

 夜逃げ。不動産屋にはそう聞いていた。一昔前の電話や時計。タンスに張られた底抜けに明るいファンシーシールには得も言われぬ郷愁がある。壁には1986年と書かれたカレンダーがかけられている。自分が生まれる5年前だ、と仁は思った。

 大きな破壊があるわけではない。だが、家は人が住まなくなってしまえばあっという間に輝きを失ってしまうのだろう。


「パパ!」

 息子の叫び声が廊下を駆け抜けていった。

「裕太ッ」

 急いで声のする方へ駆け戻ってみると、廊下に何かを握りしめた息子が立ち尽くしていた。


「あったか?」

 しかし、子供の顔は少し歪んで首をかしげながら握った掌を仁に差し出した。

 ゴムボール、そう一瞬見間違えてしまう大きさだった。子供の手に少し余るほどのその球体は確かにボールなのだが、何かが違った。


 深い紫の表面にびっしりと刻み込まれた黒い模様。

 触り心地も奇妙だった。普通に触っていればゴムのように弾力があるが、強く押し込むと金属のような硬さで凝固する。

「どこにあった?」

 息子が指さしたのは、廊下を奥へ進んだ先の部屋だ。長いデスクと革張りの椅子がちらっと見えた。おそらく主人の書斎というところか。

 手の中で揉みながら、まじまじと見つめると黒い模様がただの線ではなく、表面に彫り込まれたスリッドなのだと分かった。ほかの面よりもほんの数ミリ削られているのである。

「ねぇ、これほしい!」


 これはおもちゃなのだろうか― 顎に手を当て、かこうとしたその時、

 ボールは雑な電子音で、そう宣言するや、ボールはファ、ファ、ファ、と柔らかな明滅を見せた。



つづく


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