2020/11/13 以降作品

『散歩』ー何気ない一日、僕は散歩がしたかったー

 何気ない一言。


「散歩しようかな」


 今日はそんな気分だった。一人で、何も考えずに道を歩きたい。


 スウェットパンツを履いて、パーカーを羽織り、マスクをする。

 

 飴を口の中に放り込み、口の中で転がしながら玄関へ。


 靴を履く。使い古したスニーカー。ちょっと汚れてるけど、それが何だか気に入ってしまい、散歩に行く時はいつもこの靴を履いて行く。


 散歩と言っても、一応お出かけする時の斜めかけカバンを持っていく。


 財布とティッシュ、ハンカチ、あとはモバイル充電器。


 スマホはポケットに入れる。


 カバンは前掛け。何となく、みんながそうしてるから、僕もカバンは前掛けにしている。


 ああ、そうだ。忘れていた。靴を脱いで、洗面所まで歩いて行く。


 鏡の前に立ち、櫛で髪を梳く。棚に置いてある、ヘアワックスを手に取り、軽く髪を整えていく。


 散歩と言っても、何だかんだで見栄えを気にしてしまうのは、親というより長年同居していた友人の影響だろうな。


「よし」


 鏡に映る自分を見て、納得した後は玄関へ。


 カギを手に、玄関のドアを開ける。


 すーっと、微風が頬を撫でた。夏から秋に移り変わる頃には、こんな涼しい風が吹く。


 僕は、それが好きだった。


 外に出てドアを閉じる。鍵穴にカギを差し込んで、捻って戸締りする。


 ドアノブを引いて、ちゃんとカギがかかっている事を確かめたら、出発だ。


 マンションの三階に住んでるから、階段かエレベーターを使わないといけない。


 なんとなく、今日は階段を使う事にした。特に理由はない。


 階段を下りる。手摺に片手を乗せて、滑らせるように降りていく。


 冷たい手摺が心地よくて、自然と顔が緩む。


 でも、マスクをしているから、顔がちょっと暑い。


 我慢できずにマスクをおろす。


 熱いため息が口から出る。さらした顔を撫でる風が、なおさらに心地好い。


 そうこうしている間にエントランスに着いた。


 自動ドアを通って、外に出る。


 日差しが目に入るけど、不快ではなかった。空には雲も浮かんでて、地面に影ができる。それに、涼しい風が吹いていたから、今日は絶好の散歩日和だ。


 おろしたマスクを上げる。人通りの少ない時間帯とはいえ、流石にこんな状況だから、感染防止はしなきゃだよね。


 あ、そうだ。お水買おう。


 マンションを出てすぐ左側には、自販機が置いてある。


 カバンから財布を取り出して、ミネラルウォーターの所のボタンを押す。スイカで支払いができたので、ICカードを読み取るところに財布をそのまま翳した。


 ぴぴっという支払いができた電子音と共に、がちゃんとミネラルウォーターが落ちてくる。財布をカバンに戻す。

 取り出し口に手をつっこんで、ペットボトルを取り出す。


 水はポケットに入れておこう。このズボン、ポケットでかいし。


 ポケットにミネラルウォーターをつっこんで、僕はそのまま歩き出した。



 道路には、誰一人として存在しない。一応、ここは駅前にある住宅地なので、そこそこ人通りはある筈なんだけど。


 やっぱり、みんな旅行に出かけてるのか。


 こんな状況でも、彼らは旅行に行きたがる。ゴートゥキャンペーンという政策が実施された事で、旅行に飢えた人々は真っ先に観光に出かけた。


 確かに、感染者が減少している事と、経済を回復させるためには必要な事なんだろうけど…………。


 僕は怖いな。家でゆっくりしてる方が楽しいよ。


 大学もオンデマンド授業で、家で授業を受ける形になってるんだし。


 だから、平日の昼間に外を出歩いているんだけど。


 なんだか、こういうの楽しいな。


 平日に学校に行かず、サボって遊びに行った事を思い出す。


 あの頃は、いけない事をしているという罪悪感と、でも皆が勉強している間に遊んでいるという優越感が感じられて、とても楽しかった。


 その後にバレて怒られるのは、ご愛敬だね。今ではそう思うよ。


 目的もなく出歩いていると、色々な事を思い出す。


 高校の頃のイベント、体育祭や修学旅行、文化祭―――――どれも最高に楽しかった。


 友達とどこかに出かける事は、悪くないと感じてた。


 家で遊ぶ方が多かった僕は、外でわいわい騒ぐことは新鮮で、楽しかった。


 今、あいつはどうしてるんだろう?あの子はどうしてるんだろう?


 散歩をしてると思い出す。


 楽しかった思い出、嫌な思い出、恋の思い出、失恋の思い出。


 高校生の間でしか味わえなかった、数々の思い出が、そこにはあったんだ。


 まるで夢を見ているような、充実した毎日だった。


 大学に入ってからは、高校の友達とあまり会わなくなり、少し寂しい気持ちもあったけど。


 大学でも、新しい出会いがあった。


 これから、また新しい思い出ができる。


 大学に入ってから一年。まだまだ、多くのイベントが僕を待ち受けている。


 そう考えると、人生が楽しく思えてくるんだから、僕は単純だね。


 でも、それでいいじゃないかと思える。


 人生を楽しめないと、生きている意味が寂しく感じられるんだから。


 成長した今、僕はあの頃には戻れない。だって、僕は変わってしまったから。



 未来の僕は、どんな人になってるかな?



 それが楽しみで楽しみで仕方がない。



 横断歩道にさしかかり、信号待ちの間、空を見上げた。



「ああ。今日もいい天気だな~」



 散歩は良い。一人の時間、外を出歩くだけで、家にいる時とは違った晴れやかな気分を味わえるから。


 一通り歩いて、僕は家に帰る事にした。


 帰り道、高校の頃に好きだったあの子に似た女性を見つけて、僕は思わず立ち止まった。

 ただただ、その女性を見つめてしまった。


 その人は僕に気づかず行ってしまった。でも、あの女性は、好きだったあの子なのかな?


 他人の空似かもしれない。


 でも、僕にはそんな事どうでもよかった。


 本人だろうが、本人じゃなかろうが、関係ないのだ。


 ただ、可愛らしくもきれいな女性を一目見る事ができただけでも、この散歩は充実したものに変わるのだから。



 ふっとマスクの下で笑みを描いて、僕はまた歩き出した。



「さて、明日もがんばるかぁ」



 今日、また新しい思い出ができた。


 些細な、小さな思い出だけど、僕にとってはそれも大切な思い出。


 季節が移り替わる頃に、好きだったあの子に似た女性を見付けた。


 そんなくだらない事でも、それだけで僕の人生は充実した日になる。



 今日は、良い日だった。




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にゃ者丸作品『短編集』 にゃ者丸 @Nyashamaru2

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