祈祷

チューブラーベルズの庭

祈祷

 すでに老境に差し掛かっていた父が認知症を患い、三年前から母がその世話を担っている。

 いわゆる老老介護という状態だった。


 一人娘である私は申し訳ないと思いつつも、仕事のために同居することができずにいた。

 気丈であっけらかんとした母は、

「あたしらのことは気にせんでええ。あんたも働ける内はしっかり働いたらええ」

 そう笑う。


 すっかり小さくなってしまった父が、帰省した私に向かって、

「どちらさん、ですか? 娘がお世話に、なって、おります」

 とうやうやしくお辞儀をすることにももう慣れた。


 母は「やだよお父さん、好子よしこだよー」と声をかけながらよだれかけを整える。

 父は濁った目をのろのろと彼女に向け「早く死ねー早く死ねー」という穏やかでない物言いをする。

「ハイハイ」と慣れた口調で受け流す母。


 この「早く死ねー」という父の口癖は、一年ぐらい前から始まっている。

 私にではなく、母に対してだけ言う。

 聞いていて気持ちがよくないし、何より母に対して失礼だと思ったから「お父さん、そんなこと言っちゃ駄目だよ」と何度か注意するも、まるでぬかに釘。

「早く死ねー早く死ねー」

 そう繰り返す。


 そんなある日、両親が祈祷きとうを受けることになった。

 きっかけは、父の深夜徘徊が酷くなってきたことだ。

 たまたまそのことを母が友人に愚痴ると、どういう経緯を辿ったのかは知らないがき物の話になり、知り合いの祈祷師を紹介してくれる流れになったというのだ。

 私はそういった俗信的なことはまったく信じていなかったが、それで母の気が済むのならと、私が付き添うことを条件に不承不承ながらも容認することにした。


 祈祷はある神社で行われた。

 畳敷きの小さな一室に通されてこうかれる。

 初老の祈祷師が二人の前で、何やら紙飾りがついた棒を振りぶつぶつとお経を唱える。

 私は部屋の隅でその様子を見ていた。


 最初はどこかそわそわしていた父もすぐに大人しくなる。

 しばらく二人は正座の状態で手を合わせていた。

 見ていると、やがて二人は前後小刻みに身体を揺らし始めた。

 動きは次第にゆらゆらと大きくなっていく。


 ほとんど同時だった。

 糸が切れたように二人はかくんと首を垂れた。

 驚いて近づこうとすると、祈祷師が「大丈夫ですから」と制する。

 彼はそのままお経を続ける。

 私はハラハラしながらその様子を見守っていた。

 その時、何かが聞こえてきた。


「早く死ねー早く死ねー」


 ぎょっとした――。

 耳をすますと低い声で、


「早く死ねー早く死ねー」


 聞こえてくる。

 父が母に対していつも口にする暴言だった。


 私は、お父さんったらこんな時にも……、と呆れた。しかし同時に少し安堵した。

 なぜなら、父にちゃんと意識があると分かったからだ。


 どんな顔をしているんだろうと、私は姿勢を低くして彼の顔を覗き込んでみる。

 だが父は、口を真一文字まいちもんじに結んでいた。


 ――えっ?


 何も喋っていない。

 ぴくりとも口を動かしていない。


「早く死ねー早く死ねー」


 が、聞こえてくる。

 老人のいびきのような低い声。


 早く死ねー早く死ねー早く死ねー早く死ねぇー早く死ねぇー


 祈祷師のお経のさらに下を、低音が響き渡っていく。

 私は視線をずらす。

 つぶやいていたのは、隣の母だった。

 うつむいたまま、野太い声で、うめくように――。


 死ねー死ねー死ねー早く死ねぇー早く死ねぇー

 死ねー死ねー早く死ねぇー早く死ねぇー早く早く死ねぇー

 ぎりぎりぎりぎり

 死ねー早く死ねぇーーーー早く早く死ねぇーーーー

 ぎりぎりぎりぎり


 食いしばった口元から泡がぼたりと畳に落ちる。

 母は白目をむいていた。


 私は。

 私は――。

 それを見て言葉を失くしていた。

 足元から背中にかけて、皮膚がざわざわと粟立あわだっていく。

 膝立ちのまま動けずにいた――。


 祈祷が終わると、母は昼寝から目覚めたかのようにトントンと肩を叩くと、

「何だかスッキリしたような気がするわぁ」

 と笑った。


「良かったね」

 私は無理やり笑顔を作る。


 その後、すぐに同居の手続きに入った。

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祈祷 チューブラーベルズの庭 @amega_furuno

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